fbox12 blog (博物館fbox12 館長の雑記帳)

モアビタンDX5000

a0057057_22050937.pngミニチュアボトルコレクション D-005

販売名:モアビタンDX5000
品名:指定医薬部外品
原材料:
ローヤルゼリーエキス・リボフラビンリン酸エステルナトリウム・ピリドキシン塩酸塩・ニコチン酸アミド・タウリン・アスパラギン酸カリウム・マグネシュウム等量混合物・カルニチン塩化物・グリシン・L-リシン塩酸塩・L-アルギニン塩酸塩グルコン酸カルシウム水和物・無水カフェイン他添加物
容量:100ml

製造販売元:株式会社 廣貫堂(富山県富山市梅沢町2丁目9-1)

[PR]
# by fbox12 | 2018-05-02 22:05 | コレクション

第佰拾九 岩木山神社 青森県弘前市鎮座

a0057057_10103080.png

a0057057_10180674.pnga0057057_10484559.pnga0057057_10281599.pnga0057057_13431134.pnga0057057_10323755.pnga0057057_13283384.png
a0057057_14560639.pnga0057057_14571715.pnga0057057_13300180.png
いわきやま じんじゃ

鎮座地:青森県弘前市百沢字寺沢27
主祭神:顕国魂神(うつしくにたまのかみ)-大国主神
    多都比姫神(たつびひめのかみ)
    宇賀能売神(うかのめのかみ)
    大山祇神(おおやまつみのかみ)
    坂上刈田麿命(さかのうえのかりたまろのみこと)
 以上をまとめて岩木山大神(いわきやまおおかみ)と称する。

社格等:旧国幣小社、神社本庁別表神社、津軽国一宮(新一宮)
本殿様式:三間社流造銅瓦葺
別称:「お岩木さま」、「お山」、「奥日光」

a0057057_13252372.pnga0057057_13261108.png
概要:
昔から農漁業の守護神として、津軽の開拓の神として、地元の人々の祖霊の鎮まるところとして、親しまれてきた。なお神社の参道は岩木山の登山道の一つとなっていることでも知られており、この神社の奥宮は岩木山の山頂付近にある。
社殿は、神仏習合の時代の名残りをとどめ、鎌倉時代以後の密教寺院の構造がみられる中に、桃山時代の様式を思わせる色とりどりの絵様彫刻がみられ、そうした外観が日光の東照宮を思わせるとして、「奥日光」と呼ばれるに至った。


a0057057_10573937.pnga0057057_11261251.png
歴史:
創建については諸説があるが、最も古い説では、宝亀11年(780年)、岩木山の山頂に社殿を造営したのが起源とされる。延暦19年(800年)、岩木山大神の加護によって東北平定を為し得たとして、坂上田村麻呂が山頂に社殿を再建し、その後、十腰内地区に下居宮(おりいのみや=麓宮、現在の厳鬼山神社)が建立され、山頂の社は奥宮とされた。
また、田村麻呂は、父の刈田麿も合祀したとされる。寛治5年(1091年)、神宣により、下居宮を十腰内地区から岩木山東南麓の百沢地区に遷座し、百沢寺(ひゃくたくじ)と称したのが現在の岩木山神社となっている。
岩木山の山頂に阿弥陀・薬師・観音の3つの堂があり、真言宗百沢寺岩木山三所大権現と称して、付近の地頭や領主らに広く信仰された。
a0057057_10250918.png天正17年(1589年)、岩木山の噴火により、当時の百沢寺は全焼することとなり、以後、再建が進められることとなった。
江戸時代には津軽藩の総鎮守とされ、津軽為信・信牧・信義・信政らの寄進により社殿等の造営が進んだ。
特に、信義、信政のときに、現在の拝殿(当時は百沢寺の本堂とされた)や本殿(当時の下居宮)が再建された。
明治の神仏分離により寺院を廃止、津軽総鎮守・岩木山神社とされ、明治6年(1873年)、国幣小社に列格された。

境内:
現存する社殿や楼門は江戸時代初期から元禄時代にかけて代々の弘前藩主が造営・寄進したもので、本殿・拝殿・奥門・楼門等が重要文化財に指定されている。

a0057057_14034973.png本殿 - 三間社流造銅瓦葺。全面黒漆塗とする。元禄7年(1694年)建立。(写真:タイトルを含め5段目)
拝殿 - 桁行5間、梁間5間、入母屋造平入、とち葺形銅板葺。寛永17年(1640年)、神仏習合の時代に、百沢寺の本堂として建立された。(写真:タイトルを含め4段目右)
 天正17年(1589年)の岩木山の噴火により焼失したが、慶長8年(1603年)に津軽為信により再建が始まり、寛永17年(1640年)、津軽信義のときに現在のものが完成した。
楼門 - 寛永5年(1628年)、津軽信枚(のぶひら)により、百沢寺の山門として建立された。上層に十一面観音、五百羅漢像が祀られていたが、神仏分離による廃寺の際にそれらは姿を消し、階下に随神像を祀ることとなった。(写真:タイトルを含め2段目右)

摂社・末社:

白雲大龍神社
a0057057_13334406.pnga0057057_13353027.png

a0057057_13474740.png稲荷社

a0057057_10362498.png出雲神社

a0057057_10454109.pnga0057057_10391171.png

白龍神a0057057_10414341.png

この神社最寄りの駅・バス停:
a0057057_11224312.pnga0057057_10110252.png
JR東日本・奥羽本線弘前駅(中央口)、弘南バス弘前バスターミナルより弘南バス枯木平行にて約40分、岩木山神社バス停下車。

参考資料:Wikipedia「岩木山神社」(最終更新:2018年3月3日)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A9%E6%9C%A8%E5%B1%B1%E7%A5%9E%E7%A4%BE
  閲覧:2018.5.-2

現地参拝:29.6.25
記事投稿:30.5.-2



[PR]
# by fbox12 | 2018-05-02 15:00 | 神社

264 県庁前駅 (ゆいレール)

a0057057_22274551.png

a0057057_22460494.pnga0057057_22503733.pnga0057057_22571009.pnga0057057_23060951.png













けんちょうまえ

所在地:沖縄県那覇市久茂地一丁目103
所属・路線:沖縄都市モノレール株式会社・沖縄都市モノレール線
キロ程:5.91km(那覇空港起点)
駅番号:7

概要:
沖縄県庁および那覇市役所の最寄り駅である。計画当時の仮称は「御成橋駅(おなりばしえき)」であった。駅進入時の車内チャイムは、琉球民謡の「てぃんさぐぬ花」を編曲したもの。
ゆいレール開業当時の1日乗車券の券面の写真は当駅付近を撮影したものである。ただし、沖縄銀行の屋上に設置された看板や國場ビルの屋上看板にある「國場組」「日本航空」の文字やロゴ等は消されていた。後にゆいレールのイメージイラストを経て現在はQRコードつきの通常の切符のレイアウトに準じたものになっている。

歴史:
2003年(平成15年)8月10日 - 開業。

駅構造:島式ホーム1面2線。エスカレーター・エレベーターあり。パレットくもじに直結している。

のりば:
ホーム1 沖縄都市モノレール線 牧志・おもろまち・首里方面
ホーム2 沖縄都市モノレール線 小禄・那覇空港方面

参考資料:Wikipedia「県庁前駅(沖縄県)」(最終更新:2017年11月10日 )https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%8C%E5%BA%81%E5%89%8D%E9%A7%85_(%E6%B2%96%E7%B8%84%E7%9C%8C
閲覧:2018.5.-1現地取材:2017.5.16記事投稿:2018.5.-1
[PR]
# by fbox12 | 2018-05-01 23:30 | 鉄道・バス

263 吉松駅 (JR九州)

a0057057_13525808.png

a0057057_14060211.pnga0057057_11452739.png
a0057057_16051450.pnga0057057_21483537.png
よしまつ

所在地:鹿児島県姶良郡湧水町川西968
所属路線:九州旅客鉄道株式会社・肥薩線
電報略号/事務管コード:ヨマ/940201
キロ程:86.8km(八代起点)
駅形態:業務委託駅

概要:
JR九州・肥薩線に所属し、当駅を起点とする吉都線を加えた2路線が乗り入れる。かつて両線は鹿児島本線と日豊本線であり、この駅は幹線の分岐駅として賑わった。特急「はやとの風」の始発・終着駅であるとともに、人吉駅・熊本駅まで走る観光列車「いさぶろう・しんぺい」号の始発・終着駅でもある。

歴史:
明治30年代ごろにおいては、鹿児嶋懸と、既に鉄道が敷設されている九州北部とを結ぶことが必須の課題となっていた。そこで九州鐵道の路線が八代驛まで開通を見ていたため、この八代と鹿児嶋懸を結ぶ計画が立てられた。八代と鹿児嶋をどう結ぶかについては、海岸線周りの案と山中を進む案とがあったが、結局最初にとられたのは山中を進む案であった。これには「海岸線に線路を敷設しては危険」との、軍の意向が関係したともいわれている。
まず明治34年(1901年)6月10日に鹿児嶋線として鹿児嶋驛から國分驛(現在の隼人駅)までが開通した。これは九州で初めての官設鉄道である。ついで明治36年(1903年)1月15日には國分驛からさらに橫川驛(現在の大隅横川駅)までの延伸が成った。そして同じ明治36年(1903年)の9月5日に、橫川驛からこの𠮷松驛までさらに延伸となって、このとき当駅は開業する。
一方の八代側では明治41年(1908年)6月1日に八代驛から人𠮷驛までが開業したが、問題は南九州中央部の山岳地帯を貫く、人𠮷驛からこの𠮷松驛までの間であった。ここに線路を敷くのは困難を極めたが、それでもスイッチバックやループ線等をいくつも取り入れた線路の敷き方によって、明治42年(1909年)11月21日、遂に人𠮷驛からこの𠮷松驛までの間が開業し、この開通を以って鹿児嶋から福岡(博多驛)、門司(現 門司港駅)までが一本の線路でつながり、さらに關門連絡船を経由して大阪、東京にもつながることとなった。今でも吉松駅前にはこれを記念する「肥薩鐵道開通記念碑」が機関車の動輪とともに設けられている。
門司から八代、人𠮷、𠮷松をへて鹿児嶋までは人𠮷から𠮷松までの開通とともに鹿児嶋本線となった。
大正元年(1912年)10月1日には、同じく鉄道網から外れていた宮崎懸とこの𠮷松驛を結ぶために宮崎線が小林町驛(現在の小林駅)まで開通する。
宮崎線はその後大正2年(1913年)5月11日に谷頭驛まで、同じ年の10月8日に都城驛まで延伸を果たした。
その後も少しずつ線路を伸ばして行き、大正5年(1916年)の10月25日には宮崎驛まで全通し、その後宮崎本線とされたのち、小倉驛から𠮷松驛までが日豐本線とされたため、その一部となった。
このころ𠮷松は熊本方面・宮崎方面・鹿児嶋方面からの線路が一つに集まる交通の要衝として繁栄を見せていた。
人だけではなく物資の流れの中心地ともなって、駅附近にはさまざまなこれらの人々、物たちを対象とする商売が盛んに行われた。
また吉松は附近の路線の管理を一手に引き受ける駅となっており𠮷松機関区もおかれていたので、鉄道関係の職員もこの町には多く住んでいたという。
しかし鹿児嶋本線においては、人𠮷と𠮷松の間の急勾配を避けるため海岸回りの路線の工事が着々と進み、昭和2年(1927年)10月17日の湯浦驛から水俣驛までの開通を以って、海岸線周りの八代驛から鹿児嶋驛までが全通、こちらが鹿児嶋本線の一部となって、同時に八代驛から鹿児嶋驛までの従来の鹿児嶋本線は肥薩線という一支線に格下げとなった。
また日豐本線においても、都城驛から現在の隼人駅までを海岸回りで通す路線の建設が行われ、昭和7年(1932年)の12月6日に大隅大川原驛から霧島神宮驛までの開通によってこちらも全通、日豐本線の一部となり、𠮷松から都城まではこれも一つの支線たる𠮷都線に格下げとなってしまった。
それからのこの駅は𠮷都線と肥薩線、二つの小さなローカル線の接続駅としての役目を持つに過ぎない。
この駅は昭和62年(1987年)の4月1日に国鉄の分割民営化により九州旅客鉄道の駅となり、その後平成4年(1992年)6月1日には構内に霧島高原鉄道事業部が発足したが、平成20年(2008年)4月1日に鹿児島鉄道事業部と統合し霧島高原鉄道事業部は廃止となった。

年表:
1903年(明治36年)9月5日 - 鹿児嶋線の橫川驛(現在の大隅横川駅)から当駅までの延伸にともない𠮷松驛として開業する。
1909年(明治42年)11月21日 - 当駅から人𠮷驛までが開通する。同時に門司驛から当駅を経て鹿児嶋驛までが鹿児嶋本線とされる。
1912年(大正元年)10月1日 - 宮崎線が当駅から小林町驛(現在の小林駅)まで開通し接続駅となる。
1917年(大正6年)9月21日 - 宮崎懸営鐵道の国有化により当駅から宮崎驛をへて広瀨驛(現在の佐土原駅)までが宮崎本線とされる。
1923年(大正12年)12月15日 - 市棚驛から重岡驛までの開通により豐州本線と宮崎本線の小倉驛から宮崎驛を経て当駅までが日豐本線とされる。
1927年(昭和2年)10月17日 - 鹿児嶋本線の八代驛から当駅を経て隼人驛までが肥薩線として分離される。
1932年(昭和7年)12月6日 - 日豐本線の当駅から都城驛までが𠮷都線として分離される。
1968年(昭和43年)4月13日 - 現在の鉄筋コンクリート二階建ての駅舎が落成。
1987年(昭和62年)4月1日 - 国鉄の分割民営化に伴い九州旅客鉄道に継承される。
1992年(平成4年)6月1日 - 構内に霧島高原鉄道事業部が発足。
1996年(平成8年)3月16日 - 肥薩線の当駅から人吉駅までの列車のうち1往復を観光列車「いさぶろう・しんぺい」として運行開始。
2000年(平成12年)3月11日 - 急行「えびの」運行廃止。
2004年(平成16年)3月13日 - 特急「はやとの風」運転開始。
2007年(平成19年)11月30日 - 吉松駅横の石倉(燃料庫)と駅前の保存車両(蒸気機関車「C5552号」)が南九州近代化産業遺産群の物資輸送関連遺産の1つとして選ばれる。
2008年(平成20年)4月1日 - 霧島高原鉄道事業部を廃止(鹿児島鉄道事業部に統合)。

駅構造:
a0057057_22311939.png
北方より来た肥薩線に、東から吉都線が寄り添う形で構内に入る。地上駅で島式ホーム2面4線とかつての幹線の要衝らしい規模である。
駅舎とホームは真幸方(北側)の跨線橋により行き来できる。駅舎に接して、既に使われなくなった単式ホームがある(左写真「はやとの風」の左側)。
現在の駅舎(=2代目)は昭和43年(1968年)4月に落成したもので、鉄筋コンクリート2階建てで、1階部分に待合所や改札口・切符売り場などがある(上駅舎写真)。
なお以前(=初代)は木造駅舎であった。
a0057057_22380673.png改札上の運賃表には真幸駅・矢岳駅・大畑駅への運賃が書かれていないが、これは当駅との間を乗り降りする人がほとんどいないためである。
当駅の窓口では、真幸駅の記念入場券(右写真:裏側・・表側は「真幸駅」のページに表示予定)や「鶴丸 - 吉松 - 真幸」と縁起の良い駅名の並ぶ記念乗車券も発売されている。改札外に待合所がありここには囲炉裏の付いた座敷がある。
肥薩線および吉都線のCTCセンターが併設されている。
このCTCセンターでの列車の運行管理や駅構内の車両入換え・運転士労務管理などの運転関係業務はJR九州鹿児島鉄道事業部吉松運輸センター社員が行い、出改札業務のみ子会社であるJR九州鉄道営業へ委託となっている。
マルス(みどりの窓口)はないが感熱式POS端末が設置されている(上入場券、乗車券面参照)。なお、自動券売機は設置されておらず、早朝・夜間は車内精算となる(つまり、通常の切符は上記のPOS券のみ)。
1・2番のりばのホーム上には売店があり、特急「はやとの風」運転開始を機に駅弁(幕の内弁当)の販売を再開した。また全国的に珍しくなった駅弁の立ち売りが行われている。

のりば:
1~3番のりば 肥薩線上り 人吉・熊本方面
           下り 隼人・鹿児島中央方面
        吉都線 都城・宮崎方面
4番線は現在は留置線として扱われている。

参考資料:Wikipedia「吉松駅」(最終更新:2018.4.14)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E6%9D%BE%E9%A7%85
  閲覧:2018.4.27

現地取材:2018.3.14
記事投稿:2018.4.30
  調整:2018.5.-1

[PR]
# by fbox12 | 2018-05-01 16:46 | 鉄道・バス

262 梅田駅 (阪急/阪神/Osaka Metro)

うめだ


概要:
各鉄道事業者の梅田駅および大阪駅・北新地駅・東梅田駅・西梅田駅は、それぞれ離れた場所に別々の駅舎を持つ独立した駅であるが、地下街などを介して相互に乗換え可能で、キタ・梅田のターミナルを形成している。
かつては日本貨物鉄道(JR貨物)の梅田駅(通称: 梅田貨物駅、現在の梅田信号場)も近隣を通る梅田貨物線上に設けられていた。
各梅田駅は、大阪駅を中心とすると、北東に阪急の梅田駅、東に地下鉄の梅田駅、南に阪神の梅田駅が位置し、そして北西にJR貨物の梅田駅が存在していた。また、地下鉄梅田駅の東に東梅田駅、阪神梅田駅の西に西梅田駅、阪神梅田駅の南に北新地駅がある。

乗り入れ路線:
-01 阪神電気鉄道 - 駅番号は HS 01 本線 - 当駅が起点。
-02 阪急電鉄 - 駅番号は HK-01 神戸本線 - 当駅が起点。
   宝塚本線 - 当駅が起点。
   京都本線 - 戸籍上の起点は十三駅だが、十三駅を発着する全列車が乗り入れる。
-03 Osaka Metro 御堂筋線 - 駅番号は M16

その他、以下の駅とも乗り換えが可能である。
西日本旅客鉄道(JR西日本)
 大阪環状線、JR京都線・JR神戸線(東海道本線)、JR宝塚線(福知山線)- 以上、大阪駅
 JR東西線 - 北新地駅・・阪急との乗り換えには12分程度の時間を要する。
Osaka Metro
 谷町線 - 東梅田駅(駅番号:T20)
 四つ橋線 - 西梅田駅 (駅番号:Y11)・・阪急との乗り換えには10分程度の時間を要する。

阪神や阪急では大阪側のターミナル駅であることを強調するため、「大阪」と並列して呼称することがある。
阪神の車内アナウンスは「次は、大阪梅田、梅田、終点です」となっており、阪急では行先表示板を使用していた1980年代までは電車の行先案内は「大阪⇔京都」のように記載され、かつては「大阪梅田駅」と呼んでいたこともあった。
これは他社のターミナル駅である天満橋駅などでも見られ、中には大阪阿部野橋駅や大阪上本町駅のように正式駅名に「大阪」を含んだ例も存在する。
これらは、戦前の各私鉄の路線敷設期に当時の大阪市内中心部である北浜や本町付近にターミナル駅を設けられなかったことに起因する。
当時、大阪市は市電を始め地下鉄網の路線拡充、建設を図っていたために、私鉄線の市内中心部への乗り入れには大反対で、当時の鐵道省に路線免許を認めさせないように強硬に働きかけていた(市営モンロー主義)。
この為に当時の市内周辺部にしかターミナル駅を設けられなかったことから、現在の私鉄線各ターミナル駅名の頭に「大阪」が付くようになったのである。
その後、現在に至って Osaka Metro(旧 大阪市交通局の地下鉄)がその各ターミナル間を結ぶことになっているのは一種の皮肉とも言える。
会社ごと、あるいは位置ごとに分ける意味で「阪神梅田駅」「阪急梅田駅」と呼ぶこともある。同様にして阪神と阪急に同一の駅名がある神戸三宮駅、春日野道駅、御影駅、も「阪神○○」「阪急○○」と案内されることが多い。
これは神戸高速鉄道を介して阪急電鉄、阪神電気鉄道、山陽電気鉄道の3社が相互乗り入れしているためである。高速神戸駅以西を始発としている列車が同一ホームから発車することから、ことさらに強調されてアナウンスされたためである。
これに関連して、山陽電気鉄道の5000系車両の行先表示では「梅田」ではなく「阪神梅田」と表示される。また、阪神の直通特急対応車両には「梅田」「阪神梅田」両方の行先表示が入っている。山陽電車の車内アナウンスは「阪神、大阪梅田行…」である(駅構内アナウンスでは「大阪」をつけず単に「阪神梅田」と呼ぶ)。
阪神なんば線から近鉄奈良線に直通する電車の尼崎駅到着時のアナウンスでは、大阪難波駅があるにもかかわらず、「大阪方面へお越しの方は…」と梅田を省略する場合がある。また、武庫川駅以西での快速急行の停車駅の自動放送による案内では、大阪難波駅も大阪上本町駅も大阪を省略する一方で、「野田、大阪梅田終点にお越しの方は…」と梅田には頭に必ず大阪を付けている。
また、新大阪駅の在来線コンコースには「大阪駅(梅田)へは15・16番のりば…」という掲示がある。
北梅田駅大阪駅付近で梅田貨物線を通過する特急「はるか」・「くろしお」などに梅田界隈から乗降できるようにするため、現在の梅田貨物線を地下線にした上で、より大阪駅に近接した位置に「北梅田駅」(仮称)を開設する計画がある。
地下線にする理由は、現在梅田貨物線となにわ筋の交点に設置された踏切などで渋滞が発生しやすいため、それを解消する目的も兼ねている。
なお、おおさか東線の列車も北梅田駅まで乗り入れる予定。
JR貨物の梅田駅跡地(うめきた2期開発区域)が2014(平成26)年度中に更地化されるのを受けて、2015(平成27)年頃に梅田貨物線地下新線建設工事に着手し、併せて新駅を設置して2023年頃の開業を目指すことになった。
(以上、参考資料:Wikipedia「梅田駅」最終更新 2018年4月2日)

-03 Osaka Metro
a0057057_21303681.pnga0057057_21310755.png

所在地:大阪府大阪市北区角田町8-6
所属・路線:大阪市高速電気軌道株式会社・御堂筋線
駅番号:M16キロ程:6.4km(江坂起点)

概要:
かつては、終電の1本前を中津駅、終電を新大阪駅までそれぞれ回送夜間留置するため2本が当駅止まりとなっていたが、2013(平成25)年3月23日のダイヤ改正で回送列車をそのまま営業列車として運行するようになったため、現在当駅止まりの列車は設定されていない。また江坂方面への始発電車の設定もされていた(のちに天王寺駅発に変更)。
谷町線東梅田駅、四つ橋線西梅田駅とは同一駅扱いであり、以下のような乗り継ぎ制度がある。
乗車券は西梅田駅、東梅田駅とも相互に使用でき、定期券はいずれの方向に乗車しても区間外となる場合を含めて3駅とも入出場することができる。
乗車する駅以外で普通乗車券を購入した場合も自動改札機を通過することが可能。たとえば、御堂筋線に乗車するのに誤って西梅田駅で乗車券を購入した場合は、その乗車券を梅田駅の自動改札機に通して通過できる。乗り換えが30分以内ならば乗り継ぎ乗車料金で乗車可能である。30分を越えると適用外となり、改めて初乗り乗車料金からの計算となる。
梅田駅までの運賃と同一の普通乗車券で乗り継ぎをする場合は、淀屋橋寄りの改札口にある緑色の自動改札機に限り通過することができる。それ以外の機械を通過する場合はあらかじめ精算機で『乗継乗車券』に引き換えなければならない。また、梅田駅までの乗車料金よりも少ない普通乗車券の場合は精算機で梅田駅までの乗車料金を一旦精算することで『乗継乗車券』に引き換えなければならない。ただし、この乗継乗車券は最終降車駅では差額精算することができる。阪急との連絡乗車券(天神橋筋六丁目駅経由指定)を利用する場合は、梅田駅での乗り継ぎはできない。

歴史:
1933年(昭和8年)に仮駅で開業、1935年(昭和10年)に本駅が完成した。開業当初は1両での運行だったが、将来の輸送量増加を見込み、ホームの有効長は189m、幅は9.1mの島式ホームが建設された。これは、開業当初の車両の大きさで12両編成に対応できる有効長であった。しかし、戦後はそのような巨大なホームをもってしても急激な輸送人員の増加に対応できず、ラッシュ時には改札制限が常態化するなど、当駅は終日激しい混雑に見舞われるようになった。そこで、混雑の解消と乗降人員の増加に対応するため、1988年(昭和63年)から改造工事に着手した。太平洋戦争前から2号線(谷町線)用に準備されていたものの同線の建設ルート変更に伴い放置されていたトンネルを転用して、幅12mのなかもず方面行き新ホームが造られることになり、1989年(平成元年)に完成した。従来のなかもず方面の線路もホームに改造された結果、ホームの幅は9.1mから24.5mまで拡幅された。1番線ホームと2番線ホームの間に壁があるのはこのためである。改良工事は1991(平成3)年に完成し、コンコースも拡幅された。千里中央方面行きのホームに立つと旧なかもず方面行きの位置が現在でも分かる構造になっており、千里中央方面行き列車の梅田到着直前に右側の窓を眺めると僅かながら蛍光灯に照らされた旧なかもず方面行きの線路跡を確認することができる。

1933(昭和8)年5月20日 - 仮駅開業
1935(昭和10)年10月6日 - 本駅開業。仮駅廃止
1980(昭和55)年10月 - 自動改札機導入
1988(昭和63)年3月 - 改造工事に着手
1989(平成元)年11月5日 - なかもず方面行き新ホーム供用開始。ホーム幅が9.1mから24.5mに拡幅し、有効長197mに延長
1991(平成3)年3月 - 改造工事完成
2003(平成15)年 - 第4回近畿の駅百選に選定
2012(平成24)年2月22日 - 午前9時頃、F階段下倉庫内で火災が発生。午前10時40分頃まで御堂筋線全線で運転を見合わせる。その後運転を再開したが、当駅構内は一時閉鎖され、閉鎖が解除されるまで御堂筋線の全列車が当駅を通過した。乗客は全員無事であったが、駅員ら17人が煙を吸引し軽症を負った。
2014(平成26)年4月4日 - 駅ナカ商業施設「ekimo梅田」開業
2015(平成27)年10月6日 ‐ 2番線南側のアーチ天井の大改修完了。各調光設備をLED照明に変更し、さらにホーム中央部にはデジタルサイネージが4カ所12面設置された。
2018(平成30)年4月1日 - 大阪市交通局の民営化により、所属事業者・管轄が大阪市高速電気軌道(Osaka Metro)に変更

駅構造:
島式ホーム1面2線を有する地下駅である。ホームの幅は、1番線が12m、2番線が12.5mであり、大阪市高速電気軌道(Osaka Metro)の駅では最大の24.5mが確保されている。1番線と2番線の間は壁で仕切られているが、壁に開いた出入口によって往来が可能。改札口はホーム新大阪寄りの「北改札」、ホーム中程付近の「中改札」、ホーム難波寄りの「南改札」がある。中改札と南改札の間には、駅ナカ商業施設である ekimo梅田があり、14の店舗が並んでいる。
当駅は梅田管区駅に所属し、同管区駅長(副駅長駐在)が当駅のみの単駅管理となっている。

のりば:
1番線 御堂筋線 なんば・天王寺・あびこ・なかもず方面
2番線 御堂筋線 新大阪・江坂・千里中央方面

駅北側中津方には上下線を繋ぐ片渡り線が設置されている。

本稿、阪急、阪神の梅田駅については準備中

参考資料:Wikipedia「梅田駅(大阪市交通局)」(最終更新:2018年4月17日)・・2018年4月28日閲覧
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A2%85%E7%94%B0%E9%A7%85_(%E5%A4%A7%E9%98%AA%E5%B8%82%E5%96%B6%E5%9C%B0%E4%B8%8B%E9%89%84)
Wikipedia「梅田駅」(最終更新:2018年4月2日)・・2018年4月28日閲覧
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A2%85%E7%94%B0%E9%A7%85

現地取材:2018.3.-2他
記事投稿:2018.4.28

[PR]
# by fbox12 | 2018-04-28 21:32 | 鉄道・バス

特急「はやとの風」(JR九州)

a0057057_22444033.png
はやとのかぜ

a0057057_23114747.pnga0057057_23055810.png
a0057057_23023705.pnga0057057_23175978.png
概要:
はやとの風(はやとのかぜ)は、九州旅客鉄道(JR九州)が吉松駅 - 鹿児島中央駅間を肥薩線・日豊本線・鹿児島本線経由で運行する臨時特急列車で、2004(平成16)年3月13日に九州新幹線鹿児島ルートが部分開業した際、九州新幹線に接続する霧島方面への観光列車として運行を開始した。
当初は専用車に予備がなかったため臨時列車として運転されていたが、2006(平成18)年3月からは、予備車が1両確保されたことで定期列車となったのち、2018(平成30)年3月17日のダイヤ改正で定期運行が廃止され、再び臨時列車となった。
近年、JR九州は南九州に多くの観光列車を走らせているが、その端緒となった列車である。
肥薩線全体でみると、八代駅~吉松駅間では、2000(平成12)年まで、吉松から吉都線を走る急行「えびの」が運行されていた。またそれ以降も八代駅~人吉駅間では、2016(平成28)年3月に廃止・運行区間縮小されるまで、特急「くまがわ」「九州横断特急」が運行されていた。しかし、吉松駅よりも南の区間では、1978(昭和53)年に急行「やたけ」が快速に格下げされて以来優等列車の運行がなかった。
そのような経緯から、「はやとの風」は肥薩線の吉松よりも南の区間には、26年ぶりの優等列車運行となった。
また、2006(平成18)年12月13日からは、人吉駅~ 鹿児島中央駅間を直通する「人吉はやとの風」も運行された。これは2006(平成18)年10月 - 2007(平成19)年3月に行われた「長崎 vs 熊本キャンペーン」に伴うものだった。
「人吉はやとの風」のダイヤは2日で1往復するようになっていて、1日目に人吉駅行き、2日目に鹿児島中央駅行きが運行されていて、吉松駅 - 鹿児島中央駅間は定期列車の「はやとの風」に併結して運行していた。
先述のキャンペーン終了後も、時折運行されていたが、2007(平成19)年11月に運行予定だった列車が、定期の「はやとの風」が踏切事故を起こした影響で運行中止となり、それ以降は設定がない。

運行概況:
a0057057_23311510.pnga0057057_15291195.png
吉松駅 - 鹿児島中央駅間で土曜・休日および長期休暇期間中に1日2往復が運行されている(2018(平成30)年3月17日以降)。
特急列車ながらワンマン運転を行っている。車内改札のため車掌が乗務することもあるが、車掌が乗務しない時は、客室乗務員が車内改札を行うこともある。
(注、「はやとの風」は特急列車のため「青春18きっぷ」では乗れない。:上右側の車内補充券は、他列車内で発券されたもの)。
「吉松駅発鹿児島中央駅行きの列車が下り列車で、列車番号は6021D - 6024Dとなっている。
運行ダイヤは、速達性よりも観光面をより重視したものとなっていて、1903(明治36)年の肥薩線開業当時に建築された木造駅舎の残っている大隅横川駅・嘉例川駅で、全列車が約5分間停車する。
竜ケ水駅から鹿児島駅間の車窓から桜島が一望できる区間では徐行で運転する。
日豊本線では隼人駅と鹿児島駅のみ停車し、その他の駅では、列車行き違いのための運転停車を行う場合がある。なお「人吉はやとの風」は「はやとの風2・3号」に連結して運行されていた。

停車駅:
吉松駅 - 栗野駅 - 大隅横川駅 - 霧島温泉駅 - 嘉例川駅 - 隼人駅 - 鹿児島駅 - 鹿児島中央駅
a0057057_11452739.pnga0057057_11573433.pnga0057057_16503703.pnga0057057_13592151.pnga0057057_23265505.pnga0057057_15371578.png
「人吉はやとの風」の人吉駅 - 吉松駅間は特急列車扱いながら各駅に停車していた。

a0057057_23272729.pnga0057057_23162271.png
使用車両・編成:
普通列車用のキハ40形気動車を特急仕様に改造したキハ147 1045・キハ47 8092の2両が専用車両で、通常はキハ47 8092を1号車(鹿児島中央向き)、キハ147 1045を2号車(吉松向き:タイトル下左写真)としている。車両の検査時には1両を検査に出し、残った1両と指宿枕崎線の特急「指宿のたまて箱」仕様のキハ140 2066(タイトル下右写真)を連結して運転している。車両は全て普通車である。
改造にあたり内燃機関や台車などは変更されておらず、最高運転速度も95km/hのままだが、種車には高出力エンジン装備車両が選定されている。その後、指宿のたまて箱で使用されているキハ47の改造車と同じく、上下振動を低減するため、加速度センサーにより検知された上下振動加速度を元に制御装置が減衰力指令値を計算して、可変減衰上下動ダンパにその指令値を送り、減衰力を可変させて上下振動を抑制する、減衰力制御弁付きの可変減衰上下動ダンパを台車の枕ばね(コイルばね)に装備され、車体には4つの加速度センサーと制御装置が搭載された。
運行開始当初はキハ147 1045(1号車)・キハ140 2066(2号車)の2両編成で、予備車両がなかったため検査や故障時は運休となっていたこともある。
ほぼ毎日運転していたが臨時列車の扱いであった。
a0057057_23353898.png2006(平成18)年にキハ47 8092が加わるとこれを1号車とし、従来1号車だったキハ147 1045は方向転換の上で2号車に変更。2号車だったキハ140 2066は予備車となったため「はやとの風」の臨時列車扱いは解除され、多客時には3両で運行するようになった。
キハ140 2066は両運転台車で単行運転が可能のため「人吉はやとの風」にも用いられた(写真右・・両運転台のため、編成中間にも運転台がある)。「人吉はやとの風」が運休になった事故の際には「はやとの風」の専用車両が1両しか運行できなくなったため、2号車(当時は全車自由席)に普通列車用のキハ40系を充当し、2号車には乗車券のみで乗車可能とする措置を取っていたこともある。2011(平成23)年3月12日のダイヤ改正で「指宿のたまて箱」が運行を開始すると、キハ140 2066は「はやとの風」「指宿のたまて箱」の共通予備車の形となった。2012(平成24)年3月には「指宿のたまて箱」仕様に改装されたため、「はやとの風」仕様の車両は運行開始当初の2両に戻っている。なお、運行開始以来1号車を座席指定席、2号車を自由席として運行していたが、2015(平成27)年3月14日のダイヤ改正に伴い2号車の大半も指定席に変更され、自由席は2号車の8席および1・2号車のフリースペースのみとなった。a0057057_23234224.png外観・内装:旅客用車両としては珍しくロイヤルブラック一色に塗装されている。キハ40系気動車の暖地型の改造であるため、デッキはなく、ほかの近郊形気動車同様に、窓は開閉可能である。内装は難燃木材を使用していて暖かみのある内装となっている。のちに追加で改造されたキハ47 8092の内装は、登場時から運用されている車両に比べ明るい材質を使用している。車内は、既存の座席をすべて撤去しリクライニングシートを設置。トイレの新設、エアコンの変更(独立型のバス用クーラーから、屋上集中型への変更)なども行われている。コモンスペースとして車両中央に展望席を設置している。(「いさぶろう・しんぺい」にも、同様の設備を持つ車両がある。)1号車にはサービスコーナーもあり、オリジナル記念品や沿線の名産品などが車内で販売されている。またこの特急列車の誕生を記念して発売開始された駅弁「百年の旅物語かれい川」も販売されている(あらかじめ予約が必要)。

沿革:
2004(平成16)年3月13日:九州新幹線鹿児島ルート全線開業に合わせて運行開始。この時点では専用編成が2両(キハ147 1045・キハ140 2066)のみのため、ほぼ毎日運転していたが、臨時列車の扱いだった。
2006(平成18)年1月21日:キハ47 8092が専用車両に加わり、それまで使用されていたキハ140 2066は予備車・臨時列車用とされる。
 3月18日:定期列車に格上げ。
 12月13日:「人吉はやとの風」運行開始。「人吉はやとの風」には予備車のキハ140 2066が充当された。
2007(平成19)年10月29日:肥薩線での踏切事故の影響により専用車両が1両しか走行できなくなったため、11月に運行予定だった「人吉はやとの風」は運行中止。以降「人吉はやとの風」の設定はない。また定期列車の「はやとの風」は車両の修理が完了するまで、残った専用車1両を1号車(指定席)、普通列車用の車両を2号車(自由席)とし、2号車には乗車券のみで乗車可能の措置が取られた。
2012(平成24)年3月19日:キハ140 2066は「指宿のたまて箱」用に再改造され、2両体制に戻る。
2015(平成27)年3月14日:2号車の大半の座席を指定席に変更。
2018(平成30)年3月17日:定期運行を廃止し、土曜・休日および多客期運転の臨時列車となる。(注、写真は、乗車日が2018(平成30)年3月14日のため、定期運行されていた頃、平日のもの)

参考資料:Wikipedia「はやとの風」(最終更新:2018年4月9日)・・閲覧:2018年4月27日
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%AF%E3%82%84%E3%81%A8%E3%81%AE%E9%A2%A8

現地取材:2018.3.14
記事投稿:2018:4.27

[PR]
# by fbox12 | 2018-04-27 23:56 | 鉄道・バス

第佰拾八 駒形神社 岩手県奥州市鎮座

a0057057_10325886.png
a0057057_10333555.pnga0057057_10365238.png
こまがたじんじゃ

a0057057_17262279.png鎮座地:岩手県奥州市水沢中上野町1-83(本社)
  岩手県胆沢郡金ケ崎町西根字駒ヶ岳(奥宮)
  岩手県胆沢郡金ケ崎町西根雛子沢13(里宮)

祭神:
駒形大神(主祭神:天照大御神・天常立尊・国狭立尊・吾勝尊・置瀬尊・彦火尊の6柱の総称)
神体:駒ヶ岳(神体山)
社格等:式内社(小)、旧国幣小社、神社本庁別表神社、陸中國一宮(新一宮)
本殿様式:三間社流造

概要:a0057057_10434581.pnga0057057_10401194.png
当社は駒ヶ岳の神霊を祀ったものとされるが、古くよりその神霊を人格神に比定する諸説が挙げられている。現在の6柱とする説は、雛子沢里宮の寛政9年(1797年)棟札や、仙台藩編纂の『安永風土記』に記載が見られる。これらは、中近世の神仏混交(*混淆)期において駒ヶ岳外輪山を各天神地祇に擬したことに由来すると見られている(最高峰の大日岳に天照大神、第2の駒ヶ岳に天照大神の子の吾勝尊、など)。
以上のほか、人格神を宇賀御魂大神・天照大神・天忍穂耳尊とする説、毛野氏の祖神とする説等がある。
a0057057_11010811.png祭神の駒形神は馬の守護神とされ、馬頭観音や大日如来と習合し、東日本の各地に勧請されて信仰されている。馬の守護神とされた背景は、古代に付近一帯が軍馬の産地であったことが考えられている。
境内と水沢公園(右写真)はヒガンザクラ系の桜の名所として知られ、老木の樹齢は250年から300年にも及ぶ。一帯は「駒形神社及び水沢公園のヒガン系桜群」として岩手県指定天然記念物に指定されている。

歴史:
a0057057_19513354.png当社は駒ヶ岳(焼石駒ヶ岳/駒形山)を祀る神社として、明治以前は駒ヶ岳山頂の本宮(奥宮)、北上市和賀町岩崎と金ケ崎町西根雛小沢の各里宮をして奉斎された。水沢の現在社(水沢本社)は明治36年(1903年)の新設である。それ以前の水沢本社の地は鹽竈神社(現 別境内別宮)の境内地であった。以下、駒形神社一般の歴史について概説する。
創建創建は不詳で、様々な伝承が現在に伝えられている。
社伝の1つでは、雄略天皇(第21代)21年に、籠神社(京都府宮津市)から宇賀御魂大神を勧請して山頂に祀り、里宮に大宜津比売神と事代主神を配祀したが、のちに前記6柱となったという。
別伝では、景行天皇(第12代)40年に日本武尊が東征に際し、蝦夷平定のために前記6柱を勧請・創建したという。また、坂上田村麻呂が当地で倒れた愛馬を祀ったが、のちに慈覚大師(円仁)が廻国した際にその駒形神を駒ヶ岳山頂に移して本宮を造営、さらに源義家が前九年の役の際に戦勝祈願をしたともいう。
別説として、上毛野(のちの上野国、現 群馬県)を根拠とする上毛野氏一族が当地に来住するにあたり、駒ヶ岳を上毛野氏氏神の赤城山(赤城神社)に擬して奉斎したとする説もある。その中で、休火山である赤城山の外輪山に「駒形山」が存在することから、毛野氏が上毛野氏と下毛野氏に分かれた後にそれぞれ勢力を北に伸ばし、外輪山を持つ山の中で二番目の高峰を赤城山になぞらえて「駒ヶ岳」または「駒形山」と名付け、駒形大神を祀ったとする。そして雄略天皇の時代に、上毛野氏が奥州において現在の「駒ヶ岳」を見出して名づけ、山頂に駒形大神を勧請したのが始まりであるとするものである。この説に従えば、駒形神社の祭神は赤城山の神と同一か、深い関連を持つ存在ということになる。
関連して、『続日本後紀』承和8年(841年)3月2日条には江刺郡擬大領として「上毛野胆沢公毛人」の名が見え、上毛野氏と胆沢との関わりが指摘される。
さらに赤城神社との関連では、源実朝が『金塊和歌集』において赤城神社を「からやしろ」と詠んでいることから、赤城神社は「から」すなわち中国や韓国に由来するともされるが、当時の朝鮮にあった高麗が「コマ」と呼ばれたことから、駒形という名称は、「高麗唐」すなわち「コマカラ」が「こまかた」のち「こまがた」に転訛したともいう。
関連して箱根神社の摂社である駒形神社では、朝鮮から高麗大神が勧請されたとしている。
なお奥宮は現在駒ヶ岳に鎮座するが、元々は駒ヶ岳南方で最高峰の大日岳(経塚山)山頂にあったとする伝承がある。

概史:
a0057057_17163089.png
国史では仁寿元年(851年)に「駒形神」の神階が正五位下に、貞観4年(862年)に従四位下に昇叙された旨の記事が見える。従四位下の神階は陸奥国内で最高位になる(陸奥国内で従四位下は計9社。駒形神社側ではこの神階について、駒形神社への坂上田村麻呂の崇敬が篤かった関係で、胆沢の鎮守府から神階を高くすべきとの申し出が何度もあったためと説明している。
また、延長5年(927年)成立の『延喜式』神名帳では陸奥国胆沢郡に「駒形神社」と記載され、式内社に列している。駒形神社側の見解では、全国の駒形神社の中で当社と宮城県栗原郡の駒形根神社の2社のみが神名帳に記載があるという。
平安時代頃には、上記の坂上田村麻呂のほか、源頼義・義家や平泉の藤原氏の崇敬も篤かったと伝える。箱根神社の縁起には、藤原秀衡が銅を鋳て駒形の神の像を作り祀るなど、藤原氏の駒形大神への信仰の篤さが読み取れる記載があるという。
江戸時代の時点では、駒ヶ岳は仙台藩と盛岡藩の境界であり、里宮はそれぞれの藩内に1社ずつがあった。また、山頂の本宮(奥宮)は両藩によって20年目ごとに交互に建て替えがなされていた。
明治4年(1871年)、山頂の本宮(奥宮)が近代社格制度において国幣小社に列するにあたり、本宮・里宮とも参拝に不便であるとして、当時の水沢県県庁に近い鹽竈神社の本殿が仮遥拝所となされた(鹽竈神社は境内社の春日神社に遷座)。そして明治7年(1874年)、社殿が改修されて正式な遥拝所とされた。明治36年(1903年)に山頂の神霊が遥拝所に遷され、元は鹽竈神社のものであった社殿等一切は駒形神社に編入された。鹽竈神社は境内別宮であった春日神社に合祀され、社名が「春日神社」から「鹽竈神社」に改称されることとなった。
戦後は神社本庁の別表神社に列し、近年では陸中国一宮とも称されている。2010年(平成22年)8月1日、山頂の奥宮にある老朽化した社殿を解体し、新しく社殿を造営した。

神階:
仁寿元年(851年)9月2日、正五位下 (『日本文徳天皇実録』) - 表記は「駒形神」。
貞観4年(862年)6月18日、正五位下から従四位下 (『日本三代実録』) - 表記は「駒形神」。

摂末社:以下はいずれも本社境内社。
a0057057_19592783.pnga0057057_10550277.png
別宮
鹽竈神社
祭神:鹽竈神(塩土老翁神・武甕槌神・経津主神)
 相殿に春日神(天児屋根神・比賣神・藤原鎌足朝臣)

駒形神社本社の新設以前より、当地に鎮座した神社である。
創建は不詳ながら、元々は石田・大明神の地にあったといい、一伝では康平5年(1062年)に源頼義・義家父子が石田・大明神の屋敷に社殿を造営し塩竈神を勧請したことに始まるという。
勧請元の鹽竈神社(宮城県塩竈市)は中世に留守氏の支配下にあったため、実際には寛文6年(1666年)に水沢城に入った留守宗利が勧請したことに始まると推測されている。
一伝では、留守宗利が再興、明和3年(1766年)に現在地に遷座したという。安政6年(1859年)の水沢大火で社殿は焼失したが、文久2年(1862年)に再興。のち当地に駒形神社が移るにあたって社殿を譲り、境内摂社の春日神社に遷座した。明治の一時期は駒形神社とは分割される独立社であったが、その後は駒形神社の境内別宮として推移している。

末社
a0057057_11450499.png山神社
祭神:木花開耶姫神・大山祇神
その他
a0057057_17561455.png水沢招魂社
祭神:
郷土出身の国事殉難者1099柱

かつては水沢公園内に鎮座した。明治11年(1878年)の伊勢神宮分霊の巡行に際して、水沢公園内にあった愛宕神社(安政6年(1859年)の水沢大火で焼失)の跡地上に行在所が建てられたことに始まる。
この行在所は明治42年(1909年)に招魂社に改められたが、その後荒廃し、駒形神社境内に遷座して現在に至っている。

この神社最寄りの駅・バス停:
JR東北新幹線・水沢江刺駅からタクシー
または、JR東北本線水沢駅から徒歩またはタクシー(バスは1日数本程度)

出典・参考:Wikipedia「駒形神社」(最終更新 2018年4月7日)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A7%92%E5%BD%A2%E7%A5%9E%E7%A4%BE

現地参拝:29.6.25
記事投稿:30.4.24
  調整:30.4.27

[PR]
# by fbox12 | 2018-04-27 17:46 | 神社