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近4 奈良ホテルと奈良観光関連遺産Ⅱ

近代化産業遺産

5.外貨獲得と近代日本の国際化に貢献した観光産業草創期の歩みを物語る近代化産業遺産群

整理番号:近4 奈良ホテルと奈良観光関連遺産(旧JR奈良駅舎)

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記事投稿:2018.9.27
  調整:2018.10.-1
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# by fbox12 | 2018-10-01 22:47 | 近代化産業遺産

285 奈良 (JR西日本)

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なら

所在地:奈良県奈良市三条本町1-1
所属・路線:西日本旅客鉄道株式会社(JR西日本)・関西本線
電報略号/事務管コード:ナラ/620816
キロ程:133.9km(名古屋起点)
乗入路線(駅番号):関西本線(大和路線:JR-Q36 / 奈良線:JR-D21)、桜井線(万葉まほろば線)

概要:
奈良市におけるJRの中心駅であり、京都・天王寺方面へ向かう快速列車が多数発着している。第3回近畿の駅百選に選定されている。
2010年(平成22年)の平城遷都1300年記念事業を目処に行われていた駅周辺の土地区画整理事業とあわせて、当駅の高架化事業が行われ、同年3月13日に最後まで地上のりばから発着していた桜井線が高架化された。
なお、近鉄奈良線の近鉄奈良駅は、当駅から直線距離で約900mほど東に位置しており(徒歩距離は三条通り経由で約1,100m)、移動に徒歩15分程度を要する。
乗降客数は市中心部に位置する近鉄奈良駅の方が多い。

歴史:
沿革
1890年(明治23年)12月27日 - 大阪鐵道 (初代) 王寺驛 - 当駅間の開通時に、同線の駅(一般駅)として開業。
1896年(明治29年)4月18日 - 奈良鐵道 木津驛 - 当駅間の開通時に、同線の駅が開業。
1899年(明治32年)10月14日 - 奈良鐵道線が京終驛まで開通。
 5月21日 - 關西鐵道 大仏驛 - 当駅間の開通時に、同線の駅が開業。
1900年(明治33年)6月6日 - 大阪鐵道が關西鐵道に合併。
1905年(明治38年)2月7日 - 奈良鐵道が關西鐵道に合併。これを以って關西鐵道の単独駅となる。
1907年(明治40年)8月21日 - 關西鐵道線 加茂驛 - 大仏驛 - 当駅間が廃止。
 10月1日 - 關西鐵道が国有化され、国有鉄道(当時は、帝國鐵道廳)の駅になる。
1909年(明治42年)10月12日 - 線路名称制定により、關西本線所属となる。
1934年(昭和9年) - 寺院風の駅舎が完成。
1945年(昭和20年)7月22日 - 空襲による被害を受ける。
1984年(昭和59年)2月1日 - 貨物の営業が廃止され、旅客駅となる。
1987年(昭和62年)4月1日 - 国鉄分割民営化により西日本旅客鉄道(JR西日本)の駅となる。
 7月31日 - 駅舎のライトアップが始まる。
1988年(昭和63年)3月13日 - 路線愛称の制定により、関西本線で「大和路線」の愛称を使用開始。
2003年(平成15年)9月7日 - 高架化工事のため仮駅舎に移転。
 11月1日 - ICカード「ICOCA」の利用が可能となる。
2005年(平成17年)9月11日 - 高架化工事のため仮線・仮設ホームでの営業を開始(当初は同年5月22日の予定であったが、JR福知山線脱線事故の影響により延期された)。
2006年(平成18年)7月7日 - 構内遺跡の存在が発表される。
2008年(平成20年)3月15日 - おおさか東線の放出駅 - 久宝寺駅間の部分開業によるダイヤ改正に伴い、新設された直通快速の発着駅となる。
 6月29日 - 関西本線ホームが高架化。
2009年(平成21年)10月4日 - 大阪環状・大和路線運行管理システム導入。
2010年(平成22年)3月13日 - 桜井線ホームが高架化され、駅機能がすべて高架部に移設。路線愛称の制定により、桜井線の当駅 - 高田駅間で「万葉まほろば線」の愛称を使用開始。
 10月3日 - 東西自由通路が開通し、ビエラ奈良が先行オープン。
2011年(平成23年) - 駅東口デッキに屋根を設置。
2012年(平成24年)3月2日 - ビエラ奈良が全面開業。
2013年(平成25年)3月 - 連続立体交差事業が完了。
2018年(平成30年)3月17日 - 駅ナンバリングが導入され、使用を開始。

連続立体交差事業
JR奈良駅周辺は、かつて関西本線(大和路線)と桜井線が地上を走っており、奈良市の旧市街地を東西に分断しているため奈良市都市部の発展を妨げていた。また、これらと交差する跨線橋も狭く、周辺道路の交通渋滞が著しかった。そこで、街の再生と交通の円滑化を図るため、平城遷都1300年にあたる2010年(平成22年)の高架化完成を目指し、2002年(平成14年)から連続立体交差が進められ、周辺土地区画整理事業(シルクロードタウン)や3箇所の高架橋道路の平坦化が行われた。
地上駅時代は乗り換え跨線橋で東西を結んでおり、東西2箇所に改札口があった。

2代目駅舎の保存・活用
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2003年(平成15年)9月6日まで使われていた2代目駅舎(写真)は1934年(昭和9年)に完成したもので、周囲の景観に配慮して方形屋根に相輪を持つ和洋折衷様式が採用されている。大阪鐵道局建築課が京都帝室美術舘懸賞設計に応募し落選した設計案を再利用したものだった。高架化に伴い取り壊される予定であったが、その歴史的価値から反対の声は根強かったこともあり、曳家によって元の位置から18m移動された上で保存され、奈良市総合観光案内所として利用されている。この旧駅舎は、2007年(平成19年)に近代化産業遺産、2011年(平成23年)に土木学会選奨土木遺産となっている。なお、旧駅舎のホールにはなら・シルクロード博覧会に出品されたサモトラケのニケのレプリカ像が飾られていたが、駅舎移設に際して奈良市立一条高等学校に寄贈されている。

構内遺跡
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高架化工事中の2006年(平成18年)、旧駅ホームの下から謎の遺構が発見されたため奈良県立橿原考古学研究所による発掘調査が行われた結果、明治時代の転車台と判明した。発掘された転車台は高架化工事に支障するため、そのままの形で保存されることなく撤去されたが、一部のレンガなどは同研究所附属博物館が保存し、展示会も行われている。奈良駅には奈良機関区(のち奈良気動車区)が所在していたことから、1980年代後半までは転車台と機関庫が存在しており、1986年(昭和61年)8月に蒸気機関車C56形160号機による「SL大和路号」が運転された際にこの転車台が使用されている。

駅構造:
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西口2010年(平成22年)3月13日に完成した3階建ての駅舎の高架駅で、改札口は高架化を機に2階の1ヶ所に集約し、3階がホーム、2階は駅業務施設と商業施設、1階は商業施設が設けられている。ホームと線路の配置は島式ホーム3面5線の構造である。
駅舎ファサードの基本コンセプトは『「奈良らしさの表現」―青丹よし―』であり、3階のホームの側壁には五色のカーテンウォールが設置され、「青丹よし」を現代的に表現している。ホーム部分には寺社の伽藍をイメージした飾り鉄柱を設置、サーモンピンクに塗られている。飾り柱の上には、垂木をイメージした装飾も設置されている。また、2階部分外装は白壁を意識した白塗り、1階部分外装は近隣のなら100年会館のような瓦をイメージした黒タイル張りとなっている。
内装は、改札内は無装飾であるが、改札外部分は天井には格天井を意識した装飾が、また柱は吉野杉で美装されており、一部柱には組物を思わせる装飾が施されている。また、柱からは釣灯篭を思わせる照明も吊るされている。
駅舎構内には1階・2階部分に幅員20mの自由通路が作られ、西口2階はデッキと接続、東口2階はJR奈良駅NKビルと接続した上で、1階に降りる階段とエスカレーターが設置されている。また、2010年(平成22年)10月3日には、1階自由通路南側には商業施設「ビエラ奈良」が開業し、2012年(平成24年)3月2日に自由通路北側の1・2階部分に「ビエラ奈良」の第2期分が増床オープンした。
当駅は駅長が配置された直営駅であり、管理駅として関西本線の加茂駅・木津駅・平城山駅、片町線の西木津駅、佐保信号場を管理している。

のりば:
路線名は旅客案内に合わせて愛称で記述(2012年(平成24年)3月17日現在)。

1番のりば 万葉まほろば線 天理・桜井・高田・和歌山方面
      大和路線 王寺・天王寺・JR難波方面(早朝のみ)
番号なしホーム・2番のりば・3番のりば 大和路線 王寺・天王寺・JR難波・大阪方面
3番のりば 奈良線 宇治・京都方面
4・5番のりば 学研都市線 同志社前・長尾・四条畷方面
        大和路線 木津・加茂方面(一部3番のりば)
        奈良線 宇治・京都方面
2番線1番のりばと同一ホームの反対側は、数字のないのりばとなっている。2番のりばに到着する列車は両側で客扱いを行い、大和路線下り列車と万葉まほろば線の列車との同一ホームで乗り換えることができる。2番のりばへの到着時には、2番のりば側の扉が先に開き、発車時はのりば番号なし側の扉が先に閉まる。なお、数字のないのりばは「こののりば」と自動放送されている。
3方向すべての入線・発車に対応しているのは3・4番のりばのみである。1・2番のりばは木津・桜井方面からの入線と法隆寺・桜井方面への発車のみ対応しており、5番のりばは法隆寺方面からの入線と木津方面への発車のみ対応している。なお、関西本線の下り本線は2番線、上り本線は5番線である。

旅客案内上ののりばと運転取り扱い上の番線は次の通り。
1番のりば…1番線
番号無しのりば、および2番のりば…2番線(下り本線)
3番のりば…3番線
4番のりば…4番線
5番のりば…5番線(上り本線)

出典・参考:Wikipedia「奈良駅」(最終更新 2018年8月20日)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%88%E8%89%AF%E9%A7%85
閲覧:2018.9.26

現地取材:2016.3.-7
記事投稿:2018.9.26

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# by fbox12 | 2018-09-26 21:43 | 鉄道・バス

近3 奈良ホテルと奈良観光関連遺産

近代化産業遺産

5.外貨獲得と近代日本の国際化に貢献した観光産業草創期の歩みを物語る近代化産業遺産群

整理番号:近3 奈良ホテルと奈良観光関連遺産(奈良ホテル)

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ホテルチェーン JR西日本ホテルズ、都ホテルズ&リゾーツ
運営株式会社 奈良ホテル
所有者 西日本旅客鉄道株式会社
部屋数 129室
開業 1909年(明治42年)10月17日
最寄駅 近鉄奈良駅
最寄IC 天理インターチェンジ
所在地 〒630-8301 奈良県奈良市高畑町1096

概要
春日大社一の鳥居前から天理方面へ向かう国道169号(天理街道)沿いにある、荒池と呼ばれる農業用灌漑池の畔、かつては興福寺の塔頭である大乗院が所在した跡地の小高い丘に建っており、天理街道から本館玄関に至るアプローチ道路南方に旧大乗院庭園が所在する。興福寺、春日大社、奈良公園などの観光地にも近い。
第二次世界大戦前には国営(鐵道院→鐵道省直営)の時代が長く、近畿において国賓・皇族の宿泊する迎賓館に準ずる施設としての役割をになっていた。このため「西の迎賓館」とも呼ばれる。今日でも著名人が多く宿泊し、皇族の奈良宿泊の際にはこのホテルが利用されることが専らである。
現在、本ホテルは株式会社奈良ホテルが経営しており、資本金は4億円。後述する歴史的経緯から、うち西日本旅客鉄道株式会社(JR西日本)が50%、近鉄グループホールディングス株式会社(近鉄GHD)が50%出資していた。
インバウンドへの強化を目的に、2018年(平成30年)8月31日付けでJR西日本が近鉄GHDから全株式を取得して完全子会社化した。ただし、近鉄グループとの協力関係は続けるとしている。
JR西日本ホテルズと都ホテルズ&リゾーツの両方に加盟するホテルである。

設備
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宿泊設備としては木造2階建て瓦葺き建築で創業以来の本館と、1984年(昭和59年)に営業を開始した鉄筋コンクリート造4階建ての新館よりなり、小高い丘の上に建つ本館1階とその丘の南側斜面を削って建設された新館の屋上が同一平面となる。
2010年(平成22年)現在の客室数は本館・新館合わせて129で、シングル・ツイン・ダブルの洋室を基本とするが、少数ながら和室も用意されている。木造の本館は全室禁煙である。フロントと、メインダイニングルーム「三笠」、ティーラウンジ、バー、そして売店は本館1階に、日本料理「花菊」は新館5階にあり、宴会場は本館フロント周辺に2室、新館に5室用意されている。また、これらに料理を供する厨房は本館と新館とを連結する区画の地下、つまり新館4階と同一平面に設けられている。

歴史
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開業まで
日露戦争後、日本を来訪する外国人観光客が急増した。これに対して日本政府は外国人宿泊施設整備を支援する政策をとり、これを契機として古都である奈良でも都ホテルの創始者である西村仁兵衛(ホテル運営)、奈良市(用地提供)、そして当時奈良を勢力圏としていた關西鐵道(ホテル建設)の思惑が一致して本格的な洋風ホテルの建設計画が立てられた。
ところが、その直後に關西鐵道は国有化され、さらに奈良市の意欲も薄れたため、以後の本ホテルは西村仁兵衛、奈良市に代わって奈良懸、それに關西鐵道を買収した鐵道院の3者の手によって建設計画が推進された。
当初、東大寺南大門前参道東側の用地が奈良懸によって提示されたが、運営に当たる西村はこれを拒否し、彼は1906年(明治39年)7月に髙畑町飛鳥山の現在地を独自に選出して坪1円で購入、併せて「奈良ホテル」の商号を登録した。
本館の建築にあたっては鐵道院によって鹿鳴館の建設費のおよそ2倍に当たる35万円という巨費が投じられ、東京驛駅舎を手がけた辰野金吾と片岡安のコンビが設計を、近畿の建築界において指導的立場にあった河合浩蔵が工事監理をそれぞれ担当するという、建築当時の日本を代表する建築家たちによる万全の体制が敷かれた。
本館は寺社の多い奈良の景観に配慮し、屋根上に鴟尾を置き壁面を白い漆喰仕上げとした木造2階建て瓦葺き建築で、内装は桃山風の豪奢・華麗な意匠とドイツ風の重厚な意匠が混在する、和洋折衷様式となっている。
和風の外観になったのは本館の設計当時、奈良では宮内省匠寮技師の片山東熊によって設計され、奈良公園内に建設された奈良帝室博物舘(現 奈良国立博物館本館:1894年(明治27年)完成)の純洋風建築が「奈良公園の景観にそぐわない」として当時の奈良県民に大不評だったためという。こうした市民の声に応えて宇治平等院鳳凰堂をモチーフとして取り入れた奈良県物産陳列所をはじめ風景と調和しつつ新時代に対応する和洋折衷構造建築の模索が続けられていた。
以上のような紆余曲折を経て1909年(明治42年)10月に現在地に本館が竣工、西村が経営する大日本ホテル株式会社によって営業が開始された。

開業後
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1909年(明治42年)10月17日の営業開始以来、大日本ホテル株式会社によって運営が続けられた本ホテルであるが、経営難から1913年(大正2年)5月に同社は撤退、以後は鐵道院→鐵道省→運輸通信省→運輸省の直営で宿泊客について「高等官以上又は資本金一定額以上の会社の重役」という原則に従って、迎賓館に準じた施設として国の手厚い保護の下で運営されるようになった。
またその経緯ゆえに、鐵道省によって外国からの観光客誘致のためのポスターなどで使用することを目的として制作が依頼された、上村松園、前田青邨、横山大観、川合玉堂、竹内栖鳳ら当時を代表する日本画家による絵画や、やはり鐵道省の依頼で制作された鳥瞰図の名手吉田初三郎による「奈良ホテル鳥瞰図」の原画などが本ホテルに所蔵・展示されている。
1914年(大正3年)には翌年に京都で挙行される大正天皇即位式典に備え、従来の暖炉による暖房に代えてラジエター式のスチームヒーターによるセントラルヒーティングが1年をかけて全館に導入された。これに伴い、本館屋根上に突き出していた煙突が順次撤去された。もっとも、煙突は撤去されたもののロビーをはじめ各所に設けられていた暖炉のマントルピースは室内装飾として残され、これらは現在に至るまで存続している。
1935年(昭和10年)4月に国賓として訪日した満州國皇帝溥儀の宿泊に際しては、高価な調度品や美術品が買い揃えられた。皇族・国賓などの食事の際に供される食器がこの時に新調され、特にディナーセットなどの磁器については当時の最高級品が大倉陶園に特注された。
1944年(昭和19年)の金属供出の際には、階段の柱頭に装飾として取り付けられていた真鍮製の擬宝珠まで供出された。そこでその代わりに地元名産の赤膚焼で大家であった7代目大塩正人に依頼して製作された陶製の擬宝珠が取り付けられた。この擬宝珠は代用品ながらその個性的かつ趣のある姿ゆえにむしろ好評を博し、以後本ホテルの名物の一つとして定着した。

戦後
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1945年(昭和20年)の終戦後、同年12月1日に運輸省は本ホテルを日本交通公社に貸し付け、営業も委ねることとしたが、これと前後して同年9月28日、本ホテルはサンフランシスコ講和条約発効後の1952年(昭和27年)6月30日の解除まで連合軍に接収されることとなった。
この際、白木仕上げの内外装が不潔であるとして米兵によって危うく全館ペンキ塗り潰しにされるところであったが、当時の日本側支配人が必死で本ホテルの来歴を米軍担当指揮官に説明して説得し、欄干など直接手が触れる部分を朱塗りとし、従業員スペースの内装をペンキ塗り潰しとすることで由緒ある本館主要部を守った、というエピソードが残された。
連合軍による接収解除後、経営難に苦慮した日本交通公社は1954年(昭和29年)4月、運輸省から権利を承継した日本国有鉄道へ本ホテル営業の返還を申し出た。だが、日本国有鉄道法の規定で本来の業務から外れる事業への参入・兼業を事実上禁止されていた当時の国鉄ではホテル直営は不可能であった。そこへ国鉄の特急・急行列車で列車食堂の営業を行い、また歴史的にも本ホテル創設に強く関わっていた都ホテルが営業を引き受ける旨申し出を行い、1956年(昭和31年)3月以降は同社によって運営されるようになった。
その後、1960年代末までは複数の部屋で共用する形態となっていた風呂・洗面所を個別化するなどの内装の間取りの変更や、冷房装置の設備などの改修はあったものの概ね創建当時の姿を保っていた。だが、この状況は大阪・千里丘陵で1970年(昭和45年)に日本万国博覧会が開催されることが公表されたために一変することとなる。

万博開催に伴う改修・拡張
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海外からの観光客が多数来訪することが予想された日本万国博覧会の開催に備え、本ホテルは1968年(昭和43年)に以下のような大規模な増改築を計画した。
 客室98、宴会場2、食堂等3、と大きな収容力を備えた新館を本館食堂南側の斜面に建設。
 個別の風呂・洗面所の設置で不要となった本館の共同風呂・洗面所を改装して客室を22室増設。
 近鉄奈良駅の地下化に伴い建設される駅ビル6 - 8階に別館を開設。
ところが、肝心の新館は工期の問題から見切り発車で起工したものの、古都保存法の区域内であることから風致審議会から建設を差し止められ建設中止となった。そのため、本館の拡充については館内の間取り変更による客室増設が予定通り実施される一方で、すでに着工していた新館の基礎部を生かして近代的な外観の半地下式グリルが景観に大きな影響の無い規模で新設され、これに伴い不要となったラウンジが撤去されるに留まった。
近鉄奈良駅ビルに開設された別館は、1970年(昭和45年)に予定通り営業開始した。

新館建設
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1970年代末には国鉄の兼業に関する規制が緩和されたことから、安い賃料で他社に営業を委託し続ける状態に甘んじる必要が無くなった国鉄当局は、1981年(昭和56年)に都ホテルに対し本ホテルを直営としたい旨を、さらに1982年(昭和57年)には土地建物の賃貸借契約を解除したい旨を通告した。都ホテル側はこれに対して使用承認の継続を求め、協議の結果、国鉄と都ホテルが株式を折半保有する新会社、1983年(昭和58年)1月31日に株式会社奈良ホテルが設立され、本ホテルは同年4月1日からは同社によって運営されるようになった。併せて万博以後の状況の変化に対応すべく万博時には断念された新館の建設が再び計画された。
この際、1984年(昭和59年)のわかくさ国体を控えて県下の宿泊施設増強を迫られていた奈良県はこの計画に協力的に対応し、最大の難関であった風致審議会においても条件付きながら新館の建設が承認された。1983年(昭和58年)8月に総工費24億円を投じた新館の工事が開始され、1984年(昭和59年)8月に竣工、開業した。
この新館は本館の建つ高台の南側傾斜面を削り込んで埋め込む形で建設された半地下式の鉄筋コンクリート造り4階建てで、客室数65、4つの宴会場と新グリル「ツェダー」を備え、本館を含めた供食設備の大幅強化を伴う大工事となった。
新館の設計・工事監理は日本国有鉄道大阪工事局建築二課、同東京建築工事局建築二課、それに安井設計事務所が共同で担当し、工事は奥村組が担当した。
新館は1階から3階までの客室についてすべて南側を窓とした開放的なレイアウトとしてあり、制約が厳しい中で各階の天井高さ3mを確保し、かつ景観に配慮した吉野造りとするなど、外観・接客設備面ともに既存の本館との調和を図りつつ独自性を発揮した設計となっている。

新館完成後
1987年(昭和62年)4月1日の国鉄分割民営化の際、本ホテルにかかる資産はJR西日本が承継し、株式会社奈良ホテルも同社と都ホテルの共同出資となった。
「なら・シルクロード博覧会」閉幕後までは本館・新館と、別館(近鉄奈良駅ビル内)の3館体制で営業が続けられたが、別館は採算性の問題から、1991年(平成3年)6月に撤退・閉鎖された。それに先立つ1989年(平成元年)4月には新設されたばかりの奈良県新公会堂1階でレストラン「能」の営業を開始している。
本館では、新館完成後も日本万国博覧会開催以前より使用されてきた古風な調度品が修理を重ねつつ長く使用され続けていたが、2006年(平成18年)に寝具や家具、空調設備の全面更新が実施されて面目を一新した。翌2007年(平成19年)には新館の設備更新も完了して本館・新館の基本的な接客設備の仕様統一がなされ、最期に料理場の改装工事が2008年(平成20年)9月に完了、3年に渡った一連の館内設備更新工事が完成した。
開設100周年を迎える2009年(平成21年)には各種記念イベントが館内で行われ、2月にはホテル所蔵の絵画20点を展示する絵画展が開かれた。その一方でこの年の11月には1989年(平成元年)より20年にわたったレストラン「能」の営業を終了、奈良県新公会堂から撤退した。
2015年(平成27年)には新館屋上にテラスガーデンを新設、同時に同一平面にある宴会場を南側屋上に張り出すように拡張する工事を設計監理はアーキテクツ・オフィス、構造・設備はJR西日本グループである大鉄工業の担当で実施、同年11月に落成した。この工事に際しては外観上増築されたことに気づかれないほどの従来の宴会場部とのデザインの連続性や一体感、違和感のなさを重視して内外装が設計された。この拡張により得られたスペースを利用して宴会場「金剛の間」が大改装され、また同年12月には日本料理レストラン「花菊」の新館5階宴会場フロア南側拡張部分への移転が実施された。さらに「花菊」の5階への移転で空いた新館4階のスペースは翌2016年(平成28年)に隣接する宴会場「大和の間」の拡張に役立てられ、ホテル全体の宴会場施設の拡充や供食施設の改良が実現している。
2017年(平成29年)4月中旬から一部客室のリニューアル工事を、5月中旬から木造本館の耐震補強工事を実施する。期間は約3年間を予定している。できるだけ原型を損なわないよう、松野浩一東洋大学教授(建築構造学)考案の新しい耐震補強法「複層斜交重ね板壁」(「さねはぎ」で継いだ小幅板を斜めに重ねた3層の補強壁で揺れに抵抗する)が採用された。

宿泊した著名人
宿泊した海外の著名人
 セルゲイ・プロコフィエフ 1918年(大正7年)5月19日 - 27日 ロシアの作曲家
 バートランド・ラッセル 1921年(大正10年)7月19日 イギリスの数学者
 アルベルト・アインシュタイン 1922年(大正11年)12月17・18日 物理学者
 エドワード8世 1922年(大正11年) 英国王(当時は皇太子)
 グロスター公ヘンリー 1929年(昭和4年) 英国王子
 チャールズ・リンドバーグ 1931年(昭和6年) アメリカの飛行家
 愛新覚羅溥儀 1935年(昭和10年) 満州國皇帝
 ホセ・ラウレル 1945年(昭和20年) 元フィリピン大統領 亡命の為に2ヶ月間滞在
 ヘレン・ケラー 1948年(昭和23年) アメリカの社会福祉事業家
 マーロン・ブランド 1956年(昭和31年)
 グレン・フォード 1956年(昭和31年)
 ハイレ・セラシエ1世 1956年(昭和31年) エチオピア帝国皇帝。戦後初の国賓
 ジャワハルラール・ネルー 1957年(昭和32年)
 インディラ・ガンディー 1957年(昭和32年)
 オリヴィエ・メシアン 1962年(昭和37年) フランスの作曲家
 イヴォンヌ・ロリオ 1962年(昭和37年) フランスのピアニスト
 カールハインツ・シュトックハウゼン 1966年(昭和41年)3月 ドイツの作曲家
 マーガレット王女 1970年(昭和45年) 英国王女
 鄧小平 1978年(昭和53年)
 オードリー・ヘプバーン 1983年(昭和58年)3月31日 - 4月2日 女優
 ダライ・ラマ14世

宿泊した日本の著名人
 皇室関係者多数
 乃木希典 1911年(明治44年)10月
  関西で実施された陸軍師団対抗演習での統裁官の任に当たる際に宿泊。
 高浜虚子 1916年(大正5年)11月
  国民新聞記者として連載記事『奈良ホテル』取材のため宿泊。
 東条英機
 宇垣一成
 荒木貞夫
 堀辰雄 1941年(昭和16年)10月に約20日間滞在。
 佐藤栄作 日本国首相。
  鉄道官僚として大阪鉄道局長を務めていた時代に所轄の本ホテルを度々訪れ、政治家に転身後も最晩年まで何度も宿泊した。
 三船敏郎、京マチ子、清川虹子 1956年(昭和31年)4月
   MGM映画「八月十五夜の茶屋」撮影のため宿泊。
 司馬遼太郎

出典・参考:Wikipedia「奈良ホテル」(最終更新 2018年8月31日)に加筆
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%88%E8%89%AF%E3%83%9B%E3%83%86%E3%83%AB
閲覧:2018.9.14

現地取材:2016.3.-6(宿泊)
記事投稿:2018.9.14
  調整:2018.9.23
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# by fbox12 | 2018-09-24 10:16 | 近代化産業遺産

鉄3 弁慶号機関車

鉄道記念物

整理番号:鉄3
所蔵:鉄道博物館
指定:鉄道記念物 1958年(昭和33年)指定第3号
   
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基本情報:
運用者 日本国鉄(官営幌内鐵道→北海道炭礦鐵道→鐵道院・鐵道省)
製造所 H. K. ポーター(米)
製造番号 369
製造年 1880年
運用開始 1880年(明治13年)11月28日
引退 1924年(大正13年)


国鉄7100形蒸気機関車(⁺この場合の国鉄は国有鉄道の意)
製造数 8両

主要諸元:
分類 飽和式テンダー式蒸気機関車
 軸配置 2-6-0 (1C)
 軌間 1,067 mm
 全長 12,173 mm
 全高 3,394 mm
 運転整備重量 16.37 t
 動輪上重量 13.84 t (運転整備時)
 炭水車重量 10.59 t (運転整備時)
 固定軸距
 動輪径 914 mm(3フィート))
 軸重 4.84 t (第1動輪上)
 シリンダ数 単式2気筒シリンダ
 (直径×行程) 305 mm × 406 mm
 弁装置 スチーブンソン式アメリカ形
 基本型ボイラー圧力 7.7 kg/cm2 
 ボイラー水容量 1.8m3 小煙管(直径×長さ×数)45 mm × 2,404 mm × 119本
 火格子面積 0.93 m2
 煙管蒸発全伝熱面積 30.6 m2
 火室蒸発伝熱面積 10.0 m2
 燃料搭載量
 水タンク容量 3.64 m3
 制動装置 手ブレーキ(炭水車のみ)、空気ブレーキ、カムドライバブレーキ
 シリンダ引張力 2,700 kg

概要:
辨慶(弁慶)号機関車 7100 形は、かつて日本国有鉄道の前身である鐵道院に在籍した蒸気機関車である。
1880年(明治13年)、北海道初の鉄道(官営幌内鐵道)の開業にあたり、アメリカ合衆国から輸入されたテンダー式蒸気機関車で 1889 年(明治32)までに同形機が合計8両が輸入された。当初輸入された順に番号( - )が附番され、さらに歴史上の人物(北海道絡みが多い傾向)にちなんだ愛称が付され(1889年(明治22年)製の2両は無名)、そのうちの 番が、「辨慶(弁慶/べんけい)」である。鉄道記念物に指定されている。

構造:
前端梁に取り付けられたカウキャッチャー(牛よけ = 排障器)や大型のダイヤモンドスタック(火の粉止め)を取り付けた煙突、大型の油灯式前照灯、第1缶胴上に設けられたベル、木製の運転室など、西部劇から抜け出てきたような、アメリカの古典的スタイルが特徴的である。1880年(明治13年)に輸入された (義經(義経/よしつね))号と辨慶号の2両には、ウェスティングハウス・エア・ブレーキ製空気ブレーキが装備されており、客車とともに貫通制動ができるようになっていた。標準装備されていた自動連結器とともに、本形の先進的な部分である。当時、北海道以外の国内の鉄道では、真空ブレーキとリンク式連結器が用いられていた。

運転・経歴:
1880年(明治13)11月28日、手宮 - 札幌間が開業し、「義經」と 「辨慶」の使用が開始された。
1889年(明治22)12月10日、官営幌内鐵道は北海道炭礦鐵道に払下げられ、本形8両すべてが同社に引き継がれた。
北海道炭礦鐵道ではA形(1 - 8)、後にイ形と称した。同鐵道では、本形に対し煙室の延長やダイヤモンド形煙突のパイプ形への交換、カウキャッチャーの撤去などの改造が行なわれ、原形が損なわれていった。
1906年(明治39年)10月1日、北海道炭礦鐵道は買収・(再)国有化され、このときも8両全てが官設鉄道に引き継がれた。
1909年(明治42年)には、鐵道院の車両称号規程が制定され、8両は 7100形(7100 - 7107)に改められたが、このときから、実際の番号と現車の製造番号の間の関係に相当の乱れが生じている。
これは、製造銘板がボイラーに取り付けられていたことと、北海道炭礦鐵道では修繕の効率化のため、足回りとボイラーを別々に管理しており、相互の振替えが頻繁に行なわれていたために生じたもので、本形が3両も保存されることとなる遠因となっている。

保存:
東京へ送られた 7101
1922年(大正11年)、北海道の1号機関車である「義經」を東京に新設される鐵道博物舘(のちの交通博物館)に保存することとなり、7101 が「義經」の後身であると推定され、1923年(大正12年)8月に同館に送られた。しかし、同年9月1日に発生した関東大震災により東京入りできず、同機は黒磯驛構内の機関庫に10年以上も保管(放置)されることとなった。
1936年(昭和11年)、7101 は大宮工場(現在の大宮総合車両センター)で「義經」として復元されることとなった。しかし同年、鉄道ファンである嶋崎英一と川上幸義が『7101 が「辨慶」、7105 が「義經」である』との調査結果を大宮工場に報告し、7101 は一転「辨慶」として復元されることとなった。
1940年(昭和15年)、同機の復元が完成し、鉄道博物館に収蔵、静態保存された。
1958年(昭和33年)には鉄道記念物に指定されている。
交通博物館閉館後は、2007年(平成19年)10月14日にさいたま市大宮区に開館した鉄道博物館に移され、展示されている。

出典・参考:
Wikipedia「国鉄7100形蒸気機関車」(2018.9.17閲覧)に一部加筆
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E9%89%847100%E5%BD%A2%E8%92%B8%E6%B0%97%E6%A9%9F%E9%96%A2%E8%BB%8A

写真:弁慶号機関車 2017.10.17 鉄道博物館

初稿 2018.9.17
調整 2018.9.21

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# by fbox12 | 2018-09-21 10:18 | 近代化産業遺産

近2 日光金谷ホテルと日光観光関連遺産

近代化産業遺産

5.外貨獲得と近代日本の国際化に貢献した観光産業草創期の歩みを物語る近代化産業遺産群

整理番号:近2 日光金谷ホテルと日光観光関連遺産(JR日光駅)
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現地取材:2017.9.-4

初稿:2018.9.-9
調整:2018.9.21

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近1 東京都千代田区の赤煉瓦建造物

近代化産業遺産

4.建造物の近代化に貢献した赤煉瓦生産などの歩みを物語る近代化産業遺産群

整理番号:近1 東京都千代田区の赤煉瓦建造物(東京駅)
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初稿:2018.9.-2
調整:2018.9.21

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鉄1 1号機関車

鉄道記念物

整理番号:鉄1
a0057057_22093304.png所蔵:鉄道博物館
指定:鉄道記念物 1958年(昭和33年)指定第1号
   重要文化財 1997年(平成9年)6月30日 指定番号 00088
    名称:一号機関車
    種別:歴史資料
    所在:埼玉県さいたま市大宮区 鉄道博物館
    所有者:東日本旅客鉄道株式会社
    この項のみ出典:文化庁 国指定文化財等データベース(閲覧:2018.8.26)
     https://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/index_pc.html 「一号機関車」で検索 

国鉄150形蒸気機関車(⁺この場合の国鉄は国有鉄道の意)

基本情報:
運用者 日本国鉄(工部省→鐵道院) 島原鐵道
製造所 バルカン・ファウンドリー(英)
製造番号 614
製造年 1871年
製造数 1両
運用開始 1872年(明治5年)
引退 1930年(昭和5年)

主要諸元:
分類 飽和式タンク式蒸気機関車
 軸配置 2-4-0 (1B)
 軌間 1,067 mm
 全長 7,417 mm
 全高 3,569 mm
 運転整備重量 23.45 t
 動輪上重量 17.58 t (運転整備時)
 固定軸距 2,134 mm
 動輪径 1,321 mm(動輪直径 1,295 mm(4フィート3インチ))
 軸重 9.09 t (第1動輪上)
 シリンダ数 単式2気筒シリンダ
 (直径×行程) 305 mm × 457 mm
 弁装置 スチーブンソン式(安全弁 サルター式)
 基本型ボイラー圧力 9.84 kg/cm2 
 火格子面積 0.81 m2
 全伝熱面積 52.2 m2
 燃料搭載量 0.51 t
 水タンク容量 2.05 m3
 制動装置 手ブレーキ、反圧ブレーキ
 シリンダ引張力 2,690 kg (0.85P)
以上、改装後の(1909年(明治42年)形式図による)諸元を示す。

概要:
1号機関車(原形)150形は、かつて日本国有鉄道の前身である鐵道院に所属した蒸気機関車である。
1872年(明治5年)、日本で最初の鉄道開業に際してイギリスから輸入された蒸気機関車5形式10両中の1形式で、1両のみが輸入された。1号機関車と呼ばれている。1871年(明治4年)、バルカン・ファウンドリー社 (Vulcan Foundry Co., Ltd.) 製(製造番号614)である。国の重要文化財に指定されている。

構造:
長年にわたる使用期間中、随所に改造が加えられており、製造時の形態からは相当な変化が生じている。当初かなりオープンな構造だった運転台には外覆が整備され、ボイラー位置も209mm (8 1/4in) 高くされた。運転台直前にあった蒸気ドームはボイラー中央部に移設され、元のドーム位置には汽笛が設けられている。この改造は、1884年(明治17年)7月から翌年6月にかけ、神戸工場で実施されている。後述の神戸地区への転用は、この改造を見越してのものであったと思われる。

運転・経歴:
同時に発注された10両のうち、最も早く日本に到着した本機は「1」と付番され、1872年(明治5年)10月14日(新暦)の新𣘺 - 横濱間鉄道開業後は、客貨問わずに使用された。しかし、使用成績は思わしくなく、現場ではその改善に腐心したようである。
1872年(明治5年)8月から1885年(明治18年)6月までの走行距離は104,641哩⁺(マイル)で、2 - 9(のちの160形、190形など)の半分弱、最も使用成績の良くなかったとされる10(のちの110形)の2倍程度であったという。
京浜間で約8年使用された後、1880年(明治13年)11月には東海道線神戸地区へ転用された。1885年(明治18年)には前述の大改造後、半田に送られ、中山道幹線の建設資材輸送用に使用された。1905年(明治38年)には、大阪地区で入換専用になっているのが確認されている。
本機の番号は、1909年(明治42年)の鐵道作業局の終わりまでは一貫して「1」であり、1894(明治27年)年の分類ではE形、1898年(明治31年)の鐵道作業局の分類ではA1形となった。1906年(明治39年)の鐵道國有法施行を受けて1909年(明治42年)に実施された鐵道院の車輛稱號規程では、150形 (150) と定められた。
本機は、1911年(明治44年)4月1日付けで島原鐵道の開業用に譲渡され、同社の「1」となって客貨牽引に用いられた。同社では、正面の煙室戸にアメリカ製機関車のようなクランプ金具(クリート)が取付けられ、蒸気ドーム覆いは、円筒形の不細工なものに交換された。ドームと汽笛の間には同じく鉄道院から払い下げを受けた元九州鐵道のクラウス製蒸気機関車から流用されたと思われるドイツ風の砂箱が設置され、オリジナルでは側水槽の前方と踏段の裏側にあった角形の砂箱は撤去されている。
昭和の初めごろ、元鉄道記者の青木槐三が貴重な1号機関車として当時の鐵道省への返還・保存のための運動を始めた。その甲斐あって、1930年(昭和5年)、600形656号機との交換で鐵道省に戻ることになった。島原鐵道ではまだ十分に活用できると考えていたために、このような交換となったのである。同年7月3日、本機は諫早驛で盛大な惜別式を行ない、『送國宝一号機関車』と書かれた幟を飾って鐵道省に引き渡された。その際、創業者で時の社長・植木元太郎は、創業期に功績のあった機関車への感謝の念を込め『惜別感無量』と記した自筆のプレートをあつらえて、側水槽に装着させた。このプレートは現在でも本機に装着されている。

保存:
国鉄返還後大宮工場で整備され、工場内にあった「鐵道參考品陳列所」で仮展示されていたが、1936年(昭和11年)に東京・万世橋の交通博物館に移され、同館で静態保存された。一時期、5000形から取り外した蒸気ドーム覆いをつけていたこともあったが、現在は外されている。また、島原鐵道時代に取付けられた砂箱なども、取り外され原型に復している。塗色についても収蔵当初は黒色であったが、1971年(昭和46年)からは鉄道創業期を想定した緑地に黄色のライニングを施した塗色となり、1984年 (昭和59年) になって再び黒色とされている。交通博物館閉館後は、2007年(平成19年)10月14日、さいたま市大宮区に開館した鉄道博物館に展示されている。現在の塗装については「明治30年頃の姿を再現した」と説明板に記載がある。
本機は1958年(昭和33年)に第1回1号の鉄道記念物に指定され、1997年(平成9年)4月18日(*上記文化庁のデータベースとは日付が異なる)に**国の重要文化財(歴史資料)に指定されている(重要文化財指定名称は「一号機関車」)。
また、絵本『きかんしゃ やえもん』(阿川弘之文・岡部冬彦画)は、この機関車をモチーフにした物語である(火の粉による火災に業を煮やした沿線住民が蒸機の廃止と気動機化を要求、スクラップにされるため工場へ向けて電気機関車に牽引されていた「やえもん」が交通博物館学芸員の目に留まり保存へ、というシンデレラ・ストーリー型の話)。

**「重要文化財」とは、文化財保護法第27条に規定する国(文部大臣:現 文部科学大臣)が指定のもののみのことで、都道府県や市町村が指定するものは「〇〇県重要文化財」などと表記する。

本文は、以下の参考文献に元号表記や注釈を適宜加筆、1925年(昭和20年)以前に存在したものの(固有名詞の)漢字表記は旧漢字を使用している。ただし、独自の判断に基づき変更をしているため、必ずしも当時において旧漢字で表記されていたかは定かでない。


出典・参考:
Wikipedia「国鉄150形蒸気機関車」(2018.8.26閲覧)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E9%89%84150%E5%BD%A2%E8%92%B8%E6%B0%97%E6%A9%9F%E9%96%A2%E8%BB%8A

Wikipedia「重要文化財」(2018.8.26閲覧)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8D%E8%A6%81%E6%96%87%E5%8C%96%E8%B2%A1

写真:1号機関車 2017.10.17 鉄道博物館

初稿:2018.8.26
調整:2018.8.27 / 9.21

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# by fbox12 | 2018-09-21 10:14 | 近代化産業遺産