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fbox12 blog (博物館fbox12 館長の雑記帳)

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近11 肥薩線大隅横川駅

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指定:
登録有形文化財 2006年(平成18年)年10月

近代化産業遺産 2007年(平成19年)11月30日
近代化産業遺産群32.
九州南部における産業創出とこれを支えた電源開発・物資輸送の歩みを物語る近代化産業遺産群

整理番号:近11 物資輸送関連遺産・肥薩線(大隅横川駅)


by fbox12 | 2018-12-29 22:22 | 文化産業遺産

鉄4 ナデ6141号電動車

a0057057_21161681.png鉄道記念物

整理番号:鉄4
所在:鉄道博物館
 埼玉県さいたま市大宮区大成町三丁目47番

指定:重要文化財 2017年(平成29年)9月
   鉄道記念物 1972年(昭和47年)10月14日 指定第35号
基本情報:運用者 鐵道院→鐵道省
製造所 鐵道院新𣘺工場
製造番号
製造年 1913年(大正2年)~ 1914年(大正3年)
製造数 12両
運用開始
引退

特徴:
製造時にナデ6110形(6133 - 6144)と称したが、1914年(大正3年)8月29日付けでデハ6285形(6285 - 6296)に改称されている。
木製の両運転台式の制御電動車で、デハ6280形の増備として製造された。
車体は16m級の木製車体で、出入り台は両端部に設けられているが、幅が狭められ910mmとされ、従来のような折戸ではなく開き戸とされた。
また、デハ6280形と同様、車体中央部にも引戸式の客用扉が設置され、客室と直結されていたが、中央扉に圧搾空気で自動的に上下する踏段(ステップ)が設けられている。
運転台と出入り台は本形式から一応仕切りが設けられ、前面は左右に軽い後退角がついた三面折妻となり、前面中央部に貫通扉が設けられている。側面窓は下降式の一段窓となっており、窓配置は1D222D222D1。屋根は、出入り大部分を含めてモニター屋根とされ、製造当初から水雷形通風器が片側4個設けられた。車体幅は、車両限界の小さい中央線でも共通に使用できるよう、2500mm幅とされた。
台車は1913年(大正2年)度製の6両(6133 - 6138)は試験的に輸入した3種の台車(ブリル27GE-1、同27E、ボールドウィン84-35-A)が2両ずつ装備された。1914年(大正3年)製の6138 - 6144は釣合梁式の明治43年電車標準形であった。
制御装置は総括制御可能な間接式で、電動機は、6137, 6138はゼネラル・エレクトリック製のもの(70PS)、である。集電装置は、トロリーポールがモニター屋根の前後に2本ずつ装備されている。

新宿電車庫火災による廃車:
1916年(大正5年)11月24日、新宿電車庫が火災により焼失し、同庫に配属されていた電車20両が焼失した。本形式では、4両(6286, 6287, 6291, 6292)が被災し、同年11月23日付けで廃車されている。当時、電装品は輸入に頼らざるを得ず、貴重品であったことから、焼け残った電装品はデハ6380形新製の際に再用されている。

標準化改造:
標準化改造については、1920年(大正9年)8月から翌年3月にかけて、火災で廃車となった4両を除く8両に対して実施された。この際、前後の客用扉(開き戸)が引戸に改められ、中央扉の自動踏み段も撤去された。妻の三面折妻形状については、後退角がごくわずかであることもあって、折妻のまま存置された。

使用停止・譲渡:
本形式は8両が中央線・山手線で使用されたが、両線の昇圧に伴い1925年(大正14年)に使用停止され、7両を目黒蒲田電鉄に譲渡(うち3両は目蒲で使用せず、阪神急行電鉄に再譲渡)、1両(6296)は電装解除され、サハ6410形(26414)に編入された。
そのうちの6293 は、目黒蒲田電鐵デハ41 → 芝浦製作所専用線モハ41 → 鶴見臨港鐵道モハ202 → モハ142 → 鐵道省モハ142 → 日立電鐵モハ101(1948年) → モワ101 となったが、1972年(昭和47年)3月、廃車となった。
その後、当時の日本国有鉄道に引き取られ、日本の鉄道100年の記念事業として大井工場においてナデ6141に復元された。同車は、同年10月14日、鉄道記念物に指定されている。1987年(昭和62年)には東日本旅客鉄道に引き継がれ、同年8月には動態復元され、引き続き大井工場(東京総合車両センター)に保管されていたが、2007年(平成19年)10月、さいたま市大宮区に開館した鉄道博物館に移され、保存展示されている。その後、2017年(平成29年)9月に国の重要文化財に指定された。

出典・参考:Wikipedia「国鉄デハ6285形電車」(2018.12.28閲覧)に加筆
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E9%89%84%E3%83%87%E3%83%8F6285%E5%BD%A2%E9%9B%BB%E8%BB%8A

写真:ナデ6141号電動車 2017.10.17 鉄道博物館

初稿:2018.12.28

by fbox12 | 2018-12-29 22:01 | 文化産業遺産

近10 肥薩線人吉機関庫

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指定:近代化産業遺産 2007年(平成19年)11月30日
近代化産業遺産群32. 九州南部における産業創出とこれを支えた電源開発・物資輸送の歩みを物語る近代化産業遺産群

整理番号:近10 物資輸送関連遺産・肥薩線(人吉機関庫)

日本国内で現役唯一の石造車庫(旧 人吉機関区、後の人吉鉄道事業部・・2005年(平成17年)3月に熊本鉄道事業部へ統合)
by fbox12 | 2018-12-28 17:09 | 文化産業遺産

鉄2 開拓使号客車

a0057057_21322421.png鉄道記念物

整理番号:鉄2
所在:鉄道博物館
 埼玉県さいたま市大宮区大成町三丁目47番
指定:鉄道記念物
 1961年(昭和36年)指定第15号

基本情報:
運用者
 官営幌内鐵道→(民営化)北海道炭礦鐵道→(国有化)鐡道作業局→帝國鐵道廳→鐵道院→鐵道省

製造所 ハーラン・アンド・ホリングスワース(Harlan and Hollingsworth)(米)
製造番号
製造年
製造数 1両
運用開始 1880年(明治13年)
引退 1923年(大正12年)

特徴:
アメリカ式開放客室で、中央通路・デッキ・転換式クロスシートを持ち、飲料水タンク、洋式便所、ストーブがあるのも特徴である。曲線区間でも安定走行が可能なボギー車で、また当時最新技術の空気ブレーキが使用されている。車体は、台枠に至るまで木製で、台車にも一部木材が使用されている。
当時、本州ではネジ式鎖連結器であったが、開拓使号客車を含む幌内鐵道ではアメリカで実用化されたミラー式自動連結器が採用されている。

経歴:
幌内鐵道開業にあたって用意された8両の客車のうち、最上級の客車で、1両のみが存在した。番号はなく、「開拓使」がこの客車の名称であった。1881年(明治14年)8月に明治天皇が北海道へ行幸し、8月30日にお召し列車が運転された。その際御乗用となったのが本車である。
1889年(明治22年)の幌内鐵道民営化にともない、北海道炭礦鐵道に引き継がれたが、1906年(明治39年)に鉄道国有法により買収され、国有鉄道(当時は、鐡道作業局)に籍を移した。1911年(明治44年)に制定された鐵道院の称号規程により、5010形(コトク5010)に改められた。1923年(大正12年)、弁慶号機関車とともに、保存のため東京に送られ大井工場内の御料車庫に保管。1948年(昭和23年)、交通博物館へ移されて公開された。

保存:
1961年(昭和36年)に鉄道記念物に指定された。2007年(平成19年)から埼玉県さいたま市の鉄道博物館で保存・展示されている。
鉄道記念物に指定された当時は、表面は暗灰色に変色し、描かれた紋様も定かでないという状態で、更には無数のひび割れが発生するなど塗装表面の劣化が著しいものの、当時は現状を保って維持すべきとの意見が根強かったことから、ワニスの上塗りによって暫定的に塗装剥離を押さえていた。
1966年(昭和41年)、博物館明治村に貸与される5号・6号御料車に続いて復元工事が施行されることとなり、翌年3月完成した。

出典・参考:Wikipedia「開拓使号客車」(2018.12.17閲覧)に加筆
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%8B%E6%8B%93%E4%BD%BF%E5%8F%B7%E5%AE%A2%E8%BB%8A

写真:開拓使号客車 2017.10.17 鉄道博物館

初稿:2018.12.17

by fbox12 | 2018-12-18 22:08 | 文化産業遺産

近9 肥薩線真幸駅

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指定:近代化産業遺産 2007年(平成19年)11月30日
近代化産業遺産群32.九州南部における産業創出とこれを支えた電源開発・物資輸送の歩みを物語る近代化産業遺産群

整理番号:近9 物資輸送関連遺産・肥薩線(真幸駅)

by fbox12 | 2018-12-14 22:00 | 文化産業遺産

250 真幸駅 (JR九州)

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まさき

所在地:宮崎県えびの市大字内堅947
所属・路線:九州旅客旅客鉄道株式会社・肥薩線
キロ程:79.0km(八代起点)
電報略号/事務管コード:マサ/930217

概要:
宮崎県で最初にできた駅であり、肥薩線唯一の宮崎県内の駅である。
「真の幸せに入る」に通じるとして、入場券などで人気があるが、その名前に反して、当駅とその周辺路線は災難に見舞われており、以前は駅周辺にあった集落も、度重なる土石流災害により住民が移転し、現在は周辺の建物もまばらである。

歴史:
1945年(昭和20年)8月22日、多数の復員軍人を乗せた列車が吉松駅との間にある第二山の神トンネル内で立ち往生した。その原因は空襲攻撃により鹿児島本線や日豊本線の主要橋梁が落下して肥薩線が唯一の運転ルートだったことや、戦時中の酷使による機関車の疲弊、粗悪石炭使用による馬力不足に加えて、復員軍人で満員状態だったことなどである。蒸気機関車の煙に巻かれた多くの復員軍人達がトンネル内を歩いて脱出しようとしたところ、これを知らない機関士が列車を後退させ、53名が轢死した。この事故は観光列車「いさぶろう」「しんぺい」車内でも説明される。なお、この事故があったあたりに復員軍人殉難碑が建っている。
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1972年(昭和47年)7月6日、昭和47年7月豪雨の影響で駅の裏山斜面が8合目付近から高さ350m×幅280mにわたって崩壊し、これが土石流となって真幸駅構内と周囲の集落を飲み込み死者4名、負傷者5名のほか住家28棟、非住家29棟流失の被害を出した。14時15分頃から5回にわたって発生した土石流の土砂は合わせて約30万m3もの膨大な量に及び、肥薩線を切断し、当駅構内を土砂で埋め尽くすと共に、白川沿いに約1.5kmの広範囲に渡って流出した。線路と駅は復旧されたものの住居に被害を受けた世帯全戸が移転したために当駅周辺はほぼ無人地帯となった。なお、この土石流は現在においても宮崎県最大規模のものとされている。ホームには、このとき流れ込んだ重さ約8トンの巨石がそのまま残されている(上右写真)ほか、有人駅時代は駅員が流れ込んだ土砂を毎日整地していた(無人駅となった現在は接着剤で固められている)。
2000年3月12日のダイヤ改正で熊本と宮崎を結んでいた急行「えびの」が廃止されるまで、急行停車駅であった。

1911年(明治44年)3月11日 - 客扱をせず仮営業として内閣鐵道院が開設。
 5月11日 - 本営業開始。
1927年(昭和2年)10月17日 - 川内本線全通に伴い肥薩線所属駅に変更。
1945年(昭和20年)8月22日 - 「肥薩線列車退行事故」発生。
1972年(昭和47年)7月6日 - 土石流災害により軌道と駅舎他の運行設備を損傷。
1986年(昭和61年)11月1日 - 電子閉塞導入により無人化。
1987年(昭和62年)4月1日 - 国鉄分割民営化により九州旅客鉄道が継承。
2007年(平成19年)11月30日 - 南九州近代化産業遺産群の物資輸送関連遺産の1つとして選ばれる。

駅構造:
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島式ホーム1面2線を有する地上駅。肥薩線の山線と呼ばれる険しい区間にあり、通過不可能な逆Z字型のスイッチバック構造(タイトル写真や上右写真に見える列車の屋根あたりが人吉方面からの線路)で、かつて運転されていた優等列車も必ず停車しなければならず、急行列車は客扱いを行っていたが、特急は運転停車であった。
駅舎は開設当初のものである。ホームの中程に「幸福の鐘」が置かれている。幸せと感じる度合いに応じて鳴らすのが良いとされている。(タイトル写真、三角屋根の下)
地域のボランティアが駅ノートを設置し、特産品やお茶のサービスなどを行っている。また、ボランティアがいる時間帯では記念入場券を購入することができる。(通常は無人ため吉松駅で発売)


出典・参考:Wikipedia「真幸駅」(最終更新 2018年11月11日)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%9F%E5%B9%B8%E9%A7%85
閲覧:2018.12.11

現地取材:2018.3.14
記事投稿:2018.12.11

by fbox12 | 2018-12-11 21:50 | 鉄道・バス