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第佰貮拾四 鹽竈神社 宮城県塩竈市鎮座

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a0057057_18582163.pnga0057057_18582214.pngしおがまじんじゃ

鎮座地:宮城県塩釜市一森山1番1号

主祭神:
志波彦神社
 志波彦神
鹽竈神社
 塩土老翁神(別宮:下拝殿写真)
 武甕槌神(左宮:上拝殿写真)
 経津主神(右宮:上拝殿写真)


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社格等:
志波彦神社
 式内社(名神大)
鹽竈神社
 式外社 陸奥國一宮
両社共通
 旧国幣中社、神社本庁別表神社
本殿の様式:流造

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概要:
鹽竈神社は、志波彦神社(しわひこじんじゃ)と同一境内に鎮座する神社で、全国にある鹽竈(鹽竃・塩竈・塩竃・塩釜・塩釡)神社の総本社である。神紋は「塩竈桜」。
元は当地に鹽竈神社のみが鎮座していたが、明治時代に志波彦神社が境内に遷座し、現在は正式名称を「志波彦神社・鹽竈神社」とし1つの法人となっている。
鹽竈神社境内には、国の天然記念物に指定されている塩竈桜(シオガマザクラ)があり、毎年当地の報道で取り上げられている。また塩竈みなと祭の際には、鹽竈神社が祭りの出発点となり、志波彦神社・鹽竈神社の神輿が塩竈市内を練り歩き、御座船を始め約100隻の船を従えて松島湾を巡幸する。
東北開拓の守護神であり、多くの初詣客が集まることでも知られ
            る。秋には大規模な菊花展が開催される。
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神社の漢字表記についてはいくつか存在するが、
 タイトルのものは「鹽竈神社」が使用しているもの。
 歴史的な表記は「鹽竃神社」。
 市名の正式表記と同じ「塩竈神社」は、主に報道機関が使用しているものだが、Google 等の検索語「塩釜神社」は誤用である。
(この項の表示は、Windows10 を基準にしているため、システムによっては表示が異なる場合がある)。

a0057057_16550923.png祭神の塩土老翁神は謎の多い神であるが、海や塩の神格化と考えられている。神武天皇や山幸彦を導いたことから、航海安全・交通安全の神徳を持つものとしても見られる。また安産祈願の神でもある。武甕槌神と経津主神は東北を平定するために派遣された朝廷の神。

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歴史:
a0057057_16355213.png創建から中世鹽竈神社は、武甕槌命・経津主神が東北を平定した際に両神を先導した塩土老翁神がこの地に留まり、現地の人々に製塩を教えたことに始まると伝えられる。
弘仁11年(820年)に撰進された『弘仁式』の『主税式』では「鹽竈神を祭る料壹萬束」と記載され、祭祀料10,000束を国家から受けており、これが正史における鹽竈神社の初見と言われている。
さらに延長5年(927年)の『延喜式』の『主税式』においても祭祀料10,000束を国家正税から受けている。『延喜主税式』によれば当時の陸奥國の税収は603,000束、鹽竈神社の他に国家から祭祀料を受けていた3社の祭祀料は、それぞれ伊豆國三嶋社2,000束、出羽國月山大物忌社2,000束、淡路國大和大國魂社800束であった。
これらと比較しても国家から特別の扱いを受けていたのは明白であるが、同式の神名帳に鹽竈神社の記載は無い。また、近世に至るまで神階昇叙の記録も無く、式外社となったことと併せて朝廷が一見矛盾するような扱いをなぜしたのか、その理由はわかっていない。
宇多天皇の御代、仁和4年(888年)に一代一度の奉幣として大神宝使を遣わすこととしたが、鹽竈神社へは寛仁元年(1017年)後一条天皇即位の際に遣わされている。
『朝野群載 巻第6』に所収の「式外神社進合御卜證文」には、白河天皇御代に勅命を受け卜った式外社の記述があるが、その中に「近則去延久二年十二月御卜。坐越後國春日布河兩社。坐陸奥國清竈鳥海二社。同六年六月御卜。坐陸奥國浮嶋鹽竈鳥海三箇社。」の一文がある。「清竈」が「鹽竈」の誤字であるとすれば、勅命により御卜を受けた数少ない式外社の中でも、鹽竈神社は延久2年(1070年)12月と延久6年(1074年)6月の2回御卜を受けたことになる。

中世
中世においては歴代の領主から崇敬された。前九年の役および後三年の役を経て藤原清衡が陸奥押領使に任ぜられると、陸奥國の支配権は奥州藤原氏のものとなった。文治2年(1186年)4月28日付けの竹城保司あて所職安堵の下文や文治3年(1187年)に和泉三郎忠衝より奉納された鉄燈は、鹽竈神社に対し奥州藤原氏が影響力と崇敬をよせていたことを窺わせている。また、奥州藤原氏が文治5年(1189年)に滅亡した後、鎌倉幕府が竹城保司に臨時祭料田を設定するよう命じた建久4年(1193年)3月7日付けの文書には「一宮塩竈社」の記述があり、鎌倉幕府から鹽竈神社が一宮と認識されていたことがわかる。
加えて、文治6年(1190年)に奥州下向の将兵に鹽竈以下の神領において狼藉をしないよう命令が出されていることからも、鎌倉幕府が鹽竈神社を重く見ていたことが覗える。
文治6年(1190年)伊澤家景が源頼朝から陸奥留守職に任じられ、伊沢家景の子である家元の代より伊澤氏は「留守」姓を名乗るようになる。以後は留守氏が管理権を掌握し、神社の宮人を自らの家臣団として編成した。留守氏はまた塩竈神宮寺も支配した。神宮寺(別当寺)とは神社を管理する寺院である。戦国時代の末に別当寺は法蓮寺に変わり、江戸時代も当社の別当であった。
14世紀の南北朝内乱期に入ると、東北地方においても南朝方と北朝方に分かれて合戦が行われるようになり、多賀國府の政治的求心力は低下した。これにより、留守氏も陸奥一国に対する行政権を失っていく。それに代わり陸奥國の武士の統率者となったのは、室町幕府から派遣された奥州管領であった。奥州管領達も鹽竈神社に崇敬をよせ、斯波家兼が文和3年(南朝の元号では正平9年、1354年)に祈願状を奉納、斯波直持は文和5年(南朝の元号では正平11年、1356年)に鹽竈神社の仮殿造営と馬一疋の奉加を行うと共に祈願状を奉納している。同じく奥州管領の𠮷良貞経が延文5年(南朝の元号では正平15年、1360年)に鳥居造立、社頭造営、釜一口奉鋳、神馬奉引、大般若一部読踊、心経十万部読踊、御神樂勤仕などの立願を行い、さらに竹城保を寄進している。
応安8年(南朝の元号では天授元年、1375年)以前に編纂されたとされる卜部宿禰奥書の『諸國一宮神名帳』には、陸奥國の一宮は「鹽竈大明神」と記されている。
しかし、その後の室町期に編纂されたとする『大日本國一宮記』では陸奥國一宮は都都古和氣神社とされた。この後、近世においては主に大日本國一宮記が参照されたことから、鹽竈神社は「近世以降の一宮」との認識が持たれることがあった。
しかしながら、江戸時代初期の神道者・橘三喜が全国の一宮を参拝した際は、『大日本國一宮記』の類本である『𠮷田一宮記』と『豊葦原一宮記』を携帯して諸国を巡ったが、延宝6年(1678年)に鹽竈神社を訪れている。

近世
近世に入り仙台藩伊達家がよせた崇敬は特に厚く、伊達氏が当地を治めた江戸時代以降から明治時代に至るまで、歴代仙台藩主は「大神主」として祭事を司ると共に社領・太刀・神馬などを寄進した。初代藩主政宗は岩出山から仙台に居城を移すと、領内寺社の整備に取り掛かる。鹽竈神社へは元和5年(1619年)に社領24貫336文を寄進、慶長12年(1607年)に社殿造営を行った。 二代藩主忠宗は寛永13年(1636年)に鐘楼を再興し、1664年(寛文4年)には拝殿、さらに慶安3年(1650年)には長床を修造している。 三代藩主綱宗は伊達騒動で万治3年(1660年)に家督を子の綱村に譲っていたが、寛文3年(1663年)に大幅な社殿造り変えを行うと共に社領7貫584文を寄進している。歴代藩主中で最も厚い崇敬を寄せた四代藩主綱村は、まず貞享2年(1685年)に塩竈の租税免除・市場開催許可・港湾整備を行って同地を手厚く遇した。貞享4年(1687年)には𠮷田家に神階昇叙を依頼し、鹽竈神社に正一位が昇叙されている。さらに元禄6年(1693年)には神祇管領𠮷田兼連をして鹽竈社縁起を編纂させ、それまで諸説あった祭神を確定させた。
元禄8年(1695年)に社殿の造営計画を立てて工事に着手し、9年後五代藩主𠮷村の宝永元年(1704年)に竣工している。この時造営されたものが現在の社殿である。宝永期以降は20年に一度の式年遷宮の制度が設けられ現在に至っている。 また、五代藩主𠮷村も1704年(宝永元年)の社殿竣工成就を記念して社領55貫文を寄進している。

明治以降の志波彦神社、鹽竈神社
1871年(明治4年)に志波彦神社が國幣中社に列格、1874年(明治7年)12月に志波彦神社が別宮本殿に遷宮されると同時に鹽竈神社が國幣中社に列格した。その後、1934年(昭和9年)から1938年(昭和13年)に志波彦神社が国費をもって社殿新築、1938年(昭和13年)から1942年(昭和17年)には鹽竈神社が国費による修築を行った。第2次世界大戦後に旧社格が廃止されると、当社は神社本庁が包括する別表神社となった。また前述のように、20年に一度の式年遷宮が現在に至るまで行われている。

摂末社:
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境内末社以下の4社は、楼門を入って左手に朱塗木造銅板葺屋根の雨覆を掛けられ並んで鎮座している。明治維新前後に書かれたと言われる『鹽竈社神籍』では社内摂社であるとしている。

写真:
左から、稲荷神社、住吉神社、八幡神社、神明社

参考:
志波彦神社・鹽竈神社 公式サイト
http://www.shiogamajinja.jp/
閲覧:30.6.16
Wikipedia「鹽竈神社」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B9%BD%E7%AB%88%E7%A5%9E%E7%A4%BE
閲覧:30.6.15

現地取材:29.6.27
記事投稿:30.6.15
  調整:30.6.16/30.6.17

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by fbox12 | 2018-06-17 21:21 | 神社

アリナミンR

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販売名:
品名:指定医薬部外品
原材料:フルスルチアミン塩酸塩(ビタミンB1誘導体)・リボフラビン・ピリドキシン塩酸塩・L-バリン・L-ロイシン・L-イソロイシン・カルニチン塩化物他添加物

容量:80m
l製造販売元:
 武田薬品工業株式会社(大阪市中央区道修町四丁目1番1号)

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by fbox12 | 2018-06-15 23:08 | コレクション

274 吹浦駅 (JR東日本)

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a0057057_21261723.pngふくら

所在地:山形県飽海郡遊佐町吹浦字上川原45
所属・路線:東日本旅客鉄道株式会社(JR東日本)・羽越本線
キロ程:186.1km(新津起点)
電報略号/事務管コード:フラ/ 220304
駅形態:無人駅

概要:
羽後本荘駅管理の無人駅。2008(平成20)年3月までは簡易委託駅でPOS端末が設置されていた。
当駅を始発・終点とする列車が酒田駅との間で1日3往復運行されている。快速「きらきらうえつ」が停車する。
駅前には当地出身の初代鉄道助である佐藤政養の銅像がある。(タイトル写真)
出羽國一宮、鳥海山大物忌神社吹浦口之宮の最寄駅である。

歴史:
1920(大正9)年7月20日 - 開業
1981(昭和56)年10月15日 - 簡易委託化
1987(昭和62)年4月1日 - 国鉄分割民営化によりJR東日本の駅となる。
2008(平成20)年4月1日 - 簡易委託取扱廃止。無人化
2010(平成22)年4月1日 - 象潟駅から羽後本荘駅に管理駅が変更となる。

駅構造:
単式ホーム1面1線と島式ホーム1面2線、計2面3線のホームを有する地上駅。互いのホームは跨線橋で連絡している。

のりば:
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1番線 羽越本線 上り 酒田・鶴岡方面
2番線 羽越本線 (待避線)
3番線 羽越本線 下り 象潟・羽後本荘・秋田方面


出典参考:Wikipedia「吹浦駅」(最終更新:2018年5月5日)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%B9%E6%B5%A6%E9%A7%85

現地取材:2017.6.26
記事投稿:2018.6.10

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by fbox12 | 2018-06-10 22:34 | 鉄道・バス

リポビタンD プロ野球球団ボトル(2018)

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by fbox12 | 2018-06-07 22:01 | コレクション

1015 大三島バスストップ

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おおみしま

所在地:愛媛県今治市上浦町甘崎
所属・路線:国道317号線に近接

概要:
西瀬戸自動車道(通称:しまなみ海道)で、四国側最終のインターチェンジである「大三島IC」の料金所外に設けられているバス停留所で、停車するバスはいったん料金所を出て客扱いを行う形になる。
このバスストップは一般路線も停車する。

停車する路線:
a0057057_22163712.pngしまなみライナー
(広交観光・瀬戸内運輸・瀬戸内しまなみリーディング)
 広島 - 今治
しまなみライナー
(中国バス・鞆鉄道・瀬戸内運輸・瀬戸内しまなみリーディング)
 福山 - 今治(上右写真)
しまなみサイクルエクスプレス(おのみちバス)
 尾道 - 今治
(特急)松山 - 今治 - 大三島線(瀬戸内運輸)
 大三島 - 今治 - 松山(以下も含め上左写真及び右写真)
(急行)今治 - 大三島線(瀬戸内海交通)
 大三島 - 今治
大三島島内一般路線(瀬戸内海交通)
 宮浦港 - 井口港 - 大三島BS - 瀬戸 - 出走

出典参考:Wikipedia「大三島インターチェンジ」(最終更新:2018年1月31日)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E4%B8%89%E5%B3%B6%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%81%E3%82%A7%E3%83%B3%E3%82%B8
閲覧:2018.6.-4

現地取材:2017.3.15
記事投稿:2018.6.-7

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by fbox12 | 2018-06-07 21:42 | 鉄道・バス

269 水沢江刺駅 (JR東日本)

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a0057057_18130615.pngみずさわえさし

所在地:
岩手県奥州市水沢羽田町駅前一丁目185
所属・路線:
東日本旅客鉄道株式会社・東北新幹線
キロ程:470.1km(東京起点:営業キロ)
電報略号:ミエ
駅形態:
直営駅(管理駅)、みどりの窓口有り

概要:
水田中心の地帯に、急遽建設された水沢江刺駅とその周辺には、ビジネスホテル等宿泊施設が存在しない。ゆえに駅利用客の多くが、商都として発展してきた水沢駅周辺にある宿泊施設を利用する。なお、当駅と水沢駅とは車で15分ほどかかり、徒歩での乗り換えは不適である。
駅前には後藤新平像が立っている。これは1950年代に水沢出身の歴史的人物、後藤新平、斎藤實、高野長英の3人を顕彰する公園を駅東側にある羽黒山出羽神社(出羽三山の神社とは別)境内に造る構想があり、その最初として1960年(昭和35年)に建立されたものである。しかし資金難により構想は挫折。結果として残る2人の像は作られることもなく、後藤新平像も神社の境内にそのままにされていた。後藤新平生誕150周年である2007年(平成19年)に水沢江刺駅前に移す運動が地元を中心に起こり、「後藤新平銅像移転推進会」が結成された。同年11月に募金などを基にして移転・除幕式が行われた。
像は、後藤新平がボーイスカウト日本連盟の前身である少年団日本連盟初代総裁であったことから、ボーイスカウトの制服を着用している。台座は移転に際して新製され、後藤のモットーである「自治三訣」の言葉「人の御世話にならぬよう 人の御世話をするよう そしてむくいをもとめぬよう」(原文旧仮名遣い)が刻まれている。

歴史:
東北新幹線の開通時点では水沢江刺駅は未設置であったが、東北新幹線の建設計画が持ち上がった時から地元では駅設置の住民運動を実施し、都市計画を行って土地買収を進め、日本国有鉄道(国鉄)総裁に対して請願を行っていた。
1982年(昭和57年)6月および7月の国鉄役員会において、同時期に請願を行っていた新花巻駅とともに、新駅設置に関する基本要件が決定され、これを受けて1983年(昭和58年)1月5日に盛岡鉄道管理局長から具体的な設置条件が示された。その条件は、当面建設する相対式ホーム2面2線の駅の工事費約50億円を地元負担とすること、用地を無償譲渡すること、将来的に待避線を備えた2面4線への拡張を想定して用地を確保し、4線化の工事の際には用地の無償譲渡に応じること、そして駅前広場と関連道路を地元で整備することであった。
水沢市は条件了解の返答を同年10月17日に行った。また地方財政再建促進特別措置法で自治体の国鉄への寄附行為が原則として禁じられていたが、全国新幹線鉄道整備法が同年10月14日に改正されたことで寄附行為が可能となって、駅の整備ができることになった。
これを受けて11月1日に盛岡鉄道管理局長から本社旅客局長あてに駅設置上申が行われ、11月21日に設置承認を受けた。11月17日には水沢市議会で債務負担行為議決が行われ、11月22日に国鉄と水沢市の間で基本協定が締結された。11月30日に工事実施計画の変更申請が運輸大臣に提出され、12月12日に認可を受けた。
国鉄と水沢市の間の工事協定は12月19日に締結され、1984年(昭和59年)1月10日に着工となった。
東北新幹線の設計時点からこの位置に駅を建設することは想定されており、後から2面4線の駅を設置できるよう、高架橋の既設横はりの鉄筋は増設部の鉄筋と圧接できるよう配慮されていた。
この背景には将来新幹線が北海道まで延伸された際夜行運転を行う事が構想されており、運転整理上水沢市内に駅を儲ける事が必要とされた。
駅の構造は開業当時からの設置駅のような通過線を持たない2面2線の構造となっている。設置承認は2面2線16両対応であったが、当面2面2線12両対応として工事を行うことになった。
既設高架橋の両側に直接基礎一柱式RCラーメン高架橋を新設して上屋とホームを支持し、耐雪形の覆いを全体に被せる構造とした。
工事期間中は安全のために列車は工事区間を110 km/hで徐行を行い、また鉄骨を建てたり屋根を建設したりする工事は夜間に線路閉鎖と饋電停止を行った上で施工した。
プラットホームは310メートルの有効長とされ、乗客が少ないと見込まれたことから新幹線鉄道構造規則で定める相対式ホームにおける最小幅員5メートルより狭い幅4.5メートルを採用して、そのための特別承認を得た。
1985年(昭和60年)2月12日に工事が完成し、3月14日に東北新幹線の上野 - 大宮間開業とともに開設された。16両対応での想定工事費は49億8000万円であったが、12両対応にしたことで地元との協定額は43億9000万円となり、さらにその後の工事費の縮減により、最終的な工事費は35億8200万円となった。
水沢市では、3分の1を岩手県からの工事補助金で賄ったほか、地元住民協力金、周辺市町村協力金、積立金の取り崩しなどでこの額を負担した。

年表:
1984年(昭和59年)1月10日:着工。
1985年(昭和60年)2月12日:工事完了。
 3月14日:開業。
1987年(昭和62年)4月1日:国鉄分割民営化によりJR東日本の駅になる。
2007年(平成19年)11月:駅前に後藤新平像を設置。

駅名について:
当初は新水沢駅の予定であった。しかし、駅のすぐ北側に水沢市(現在の奥州市水沢)と江刺市(現在の同市江刺)との境界線が走っており、江刺市から「鉄道の無い江刺市のために、江刺の名前を入れて欲しい」という要望があった。
工事費負担の割合が多い水沢市側はこれに猛反発(当時の河北新報の見出しには「『江刺は余計』怒る水沢」と書かれていた)江刺市を含んだ周辺町村も巻き込む事態に発展したが最終的に水沢江刺駅に変更された。

市町村合併に伴う改名の動き:
2006年(平成18年)の市町村合併(水沢市・江刺市・前沢町・胆沢町・衣川村が合併し奥州市)にともない、駅名を「水沢江刺」から「奥州平泉」に変更しようとの声が、行政を主体として起こっている。
これに対しJR東日本からは現在のところ、否定的な見解が出ている模様である(改称に伴う費用は原則地元負担)。

駅構造:
相対式ホーム2面2線を有する高架駅である。
通過線が無いため、ホームには可動式安全柵が装備されている。フル規格10両+ミニ新幹線規格7両の17両編成対応。
直営駅(駅長配置)。管理駅でもあるが、当駅は自駅のみの単駅管理となっている。
みどりの窓口(営業時間 6:10 - 23:10 ※途中休止時間帯あり)、指定席券売機2台(営業時間 5:40 - 23:10)、ジャスター売店、立ち食いそば屋設置。
駅舎は、広大な大地と豊富な水系を背景に、水沢地方の景観の特色である瓦屋根に白壁を配置した、落ち着いた牧歌的な雰囲気を表現したものとなっている。
1階の外壁の色は煉瓦色を採用している。鋳物の町に建設されたことから、コンコースの天井などには地元の鋳物製品を採用しており、重厚で素朴なデザインとなっている。
駅務室は少人数でも業務を行いやすいワンルーム方式で、出札・改札・精算を兼ねるラッチが設けられている。
駅の両側に出られる構造で、待合室は特に設置されなかった。
駅本屋の総床面積は1,175平方メートルである。駅構内には、南岩手交流プラザがあり、岩手県南部の観光物産品などが展示されている。

のりば:
1番ホーム 東北・秋田・北海道新幹線 下り 盛岡・秋田・新函館北斗方面(タイトル写真:車両が入線している側)
2番ホーム 東北・秋田・北海道新幹線 上り 仙台・東京方面

出典参考:Wikipedia「水沢江刺駅」(最終更新 2018年5月4日)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B4%E6%B2%A2%E6%B1%9F%E5%88%BA%E9%A7%85
閲覧:2018.5.23

現地取材:2017.6.25
記事投稿:2018.6.-4

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by fbox12 | 2018-06-04 22:01 | 鉄道・バス

272 土佐一宮駅 (JR四国)

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とさいっく

所在地:高知県高知市一宮徳谷1-8
所属・路線:四国旅客鉄道株式会社(JR四国)・土讃線
駅番号:D43
電報略号/事務管コード:イツ/ 702329
駅形態:無人駅

概要:
後免駅から乗り入れる土佐くろしお鉄道阿佐線(愛称:ごめん・なはり線)の列車も停車する。

歴史:
1925年(大正14年)12月5日 - 開業。
1970年(昭和45年)10月1日 - 無人駅化(簡易委託駅化)。
1987年(昭和62年)4月1日 - 国鉄分割民営化により、JR四国の駅となる。

駅構造:
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単式ホーム2面2線が変則的に配置された地上駅。駅舎側の1番線の線路は2つのホームに挟まれているが、2番線側は柵が配置されている。これとは別にもう1本線路(3番線)があるがホームはなく、主に高知運転所への回送列車待機用(車両基地はこの駅の構内扱い)として使用されている。(タイトル写真に回送列車が見える)。
ホーム間は跨線橋で連絡する。
コンクリート作りの簡易駅舎を持つ無人駅。

のりば:
1・2番のりば 土讃線下り 高知・須崎方面
          上り 土佐山田・阿波池田方面(一部列車はごめん・なはり線安芸方面へ直通)

駅舎反対側の2番線を本線とした一線スルーではあるが、乗客が跨線橋を渡らずに済むよう、停車列車は本来副本線である駅舎側の1番線を優先的に使用する。2番線は行き違いや特急の通過に使われている。当駅では、特急列車同士の行き違いも行われている。一方の特急列車を回送列車待機用の線路(3番線)に運転停車させ、対向の特急列車を通過させるという方法で行われる。

出典参考:Wikipedia「土佐一宮駅」(最終更新:2018年5月5日)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%9F%E4%BD%90%E4%B8%80%E5%AE%AE%E9%A7%85
閲覧:2018.6.-2

現地取材:2017.3.14
記事投稿:2018.6.-2

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by fbox12 | 2018-06-02 22:19 | 鉄道・バス

新グロモント A

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ミニチュアボトルコレクション D-006

販売名:新グロモントA
品名:指定医薬部外品

原材料:
グルクロノラクトン・ビタミンB1硝酸塩・ビタミンB2リン酸エステル・ビタミンB6・ニコチン酸アミド・イノシトール・カルニチン塩化物・無水カフェイン・リュウガンニクエキス・ジクロロ酢酸ジイソプロピルアミン他添加物
容量:100ml

販売元:ライオン株式会社(東京都墨田区本所1-3ー7)

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by fbox12 | 2018-06-01 22:09 | コレクション