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267 JR難波駅 (JR西日本)

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所在地:大阪府大阪市湊町一丁目4-1
所属・路線:西日本旅客鉄道株式会社(JR西日本)・関西本線(大和路線)
キロ程:174.9km(名古屋起点)
電報略号/事務管コード:ナハ/620833
駅番号:JR-Q17
乗換:南海・Osaka Metro(難波駅)/近鉄・阪神(大阪難波駅)
駅形態:直営駅、みどりの窓口 有、[阪]大阪市内駅

概要:
大阪ミナミの繁華街に含まれる難波に位置し、大阪市高速電気軌道(Osaka Metro)の難波駅、近畿日本鉄道(近鉄)・阪神電気鉄道(阪神)の大阪難波駅にも近接している。南海電気鉄道(南海)の難波駅、Osaka Metro の日本橋駅ともなんばウォーク(地下街)を介して結ばれているが、ある程度距離がある。
かつては関西本線の始発駅として、東京・名古屋・伊勢方面の優等列車が当駅始発で運転されていたが、東海道新幹線や東海道本線経由の優等列車および近鉄特急と競合した結果、1973(昭和48)年に全廃された。以後、当駅発着の列車で加茂駅より先に直通する列車の設定はない。
また、駅がある大阪シティエアターミナル (OCAT) の2階には「湊町バスターミナル」(呼称は乗り入れ各社により異なる)があり、関西国際空港や大阪国際空港行きのリムジンバスや、日本各地への高速バスが発着している。

駅名の由来:
駅開業の1889(明治22)年から1994(平成6)年まで湊町駅(みなとまちえき)と称しており、道頓堀川八丁のひとつである道頓堀湊町(駅開業時は大阪市南区湊町)に開業したことによる。ただし、当時の湊町の範囲は道頓堀川に面した狭小なもので、西成郡難波村(のち大阪市に編入され、難波東円手町)にもまたがっていた(現在の湊町の範囲は1980(昭和55)年に拡大されたものである)。
1989(平成元)年の駅移転によって、元来の湊町から完全に離れて難波側にのみ位置するようになり、地下駅化して難波駅や近鉄難波駅と連絡する計画もあったため、1994(平成6)年9月4日の関西国際空港開港と同日にJR難波駅に改称された。なお、正式駅名として「JR」を冠したのはJRグループ各社を通して初めてで、駅名にアルファベットが入ったのも日本では初めてである。これ以降、JR西日本のアーバンネットワークエリアの新駅には「JR」を冠する駅名が多数登場するようになった。

歴史:
1889(明治22)5月14日 - 大阪鐵道の湊町驛(みなとまちえき、一般駅)として開業し、同社の創業路線である湊町驛 - 柏原驛間の起点となる。
1900(明治33)年6月6日 - 大阪鐵道の路線を関西鐵道が承継し、同社の駅となる。
1907(明治40)年10月1日 - 国有化により国有鉄道(当時は帝國鐵道廳)の駅となる。
1909(明治42)年10月12日 - 線路名称制定により、関西本線所属となる。
1973(昭和48)年9月20日 - 関西本線湊町駅 - 奈良駅間の電化が完成し、10月1日までに当駅発着の全ての定期旅客列車が電車による運転となる。それに伴い、9月30日をもって急行「かすが」の始発駅が奈良駅に変更され、当駅発着の優等列車が消滅する。
1985(昭和60)年3月14日 - 貨物の営業が廃止され、旅客駅となる。
1987(和62)年4月1日 - 国鉄分割民営化により西日本旅客鉄道(JR西日本)の駅となる。
1988(昭和63)年3月13日 - 路線愛称の制定により、関西本線の当駅 - 加茂駅間で「大和路線」の愛称を使用開始。
1989(平成元)年12月28日 - 南西へ約100m移転する。元の駅舎があったところは、北方を迂回していた千日前通を西へ直進させ、元の千日前通と駅舎跡の一部に湊町リバープレイスが2002(平成12)年7月16日に開業した。
1994(平成6)年9月4日 - JR難波駅に改称する。これにより、JR各社では初めて「JR」を冠した駅となる。関西国際空港へのアクセス列車として、阪和線・関西空港線へ直通する関空快速の運行を開始する。
1996(平成8)年3月22日 - 連続立体交差事業により、JR西日本では初の地下駅となる。
2003(平成15)年11月1日 - ICカード「ICOCA」の利用が可能となる。
2008(平成20)年3月15日 - ダイヤ改正に伴い、当駅を発着する関空快速の運用が廃止される。関空快速は大阪方面へ直通するようになる。
2009(平成21)年10月4日 - 大阪環状・大和路線運行管理システム導入。
2015(平成27)年5月9日 - 南海難波駅付近で不発弾処理を行った影響で南海本線・南海高野線の一部区間が運休。これに伴って阪和線鳳駅始発当駅行きの臨時快速電車が3本運転され、2008(平成20)年以来7年ぶりに223系が、また旅客電車では初めて225系が8両編成で入線した。
2018(平成30)年3月17日 - 駅ナンバリングが導入され、使用を開始。

駅構造:
新今宮駅が管理する直営駅で、JRの特定都区市内制度における「大阪市内」に属している。ICカード乗車券「ICOCA」の利用も可能である。今宮駅から続いた地下線の「なにわトンネル」による島式ホーム2面4線を持ち、大阪シティエアターミナル (OCAT) の真下にある地下駅である。架線は剛体架線である。終着駅ではあるが頭端式ホームではなく、将来のなにわ筋線延伸を見越して通過構造となっている(タイトル写真、車止めの先になにわ筋線への接続準備がされている)ほか、1番のりばと4番のりばの奥に引き上げ線がある。有効長は8両編成分だが、使用していない部分も含めると10両編成分ある。

のりば:
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ホームは主に、1・2番のりばには普通電車が、3・4番のりばには快速電車がそれぞれ発着する。1994(平成6)年9月4日~2008(平成20)年3月14日の間は関空快速(当駅~関西空港駅間)が昼間1時間に1本発着していた。
1~4番のりば 大和路線 天王寺・王寺・奈良・加茂方面
(写真:3番のりば)


参考資料:Wikipedia「JR難波駅」(最終更新:2018年5月5日)https://ja.wikipedia.org/wiki/JR%E9%9B%A3%E6%B3%A2%E9%A7%85(閲覧:2018.5.14)

現地取材:2017.6.28
記事投稿:2018.5.14

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by fbox12 | 2018-05-14 22:43 | 鉄道・バス

第佰貮拾貮 鳥海山大物忌神社 山形県飽海郡遊佐町鎮座

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ちょうかいさんおおものいみ じんじゃ

鎮座地:山形県飽海郡遊佐町に3宮
主祭神:大物忌大神
神体:鳥海山(神体山)
社格等:式内社(名神大)、出羽國一宮、旧國幣中社、神社本庁別表神社
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概要:
鳥海山頂の本社と、麓の吹浦(ふくら)と蕨岡(わらびおか)の2か所の口之宮(里宮)の総称として大物忌神社と称する(上記写真は朱印を含めすべて吹浦口之宮)。出羽富士、鳥海富士とも呼ばれる鳥海山を神体山とする。
当社は鳥海山の山岳信仰の中心を担ってきており、平成20年(2008年)3月28日に神社境内が国の史跡へ指定されている。
祭神大物忌大神主祭神。記紀には登場しない神で、謎が多い。『神祗志料』や『大日本國壱宮記』では、大物忌大神と倉稻魂命が同一視されている。
豐受姫命月読命 - 吹浦口之宮で祀られている。鳥海山は、古代には国家の守護神として、また古代末期からは出羽國における山岳信仰の中心として現在の山形県庄内地方や秋田県由利郡および横a0057057_11451350.png手盆地の諸地域など周辺一帯の崇敬を集め、特に近世以降は農耕神として信仰されてきた。

歴史:
創建に関する諸説景行天皇または欽明天皇時代の創建と伝えられるが、諸説があり、山頂社殿が噴火焼失と再建を繰り返しているための勧請も絡んでいて、創建時期の特定は困難である。
鳥海山の登山口は、主要なものだけで矢島、小滝、吹浦、蕨岡の4ヶ所があり、各登山口ごとに異なる伝承が伝わるうえに、登山口ごとに信徒が一定の勢力を構成して、互いに反目競争することも多かったため、それらの伝承が歪められることも多く、定説をみない状況である。
吹浦の伝承吹浦の社については、元禄16年(1703年)に芹沢貞運a0057057_16011482.pngが記した『大物忌小物忌縁起』において、景行天皇のとき出羽國に神が現れ、欽明天皇25年 (564年) に飽海郡山上に鎮まり、大同元年 (806年) に吹浦村に遷座したとある記述があり、現在の社伝はこの吹浦の創建についての伝承を踏襲しているとされる。
なお、大同元年は空海が唐から帰国した年にあたり、東北の多くの寺社で創建の年とされているという。
『日本參代實録』貞観13年(871年)5月16日の条にある出羽國司の報告から、飽海郡山上に大物忌神社があったことが確認できるが、大物忌神社の鎮座地は飽海郡にある山の上とあるのみで、上記の吹浦についての言及はない。
創建に関する吹浦の伝承として、他に、吹浦の信徒が蕨岡の勢力に対抗して宝永2年(1705年)に寺社奉行所に提出した「乍恐口上書を以申上候事」という文書に、慈覚大師(円仁)が開基したとの記載がある。
a0057057_16355952.pngこの記載は、蕨岡に伝わる縁起に対抗する意味合いが強かったと思われるが、現在も吹浦には慈覚大師直筆とされる天台智顗の図像と金胎両界曼荼羅図が保管されている。
その他、吹浦の「大日本國大物忌大明神縁起」(成立年代不明)には、地元の他の伝承と融合したと思われる「卵生神話」が記されており、「天地が混沌とした中から両所大菩薩・月氏霊神・百済明神が現れ、大鳥の翼に乗って、天竺から百済を経て日本に渡来した。
左翼にあった二つの卵から両所大菩薩が、右翼にあった一つの卵から丸子元祖が生まれ、鳥は北峰の池に沈んだ。景行天皇のとき、二神が出羽國に現れ、仲哀天皇のとき、三韓征伐で功績をたてたので、正一位を授かり勲一等を得た。
用明天皇のとき、師安元年6月15日に、二神は飽海郡飛沢に鎮まった」という。なお、丸子氏は、遊佐町丸子に住み、鳥海山信仰に大きな影響を与えた一族である可能性があるとされる。
a0057057_16430496.pngその後、貞観6年(864年)、慈覚大師(円仁)が鳥海山から五色の光が放たれているのに気づいて、登ろうとすると、青鬼と赤鬼が妨害したので、火生三昧の法で対抗したところ、鬼は観念して、今後は鳩般恭王として大師に従い仏法を守護すると誓ったという。
そして、円融院の代(969年から984年)に朝廷から両所大菩薩と命名されたという。上記の「卵生神話」は朝鮮の「三國遺事」や「三國史記」にも記載があり、外来の伝承が存在したことが推測されるが、鳥を先祖とするトーテミズム的な発想は、中世に成立した「鳥海山」の名称と関連していて、現在も地元に伝わる霊鳥伝説ともつながりを持っており、中世から近世にかけて成立した伝承である可能性が高いとされる。
永正7年(1510年)の『羽黒山年代記』では、鳥海山は飽海嶽と呼ばれていたとして、欽明天皇7年(546年)に神が出現した後、貞観2年(860年)に、慈覚大師(円仁)が青鬼と赤鬼を退治した後、山の外観が龍に似ているとして、龍の頭部にみえる箇所(龍頭)に権現堂を建て、寺号を龍頭寺(りゅうとうじ)として、さらに、鳥の海に因んで山号を鳥海山としたとされており、卵生神話の記載はないものの、上記の「大日本國大物忌大明神縁」と共通する内容となっている。
なお、現在の龍頭寺は大同2年 (807年) に慈照上人が開いたとされており、上述の空海の帰国の年に合わせられているほか、慈照上人の実在が確認されておらず、慈覚大師(円仁)の錯誤である可能性もあるが、『羽黒山年代記』の貞観2年に開かれたとする記述とは年代が離れている。

a0057057_18284553.png月山神(奥に本殿)
境内社:
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白山神社(左写真一番左)
雷電神社(右写真)

蕨岡の伝承
吹浦とは別の縁起が伝わる蕨岡の「鳥海山記并序」(宝永6年、1709年)では、役行者が開山したとする前提で、行者がはじめて山に登ったとき、「鳥の海」をみたことから「鳥海山」と名づけられたとしている。
なお、社の創建のとき、山に名称はなく、現在の「鳥海山」という山名ができた由来には諸説あり、山上にあって霊鳥が生息すると言い伝えられる「鳥の海」によるとする説が有力である。蕨岡に伝わる他の縁起では、「鳥海山縁起和讃」(嘉永5年、1852年)に、天武天皇のとき、山の神の命により、役行者が山中に出没する鬼を退治し、開山したと記されている。
この縁起は、吹浦に伝わる慈覚大師(円仁)の創建とする説よりも年代を古い説を唱え、対抗しようという意図がみられるとされる。
関連して、蕨岡の東之院興源は「出羽國一宮鳥海山略縁起」(安政4年、1857年)の中で、役行者が山中に神の眷属である三十六王子を祀り山の守護神としたという記載があり、実際に、蕨岡では山道に三十六王子を祀っていたという。

古代
山岳信仰
越國より始められた夷征は、慶雲から和銅の頃に庄内以北の着手に至ったが、当時この地方は原生林に覆われ、また南方を追われた蝦夷が群居し、常に噴煙を吐き時々大爆発する鳥海山の存在は朝廷軍にとって脅威であった。
そのような状況で、もともと日本では山岳信仰が盛んだった背景もあって、朝廷は鳥海山の爆発が夷乱と相関していると疑ったのではないか、と『名勝鳥海山』では推測している。
前述の『日本參代實録』貞観13年(871年)5月16日の条にある出羽國司からの報告には、鳥海山の噴火について、「出羽の名神に祈祷したが後の報祭を怠り、また墓の骸骨が山水を汚しているため怒りを発して山が焼け、この様な災異が起こったのだ」等の記述があり、鳥海山噴火が兵乱の前兆であると信じられていたことを覗わせている、と『名勝鳥海山』では述べている。
上述のとおり、当初、「鳥海山」という山名は無く、山そのものが大物忌神と称されていた。物忌とは斎戒にして不吉不浄を忌むことであり、山の爆発は山神が夷乱凶変を忌み嫌って予め発生させるものだと朝廷は考えたことが、この山神を大物忌神と称した所以であると『名勝鳥海山』では考察している。
また同書では、山神の怒りを鎮め、その力を借りて夷乱凶変を未然に防ごうとした一例として、『日本紀略』天慶2年(939年)4月17日の条にある秋田夷乱(天慶の乱)発生の報が到達した際、朝廷で物忌が行われたことを挙げている。
なお『本朝世紀』天慶2年(939年)4月19日の条には、大物忌明神の山が噴火したとの記述がある。

神仏習合
六國史によれば斉衡3年(856年)から貞観12年(870年)の間に出羽國では定額寺が6ヶ所指定され、また『日本參代實録』仁和元年(885年)11月21日の条では飽海郡に神宮寺があったと記していることから、出羽における神仏習合はこの時期に始まったと『名勝鳥海山』では推測している。また同書によれば、大物忌神へ奉仕する職制は神仏習合以来変化し、従来の唯一神道を以って奉仕する社家、神宮寺の仏式を以って奉仕する社僧に別れたが、その後の仏教隆盛に従い社家は段々と衰退して行き、中世には本地垂迹説により鳥海山大権現と称して社僧が奉仕をしていたのだと言う。これが後の明治の神仏分離によって、大物忌神社に復すまで続くことになる。
延長5年(927年)には『延喜式神名帳』により式内社、名神大社とされた。また、『延喜式』の「主税式」においても祭祀料2,000束を国家から受けている。『延喜主税式』によれば、当時国家の正税から祭祀料を受けていたのは陸奥國鹽竈社、伊豆國三嶋社、淡路國大和大國魂社と他に3社しかないことから、大物忌神社が国家から特別の扱いを受けていたことが覗える。
大物忌神は、六國史にも、13度登場している。なお、当時は「鳥海山」という山名がなかったため、「飽海郡鎮座の大物忌神」と呼ばれていた。

中世
鳥海山における中世の信仰についてはまとまった記録が残っておらず、断片的な記録等から推測せざるをえないとされる。そして、それらによれば、幕府や南朝の有力者が両所宮や両所大菩薩へ寄進を行っていたという。
承久2年(1220年)、藤原氏(三善氏)が北条義時の命により、現在の遊佐町北目の新留守氏に「北條氏雑掌奉書」を送っており、同書に「出羽國両所宮修造之事」とあることから、大物忌神社が、鳥海山と月山の双方を祀る「両所宮」とされていたことがわかる。
南北朝時代に入ると、「鳥海山」という山名の使用がみられるようになる。山中で発見された鰐口の銘に「暦応5年」(1342年) の年号(北朝)がみられ、「奉献鳥海山和仁一口右趣意者藤原守重息災延命如」とあるのが、「鳥海山」という山名の初出とされる。
なお、戸川安章によれば、当時、鰐口は修験道の伽藍に掛けられるのが一般的だったため、鳥海山における修験道の出現は南北朝時代からであるとされる。
当神社は出羽國一宮とされ、南北朝時代の正平13年(北朝の元号では延文3年、1358年)、南朝の陸奥守兼鎮守府将軍である北畠顕信(北畠親房の次男)が南朝復興と出羽國靜謐を祈願し、神領として「出羽國一宮両所大菩薩」に由利郡小石郷乙友村を寄進したことが、吹浦口之宮の所蔵文書である「北畠顕信寄進状」に記されている。
これが文献上における一宮名号の初見であるとされる。
なお、当時、吹浦の両所宮では鳥海山と月山の神とを「両所大菩薩」として祀っており、本地垂迹説に基づき、本地を薬師と阿弥陀とされていた。

一宮争い
吹浦、蕨岡の論争吹浦の信徒は蕨岡の信徒が行っていたような、鳥海山中での修行は行わず、山上に祀られている鳥海山大権現を、月山大権現をとともにふもとに勧請し、両所宮として祀り、神宮寺で行事を行うなどしていた。
吹浦からの登拝は行っていたものの、山頂の権現堂には関与しなかったため、蕨岡の信徒に比べると勢力的に弱かった。
蕨岡の宗徒社人は山上の鳥海山大権現の学頭別当と称し、直接山上に奉仕しており、この考え方の違いがお互いに反目する原因となっていたが、蕨岡宗徒が吹浦からの登山者を差し止めたことから両者の論争となり、承応3年(1654年)ついに庄内藩や江戸寺社奉行に訴えが出された。
幕府検使の臨検の後、明暦元年(1655年)に次の判決が出た。訴えのあった守札の書付について、吹浦は鳥海山と書いていた証拠が無いので両所山と書き、蕨岡は大堂のある松岳山と書いていた証拠があるので松岳山と書くこと。吹浦からの登山者を蕨岡は差し止めないこと。この裁断の後、山上に直接奉仕しているのは蕨岡宗徒であると言う認識が確定的なものとなり、山頂社殿の建替や嶺境争い等の山頂に関連した論争に吹浦は感知しない状態となってしまった。
蕨岡、矢島の御堂建替の論争修験道には紀伊の熊野に始まった順峰と逆峰の2つの法式があるが、鳥海山においては蕨岡が順峰、矢島と滝沢が逆峰を称し、古来より順逆両部勤行の霊山として修行が行われていた。それにもかかわらず、矢島と滝沢の間に逆峰名称の論争が起き、また蕨岡と矢島の間には順逆の論争が発生した。
この状況により滝沢は蕨岡の援助を得て逆峰院主を矢島から奪ったが、延宝6年(1678年)矢島は論争のすえ逆峰院主を取り戻した。
これにより矢島と滝沢の逆峰院主の論争は終結し、また蕨岡と矢島も順逆お互いの法式を相犯さないと確認した。
しかし元禄14年(1701年)山頂社殿建替えの話が上がると、矢島は逆峰側で建替えるのが至当であると、本山である三宝院に総代3名を送って陳訴した。
これに対し三宝院は順逆両方で申し合わせのうえ相勤めよとの和解書を蕨岡へ出したが、これまで一山を取り仕切り、山頂社殿を建替えてきた蕨岡はこれを不服として三宝院へ訴状を出した。
その後、順逆双方から書類を出し、同年11月に三宝院鳳閣寺より次の裁断が下された。
山頂社殿を順逆宗徒が交互に造営する理由は見当たらないので、これまで通り順峰側が建替えること。順峰が鳥海山龍頭寺の寺号を最近名乗り始めたとのことであるが、順峰側では古来より名乗っている寺号とのことであった、
よって逆峰側が更なる証拠を見つけてから申し出ること。山頂社殿の天和2年(1682年)の棟札を遊佐郡から飽海郡へ書き換えているのは、幕府の命に従った為である。
嶺境は行政の領分なので当方では裁断できない。後日判明した際に双方より申し立てること。それまでは従来の通りにすること。鳥海山は古来より順逆両部の山であるので、今後も順逆申し合わせのうえ古例のごとく勤仕すること。この裁断により一旦は息を潜めたかに見えた順逆の論争であるが、山頂社殿建替後の遷宮式において矢島の群衆が棟札を奪い取る事件が発生し、再燃することとなる。
蕨岡、矢島の嶺境の論争建替え論争に破れた矢島宗徒は、三宝院が「嶺境は行政の領分なので後日申し立てること」としたことを以って嶺境の訴訟を起こした。
しかしながら嶺境問題は宗徒間のみならず庄内藩と矢島藩にとっても重大問題であることから、最後は両藩が相争う状態となって行く。元禄16年(1703年) 三宝院鳳閣寺はこれまでの建替論争の経過に付帯文書を添え、さらにその顛末を述べて幕府寺社奉行所に裁決を出願した。寺社奉行所では審理の末、嶺境は不明だが『日本參代實録』に大物忌神社が飽海郡山上にあることが明記されているので、棟札は飽海郡と書くのを妥当とし、嶺境は不問とするよう裁決を出した。
この裁決に矢島宗徒は従わず、それに加え、この問題が重大な国境問題となる矢島藩が領内百姓の名を以って寺社奉行に訴え出た。ここに至り寺社奉行はこの問題を重大事と判断して評定所の審理に移した。
評定所は庄内の修験百姓に答弁書提出を命じ、翌宝永元年(1704年)庄内修験百姓等は答弁書を提出した。
これに対し矢島宗徒は吹浦宗徒の主張を利用し、大物忌神社は吹浦に遷座しており現在の山頂社殿は由利郡に属するものであると主張、追訴した。
評定所は現地に検使を派遣して検分と共に聞き取り調査を行い、かつ双方の修験百姓を江戸に呼び出し吟味した結果、同年9月次の判決を言い渡した。
『日本參代實録』の記述どおり山頂社殿を大物忌神社とし、山頂社殿の所在する場所は飽海郡とする。西は笙野岳腰より稲村岳の8分に亘り、東は女郎岳の腰までをもって郡境と定める。
これにより、由利郡側山腹(秋田側山腹)の7合目より以南が飽海郡になった。 また、この判決に関し、いくつかのいざこざが庄内藩と矢島藩の間に起こったと言われる。
吹浦の一宮名号使用の訴願宝永元年(1704年)の評定所の判決以降、山上に直接奉仕しているのは蕨岡宗徒であると強く認識されるようになり、その勢力は増して行った。勢力の増大により、蕨岡宗徒は山頂社殿を出羽國一宮大物忌神社、蕨岡を鳥海山表口別当、吹浦を末社と称するに至り、吹浦大物忌神社は全く蕨岡に奪われたも同然の状態となってしまった。宝永4年(1707年)社家の進藤曾太夫邦實はこれを嘆き、回復を計らんとして一宮の名号を吹浦に許されることを庄内藩に訴願した。
鶴岡の寺社奉行が吟味した結果、太夫の訴願は幕府の嶺境裁断において山頂社殿を大物忌神社とした際の判決を戻すとして、「公義御裁許破り」の罪名で太夫を出羽一國追放にした。

明治以降
明治元年(1868年)の神仏分離令への対応では吹浦が蕨岡に先行することとなり、明治2年、吹浦の信徒は全て神道を奉ずることとなり、明治3年には社の奉仕者たちが正式に神職となり、社号も大物忌神社となった。
神宮寺等の仏教建築や仏像は撤去され、明治4年(1871年)5月、吹浦の大物忌神社は國幣中社に列せられ、山頂の権現堂の管理もできることとなった。
吹浦の後から神道を奉ずるようになった蕨岡の信徒たちは、自分たちの権利を取り戻そうと山形懸や明治政府に何度も請願して、訴訟も行ったが失敗した。
明治以降も吹浦と蕨岡の争いは続くかに思えたが、松方正義の意見により、明治13年(1880年)8月7日、左大臣有栖川宮熾仁親王から、山頂の権現堂を大物忌神社の本殿とし、吹浦と蕨岡の大物忌神社を、それぞれ里宮(後に口ノ宮:口之宮)とする旨の通達が出され、明治14年(1881年)に実施されたため、両者の争いは収束した。
この変則的な祭祀体制は、吹浦と蕨岡のそれぞれに国幣中社大物忌神社の社務所を置き、宮司は吹浦に駐在するが、本殿への奉幣は両社務所が1年交替で行うというものだった。神仏分離による混乱・動揺の後、鳥海山への山岳信仰は再び盛り上がりをみせ、明治以降も登拝は盛んとなった。特に第2次世界大戦中は登拝が多かったとされる]。昭和30年(1955年)、大物忌神社が山頂と吹浦と蕨岡の3つの社の総社号とされ、吹浦と蕨岡は、それぞれ大物忌神社吹浦口ノ宮・蕨岡口ノ宮とされた。昭和47年(1972年)、鳥海ブルーラインが開通すると、鳥海山は徐々に、山岳信仰の対象としてよりは観光の対象と認識されるようになり、信仰に基づく登拝は昭和40年代(1970年代)後半から、徐々に少なくなり、神仏習合や修験道が盛んだった時代の痕跡もほとんどみられなくなった。神階鳥海山の噴火は大物忌神の神威の表れとされ、噴火のたびに朝廷より神階の陞叙が行われた。『続日本後紀』承和5年(838年)5月11日の条において従五位上であった大物忌神を正五位下に1級進めていることから、これ以前に神階の授位があったことは明らかであるが、文献上の記録が無いため最初の授位がいつかは不明である。以下は時系列的に並べた神階の授与である。『続日本後紀』 承和5年(838年)5月11日の条 従五位上より正五位下勳五等へ進1級の陞叙。『続日本後紀』 承和7年(840年)7月26日の条正五位下勳五等を従四位下勳五等へ陞叙。前年に遭難した遣唐使船が海賊の襲撃にあった際、寡兵で海賊を撃退したが、これは同じ頃に噴火して神威を表した大物忌神の加護によるものであるとして、神封2戸の寄進と共に仁明天皇の宣命が添え下された。『日本參代實録』 貞観4年(862年)11月1日の条 正四位下勳五等へ陞叙。また、官社に指定された。『日本參代實録』 貞観6年(864年)2月5日の条 正四位下勳五等より正四位上勳五等へ陞叙。『日本參代實録』 貞観6年(864年)11月5日の条 正四位上勳五等より従三位勳五等へ陞叙。『日本參代實録』 貞観15年(873年)4月5日の条従三位勳五等より正三位勳五等へ陞叙。貞観13年(871年)の大噴火沈静後、山頂社殿を再建し宿祷報祭記を行ったのを受け陞叙された。『日本參代實録』 元慶2年(878年)8月4日の条秋田夷乱(元慶の乱)において朝廷軍が敗退したのを受け占ったところ、古来より征戦に霊験を有する大物忌神、月山神、小物忌神の3神が、神気賊に帰して祈祷が届かなくなってしまったと出た。そこで爵級を増せば霊応あるべしとして、正三位勳五等を正三位勳三等に進めた。『日本參代實録』によれば、これより前の元慶2年(878年)7月10日の条で神封2戸が加増され、4戸となっている。『日本參代實録』 元慶4年(880年)2月27日の条正三位勲三等より従二位勳三等へ陞叙。秋田夷乱(元慶の乱)平定後、平時に復したのを受け陞叙となった。これが中世以前では最後の昇叙の記録であるが、『本朝世紀』天慶2年(939年)4月19日の条において出羽國司が官符を賜った時は正二位勳三等となっている。元文元年(1736年) 蕨岡の願い出により正一位勳三等に昇進。
参考資料:Wikipedia「鳥海山大物忌神社」(最終更新:2016年10月23日)https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B3%A5%E6%B5%B7%E5%B1%B1%E5%A4%A7%E7%89%A9%E5%BF%8C%E7%A5%9E%E7%A4%BE
閲覧:2018.5.10

「吹浦」について・・
俳人松尾芭蕉が『奥の細道紀行』で元禄2(1689)6月15日(新暦7月31日)、門弟の河合曾良と共に酒田を出立し象潟(きさかた:現 秋田県にかほ市)に向かう。
朝から小雨が降り続いていたが、吹浦に入ると急に大雨となり、急遽吹浦で宿泊する事になった。
『奥の細道』の研究では、
「吹浦には出羽國一宮鳥海山大物忌神社があるのに、この神社のことは全く出てこない。また、ここで読まれた句もない。」と、不思議がる記述があるが、実はこのとき、上記でいう『一宮争い』の真最中で、吹浦の宮は『一宮』ではなかった。
芭蕉としては、争いに巻き込まれては、後半の行程(象潟が折返し地点)に影響すると、敢てここのところは避けたのではなかったのではないかと推察する。(筆者追記)

現地参拝:29.6.26
記事投稿:30.5.10
  調整:30.5.11/30.5.14

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by fbox12 | 2018-05-14 16:02 | 神社

第佰貮拾參 八幡神社(長良若宮) 岐阜県岐阜市鎮座

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a0057057_21332238.pnga0057057_21415594.png
a0057057_21433831.pnga0057057_21443452.pngはちまん じんじゃ(ながらわかみや)

鎮座地:岐阜県岐阜市長良577
祭神:品陀和気命(応神天皇)(ほむだわけのみこと(おうじんてんのう))

概要:
岐阜市の北部、長良川をはさんだ金華山(旧名 稲葉山)の対岸にある。
毎年5月11日からの長良川鵜飼の際、鵜匠などにより鵜飼安全祈願祭が行われる。

a0057057_22320380.pnga0057057_22323004.png
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a0057057_22335628.png

この神社最寄の駅・バス停:
JR岐阜駅・名鉄岐阜駅から
岐阜バス 加野団地・大洞団地行き 長良川温泉(長良川グランドホテル前)(停)
または、長良橋方面行き 鵜飼屋(停)下車

参考資料:岐阜バス ホームページ
http://www.gifubus.co.jp/rosen/route/
閲覧:30.5.11

現地参拝:30.2.-7
記事投稿:30.5.11

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by fbox12 | 2018-05-11 22:37 | 神社

266 開聞駅 (JR九州)

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a0057057_22354054.pnga0057057_22361869.png
かいもん

所在地:鹿児島県指宿市開聞十町2938
所属・路線:九州旅客鉄道株式会社・指宿枕崎線
キロ程:61.0km(鹿児島中央起点)
電報略号/事務管コード:イモ/941619

歴史:
1960年(昭和35年)3月22日 - 開業。
1987年(昭和62年)4月1日 - 国鉄分割民営化により九州旅客鉄道の駅となる。

駅構造:
a0057057_22373815.png単式ホーム1面1線を有する地上駅である。
開業当初は駅舎があり、駅員も配置されていたが、すぐに無人駅となり、駅舎は平成になってから撤去された。
開業時は1面2線だったが、その名残が線路の配線に見られる(写真左部分)。
また駅構内の枕崎方は資材置き場となっており(タイトル写真中央部分)、新旧のレールが置かれている。
駅前広場は無人駅には珍しく、砂利敷きながらもロータリーがある。

のりば:
1番のりば 指宿枕崎線 上り 鹿児島中央方面
            下り 枕崎方面
のりば表記は駅掲載および公式サイトの駅別時刻表に記述。

バス:
開聞駅前(停)
当バス停は主な観光地を結ぶ鹿児島交通バスの系統が多数乗り入れており、利便性がよい。ただし、駅前広場に乗り入れるバスは転向場としてロータリーを利用しているだけで乗降扱いをしない。
当バス停は国道226号線沿にある

参考資料:Wikipedia「開聞駅」(最終更新:2018年4月17日)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%8B%E8%81%9E%E9%A7%85
閲覧:2018.5.10

現地取材:2018.3.13
記事投稿:2018.5.11

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by fbox12 | 2018-05-11 21:37 | 鉄道・バス

リポビタンD ラグビー桜ボトル

a0057057_17090831.pngミニチュアボトルコレクション D-912

販売名:
品名:指定医薬部外品
原材料:
タウリン・イノシトール・ニコチン酸アミド・チアミン硝化物(ビタミンB1)・リボフラビンリン酸エステルナトリウム(ビタミンB2)・ピリドキシン塩酸塩(ビタミンB6)・無水カフェイン他添加物
容量:100ml

製造販売元:大正製薬株式会社(東京都豊島区高田3丁目24番1号)

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by fbox12 | 2018-05-10 17:24 | コレクション

ゆいレール(沖縄都市モノレール)

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「ゆいレール」は、沖縄県、那覇市、沖縄振興開発金融公庫及び民間企業の共同出資による第三セクター方式の沖縄都市モノレール株式会社が沖縄県那覇市で運営するモノレール路線「沖縄都市モノレール線」の愛称である。
「ゆい」は琉球方言の「ゆいまーる」(「雇い回り」を語源とする村落共同労働を意味する言葉)の「ゆい」から取られたもので、那覇空港駅と首里駅を結ぶ。
2018(平成30)年現在、「沖縄県内で現存している唯一の鉄道路線」で、全線が軌道法による軌道として建設されている。
2015(平成27)年現在、首里駅からてだこ浦西駅までの区間が事業中であり、2019(平成30)年春に開通する予定となっている。

概要:
沖縄本島の玄関口である那覇空港から赤嶺経由で漫湖を渡って旭橋に抜け、旭橋からは久茂地川沿いに那覇市の繁華街である久茂地・牧志地区を抜けて国際通りを跨ぎ、国道330号を北上して古島からは環状2号線を上り首里に至る全長約13kmの跨座式のモノレール線である。
この約13kmの区間をワンマン運転の2両編成の車両が約30分かけて走る。
沖縄県の交通手段は自家用車・タクシー・バスが中心であり、特に那覇都市圏では渋滞が悪化している。そこで、国、沖縄県、那覇市と沖縄都市モノレール株式会社が一体となって建設を行い、沖縄では戦後初の鉄道開通となった。
当初の世論では、前記の「クルマ社会」という見方から、利用されるかどうかの懸念があったが、いざ開業してみると、渋滞に巻き込まれないために時間が正確であることと、高所を走るという特性のために眺望がよく、モノレール自体が観光施設となったため、この懸念は杞憂に終わった。
眺望のために人気を集めるという点は東京モノレール羽田空港線と同様である。
切符の購入や自動改札機の通り方に慣れない利用客向けに、沖縄都市モノレールのホームページでは「利用ガイド」として乗車方法を詳説している。
開業翌年の2004(平成16)年に「沖縄都市モノレールの整備と総合的戦略的な都市整備計画」が日本都市計画学会の最高賞である石川賞を受賞した。
受賞対象者は、沖縄県、那覇市及び沖縄県都市モノレール建設促進協議会である。
全線で列車運行管理システムを導入している。古島駅から約57‰の上り坂が続く。最急勾配は儀保駅 - 首里駅間の60‰である。

路線データ:
a0057057_10183811.png路線距離(営業キロ):12.9km
方式:跨座式モノレール(日本跨座式)
駅数:15駅(起終点駅含む)
複線区間:全線
電気方式:直流1500V
閉塞方式:車内信号式 (ATC)
車両基地所在駅:那覇空港駅(那覇空港駅 - 赤嶺駅間)(写真)
運行形態:
2017(平成29)年8月1日のダイヤ改正で、ダイヤがそれまでの平日ダイヤ・土曜休日ダイヤの2種類から、平日(月-木曜)ダイヤ・金曜ダイヤ・土曜ダイヤ・休日ダイヤの4種類に再編された。全列車が全区間運転の各駅停車であり、一部区間のみを運行する列車や、途中駅を通過する列車はない。
6時頃から運行され、終電は那覇空港駅発・首里駅発ともに23時30分となっている。
平日(月-木曜)は早朝が12-15分間隔、朝夕ラッシュ時が5-6分間隔、日中と夜が10分間隔、夜21時以降が12分間隔、金曜日は日中が8分間隔、土曜日は早朝と夜21時以降が12分間隔、それ以外は8分間隔、休日は早朝と夜21時以降が12分間隔、朝が8分間隔、夕方が9分間隔、それ以外は10分間隔となっている。
ワンマン運転を実施している。
全列車が全区間を運行するため折り返しは両端の駅のみで行われるが、牧志駅 - 安里駅間に非常用の渡り線があり両駅での折り返し運転も可能となっている。
事故などの突発的事象により運行に支障が出た場合は全線で運行停止になるが、例えば2007(平成19)年10月21日に儀保駅付近で行われた不発弾処理時に朝8時頃から処理完了まで那覇空港駅 - 牧志駅間で実施されるなど、予め運行計画が立てられる経路上の運行障害に関しては折り返し設備を利用しての区間運転が実施される。
a0057057_17285710.pngなお車両基地が那覇空港駅側に設置されていることから、車両数の調整が困難である首里駅 - 牧志駅間のみでの運行は行われていない。
車両のうち旅客車は、開業時から使用されている「1000形電車」(写真)のみで、車両番号は首里側が1200台、那覇空港空港側が1100台の附番で、下2桁が編成番号を表し(すなわち、写真は第1編成)、2018(平成30)年5月現在、18編成36両が在籍、浦西延伸の際には1編成増備される予定である。
他に作業用車両として、MB-1、2 2両が在籍する。(上、車両基地写真 MB-1)

歴史:
沖縄本島では、大正時代に軽便鉄道や路面電車、馬車鉄道といった数々の鉄道路線が開業したが、昭和初期に入ると沖縄電氣の路面電車と糸満馬車軌道がバスとの競争に敗れて廃止され、残った沖縄懸営鐵道と沖縄軌道も太平洋戦争末期に運行を停止し、鉄道の施設は空襲や地上戦によって破壊された。そして、アメリカ合衆国による統治下に置かれた戦後は道路整備が優先されたため、鉄道は復旧されることなくそのまま消滅した。しかし、1970年代に入って経済活動が活発になってくると、那覇市を含む沖縄本島中南部地域に人口や産業が集中した。この結果、道路交通の渋滞が慢性化し、その対策として新たな軌道系公共交通機関を求める声が高まっていった。
沖縄が本土復帰を果たした1972(昭和47)年、日本国政府(以下、国)は沖縄の振興開発を推進するために「新全国総合開発計画」(新全総)の一部を改正し、沖縄県に対する特別措置として沖縄振興開発計画を策定した。これを受けて、国や沖縄開発庁、沖縄県、那覇市などが中心となって導入機種やルートなど具体的な検討を行い、最終的には「都市モノレールの整備の促進に関する法律」(都市モノレール法、昭和47年11月17日法律第129号)に基づき跨座式モノレールを導入することで決着した。
1975(昭和50)年、国・沖縄県・那覇市で構成される「都市モノレール調査協議会」を設置、ルート等の検討を行うなど建設に向けての準備協議会が発足。沖縄県と那覇市による「都市軌道建設準備室」が設置され、1980(昭和55)年に「都市モノレール関連街路に関する基本協定書」を締結、実施調査については、国庫補助事業(昭和56年度)として採択、推進された。
ルートは那覇空港から首里城に近い汀良(てら)地区までの区間を第一期区間とし、汀良地区から西原入口までの区間を第二期区間、さらに沖縄市方面への延伸も検討課題とした。
1982(昭和57)年9月に運営主体となる第三セクター「沖縄都市モノレール株式会社」を設立、同年に赤嶺 - 首里汀良町間を県に特許申請、翌年に再検討、那覇空港 - 首里汀良町間(営業距離12.9km)に延長された。
沖縄県と那覇市は都市モノレールの導入空間となる街路の整備事業を先行して進めた。1984(昭和59)年11月に宮脇俊三が沖縄を訪れた時点では、地元でも「いつ開通するかわからない。マイカー体制が定着した那覇で、果たして採算が取れるかどうか危ぶまれている」という声があった。
川島令三も、開業前は閑古鳥が鳴いて赤字になるに決まっていると散々言われていた、と自著で記している。
1994(平成6)年に沖縄県・那覇市と既存交通機関のバス会社との間で基本協定や覚書が締結され、1995(平成7)年の政府予算案(平成8年度)にモノレール関連のインフラ予算が盛り込まれる。
こうした着工に向けた動きの活発化により、同年12月に空港(現在の那覇空港) - 汀良(現在の首里)間の特許申請書を沖縄都市モノレールが再提出、翌年1996(平成8)年3月に同社は軌道事業の特許を取得したことから、同年11月に軌道本体の工事が着手された。
この時点での開業予定時期は2003(平成15)年12月としていたが、街路の先行整備で工期に余裕ができたこともあり、実際には4か月ほど早い同年8月に開業している。
太平洋戦争の激戦地であったことから建設前に不発弾探査が行われ、3か所において計7発の不発弾が発見され処理されたが、開業後も何度か運転を休止して不発弾処理が行われている。

年表:
(開業前)
1996(平成8)年3月1日 - 軌道事業の特許につき、運輸審議会件名表に登載される。
 4月11日 - 運輸審議会が、軌道事業を特許することは妥当である旨を答申 
 10月31日 - 都市計画事業の認可を受ける。
 11月25日 - 沖縄都市モノレール建設事業の起工式
1999(平成11)年11月30日 - 駅名・シンボルマークを決定し、愛称を「ゆいレール」とする。
2001(平成13)年12月4日 - 那覇空港 - 小禄間で試運転を開始する。
2002(平成14)年11月25日 - 全線での試運転を開始する。

(開業後)
a0057057_22195646.png2003(平成15)年8月10日 - 那覇空港 - 首里間 (12.9km) が開業。昼間12分間隔。1日上下202本運転。開業時より乗車カード「ゆいカード」を導入(写真:以下のとおり、現在は使用不可)
2004(平成16)年12月26日 - 開業後初のダイヤ改正。運転間隔を昼間10分間隔とし26本増発
2005(平成17)年12月23日 - 開業以来平日・休日共通だったダイヤが変更され、休日ダイヤを新設。ここでいう休日とは、土曜日、日曜日、祝日、振替休日、年末年始(12月31日 - 1月3日)である。
2009(平成219年9月13日 - 不発弾処理のため全線運休(全線運休は台風などの自然災害によるもの以外としては開業後初めて)。正午すぎに運転を再開
2012(平成249年1月25日 - 首里 - 浦西(仮称)間の軌道事業特許を認可。翌26日交付
2013(平成25)年4月4日 - 首里 - 浦西間第1次工事施行認可
 11月2日 - 首里 - 浦西間延伸事業の起工式が浦添市で開かれる。
2014(平成26)年5月30日 - 2013(平成25)年度の事業報告が発表され、1日平均の乗客数(降客数含まず)が初めて4万人を超え、年間では1490万3196人となり、過去最高となった。
 9月8日 - ゆいカードの券売機での発売を終了
 10月2日 - 2011(平成13)年9月から運行されていた車体に首里城を描いた「首里城号」が運行終了
a0057057_22073761.png 10月14日 - ゆいカードの窓口での発売を終了 
 10月20日 - IC乗車券「OKICA(オキカ)」(写真)導入
 10月29日 - ゆいカードの取扱を終了
 12月26日 - 延伸区間の駅名決定
2015(平成27)年11月6日 - 2015(平成27)年10月の乗客数が146万8449人、一日平均4万7369人で、いずれも単月の過去最高を記録したと発表された。
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2016(平成28)年2月18日 - 延長区間のコンクリート製のレールが完成し、設置に向けて「安全祈願祭」と「出発式」が開催された。
 4月27日 - 液晶ディスプレイパネルを搭載した新型車両(左写真:1214+1114 編成)が営業運転を開始
2017(平成29)年5月26日 - 2016(平成28)年度決算が発表され、純損益は2億2053万円で2003(平成15)年の開業以来初の単年度黒字となった。
 8月1日 - この日のダイヤ改正で、ダイヤを平日ダイヤ・土曜休日ダイヤの2パターンから、平日(月-木曜)ダイヤ・金曜ダイヤ・土曜ダイヤ・休日ダイヤの4パターンに変更
2019(平成31)年春 - 首里 - てだこ浦西間 (4.1km) が開業予定

延長計画と延伸構想:
a0057057_16065732.png首里駅から石嶺地区を経由した沖縄自動車道インターチェンジまでの延長計画、および沖縄道より先の地域までの延伸計画が検討されており、建設当初より首里駅から先の車止めは石嶺地区に向かってカーブした形で行き止まりとなっている。(写真)
また、同駅のホームは相対式となっており、上り線を利用して暫定的に片面のみ使用しているほか、延伸予定道路は軌道敷設対応の拡張工事が行われている。
内閣府は2005(平成17)年に延伸についての調査を行ったが、ゆいレールの利用実績は順調であるものの赤字を出しており、この解消が課題とされた。

延長計画:
数年にわたり延長計画の選定の協議会が行われてきたが、2008(平成20)年3月に首里石嶺町、浦添市前田を経由して、西原入口交差点に接続される総延長4.1kmの浦添案が選定され、2020年度までの開業を目指して計画が進められることとなった。2009(平成21)年度より延伸に向けての調査が開始されており、2、3年の調査の結果をもとに国に対してモノレール建設事業の予算要求を行う予定となっている。ただ、建設費用での問題が一部未解決となっている。
建設費用は396億円と概算されており、駅舎や軌道けた、柱などのインフラ部の整備費用については、原則として県道は県、市道は各市の道路管理者が負担することになっていた。
しかし那覇市側は、第1駅(那覇市に設置予定)の駅勢内(半径約800m)で那覇市民の利用はカバーできるとして、第1駅と第2駅(浦添市に設置予定)間の間にある那覇市道800mの整備費用は県や浦添市が負担するように求めた。
その後の協議会において、市道800mに関しては那覇市と県が整備を行うことにし、総事業費396億円のうち、県が57億円、那覇市が30億円、浦添市が46億円の費用を分担し、残りの263億円は国庫補助を見込むという試算が出された。
但し、費用分担に関して県や市は財政上の問題から出来る限り費用を抑えたいという意向があるため、分担割合の合意には流動的な部分が残されている。

(延長計画選定の推移については省略)

乗車券
a0057057_22205828.png2014(平成26)年10月に更新された自動改札機は乗車券の投入口・搬送機構・取出口がなく読取部のみのタイプで、普通乗車券および1日・2日乗車券にはQRコードが印刷されており、これを読み取らせることで改札を通過する。(写真の様に再利用防止のためQRコードはマスク印刷される)。
改札を出場しても乗車券は自動的に回収されないため、改札機の先端に回収箱を設置している。

a0057057_22342530.pngフリー乗車券1日乗車券・2日乗車券
沖縄都市モノレール線全線で有効。それぞれ大人用と小児用があり、小児用は大人用の半額である。自動券売機または駅窓口での発券時刻を基準として、1日乗車券は24時間、2日乗車券は48時間有効である。有効期限が時間制になっているのが特徴で、購入日の翌日(2日乗車券は2日後)になっても、前日(前々日)の購入した時刻までは有効である。
一部の観光施設(首里城、沖縄県立博物館・美術館 等)、飲食店では提示により割引がある。(公式ウェブサイト参照)
当初は有効期間は他の鉄道・バス事業者の一般的な1日乗車券と同様、購入日を基準としてその日(2日乗車券は翌日)の終電まで有効であったが、2011(平成23)年2月1日に改定され時間制となった。
改定当初は有効時間は最初に自動改札機で改札処理をした時刻を基準としていたが、OKICA導入と乗車券のQR券化により、自動券売機で発券した時刻を基準とするようになった。
2012(平成24)年10月31日までは、3日乗車券も発売されていた。有効期限が時間制になった際に72時間有効となったが、時間制としたことで、2泊3日で沖縄に滞在する観光客の多くが2日乗車券を利用するようになり利用が減少したため発売を終了した。(写真は「1日乗車券」)
筆者注:入場時刻(すなわち、改札機の入口側から入るの)が有効時間内であれば、有効時間過ぎても最初の降車(出場)駅まで「有効」だった。

ぐるっと那覇バスモノパス
沖縄都市モノレール線全線と、那覇バスの那覇市内線全線、市外線の指定区間(主に那覇市内の区間)で有効。スクラッチ式で、削った日付の日のみ有効。

がんじゅう1日乗車券
70歳以上の那覇市民を対象に発売。土日祝日と慰霊の日のみ利用可で、発売当日のみ有効。

乗車カード・定期乗車券
IC乗車カードの「OKICA」が導入されている。定期券は通勤/通学の別、1箇月/3箇月/6箇月の別で、いずれもOKICAで発行される。

参考資料:Wikipedia「沖縄都市モノレール」(最終更新 2018年5月4日)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%96%E7%B8%84%E9%83%BD%E5%B8%82%E3%83%A2%E3%83%8E%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%83%AB%E7%B7%9A
Wikipedia「沖縄都市モノレール線」(最終更新 2018年5月6日)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%96%E7%B8%84%E9%83%BD%E5%B8%82%E3%83%A2%E3%83%8E%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%83%AB%E7%B7%9A
共に2018.5.-7閲覧

現地取材:2017.5.16ー17
記事投稿:2018.5.-7
  調整:2018.5.-8

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by fbox12 | 2018-05-08 21:34 | 鉄道・バス

第佰貮拾壱 新田神社 鹿児島県薩摩川内市鎮座

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にった じんじゃ

鎮座地:
 鹿児島県薩摩川内市宮内町1935-2
主祭神:天津日高彦火邇邇杵尊
    天照皇大御神
   正哉吾勝々速日天忍穂耳尊
江戸時代までは応神天皇、神功皇后、武内宿禰の八幡三神を祀っていた。

社格等:
 旧國幣中社、薩摩國一宮、神社本庁別表神社
本殿様式:入母屋造別称:新田八幡宮、八幡新田宮、川内八幡宮、一宮八幡、新田明神

歴史:
a0057057_09125083.pnga0057057_09242792.png社伝によると「天津日高彦火邇邇杵尊」(ニニギノミコト)の墓を祀ったのが創始」とされるが、新田神社のことを書いた最も古い史料は永万元年(1165年)のもので、これには「貞観のころに再興」とあり、また「藤原純友の乱のときに国家鎮護を祈願し5か所建てた八幡宮の一つ」とする史料もある。
『延喜式』に全く名前が見えないことから見て、当初の地位はかなり低いものだったと考えられている。
a0057057_16453481.png文治年間(1185年-1190年)、新田神社筆頭職の執印職に守護嶋津氏と祖を同じとする鹿児島郡司の惟宗康友が就き、康友の子孫が執印氏を名乗り(元弘3年(1333年)に後醍醐天皇が新田宮執印職の当知行を安堵)明治に至るまで、代々俗体で世襲することになる。
蒙古襲来(元寇)で、鎌倉幕府は各国の一宮と国分寺に蒙古調伏の祈祷を命じ、各国の守護に一宮への剣、神馬の奉納を命じた。薩摩國では枚聞神社と新田神社の間で一宮相論が起こっていたため、嶋津氏(忠宗)は、一宮の決定とは無関係としながらも 剣、神馬を新田神社(同族の執印氏側)に奉納する。これは事実上一宮は新田神社と認める行為で、一宮相論は決着し、古来から一宮であった枚聞神社から新田神社へと一宮が移ることになるが、最終決定がされておらず、薩摩國に一宮が二つ存在することになる。
また、國分寺留守職、天満宮別当職に執印氏の分流の國分氏が就き、新田神社は薩摩國國分寺とも深い繋がりを持つ事になる。武神である八幡神を祀っていたことから、当地を支配していた嶋津氏に尊崇を受け、暦応4年(1341年)年記のある『嶋津家文書』に依ればこの新田神社が「薩摩國一宮」として挙げられている。
しかし現代においては執印氏の強引な手法も詳らかとなり、古来から一宮とされてきた枚聞神社が正しく薩摩國一宮であるとの意見も多く散見される。
近代社格制度においては、当初無格社であったが明治18年(1885年)に枚聞神社より上の國幣中社に列した。しかしながら現在は枚聞神社と同じ神社本庁の別表神社にあたる。

山陵:
明治7年(1874年)7月10日、明治天皇の裁可を経て可愛山陵(えのやまのみささぎ)が「邇邇芸尊陵」の指定を受け、大正3年(1914年)に宮内省直轄となった。
新田神社のある神亀山の5分の4が陵墓の領域で、現在は宮内庁書陵部桃山監区可愛部事務所が置かれ、内閣府事務官が陵墓守部として管理している。
陵墓と神社が一体となっているのは全国でも珍しい形態である。
大正9年(1920年)3月30日・昭和天皇(当時の皇太子)参拝、昭和37年(1962年)今上天皇(当時の皇太子)及び皇后美智子(当時の皇太子妃)参拝、など皇族の参拝は9回にも及んでいる。

摂末社:
御陵社
可愛陵社(えのみささぎしゃ)
祭神:邇邇杵尊
明治7年の可愛山陵指定によって創建され新田神社の境内社となったが、大正3年に宮内省の管轄に移管される。

端陵神社(はしのみささぎじんじゃ)
祭神:木花開耶姫尊(邇邇杵尊の妃神)
神亀山の頭部部分に鎮座。邇邇杵尊の妃神の御陵と伝わるため、「御前様陵(ごぜんさまのみささぎ)」とも呼ばれる。

中陵神社(なかのみささぎじんじゃ)
祭神:火闌降命(邇邇杵尊の皇子神)
神亀山の首部分に鎮座。

川合陵神社(かわあいのみささぎじんじゃ)
祭神:天火明命(邇邇杵尊の兄弟神、もしくは皇子神)
神亀山ではなく五代町に鎮座。御陵殿(みささぎどん)とも称された。

摂社
四所宮(ししょぐう)
祭神:彦火火出見尊・豊玉姫尊・鵜草葺不合尊・玉依姫尊
本殿の向かって右脇に鎮座。若宮四所宮、若宮殿とも称する。

武内宮(たけうちぐう)
祭神:彦太忍信命(孝元天皇の皇子で武内宿禰の祖父)
本殿の向かって左脇に鎮座。武内社とも称する。

境内末社
二十四社(にじゅうししゃ)
祭神:天孫降臨に際して供をした五伴緒神(天児屋命、太玉命、天鈿女命、石凝姥命、玉祖命)をはじめとする24柱
武内宮の向かって左側に鎮座。

興玉神社(おきたまじんじゃ)
祭神:猿田彦命
西廻廊向かって左側に鎮座。かつては若宮四所宮、武内社に次いで尊重され、大王社(太玉社)とも称された。

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高良神社(こうらじんじゃ)
祭神:天鈿女命
神亀山中腹に鎮座。高良社、猴等神社とも称する。(写真右)

中央神社(ちゅうおうじんじゃ)
祭神:大山祇神(邇邇杵尊の岳父)
神亀山中腹に鎮座。中王社とも。神亀山の地主神と伝わる。(写真中央)

早風神社(はやかぜじんじゃ)
祭神:級長津彦命
神亀山中腹に鎮座。早風社とも。(写真左)


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東門守神社(ひがしかどもりじんじゃ)
祭神:豊磐間戸神
神亀山石段入口の向かって右側に鎮座。殿門守護の神で、往古は東善神王と称された。(写真右側)

西門守神社(にしかどもりじんじゃ)
祭神:櫛磐間戸命
神亀山石段入口の向かって左側に鎮座。殿門守護の神で、往古は西善神王と称された。(写真左側)

保食神社(うけもちじんじゃ)
祭神:保食神
神亀山麓に鎮座。田の神と同一視され、現在でも農耕儀礼の神事が行われる。

稲荷神社(いなりじんじゃ)
祭神:倉稲魂命
昭和初期に近隣工場の守護神として創建され、後に工場閉鎖に伴って神社境内へ遷座。

※廃絶した境内末社
- 省略 -


この神社最寄の駅・バス停:
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肥薩おれんじ鉄道 上川内駅から徒歩約10分
JR九州 九州新幹線・鹿児島本線・肥薩おれんじ鉄道 川内駅から路線バスで約5分
写真の「くるくるバス(西回り:南国交通担当)」は大回りのため約30分
「くるくるバス(東回り:鹿児島交通担当)は18分
いずれも新田神社(停)下車。

参考資料:Wikipedia「新田神社(薩摩川内市)」(最終更新:2017年12月30日)https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E7%94%B0%E7%A5%9E%E7%A4%BE_(%E8%96%A9%E6%91%A9%E5%B7%9D%E5%86%85%E5%B8%82)
閲覧:2018.5.-6

現地取材:30.3.14
記事投稿:30.5.-6

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by fbox12 | 2018-05-06 21:30 | 神社

第佰貮拾 枚開神社 鹿児島県指宿市鎮座

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a0057057_21502211.pnga0057057_21580472.pngひらきき じんじゃ

鎮座地:
鹿児島県指宿市開聞十町1366
主祭神:
大日孁貴命(おおひるめのむちのみこと)
配祀神:
五男三女神を配祀。
明治時代以後は近隣の神社を合祀している。祭神については海神(わたつみのかみ)説もある。
社格等:
式内社(小)、薩摩國一宮、旧國幣小社、神社本庁別表神社
本殿様式:入母屋造銅板葺

歴史:
a0057057_22053769.png創始の年月日は社伝でも不明であり、かなり古くからあった神社と考えられている。元々は開聞岳を神体とする山岳信仰に根ざした神社であったと考えられる(右写真:神社横、県道から見える開聞岳)。
信頼できる史料での初出は『日本參代實録』貞観2年(860年)3月20日庚午条の神階昇叙記事で、この日に薩摩國従伍位上開聞神が従四位下を加えられた。
開聞神は、貞観8年(866年)4月7日に従四位上を授けられ、元慶6年(882年)10月9日に正四位下を授けられた。延長5年(927年)の『延喜式神名帖』には「薩摩國穎娃郡 枚聞神社」として記載され、式内社に列している。
鎌倉時代以降は新田神社(現 薩摩川内市)と薩摩國一宮の地位を巡って激しい争いを繰り広げるようになる。
戦国時代は嶋津氏の有力家臣であった頴娃氏の庇護下にあったが、元亀2年(1571年)に「証恩寺崩れ」と言われるお家騒動が起こり、その巻き添えとなって社殿を失った。
しかし、すぐに島津氏の庇護を受けて再興、同氏は当神社の籤により作戦を決めたという。
現在の社殿は慶長15年(1610年)に嶋津義弘が寄進したものを天明7年(1787年)に嶋津重豪が改築した物である。
外洋に面した立地から古くから「航海神」としても崇められ、江戸時代以降は琉球からの使節の崇敬も集めるようになった。
a0057057_22145102.pngしかし、江戸時代になると、宇佐八幡宮の五社別宮ともされていた新田神社の方が次第に重く扱われるようになったらしく、明治4年(1871年)5月に國幣小社に列したが、対して新田神社は同18年(1885年)に上位の國幣中社に列している。
第二次世界大戦後に近代社格制度が廃止されると、当社は神社本庁に参加、その別表神社に定められた。

神階:
貞観2年(860年)3月20日、従伍位上から従四位下 (『日本參代實録』)
貞観8年(866年)4月7日、従四位上 (『日本參代實録』)
元慶6年(882年)10月9日、正四位下 (『日本參代實録』)

境内:
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本殿方3間の入母屋造妻入で、屋根銅板葺、千木・鰹木を置き、正面に縋破風で1間の向拝を付ける。
平成2年(1990年)3月23日に鹿児島県の有形文化財に指定された。参道から本殿の方を向くと、本殿の屋根の上に開聞岳が位置する構造になっているが、現在は背後の樹木が繁茂して見通すことはできなくなっている。

この神社最寄の駅・バス停:
JR九州・指宿枕崎線 開聞駅・・徒歩約12分
鹿児島交通バス 神社前(停)・・開聞駅からの途中には開聞口(停)もある。

参考資料:Wikipedia「枚聞神社」(最終更新:2018年5月2日)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9E%9A%E8%81%9E%E7%A5%9E%E7%A4%BE
閲覧:30.5.-3

現地参拝:30.3.13
記事投稿:30.5.-3
  調整:30.5.-6

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by fbox12 | 2018-05-06 08:54 | 神社

265 弘前駅 (JR東日本/JR貨物/弘南鉄道)

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ひろさき

所在地:青森県弘前市大字表町
所属事業者:東日本旅客鉄道(JR東日本)
      日本貨物鉄道(JR貨物)
      弘南鉄道
乗り入れ路線:
JR東日本・JR貨物の奥羽本線(JR東日本が第一種鉄道事業者、JR貨物が第二種鉄道事業者)と、弘南鉄道の弘南線が乗り入れる。弘南線は当駅が起点である。JR東日本については、奥羽本線川部駅を起点とする五能線の全列車が当駅発着で運行されており、事実上2路線3方向の列車が利用できる。

歴史:
1894年(明治27年)12月1日 - 官設鉄道(逓信省鐵道局)の弘前驛(旅客駅)が中津軽郡和徳村に開業。
 12月11日 - 貨物の取扱を開始(一般駅となる)。
1909年(明治42年)10月12日 - 線路名称制定、奥羽本線所属駅となる。
1927年(昭和2年)9月7日 - 弘南鐵道の弘南弘前驛開業。
1929年(昭和4年)12月- 2代目駅舎供用開始。
1949年(昭和24年)4月1日 - 鉄道公安室設置。
1971年(昭和46年)12月20日 - 弘前駅旅行センター開業。
1973年(昭和48年)6月13日 - 弘南弘前駅に自動券売機を2台設置。
1980年(昭和55年)11月1日 - 弘南弘前駅の出改札業務を委託化。
1981年(昭和56年)4月24日 - 3代目駅舎供用開始。
1982年(昭和57年)4月23日 - 駅ビル「アプリーズ」開業。
1986年(昭和61年)4月1日 - 弘南弘前駅が弘前駅に改称。
 11月1日 - 国鉄駅での荷物の取扱を廃止。
1987年(昭和62年)4月1日 - 国鉄分割民営化により、国鉄の駅は東日本旅客鉄道・日本貨物鉄道の駅となる。
1993年(平成5年)4月1日 - 「びゅうプラザ弘前」開業。
2002年(平成14年) - 東北の駅百選に選定される。
2004年(平成16年)12月12日 - 4代目駅舎供用開始、東西自由通路開通。発車メロディーに「津軽じょんから節」を採用。
2006年(平成18年) - JR弘前駅2番線・3番線の大鰐寄りホーム上にエアコン付待合室設置。
2008年(平成20年)3月22日 - JR弘前駅に自動改札機と指定席券売機設置。
2010年(平成22年)4月1日 - 大釈迦駅 - 津軽新城駅間各駅の管理が浪岡駅から当駅に変更となる。
2017年(平成29年)4月1日 - 浪岡駅の業務委託化に伴い同駅が管理下になる。

JR東日本

a0057057_23115118.pnga0057057_23124576.png
a0057057_23133594.png所在地:青森県弘前市大字表町1-1
所属路線:奥羽本線
キロ程:447.1km(福島起点)
電報略号/事務管コード:ヒロ/220884
駅形態:直営駅(管理駅)


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駅構造:
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単式ホーム1面1線と島式ホーム1面2線、合計2面3線のホームを有する地上駅。構内西側にある単式ホームが1番線(上写真左:列車停車中)、構内東側にある島式ホームの内側が2番線(上写真右:列車停車中)、島式ホーム外側が3番線である。1番線と2番線の間にホームのない線路(下り本線)がある。上り本線は3番線(右写真:列車停車中)で、1番線は下り1番線、2番線は中線となっている。また、多数の側線がある。
橋上駅舎を有する(上写真に見える)。改札口は2階にあり、駅の東西を結ぶ自由通路「あずましろ〜ど」に面している。
駅舎内には駅事務室、みどりの窓口(営業時間:5時30分-22時00分)、びゅうプラザ(営業時間:平日10時30分-18時00分、土休日10時30分-17時00分)、タッチパネル式自動券売機3台、指定席券売機2台、待合所、売店(キオスク)自動改札機がある。
直営駅である。管理駅として、奥羽本線の津軽湯の沢駅 - 津軽新城駅間の各駅を管理している。
津軽地方の中心駅であり、青森県内の秋田支社管内駅を統括している。
中央口側1階には弘前市観光案内所・そば屋(キオスク)がある。2代目駅舎時代までは1番線ホーム上にそば屋(キオスク)・売店(キオスク)が、3代目駅舎時代までは2・3番線ホーム上にそば屋(伯養軒)・売店(伯養軒・旧キヨスク)があったが、現在はいずれのホームにも無い。また、3代目駅舎時代の待合室内では伯養軒が軽食コーナーや和食処を営業していた。
発車メロディは2004年12月12日より『津軽じょんから節』になった。なお、発車メロディは車掌操作となるため、ワンマン列車の場合は鳴らない。
接近放送は4点チャイムの後に接近案内放送が入る。列車到着時の駅名連呼は女性声で放送される。
電光掲示板はATOSエリアで使用されているものと同型のものが取り付けられているが、フォントはゴシック体である。

のりば:1・2・3番線 奥羽本線 下り 浪岡・新青森方面
                上り 大館・秋田方面
           五能線 五所川原・鰺ケ沢方面
1番線は奥羽本線下り列車、2番線は折り返し列車と五能線、3番線は奥羽本線上り列車が主に発着する。特急列車は青森方面行が1番線、秋田方面行が3番線となっている。
(写真参照:写真はすべて青森方から秋田方を捉えたもの)

弘南鉄道
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所在地:
青森県弘前市大字表町2-68
所属路線:弘南線
キロ程:0.0km(弘前起点)

駅構造:
頭端式ホーム1面2線を有する地上駅。ホームは1番線と2番線があるが、列車は主に1番線から発車する。
また、1番線には奥羽線からの非電化の渡り線があるため、購入した車両を搬入する際に使用される。
城東口側1階に自動券売機2台、出札窓口、改札口(有人)、事務室がある。
窓口では定期券・回数券・往復乗車券・硬券入場券を発売している。
改札は上り電車の到着後、乗客の降車が終了次第開始する。
3代目駅舎時代までは改札口は独立していたが跨線橋はJRと共用で、ホームの名称も4・5番線とJRからの続き番号だった。なお、以前は常時改札を行っており、ホーム上には待合室と売店・立ち食いそばおよび汲み取り式のトイレがあった。

のりば:
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1・2番線 弘南線 平賀・黒石方面
同じ弘南鉄道の路線である大鰐線中央弘前駅とは1km強離れており、バスや徒歩などでの連絡が必要となる。
また、上記駅名標はJR仕様のものだが、隣駅表示が「黒石」になっている。これは、「黒石方面」の意で、隣の駅は「弘前東高前」である。

貨物駅
JR貨物の駅は、旅客駅中央口北側にある。1面2線のコンテナホーム(ヤード)が設置されているほか、数本の留置線が敷設されている。
荷役線は、駅の着発線からいったん青森駅方面の西側へ伸びる引上げ線に入り、駅方向へ戻るように分岐している。
営業窓口のJR貨物弘前営業所が置かれている。なお駅業務・構内入換作業は八戸臨海鉄道に委託されている。
貨物列車は、1日1往復の高速貨物列車が青森信号場方面との間で運行されている。大館駅方面へ向かう列車や、専用貨物列車の発着はない。

取扱う貨物の種類:
コンテナ貨物 - 12ftコンテナのみを取り扱う。産業廃棄物・特別管理産業廃棄物の取扱許可を得ている。
1995年12月8日のダイヤ改正以前は車扱貨物も取り扱っていた。

参考資料:Wikipedia「弘前駅」(最終更新:2018年4月7日)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%98%E5%89%8D%E9%A7%85閲覧:2018.5.-5現地取材:2017.6.25記事投稿:2018.5-5


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by fbox12 | 2018-05-05 22:22 | 鉄道・バス

モアビタンDX5000

a0057057_22050937.pngミニチュアボトルコレクション D-005

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ローヤルゼリーエキス・リボフラビンリン酸エステルナトリウム・ピリドキシン塩酸塩・ニコチン酸アミド・タウリン・アスパラギン酸カリウム・マグネシュウム等量混合物・カルニチン塩化物・グリシン・L-リシン塩酸塩・L-アルギニン塩酸塩グルコン酸カルシウム水和物・無水カフェイン他添加物
容量:100ml

製造販売元:株式会社 廣貫堂(富山県富山市梅沢町2丁目9-1)

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by fbox12 | 2018-05-02 22:05 | コレクション