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第佰貮 廣瀨神社 岐阜県高山市鎮座

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ひろせじんじゃ

鎮座地:岐阜県高山市国府町広瀬町2604番地
祭神:天照皇大御神(あまてらすすめおおみかみ)
a0057057_22061201.pnga0057057_22073223.png由緒:
鴻の宮と呼ばれる当社は、往古の社殿はその興廃は詳らかでないが、往古「廣瀨神」又は、「廣瀨神社」と称したが、文禄(西暦1592-1595)慶長のころから「廣瀨神明」と改り、元禄五年七月、金森移封後は一円幕府の所領となった。同七年十月検地には二反一畝歩の除地を附せれた。以後は、単に「神明宮」と言った。「廣瀨神社」の旧称のあったことは、明治三年庚午九月「斐太後風土記」稿本に「廣瀨町村神明宮、元稱廣瀨神」と記せることでも明瞭であるが、明治三十一年十月二十九日願済復古して「廣瀨神社」と改めた。また、応永十八年九月、飛驒國司姉小路宰相人道尹綱、足利将軍に攻め滅ぼされたとき、社殿、僧院共兵火にかかって焼亡したことは「菩提院縁起」によって明らかである。後領主廣瀨氏により再興されたが、その年月は不詳である。永正十七年八月、廣瀨城主左近大夫將監利治が再建した棟札がある。以後興廃やや明瞭である。神社は乗鞍より峰続きにある。付近の山を「歩み山」と言い、山が段々延びて来るので、大塚(亀塚)を築くとピタリと止まったと言う。それで「止め塚」とも言った。止め塚は明治四年國府小学校の敷地の一部となり、昭和初期まで有ったが、校庭を拡張したので、現在は跡形もない。現在の祭神は天照大神になっているが、社記によれば天火明命が正当であるとされる。

この神社最寄の駅・バス停:
 JR高山本線 飛彈国府駅

現地参拝:28.8.31
記事投稿:29.5.31

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by fbox12 | 2017-05-31 22:36 | 神社

218 烏丸御池駅(←御池)(京都市営地下鉄)

a0057057_22051647.pngからすまおいけ(←おいけ)

所在地:京都府京都市中京区虎屋町
所属・路線:京都市交通局(京都市営地下鉄)
       烏丸線(駅番号:K07)
        キロ程:(国際会館起点)7.6km
       東西線(駅番号:T13)
        キロ程:(六地蔵起点)13.5km

概要:
京都市交通局(市営地下鉄)で唯一市営地下鉄同士の乗換が可能な駅。烏丸線が南北に東西線が東西に走っており、十文字に交わっている。京都市交通局で「烏丸御池」を名乗る鉄道駅は、昭和49(1974)年3月限りで廃止された京都市電烏丸線の停留所に次ぐ二代目。第2回近畿の駅百選選定駅である。駅直上には烏丸御池交差点が存在。烏丸線直上が烏丸通(国道367号線)で、東西線が走る通りが御池通(京都府道37号二条停車場東山三条線)である。また、「烏丸御池」の名称は交差点周辺の地域を指す名称としても使用される。

歴史:
東西線開業前は、単なる通過駅でありビジネス街としての発展度も低かった。東西線開業後は、京都市内唯一の地下鉄の交差する交通至便の場所として駅周辺が発展し始めている。平成20(2008)年には地下鉄の赤字解消策のひとつとして駅構内における商業利用の本格的な展開を開始し、金融機関のATMや、烏丸線と東西線の連絡通路に飲料水の自動販売機および休憩所をそれぞれ設置した。

昭和56(1981)年5月29日 - 京都市営地下鉄北王子 - 京都駅間の開通とともに御池駅として開業
平成9(1997)年5月22日 - 京都市営地下鉄東西線の開業に先立ち烏丸御池駅に改称
 10月12日 - 京都市営地下鉄東西線の醍醐駅 - 二条駅間の開通と同時に東西線の駅が開業し、乗換駅となる。
平成19(2007)年4月1日 - ICカード「PiTaPa」の利用が可能となる。
平成20(2008)年1月16日 - 東西線にて、京阪京津線の列車が当駅へ乗り入れを開始
 11月11日 - 京都銀行・京都信用金庫が駅構内にATMを設置する。
平成22(2010)年3月19日 - 当駅で烏丸線・東西線への乗り継ぎ時間の均等化、夜間増発などのダイヤ改正を実施
平成23(2011)年5月16日 - Kotochika御池開業
平成26(2014)年6月21日 - 烏丸線ホーム2番のりば(国際会館方面)の列車停止位置を約13m丸太町駅寄りに変更
 6月22日 - 烏丸線ホーム1番のりば(竹田方面)の列車停止位置を約13m丸太町駅寄りに変更
 12月20日 - 始発より烏丸線ホームにてホームドア可動式ホーム柵使用開始

駅構造:
地下1階に改札、その下の地下2階に烏丸線のりば、さらにその下の地下3階に東西線のりばが位置する。ホームは、烏丸線ホームが同線で唯一の相対式2面2線(開業時から東西線との乗り換え駅となる事を見越しての設計であった)、東西線ホームが島式1面2線となっている。また<ホームドアを装備している。東西線の各駅は駅ごとにステーションカラーが設定されており、当駅のステーションカラーは 朱色である。駅の北側に有人改札口があり売店(サービスセンター)もある。有人改札口を入ったところ(改札階から見ると中2階にあたる空間)には「御池駅ギャラリー」があり、地域の情報や美術工芸品が掲示・展示されている。

のりば:
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(烏丸線ホーム)
1番のりば 烏丸線 四条・京都・竹田・近鉄奈良方面
2番のりば 烏丸線 丸太町・北大路・国際会館方面

(東西線ホーム)
1番のりば 東西線 二条・太秦天神川方面
2番のりば 烏丸線 御陵・山科・六地蔵・(京阪京津線)浜大津方面

烏丸線は駅北北大路方に、東西線は駅東三条京阪方に、上下線の片渡り線が設置してある。東西線の片渡り線は、平成25(2013)年9月に起こった台風18号による大雨の影響で御陵駅 - 小野駅間が運転見合わせとなったとき、当駅と太秦天神川駅間を折り返す列車の折り返し用ポイントとして使われた。東西線ホームでは東側階段・同エレベーターが烏丸線の四条・京都・竹田/新田辺・近鉄奈良方面のホームに:西側階段・同エレベーターが烏丸線の北大路・北山・国際会館方面のホームに直結している。


参考資料:Wikipedia(2017年5月19日)
現地取材:28.9.-6
記事投稿:29.5.30

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by fbox12 | 2017-05-30 16:10 | 鉄道・バス

大人の休日倶楽部パス

a0057057_21543585.png大人の休日倶楽部パスは、JR東日本(一部、JR北海道)が発売する企画きっぷ。
東日本だけの「(東日本)」、東日本と北海道も使える「(東日本・北海道)」と北海道だけの「(北海道)」があるが、購入は、「大人の休日倶楽部(ミドル又はジパング)」の会員に限られる。
「大人の休日倶楽部」やきっぷの詳細は、JRのホームページなどで確認をしてもらうとして、以下は実際購入及び使用にあたっての体験談である。

⓵ 購入は、利用開始日の1か月前

  券面に利用期間が印字されるため、発売期間中であっても、最初の利用日1か月前でないと買えない。
  また、利用当日の購入もできないため、前日までに購入する必要がある。

  例として、
  5月22日から発売されているが、利用が6月25日からであれば、発売されるのは5月25日以降(見本の切符)。

② いずれも、指定席を6回まで(無料で)利用できるが、乗り継ぎの場合は、2列車を1回と数える。

  例として、
  A駅からC駅へ行く場合、A駅で乗れる列車はA-C間のB駅止まりで、先のC駅に行く列車はA駅には止まらない。
  この場合は、どうしてもB駅での乗り継ぎが必要となるが、発券の際、2列車をB駅で乗り継ぎの扱いとすれば、
  1回の指定となる。

③ 全車指定の列車でも(6回の)指定席の回数に数えない区間もある。

  全車指定の列車を盛岡~新函館北斗(新青森-新函館北斗間は「(東日本・北海道)」のみが利用可能)、
  盛岡~秋田間相互発着で利用の場合、及び、仙台~盛岡の途中駅に停車する「はやぶさ」「はやて」で、
  仙台~盛岡間に限り相互に利用する場合、指定席の利用回数に数えることなく普通車の空いている席を利用出来る
  (自由席特急券の扱いのため、座席の指定は無いので、場合によって着席できない場合もある)。
  一般の「立席特急券(全車指定の列車が満席のときに発売される特急券)」と同じ扱い(列車指定)では、
  上記の6回の内の1回にカウントされる。

a0057057_21564620.png④ 指定券の発券には、「大人の休日倶楽部パス」と
  「大人の休日倶楽部カード」が必要
  
  「大人の休日倶楽部パス」を使って指定券を発券する際は、
  券面に回数記録(上記「**パス」の赤い星マーク)を印字
  する関係で、必ず「大人の休日倶楽部パス」を提示しなけ
  ればならない。
  また、「えきねっと」で指定券を予約した場合など、本人確
  認のため「大人の休日倶楽部カード(クレジットカード)」
  が必要。


a0057057_15443440.png⑤ 「えきねっと」で予約した指定券は、発券しないと通常の料金が引き落とされる。

  上記6回の無料扱いは、指定券発券の際に料金が発生(上記6回であれば「0円」)
  するため、発券しないままでいると、通常の料金(払い戻しの場合の手数料を含
  む)がカード決済される。
  右のとおり、表示が「¥***」になっていれば、料金は発生しない。

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by fbox12 | 2017-05-28 22:24 | 鉄道・バス

1005 海老名サービスエリア (NEXCO中日本)

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a0057057_21401616.pngえびな**

所在地:(-01 下り)神奈川県海老名市大谷南五丁目2番1号
    (-02 上り)神奈川県海老名市大谷南五丁目1番1号
所属路線:中日本高速道路株式会社・第一東海自動車道(東名高速道路)
本線標識標記:海老名
愛称:EXPASA海老名(上り)
起点からの距離:(東京ICから)31.3km
位置:◄ 横浜町田IC(11.6km)海老名SA(2.6km)海老名JCT ►

概要:NEXCO中日本が運営する、神奈川県唯一のサービスエリア。東京から見て最初のサービスエリアである。
東名高速におけるサービスエリアの間隔は、名神高速道路の実績から推して約50km毎が理想とされたが、当サービスエリアは東京起点で約30km地点に位置する。これは、東名高速開通当時、基本往復4車線の当該路線も厚木以東は6車線であり、このことから、交通量の多さを考慮して厚木よりも東側にサービスエリアを設けることになったためである。これ以西はほぼ50km毎に設けられている。
当サービスエリアの利用者数は上下線合わせて1日平均約6万人と全国で最も多く、休日の渋滞する時間帯などには駐車場がしばしば満車になる。そのため、大型バス専用の駐車帯が設定されている。また、平成17(2005)年度のサービスエリア売上高ランキングでも当サービスエリアの下り線が一位、上り線が二位と上位を独占している。
ちなみに、下り線に設置の吉野家は、全国の同店の中でも売上が毎年上位にランクされる。なお用意されるメニューは通常店舗より少ない。

1005-01 下り線(名古屋方面)

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駐車場:大型 111台 / 小型 426台 / 兼用 42台
トイレ:
(メイン・東棟)
 男性用 大6(和式3・洋式3)・小20
 女性用 32(和式18・洋式14)
  同伴の男児用 2
 車椅子用 2
(メイン・西棟)
 男性用 大10(和式6・洋式4)・小36
 女性用 52(和式30・洋式22)
  同伴の男児用 2
 車椅子用 2
 
(サブ)
 男性 大5(和式2・洋式3)・小9 / 女性 10(和式5・洋式5)
ガソリンスタンド:(JXTGエネルギー(ESSO)(日星コーポレーション(株))、24時間)
 ・・以前は日星石油(株)が運営していた。
給電スタンド:(24時間)
レストラン & カフェ:(西洋フード・コンパスグループが運営)
 海鮮三崎港(10:00-22:00)/ パスクーア(10:00-22:00)/ カフェLISCIO(7:00-22:00)
フードコート:
 𠮷野家(24時間)/ ゑびな軒(24時間)/ そば処信濃(24時間)/ スナックイン(24時間)
 麺房 いろどり家 (24時間)/ 丸の内ポールスター (7:00-22:00)
ショッピング:
 シュガーバターの木(お土産、24時間)/ ぽるとがる(パン、6:00-20:00)
 えびな蔵市(お土産、24時間)/ プラスワン(コンビニエンスストア、24時間)
 サーティワンアイスクリーム(8:00-20:00)/ 東京ミルクチーズ工場
 えびな茶屋(8:00-20:00)/ うまいもの横丁 (8:00-18:00)/ こめらく (7:00-21:00)
 小田原吉匠 / カルビーキッチン(7:00-21:00)
自動販売機:
サービスエリア・コンシェルジュ:FAXサービス(7:00-22:00)
郵便ポスト:(収集)海老名郵便局
ALSOK MMK:綜合警備保障
ATM:(管理)みずほ銀行厚木支店・・カード取引のみで、通帳の使用はできない。


1005-02 上り線(東京方面)

駐車場:大型 89台 /小型 388台 /兼用 52台
トイレ:(メイン・東棟)
 男性 大10(和式6・洋式4)・小36 /女性 50(和式30・洋式20)同伴の男児用 2 / 車椅子用 2
(メイン・西棟)
 男性 大6(和式3・洋式3)・小20 / 女性 30(和式18・洋式12)同伴の男児用 2 / 車椅子用 2
(サブ)
 男性 大5(和式2・洋式3)・小9 / 女性 10(和式6・洋式4)
ガソリンスタンド:(JXTGエネルギー(ENEOSウイング)、24時間)
 ・・以前は千歳商会(有)(コスモ石油)→千歳商会(株)→中日本エクシス(株)が運営していた。
  (東名高速の給油施設は当エリアが最終となる)
給電スタンド:(24時間)
フードコート & ショッピング:(フジランドによる運営)
 IDEBOK(アイスクリーム、8:00-21:00)
 ローゼンハイム KOZA GRILL(ソーセージ、8:00-21:00)
 道頓堀くくる(たこ焼き、8:00-21:00)/ 日本一(焼き鳥、惣菜、弁当、8:00-21:00)
 PAO PAO(点心、8:00-21:00)/ モロゾフ(8:00-21:00)/ 柿安(8:00-21:00)
 とんかつ和幸(とんかつ、8:00-21:00)/ 京都清水寺 キッチン仁々木(8:00-21:00)
 十五夜米八(おこわ、8:00-21:00)/ 崎陽軒(8:00-21:00)/ 日本橋だし場+(8:00-22:00)
 東西逸品こみち(24時間)/ 頑固市場(24時間)/ 成城石井(スーパーマーケット、24時間)
 箱根Bakery Select(7:00-21:00)/ スターバックスコーヒー(8:00-21:00)
 M1プレート(洋食、24時)/ そばとうどんの店 海老名庵(蕎麦うどん、24時間)
 ラーメン専門店ザボン(ラーメン、24時間)
 富士山の国らーめんたいざん(ラーメン、24時間)/ がってん寿司(寿司海鮮丼、24時間)
 LONCAFE (7:00 - 22:00)
自動販売機:
サービスエリア・コンシェルジュ:FAXサービス(7:00-22:00)
郵便ポスト:(収集)海老名郵便局
ALSOK MMK:綜合警備保障
ATM:(管理)みずほ銀行厚木支店・・カード取引のみで通帳の使用はできない。

参考資料:Wikipedia(2017年5月25日)
現地取材:29.5.15(下り)
記事投稿:29.5.26
  調整:29.5.27/29.5.28

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by fbox12 | 2017-05-28 21:51 | 鉄道・バス

1003 EXPASA 足柄 (NEXCO中日本)

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a0057057_21042455.png名称:足柄サービスエリア
愛称:エクスパーサ あしがら
所属・路線:中日本高速道路株式会社・第一東海自動車道(東名高速道路)
本線標識の表記:足柄
供用開始日:昭和44(1969)年5月26日
位置:[6]大井松田IC - 鮎沢PA - 足柄SA - [7]御殿場IC

概要:
a0057057_14392378.png「EXPASA足柄」は、平成22(2010)年11月25日にリニューアルオープンした東名高速道路の足柄サービスエリアの愛称で、国内でも有数の広さを誇り、入浴・宿泊施設(昭和53(1977)年9月12日営業開始)を備えるサービスエリアの先駆けでもある。上下線とも、付近の地下水である「足柄の水」を提供する蛇口が設けられている。リニューアルに際し、“通過型サービスエリア”から“滞在型サービスエリア”へ質的転換を図る新しいスタイルのサービスエリアを目指し、複合商業施設化を図られた。
東名高速道路を経由する多くの高速バスが休憩箇所として設定しているため、下り線の23時から1時まで・上り線の4時から6時までは多くの高速バスを見ることが出来る。
御殿場プレミアム・アウトレットに近いことから、連休等にはサービスエリア裏手からシャトルバスが運行されることがある。

1003-01 下り(名古屋方面)
所在地:静岡県駿東郡小山町桑木
GS:JX日鉱日石エネルギー・24時間
コンビニエンスストア:ファミリーマート

1003-02 上り(東京方面)
a0057057_14402257.png所在地:静岡県御殿場市深沢
GS:昭和シェル石油・24時間
圏央道方面へ向かう場合、圏央道の菖蒲PA、中央道下りの談合坂SA、関越道上りの三芳PA、関越道下りの高坂SAまで給油施設は設置されていない。また、圏央道経由で中央道上り方面や新湘南バイパス方面へ向かう場合は最終の給油施設となる。このため、上り線のエリアの手前では圏央道方面へ向かう車に対して給油を促す標識が設置されている。
コンビニエンスストア:ローソン

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参考資料:Wikipedia(2016年4月14日)
現地取材:28.
記事投稿:28.11.13
  調整:29.5.28

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by fbox12 | 2017-05-28 21:10 | 鉄道・バス

第佰壱 (牧之郷)天神社 静岡県伊豆市鎮座

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a0057057_16442849.pnga0057057_17175838.png

a0057057_11435589.pngてんじんじゃ

鎮座地:静岡県伊豆市牧之郷746-1
祭神:菅原道真公


a0057057_21275141.pnga0057057_22102089.png由緒:
毎年11月3日の例大祭の日に奉奏される三番叟は、式三番叟あるいは種蒔き三番叟ともいわれ、四海静波と五穀豊穣を祈り、奉納されるもの。
出演者は、翁・千歳・黒尉・地謡・鼓・笛の他、塩まきや御神酒といった役柄がある。
伊豆半島では、三番叟が多く残されていることで研究者の注目を集めている。天城山以南が特に多いが、天城山以北においては、修善寺地区に最も多くの三番叟が残されている。その中でも、この天神社の三番叟は、伊豆地方でも最も伝統の古いものとされている。
(ふじのくに文化資源データベースから)


境内社:
(北小宮)
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 若宮八幡、宇佐八幡、輿田八幡、八坂神社、金山神社、三島神社、諏訪神社

(南小宮)
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 伊地明神、豊受大神、天照大神、吾妻大神、冨士石神



この神社最寄の駅・バス停
a0057057_11255784.png 伊豆箱根鉄道 牧之郷(まきのこう)駅(徒歩約10分)
新東海バス 修善寺駅から上大沢行き(平日3本運行)天神社

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by fbox12 | 2017-05-27 22:32 | 神社

第佰 大山神社 広島県尾道市鎮座

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a0057057_1549402.pnga0057057_167633.png
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おおやまじんじゃ

鎮座地:広島県尾道市因島土生町1424-2
主祭神:大山積大神(おおやまづみのおおかみ)
相殿神:須佐之男命(すさのおのみこと)
 天児屋根命(あめのこやねのみこと)
 大国主大神(おおくにぬしのみこと)
    事代主神(ことしろぬしのかみ)

由緒:
しまなみ海道沿線 因島の土生(はぶ)町、瀬戸内の島々を見渡す小高い丘に鎮座しており、宝亀四(773)年伊予國大三嶋の大山祇神社より分霊を勧請し、隠嶋大神と称したといわれている因島最古の神社である。
『三代実録』の「元慶二(878)年備後の國無位十二月十五日隠嶋神に従五位下を授ける」とあるのは当神社の事といわれている。

境内社:
a0057057_21393995.png耳明神社(みみごじんじゃ)

由緒:
創立年代不詳なるも、鎌倉時代初期(約八百年前)巻幡氏先祖の藤原泰高が因島に来島し、祖神天児屋根命を祀ったのが始まりと伝えられる。
祭神の天児屋根命は、中臣氏の祖神で、天照大神が天の岩窟に隠れた際、天の岩戸の前で祝詞を奏し祭りを執り行った神。中臣氏は、「ナカトミ」として神と人との間を執り持つ役割を担い、その子孫は藤原・中臣・藤波氏などとして栄えた。

耳明神社は、耳の形に似たサザエの殻の中に酒と米を入れ供え祈願すると、叶えてくれると伝わる特殊神事があり。
別名「有徳神社」とも言い、耳を明るくして人のことを聞くと徳が有り、運を開く神としても信仰されている。

a0057057_21563467.pnga0057057_2292940.png

自転車神社(じてんしゃじんじゃ)

由緒:
交通の守り神様・橋渡しの神様といわれる、和多志大神(わたしのおおかみ)を祀っている。
サイクリストに境内の休憩所を開放したところ、交通安全や旅の安全の祈祷を自転車ごと受けられることから自転車神社と言われるようになった。

参考資料:大山神社ホームページ
現地参拝:29.3.15
記事投稿:29.5.22(記事追加中)

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by fbox12 | 2017-05-22 16:08 | 神社

216 東成田駅 (京成/芝山鉄道)(←成田空港駅(初代)(京成))

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a0057057_22274055.pngひがしなりた(なりたくうこう)

所在地:千葉県成田市古込字込前124
所属・路線:(216-1)京成電鉄株式会社・東成田線(旧 本線)
      (216-2)芝山鉄道株式会社・芝山鉄道線
駅番号:(京成)KS44
    (芝山)なし
キロ程:(京成:京成成田起点)7.1km
    (芝山:東成田起点)0.0km
乗換:空港第2ビル駅(JR成田線・京成本線・京成成田空港線(成田スカイアクセス)) 

a0057057_21562473.png概要:
この駅は現在京成電鉄が管轄する共同使用駅である。(空港第2ビル駅管理)。
京成電鉄の東成田線と、芝山鉄道の芝山鉄道線が乗り入れている。東成田線の終点かつ芝山鉄道線の起点駅である。なお、両線の列車は当駅を介して相互直通運転を行っており、ほぼ一体の形で運用されている。ただし、芝山鉄道線でのPASMO・Suica等ICカードの利用はできない。京成電鉄と他社の共同使用駅では、押上線の押上駅を除き、駅を実際に管理している会社の駅番号のみが付与されるため、京成東成田線に対してのみKS44の駅番号が付与されている。
a0057057_21582143.png成田国際空港の敷地内にあり、昭和53(1978)年に成田空港旅客ターミナルビルの最寄りとなるターミナル駅「(216-91:初代)成田空港駅」として開業したが、平成3(1991)年に現 成田空港駅(以下「新駅」)が開業した際に現在の名称へ変更され、ターミナル駅としての役割は新駅と空港第2ビル駅(平成4(1992)年開業)に譲ったが、空港内に勤務する利用客が多いほか、現在も改札外コンコースからは、空港第2ビル駅を経由して成田空港第2ターミナルへ抜ける地下連絡通路が延びている。このような経緯から、平成29(2017)年時点でも「成田空港駅」だった当時の名残が各所に見られる。

年表:
昭和53(1978)年5月21日 - 京成電鉄本線の終点の成田空港駅として開業。当時は成田新幹線計画があり、当駅から空港に直結することができなかった。そのため、当時は現在の第1ターミナルしかなかった成田空港まで、成田空港交通により有料の連絡バスが運行されていた。また、徒歩で行くことも可能だった。
平成3(1991)年3月19日 - 成田新幹線計画が消滅し、同線の施設の一部を活用して成田空港ターミナルに直接乗り入れる成田空港高速鉄道(JR東日本成田線・京成本線)の開業により、新線の方が本線となり、それまでの本線だった京成成田 - 成田空港間を「東成田線」として分離、成田空港駅は東成田駅に改称した。
平成14(2002)年10月27日 - 東成田線を延長する形で芝山鉄道線が開業。同時に京成東成田線と芝山鉄道線の相互直通運転が開始され、当駅は両社の共同使用駅となる。

駅構造:
島式ホーム2面4線を有する地下駅。そのうち、実際に列車発着に使用されているのは1面2線である。
エレベーターは設置されていないが、上りエスカレーター1基がホーム中央と改札内コンコースを結んでいる。トイレは改札内、および地上の旧第4ゲート内にある。
地上駅舎には、成田空港へ向かう連絡バス乗客のための第4ゲート(現在は閉鎖)が併設されていた。また、これとは別に空港敷地内に入るための徒歩専用の第5ゲート(実質的な東成田駅の出入り口)がある。
当駅は駅構内に大型のレリーフを飾るなど、ほとんどの場所で成田空港駅時代の面影を残している。成田空港駅時代は広大なコンコースを有し、駅構内店舗も営業し、エスカレーターも稼動していたが、改称後は駅本屋と改札外コンコースを連絡する2基やホームとコンコースを結ぶ下りエスカレーターが使用停止状態となっている。ホームについても1・2番線は特急・スカイライナー、3・4番線が普通専用であり、字幕式の発車標も設置されていた。しかし、改称して以降、営業用として供用するコンコース面積は大幅に縮小され、発車標も撤去された。特急ホームも閉鎖されて関係者以外立入禁止となり、2本の線路を留置線として使用している。旧特急ホームの床タイルもすべて剥がされ、エスカレーターも停止しているが、駅名標は「なりたくうこう 成田空港 NARITA AIRPORT」のまま残されている。また、同ホーム側に掲示されている広告も成田空港駅時代末期当時のままである。なお、旧特急ホームの線路は芝山千代田方には繋がっておらず行き止まりとなっている。
成田空港駅時代に3・4番線として使用していた現在のホームも当駅への改称後に駅名標が京成タイプのものに置き換わり、広告も日本の風景のものに置き換えられた。しかし、芝山鉄道線が開業した後は新しく駅名標が設置され、従来の駅名標は使用停止となった。
改札外コンコースからは、空港第2ビル駅を経由して成田空港第2ターミナルへ抜ける全長500mの地下通路が延びている(営業時間は 5:20から23:15まで)。当駅にも空港第2ビル駅の時刻表が掲出されており、連絡通路を抜けたところに設置されている自動券売機で同駅からの乗車券を購入することができる。
成田空港駅時代は列車の接近、到着、発車時における案内放送が流れ、発車ベルも鳴っていたが、改称してからは接近、案内放送が流れず、発車時にベルが鳴るのみとなっている。
平成9(1997)年4月1日に博物館動物園駅が営業休止(平成16(2004)年4月1日に廃止)してから、平成22(2010)年7月17日に成田空港線(成田スカイアクセス)が開業し成田湯川駅が新設されるまでの間、京成電鉄で停車する列車本数が最少の駅だった。芝山鉄道線開業前は上野・都営浅草線方面の列車を中心に発着していたが、開業後はそれが朝と夕方以降に縮小され、日中は成田 - 芝山千代田間の区間列車が発着している。

のりば:
1番線 京成・東成田線 上り 京成成田・津田沼・船橋・京成上野・都営浅草線・京急線方面
2番線 芝山鉄道線 下り 芝山千代田方面
旧特急ホーム(旧1・2番線)京成・留置線 上り 留置もしくは留置後に京成成田方面へ折り返し

参考資料:Wikipedia(東成田駅:2017年4月1日)
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by fbox12 | 2017-05-21 23:15 | 鉄道・バス

第九拾九 西古渡神社 愛知県名古屋市中川区鎮座

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にしふるわたりじんじゃ

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鎮座地:愛知県名古屋市中川区尾頭橋4丁目2−3
祭神:須佐之男大神他

由緒:
「古渡」の名は、かつてここに鎌倉街道の渡し船があったことに由来する。
JR東海道本線 尾頭橋駅(東海道本線 金山・名古屋駅間の駅:旧ナゴヤ球場正門前駅)前にあり、神社の横には西古渡公園がある。
名古屋市中区の闇之森八幡社(くらがりのもりはちまんしゃ)の兼務社。

境内社:
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福徳稲荷社

ふくとくいなりしゃ

祭神:福徳稲荷大神


この神社最寄の駅・バス停
 JR東海 東海道本線・尾頭橋


現地参拝:26.8.30
記事投稿:29.5.13
 調整:29.5.14

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by fbox12 | 2017-05-13 10:39 | 神社

第九拾八 氣比神宮 福井県敦賀市鎮座

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a0057057_22211719.pnga0057057_22224216.pngけひじんぐう

鎮座地:福井県敦賀市曙町11-68
主祭神:伊奢沙別命
社格等:式内社(名神大七座)、越前國一宮、旧官幣大社、神社本庁別表神社、笥飯宮・笥飯大神宮

由緒、概要:
福井県中央部、敦賀市市街地の北東部に鎮座する。敦賀は天然の良港を有するとともに、北陸道諸國(現在の北陸地方)から畿内への入り口であり、対外的にも朝鮮半島や中国東北部への玄関口にあたる要衝である。神宮はそのような立地であることから、「北陸道総鎮守」と称されて朝廷から特に重視された神社であった。
『古事記』『日本書紀』では早い時期に神宮についての記事が見えるが、特に仲哀天皇(第14代)・神功皇后・応神天皇(第15代)との関連が深く、古代史において重要な役割を担う。また、中世には越前國の一宮に位置づけられており、福井県から遠くは新潟県まで及ぶ諸所に多くの社領を有していた。
社殿のほとんどは第二次世界大戦中の空襲で焼失したため、現在の主要社殿は戦後の再建になる。空襲を免れた大鳥居は「日本三大鳥居」にも数えられる壮麗な朱塗鳥居であり、国の重要文化財に指定されている。また境内社の角鹿(つぬが)神社は「敦賀」の地名発祥地であると伝える。そのほか祭事では多数の特殊神事が現在まで続き、古図、古面等の有形文化財を伝えている。

a0057057_2219279.png神宮の社名について、史料には主なものとして次の呼称が見える。
 氣比大神/氣比神 (『古事記』、『続日本紀』等)
 笥飯大神/笥飯神 (『日本書紀』)
 氣比神社 (『日本後紀』、『延喜式』神名帳)
 氣比大神宮 (『続日本後紀』等)
 氣比神宮 (『日本文徳天皇実録』等)
以上のほか、史料には「氣比宮」「氣比大明神」「氣比社」「氣比明神」などの呼称も見える。明治維新後、明治28(1895)年には神宮号が宣下され、それ以後は社名を「氣比神宮」としている。なお、氣比の松原の冠称「氣比」も神宮の社名に由来するもので、同地が古くは神宮の領地であったことに因むとされる。
「ケヒ(氣比/笥飯)」の由来としては、『古事記』では「御食津(みけつ)」から「氣比」に転訛したという。『古事記』の伝承に加え、古い表記の「笥飯」は当て字ながら「箱中の飯」を意味することから、「ケヒ」とは「食(け)」の「霊(ひ)」、すなわち食物神としての性格を表す名称とする説がある。これとは別に、応神天皇と氣比神との名の交換を意味する「かへ(kafë)」から「けひ(këfi)」に変化したとする説もある。

祭神について:
上記の通り主祭神はイザサワケ(伊奢沙別/去来紗別)で、氣比神宮特有の神である。神名「イザサワケ」のうち「イザ」は誘い・促し、「サ」は神稲、「ワケ」は男子の敬称の意といわれる。そのほかの名称として、史書では「笥飯」「氣比」「御食津」と記されるほか、『氣比宮社記』では「保食神」とも記される。これらは、いずれも祭神が食物神としての性格を持つことを指す名称であり、敦賀が海産物朝貢地であったことを反映するといわれる。このことから、神宮の祭神は上古より当地で祀られた在地神、特に海人族によって祀られた海神であると解されている。一方、『日本書紀』に新羅王子の天日槍の神宝として見える「胆狭淺大刀(いささのたち)」との関連性の指摘があり、イザサワケを天日槍にあてて新羅由来と見る説もある。

このイザサワケは、仲哀天皇・神功皇后・応神天皇と深いつながりにあることが『古事記』『日本書紀』によって知られる。両書では、仲哀天皇が角鹿に行宮として「笥飯宮」を営んだとあるほか、天皇の紀伊國滞在中に熊襲の謀叛があり角鹿にいた神功皇后を出発させたと見え、角鹿の地が登場する。神功皇后は、仲哀天皇の突然死を経て新羅に遠征(三韓征伐)、帰途に太子(誉田別尊;応神天皇)を産んだ。そして、皇后と太子がヤマトへ戻る際に謀叛があったが無事平定し、太子は武内宿禰に連れられて禊のため氣比神に参詣したという。以上のように、歴史の早い段階から氣比神が朝廷の崇敬を受ける神として登場しており、一連の出征の始まり・終わりを成したことから古くは軍神として崇敬されたとも見られる。
『古事記』ではその後の経緯として、武内宿禰に連れられた太子(応神天皇)はイザサワケと名の交換を行ったとする(易名説話)。説話によれば、太子が角鹿(敦賀)の仮宮を営んでいると、夜の夢にイザサワケが現れて名を交換するよう告げられた。太子が承諾するとイザサワケは翌朝に浦に出るように言い、太子が言われたとおりにすると浦には一面にイザサワケの献じた入鹿魚(イルカ)があった。これにより太子はイザサワケを「御食津大神(みけつのおおかみ)」と称え、のちにその名が「氣比大神」となったという。同様の説話は『日本書紀』でも別伝として記されているが、『古事記』『日本書紀』とも内容には疑問点が指摘される。この説話の解釈には諸説あるが、特にその真相を「名(な)と魚(な)の交換」すなわち「名の下賜」と「魚の献上」であるとして、氣比神とその奉斎氏族)の王権への服属儀礼を二重に表すと見る説が有力視される。また、以上のように当地が応神天皇系の勢力基盤であったことは、越前から出た応神天皇五世孫の継体天皇(第26代)とも関係するといわれる。
イザサワケとともに祀られる仲哀天皇以下6柱に関しては、7世紀後半に天皇霊が国家守護神として各地に設置された動きと関連づける説がある。その中で、守護神として合祀された仲哀天皇は敗者の霊として「祟り性」を備えていたために、全国でも早期の神宮寺成立・神階昇叙につながったと指摘される。

歴史:
創建・伝承
社伝では、上古に主祭神の伊奢沙別命は東北方の天筒山に霊跡を垂れ、境内北東方にある土公の地に降臨したという。そして『氣比宮社記』によれば、仲哀天皇の時に神功皇后が三韓征伐出兵にあたって氣比神に祈願をすると、海神を祀るように神託があり、皇后は穴門に向かう途中で海神から干・満の珠を得た。そして仲哀天皇八年三月に神功皇后と武内宿禰が安曇連に命じて氣比神を祀らせたといい、これが神宮の創建になるとしている。またこの時、氣比大神は玉姫命に神憑りして三韓征伐の成功を再び神託したとも伝える。その後大宝二(702)年に文武天皇の勅によって社殿を造営し、本宮に仲哀天皇・神功皇后を合祀、東殿宮・総社宮・平殿宮・西殿宮の4殿に各1柱を祀ったという。
また前述のように、『古事記』『日本書紀』では仲哀天皇・神功皇后・応神天皇の時期に記事が記されている。しかしながら、その後は持統天皇六(692)年まで神宮に関する記事は見えないことから、7世紀中頃までは朝廷とのつながりは薄かったとして、7世紀後半頃に氣比神の祭祀権が在地豪族から朝廷の手に移ったと推測される。

概史:
古代
国史において氣比神が再び現れるのは持統天皇6(692)年で、その記事では越前の國司が角鹿郡の浜で獲った白蛾を献上したため、20戸の神封(神社に寄進された封戸)が増封されたと記されている。霊亀元(715)年には境内に神宮寺(氣比神宮寺)が設けられたというが、これは文献上で全国最古の神宮寺成立になる。また『新抄格勅符抄』によれば、天平3(731)年に従三位料として200戸の神封があり、天平神護元(765)年には神封は244戸に及んだ。同記事では神階として「従三位」と記されているが、これも全国諸神の神階記事の内で最古になる。その後、神階は寛平5(893)年までに正一位勲一等の極位に達した。このような神階昇叙には9世紀の東アジア情勢が背景にあり、この時期に海神としての本来の性格が朝廷から重要視されたと推測される。
また、神宮は朝廷鎮護の重要な一角として古くから朝廷との結びつきが強く、朝廷からの奉幣が宝亀元(770)年(使者:中臣葛野連飯麻呂)、承和6(839)年(使者:大中臣朝臣礒守・大中臣朝臣薭守)、仁寿2(852)年、貞観元(859)年(使者:大中臣朝臣豊雄)にあった。また、承和6(839)には神宮の雑務は国司預かりから神祇官直轄に移行され、朝廷との関わりを一層強めている。
延長5(927)年成立の『延喜式』神名帳では越前國敦賀郡に「氣比神社七座 並名神大」と記載され、七座が名神大社に列している。また、同帳に見える「角鹿神社」「大神下前神社」「天利剣神社」「天比女若御子神社」「伊佐奈彦神社」の式内社5社は神宮の境内社に比定される。そのうちでも特に、天利剣・天比女若御子・天伊佐奈彦の3社は『続日本後紀』において「気比大神之御子」と見える。このことから、神宮周辺の諸社が御子神として編成されたとして、敦賀の在地社会において神宮中心の国家祭祀体系が構築されたと考えられている。

中世から近世
中世以降は越前國の一宮に位置づけられ、「北陸道總鎭守」とも称されたという。古代に続いて中世も広大な社領を有しており、その土地は越前を中心として遠く越中・越後・佐渡にまで及んでいた。南北朝時代の戦乱では、宮司の氣比氏治は南朝方につき金ヶ崎城を築いて奮戦したが、北朝方に敗れ一門は討ち死した。この敗死により神宮の社領も減じられたが、それでもなお24万石を所領したと伝える。神宮は中世を通じて社殿焼失が多く、史料には再建を示す記事が多く見られる。
戦国時代には、社家は戦国大名朝倉氏の下に組み込まれた。そのため、織田信長の侵攻によって社殿のほとんどを焼失、朝倉氏滅亡とともに社領も没収されて社勢は著しく衰退した。
江戸時代に入ると慶長8(1603)年に結城秀康から百石が寄進され、慶長9(1604)年には社殿造営がなされて再興が果たされた。その後は、徳川家光から秀忠の病気平癒祈願料として五十石が寄進されたほか、大野城主の松平但馬守などからの奉幣も受けている。しかしながら、かつての繁栄は見られなくなったという。

近代以降
明治維新後、明治4(1871)年に近代社格制度において国幣大社に列した。明治28(1895)年には官幣大社に昇格するとともに、神宮号宣下により社名を現在の「氣比神宮」に改称した。
昭和20(1945)年には敦賀空襲により旧国宝の本殿ほか社殿の多くを焼失した。本殿は昭和25(1950)年に再建され、その他の社殿も再建・修復を経て現在に至っている。また、戦後は神社本庁の別表神社に列している。

神階:
六國史時代における神階奉叙の記録
天平3(731)年12月10日、従三位 (『新抄格勅符抄』) - 表記は「氣比神」
承和2(835)年2月23日、正三位勲一等 (『続日本後紀』) - 表記は「氣比大神」
承和6(839)年12月9日、正三位勲一等から従二位勲一等 (『続日本後紀』) - 表記は「氣比大神」
承和7(840)年9月13日、従二位勲一等 (『続日本後紀』) - 表記は「氣比大神」
嘉祥3(850)年10月7日、正二位 (『日本文徳天皇実録』) - 表記は「氣比神」
天安3(859)年1月27日、正二位勲一等から従一位勲一等 (『日本三代実録』) - 表記は「氣比神」
六國史以後
寛平元(889)年7月17日、越前國神を一階昇叙 (『日本紀略』)
寛平5(893)年12月29日、正一位勲一等 (『類聚參代格』) - 表記は「氣比大神」
正一位勲一等 (『越前國内神名帳』) - 表記は「氣比大明神」

神職:
氣比神の祭祀は、古代には角鹿氏(つぬがうじ、角鹿直・角鹿海直)が担ったといわれる。この角鹿氏は敦賀における海上交通・漁業の統率者(海人族)であり、一説には角鹿國造の氏族ともいわれる。敦賀市には首長墓として5世紀末の向出山1号墳(直径約60メートルの円墳)が残るが、その副葬品には被葬者と朝鮮半島の深いつながりが指摘される。この角鹿氏は、7世紀後半頃には朝廷の支配下に入ったと見られている。
記録上では、宝亀7(776)年に朝廷から初めて宮司職が置かれ、宮司は従八位に準じたとある。以後、文献では宮司として大中臣氏・中臣氏の各人物が見える。延暦23(804)年からは、宮司の就任には神祇官の認可が必要となり、朝廷とのつながりを強めている。また承和2(835)年の記事では禰宜・祝の各職が見える。『延喜式』によれば、松原客館(渤海使の客館)の検校も宮司が担っていた。なお『朝野群載』には、承暦4(1080)年に神事を穢した祟りがあったため、神官に中祓を科した記録が見える。
古くは神職として大宮司・大祝・権祝・副祝・正禰宜・副禰宜職があり、48の社家は大中臣姓・角鹿姓を称したという(室町時代からは菅原姓も加わった)。人物としては特に、南北朝の争乱で恒良親王・尊良親王を奉じた大宮司の氣比氏治・斎晴親子が知られる。また検校・行司・別当・執当等36坊を数える社僧職もあったという。信長の越前侵攻後は、大中臣姓の東河端・西河端・北河端・石倉・石塚・平松の6家と、角鹿姓の嶋家、菅原姓の宮内家の計8家を残すのみとなった。この社家制度は、明治4(1871)年の太政官布告を以て廃止されている。

社領:
六國史時代における社領の記録は次の通り。
持統天皇6(692)年9月26日、20戸増封 (『日本書紀』) - 表記は「笥飯神」
天平3(731)年12月10日、従三位料として200戸 (『新抄格勅符抄』) - 表記は「氣比神」
天平神護元(765)年9月7日、44戸(計244戸) (『新抄格勅符抄』) - 表記は「氣比神」
上記のうち持統天皇6年の記事は「増封」であるため、これに先立ってすでに封戸があったとされる。また244戸という神封は、全国でも屈指の数になる。その後、『日本參代実録』によれば元慶8(884)年に神宮の封租穀は神庫に納めて祭祀費にあてられるともに、神戸の百姓の國役への充当が停止されている。
平安時代末期以降には社領が荘園化し、鳥羽院を本家として皇室領に入り、美福門院・八條院・春華門院・順徳院・後髙倉院・安嘉門院・室町院・亀山院・後宇多院・後醍醐天皇へと大覚寺統に伝えられた。また、律令制の崩壊とともに先の封戸も荘園化したとされる。それらの荘園領は建暦2(1212)年注進の目録によって知られ、同文によると社領は敦賀郡を中心とする越前國に加え、敦賀港・三國港の要港、越中・越後までの一部にまで及んでいた。作田は257町余で所当米は1,700石余、さらに請加米を加えると2,111石であった。そのうち本家分は702石余、領家分は292石余、大宮司(預所)分は177石余である。前述のようにこれら荘園の本家は皇室であったが、領家は九条良輔(九条兼実の子)の知行に始まって延暦寺属の青蓮院に伝えられた。
応仁の乱の後は、武家による侵略を受けながら朝倉氏滅亡までは所々の社領を有したが、朝倉氏の滅亡後に衰退した。江戸時代の社領は100石であった。

社殿:
主要社殿は昭和20(1945)年の空襲で焼失したため、いずれも戦後の再建である。本殿(本宮)は昭和25(1950)年の再建で、南面して鎮座する。本殿の周囲には東殿宮(本殿の東)・総社宮(東北)・平殿宮(西北)・西殿宮(西)の4社殿が建てられ、これらは「四社の宮(ししゃのみや、四社之宮)」と総称される。四社の宮はいずれも平成に入っての再建社殿である。また、本殿に接続して内拝殿・外拝殿が建てられているが、これらは昭和の大造営時の再建になる。
戦災で焼失した旧本殿は、江戸時代初期の慶長19(1614)年に結城秀康によって再建されたもので、旧国宝に指定されていた。桁行三間・梁間四間、「両流造」という独特の形式の大規模な社殿で、屋根は檜皮葺、正面には一間の向拝が付設されていた。また内部は正面一間通りを外陣とし、奥は一間ごとに3分割して中央間に中陣・内陣・内々陣を設け、左右脇間は空殿とされていた。『氣比宮旧記』によれば、そのうち内々陣の中央に仲哀天皇、右(西)に神功皇后、左(東)に保良太神(伊奢沙別命)が祀られていたという。
社務所は平成23(2011)年の再建。以前の社務所では裁判所庁舎が移転・使用されていた。

大鳥居
境内入り口に建てられている大鳥居(上写真左)は、江戸時代前期の正保2(1645)年の造営。木造朱塗の両部鳥居で、高さ36尺(10.93メートル)・柱間24尺である。扁額「氣比神宮」は有栖川宮威仁親王の染筆になる。
神宮の境内入り口は古くは東側にあったため、初代鳥居は弘仁元(810)年に境内東側に建てられていたが、その鳥居は康永2(1343)年に大風で倒壊したという。そして、寛永年間(1624年-1644年)に佐渡の旧神領地の鳥居ケ原から奉納された榁(むろ)の大木を使用して、現在の大鳥居が境内西側に建てられたと伝える。この鳥居は空襲の被害を免れており、国の重要文化財に指定されている。また、奈良の春日大社・広島の厳島神社の大鳥居とともに「日本三大鳥居」にも数えられている。

摂末社:
現在の摂末社は、摂社5社・末社9社の計14社(いずれも境内社)。摂社は伊佐々別神社以外は式内社で、末社のうちでも大神下前神社は式内社である。
これら摂末社のうち、本殿向かって左手に鎮座する伊佐々別・天利劔・天伊弉奈姫・天伊弉奈彦・擬領・劔・金・林・鏡の9社には本宮と関係が深い神々が祀られており、「九社の宮(くしゃのみや、九社之宮)」と総称される。『続日本後紀』によると、天利劔・天伊弉奈姫・天伊弉奈彦の3社は「氣比大神之御子」であるという。

摂社
98-1 角鹿神社 つぬがじんじゃ
祭神:都怒我阿羅斯等命(つぬがあらしとのみこと)、合祀に松尾大神
社格:式内社「角鹿神社」、越前國内神名帳「正四位 敦賀神」
地名「敦賀」の発祥地と伝える。境内東側の裏参道に鎮座する。『氣比宮社記』や「氣比宮古図」では「政所神(まんどころのかみ)」と見える。また、正安2(1300)年まで東口が境内表口であったことにより、別に「門神(かどのかみ)」とも称されていた。
祭神の都怒我阿羅斯等は、『日本書紀』において垂仁天皇の時に渡来したと記されている意富加羅国(任那国)王子で、同書では笥飯浦に至ったと見える。神宮の伝承では、その後天皇は阿羅斯等に当地の統治を任じたといい、この角鹿神社はその政所跡に阿羅斯等を祀ったことに始まるとして、「敦賀(つるが)」の地名は当地を「角鹿(つぬが)」と称したことに始まるとしている。
角鹿神社の祭神を都怒我阿羅斯等とする説は諸文献に記されているが、一方で祭神を角鹿国造祖の建功狭日命(たけいさひのみこと)とする説もある。建功狭日命は『先代旧事本紀』に角鹿国造として見える人物で、江戸時代末期まで角鹿神社の社家であった島家が角鹿氏後裔を称したことからも、角鹿氏祖と推測される建功狭日命説が有力視されている。またこれとは別に、この角鹿神社は古くからの敦賀の地主神であったとして、イザサワケ並びに応神天皇が主神として本宮に祀られるとともに、その客神の地位に位置づけられたと見る説もある。なお、松尾大神は天保10(1839)年の合祀とされる。
明治10(1877)年に神宮摂社の第一に定められた。社殿は流造銅板葺。嘉永4(1851)年の改築によるもので、神宮の境内社では唯一戦災を免れている。

九社の宮
 写真左・・北面:手前 伊佐々別神社、奥 擬領神社
 写真右・・東面:手前から 天井弉奈彦神社、天井弉奈姫神社、天利劔神社、鏡神社、林神社、金神社、劔神社
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98-2 伊佐々別神社
いささわけじんじゃ
祭神:御食津大神荒魂(みけつおおかみあらみたまのかみ)
九社の宮の一社として本殿西側に鎮座する。祭神は本宮主祭神の荒魂である。社伝では、氣比神から御食の魚を賜った誉田別命(応神天皇)が、武内宿禰に命じて新たに氣比神の荒魂を勧請したことに始まるという。漁撈の神であるとされ、海を向くために社殿は北面するという。

98-3 天利劔神社
あめのとつるぎじんじゃ
祭神:天利劔大神(あめのとつるぎのおおかみ)
社格:式内社「天利剣神社」、越前国内神名帳「正四位 天利剣神」
九社の宮の一社で、第五之王子宮。社伝では仲哀天皇による宝剣の奉納に始まるという。『続日本後紀』によると承和7(840)年に無位から従五位下に昇叙された。
明治10(1877)年に境内摂社に定められた。社殿は戦災で焼失、昭和55(1980)年に流造銅板葺で再建。

98-4 天伊弉奈姫神社
祭神:天比女若御子大神(あめひめわかみこのおおかみ)
社格:式内社「天比女若御子神社」、越前國内神名帳「正四位 天若神子神」
「あめのいざなひめじんじゃ」。九社の宮の一社で、第六之王子宮。社伝では天伊弉奈姫神社・天伊弉奈彦神社の2社は造化陰陽2柱を祀るという。『続日本後紀』によると「天比女若御子神」として承和7(840)年に無位から従五位下に昇叙された。
明治10(1877)年に境内摂社に定められた。社殿は戦災で焼失、昭和55(1980)年に流造銅板葺で再建。

98-5 天伊弉奈彦神社
祭神:天伊弉奈彦大神(あめのいざなひこのおおかみ)
社格:式内社「伊佐奈彦神社」、越前國内神名帳「正四位 天伊佐奈彦神」
「あめのいざなひこじんじゃ」。九社の宮の一社で、第七之王子宮。社伝では天伊弉奈姫神社・天伊弉奈彦神社の2社は造化陰陽2柱を祀るという。『続日本後紀』によると「天伊佐奈彦神」として承和7(840)年に無位から従五位下に昇叙された。
明治10(1877)年に境内摂社に定められた。社殿は戦災で焼失、昭和55(1980)年に流造銅板葺で再建。

末社
98-11 擬領神社
祭神:建功狭日命(たけいさひのみこと)
「おおみやつこじんじゃ」。九社の宮の一社。祭神は一説に大美屋都古神(おおみやつこのかみ)とも、玉佐々良彦命(たまささらひこのみこと)とも。建功狭日命は『先代旧事本紀』に角鹿國造祖と記されている人物である。

98-12 劔神社
祭神:姫大神尊(ひめのおおかみのみこと)
「つるぎじんじゃ」。九社の宮の一社で、第一之王子宮。社伝では、敦賀市莇生野の劔神社からの勧請という。

98-13 金神社
祭神:素盞嗚尊(すさのおのみこと)
「かねのじんじゃ」。九社の宮の一社で、第二之王子宮。社伝では弘仁7(816)年に参詣した空海が金神社の霊鏡を高野山に遷したとして、高野山鎮守社の丹生都比売神社で祀られる氣比神は当社にあたるという(ただし、現在の丹生都比売神社では祭神を大食都比売神とする)。

98-14 林神社
祭神:林山姫神(はやまひめのかみ)
「はやしのじんじゃ」。九社の宮の一社で、第三之王子宮。社伝では延暦7(788)年に参詣した最澄が林神社の霊鏡を比叡山に遷したとして、比叡山鎮守社の日吉大社で祀られる氣比神は当社にあたるという(ただし、現在の日吉大社では祭神を仲哀天皇とする)。

98-15 鏡神社
祭神:神功皇后奉献の宝鏡の神霊
「かがみのじんじゃ」。九社の宮の一社で、第四之王子宮。社伝では、神功皇后が奉献した神宝のうち宝鏡が霊異をなしたので、別殿に國常立尊とともに「天鏡宮(あめのかがみのみや)」として祀ったことに始まるという。

98-16 大神下前神社
祭神:大己貴命、合祀に稲荷神・金刀比羅神
社格:式内社「大神下前神社」、越前国内神名帳「従五位 大神下前神」または「従五位 道後神」、旧村社
例祭:10月10日
「おおみわしもさきじんじゃ」。角鹿神社とともに裏参道に鎮座する。古くは「道後神社」と称し、神宮の北方鎮守社として天筒山山麓の宮内村(現 敦賀市金ケ崎町)に鎮座したとされる(旧社地は不詳)。明治9(1876)年に村社に列したが、明治44(1911)年に鉄道敷設に伴って境内に遷座した。本殿は流造檜皮葺。

98-17 兒宮(児宮)
祭神:伊弉冊尊
例祭:11月15日
「このみや」。角鹿神社とともに裏参道に鎮座する。寛和2(986)年に遷宮があったといい、それ以前からの鎮座と伝える。江戸時代以降は子育て・小児の守護神として信仰されている。

a0057057_17414152.png98-18 猿田彦神社
祭神:猿田彦大神
表参道の大鳥居近くに鎮座する。祭神は氣比神を案内する神であるという。

98-19 神明両宮
祭神:天照皇大神(内宮)、豊受大神(外宮)
九社の宮と並んで鎮座する。外宮は慶長17(1612)年、内宮は元和元(1615)年の勧請。

現地参拝:28.10.12

参考資料:Wikipedia(2017年1月16日)
記事:
 投稿:29.5.-7

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by fbox12 | 2017-05-07 22:47 | 神社