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カテゴリ:神社( 132 )

第佰貮拾貮 鳥海山大物忌神社 山形県飽海郡遊佐町鎮座

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ちょうかいさんおおものいみ じんじゃ

鎮座地:山形県飽海郡遊佐町に3宮
主祭神:大物忌大神
神体:鳥海山(神体山)
社格等:式内社(名神大)、出羽國一宮、旧國幣中社、神社本庁別表神社
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概要:
鳥海山頂の本社と、麓の吹浦(ふくら)と蕨岡(わらびおか)の2か所の口之宮(里宮)の総称として大物忌神社と称する(上記写真は朱印を含めすべて吹浦口之宮)。出羽富士、鳥海富士とも呼ばれる鳥海山を神体山とする。
当社は鳥海山の山岳信仰の中心を担ってきており、平成20年(2008年)3月28日に神社境内が国の史跡へ指定されている。
祭神大物忌大神主祭神。記紀には登場しない神で、謎が多い。『神祗志料』や『大日本國壱宮記』では、大物忌大神と倉稻魂命が同一視されている。
豐受姫命月読命 - 吹浦口之宮で祀られている。鳥海山は、古代には国家の守護神として、また古代末期からは出羽國における山岳信仰の中心として現在の山形県庄内地方や秋田県由利郡および横a0057057_11451350.png手盆地の諸地域など周辺一帯の崇敬を集め、特に近世以降は農耕神として信仰されてきた。

歴史:
創建に関する諸説景行天皇または欽明天皇時代の創建と伝えられるが、諸説があり、山頂社殿が噴火焼失と再建を繰り返しているための勧請も絡んでいて、創建時期の特定は困難である。
鳥海山の登山口は、主要なものだけで矢島、小滝、吹浦、蕨岡の4ヶ所があり、各登山口ごとに異なる伝承が伝わるうえに、登山口ごとに信徒が一定の勢力を構成して、互いに反目競争することも多かったため、それらの伝承が歪められることも多く、定説をみない状況である。
吹浦の伝承吹浦の社については、元禄16年(1703年)に芹沢貞運a0057057_16011482.pngが記した『大物忌小物忌縁起』において、景行天皇のとき出羽國に神が現れ、欽明天皇25年 (564年) に飽海郡山上に鎮まり、大同元年 (806年) に吹浦村に遷座したとある記述があり、現在の社伝はこの吹浦の創建についての伝承を踏襲しているとされる。
なお、大同元年は空海が唐から帰国した年にあたり、東北の多くの寺社で創建の年とされているという。
『日本參代實録』貞観13年(871年)5月16日の条にある出羽國司の報告から、飽海郡山上に大物忌神社があったことが確認できるが、大物忌神社の鎮座地は飽海郡にある山の上とあるのみで、上記の吹浦についての言及はない。
創建に関する吹浦の伝承として、他に、吹浦の信徒が蕨岡の勢力に対抗して宝永2年(1705年)に寺社奉行所に提出した「乍恐口上書を以申上候事」という文書に、慈覚大師(円仁)が開基したとの記載がある。
a0057057_16355952.pngこの記載は、蕨岡に伝わる縁起に対抗する意味合いが強かったと思われるが、現在も吹浦には慈覚大師直筆とされる天台智顗の図像と金胎両界曼荼羅図が保管されている。
その他、吹浦の「大日本國大物忌大明神縁起」(成立年代不明)には、地元の他の伝承と融合したと思われる「卵生神話」が記されており、「天地が混沌とした中から両所大菩薩・月氏霊神・百済明神が現れ、大鳥の翼に乗って、天竺から百済を経て日本に渡来した。
左翼にあった二つの卵から両所大菩薩が、右翼にあった一つの卵から丸子元祖が生まれ、鳥は北峰の池に沈んだ。景行天皇のとき、二神が出羽國に現れ、仲哀天皇のとき、三韓征伐で功績をたてたので、正一位を授かり勲一等を得た。
用明天皇のとき、師安元年6月15日に、二神は飽海郡飛沢に鎮まった」という。なお、丸子氏は、遊佐町丸子に住み、鳥海山信仰に大きな影響を与えた一族である可能性があるとされる。
a0057057_16430496.pngその後、貞観6年(864年)、慈覚大師(円仁)が鳥海山から五色の光が放たれているのに気づいて、登ろうとすると、青鬼と赤鬼が妨害したので、火生三昧の法で対抗したところ、鬼は観念して、今後は鳩般恭王として大師に従い仏法を守護すると誓ったという。
そして、円融院の代(969年から984年)に朝廷から両所大菩薩と命名されたという。上記の「卵生神話」は朝鮮の「三國遺事」や「三國史記」にも記載があり、外来の伝承が存在したことが推測されるが、鳥を先祖とするトーテミズム的な発想は、中世に成立した「鳥海山」の名称と関連していて、現在も地元に伝わる霊鳥伝説ともつながりを持っており、中世から近世にかけて成立した伝承である可能性が高いとされる。
永正7年(1510年)の『羽黒山年代記』では、鳥海山は飽海嶽と呼ばれていたとして、欽明天皇7年(546年)に神が出現した後、貞観2年(860年)に、慈覚大師(円仁)が青鬼と赤鬼を退治した後、山の外観が龍に似ているとして、龍の頭部にみえる箇所(龍頭)に権現堂を建て、寺号を龍頭寺(りゅうとうじ)として、さらに、鳥の海に因んで山号を鳥海山としたとされており、卵生神話の記載はないものの、上記の「大日本國大物忌大明神縁」と共通する内容となっている。
なお、現在の龍頭寺は大同2年 (807年) に慈照上人が開いたとされており、上述の空海の帰国の年に合わせられているほか、慈照上人の実在が確認されておらず、慈覚大師(円仁)の錯誤である可能性もあるが、『羽黒山年代記』の貞観2年に開かれたとする記述とは年代が離れている。

a0057057_18284553.png月山神(奥に本殿)
境内社:
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白山神社(左写真一番左)
雷電神社(右写真)

蕨岡の伝承
吹浦とは別の縁起が伝わる蕨岡の「鳥海山記并序」(宝永6年、1709年)では、役行者が開山したとする前提で、行者がはじめて山に登ったとき、「鳥の海」をみたことから「鳥海山」と名づけられたとしている。
なお、社の創建のとき、山に名称はなく、現在の「鳥海山」という山名ができた由来には諸説あり、山上にあって霊鳥が生息すると言い伝えられる「鳥の海」によるとする説が有力である。蕨岡に伝わる他の縁起では、「鳥海山縁起和讃」(嘉永5年、1852年)に、天武天皇のとき、山の神の命により、役行者が山中に出没する鬼を退治し、開山したと記されている。
この縁起は、吹浦に伝わる慈覚大師(円仁)の創建とする説よりも年代を古い説を唱え、対抗しようという意図がみられるとされる。
関連して、蕨岡の東之院興源は「出羽國一宮鳥海山略縁起」(安政4年、1857年)の中で、役行者が山中に神の眷属である三十六王子を祀り山の守護神としたという記載があり、実際に、蕨岡では山道に三十六王子を祀っていたという。

古代
山岳信仰
越國より始められた夷征は、慶雲から和銅の頃に庄内以北の着手に至ったが、当時この地方は原生林に覆われ、また南方を追われた蝦夷が群居し、常に噴煙を吐き時々大爆発する鳥海山の存在は朝廷軍にとって脅威であった。
そのような状況で、もともと日本では山岳信仰が盛んだった背景もあって、朝廷は鳥海山の爆発が夷乱と相関していると疑ったのではないか、と『名勝鳥海山』では推測している。
前述の『日本參代實録』貞観13年(871年)5月16日の条にある出羽國司からの報告には、鳥海山の噴火について、「出羽の名神に祈祷したが後の報祭を怠り、また墓の骸骨が山水を汚しているため怒りを発して山が焼け、この様な災異が起こったのだ」等の記述があり、鳥海山噴火が兵乱の前兆であると信じられていたことを覗わせている、と『名勝鳥海山』では述べている。
上述のとおり、当初、「鳥海山」という山名は無く、山そのものが大物忌神と称されていた。物忌とは斎戒にして不吉不浄を忌むことであり、山の爆発は山神が夷乱凶変を忌み嫌って予め発生させるものだと朝廷は考えたことが、この山神を大物忌神と称した所以であると『名勝鳥海山』では考察している。
また同書では、山神の怒りを鎮め、その力を借りて夷乱凶変を未然に防ごうとした一例として、『日本紀略』天慶2年(939年)4月17日の条にある秋田夷乱(天慶の乱)発生の報が到達した際、朝廷で物忌が行われたことを挙げている。
なお『本朝世紀』天慶2年(939年)4月19日の条には、大物忌明神の山が噴火したとの記述がある。

神仏習合
六國史によれば斉衡3年(856年)から貞観12年(870年)の間に出羽國では定額寺が6ヶ所指定され、また『日本參代實録』仁和元年(885年)11月21日の条では飽海郡に神宮寺があったと記していることから、出羽における神仏習合はこの時期に始まったと『名勝鳥海山』では推測している。また同書によれば、大物忌神へ奉仕する職制は神仏習合以来変化し、従来の唯一神道を以って奉仕する社家、神宮寺の仏式を以って奉仕する社僧に別れたが、その後の仏教隆盛に従い社家は段々と衰退して行き、中世には本地垂迹説により鳥海山大権現と称して社僧が奉仕をしていたのだと言う。これが後の明治の神仏分離によって、大物忌神社に復すまで続くことになる。
延長5年(927年)には『延喜式神名帳』により式内社、名神大社とされた。また、『延喜式』の「主税式」においても祭祀料2,000束を国家から受けている。『延喜主税式』によれば、当時国家の正税から祭祀料を受けていたのは陸奥國鹽竈社、伊豆國三嶋社、淡路國大和大國魂社と他に3社しかないことから、大物忌神社が国家から特別の扱いを受けていたことが覗える。
大物忌神は、六國史にも、13度登場している。なお、当時は「鳥海山」という山名がなかったため、「飽海郡鎮座の大物忌神」と呼ばれていた。

中世
鳥海山における中世の信仰についてはまとまった記録が残っておらず、断片的な記録等から推測せざるをえないとされる。そして、それらによれば、幕府や南朝の有力者が両所宮や両所大菩薩へ寄進を行っていたという。
承久2年(1220年)、藤原氏(三善氏)が北条義時の命により、現在の遊佐町北目の新留守氏に「北條氏雑掌奉書」を送っており、同書に「出羽國両所宮修造之事」とあることから、大物忌神社が、鳥海山と月山の双方を祀る「両所宮」とされていたことがわかる。
南北朝時代に入ると、「鳥海山」という山名の使用がみられるようになる。山中で発見された鰐口の銘に「暦応5年」(1342年) の年号(北朝)がみられ、「奉献鳥海山和仁一口右趣意者藤原守重息災延命如」とあるのが、「鳥海山」という山名の初出とされる。
なお、戸川安章によれば、当時、鰐口は修験道の伽藍に掛けられるのが一般的だったため、鳥海山における修験道の出現は南北朝時代からであるとされる。
当神社は出羽國一宮とされ、南北朝時代の正平13年(北朝の元号では延文3年、1358年)、南朝の陸奥守兼鎮守府将軍である北畠顕信(北畠親房の次男)が南朝復興と出羽國靜謐を祈願し、神領として「出羽國一宮両所大菩薩」に由利郡小石郷乙友村を寄進したことが、吹浦口之宮の所蔵文書である「北畠顕信寄進状」に記されている。
これが文献上における一宮名号の初見であるとされる。
なお、当時、吹浦の両所宮では鳥海山と月山の神とを「両所大菩薩」として祀っており、本地垂迹説に基づき、本地を薬師と阿弥陀とされていた。

一宮争い
吹浦、蕨岡の論争吹浦の信徒は蕨岡の信徒が行っていたような、鳥海山中での修行は行わず、山上に祀られている鳥海山大権現を、月山大権現をとともにふもとに勧請し、両所宮として祀り、神宮寺で行事を行うなどしていた。
吹浦からの登拝は行っていたものの、山頂の権現堂には関与しなかったため、蕨岡の信徒に比べると勢力的に弱かった。
蕨岡の宗徒社人は山上の鳥海山大権現の学頭別当と称し、直接山上に奉仕しており、この考え方の違いがお互いに反目する原因となっていたが、蕨岡宗徒が吹浦からの登山者を差し止めたことから両者の論争となり、承応3年(1654年)ついに庄内藩や江戸寺社奉行に訴えが出された。
幕府検使の臨検の後、明暦元年(1655年)に次の判決が出た。訴えのあった守札の書付について、吹浦は鳥海山と書いていた証拠が無いので両所山と書き、蕨岡は大堂のある松岳山と書いていた証拠があるので松岳山と書くこと。吹浦からの登山者を蕨岡は差し止めないこと。この裁断の後、山上に直接奉仕しているのは蕨岡宗徒であると言う認識が確定的なものとなり、山頂社殿の建替や嶺境争い等の山頂に関連した論争に吹浦は感知しない状態となってしまった。
蕨岡、矢島の御堂建替の論争修験道には紀伊の熊野に始まった順峰と逆峰の2つの法式があるが、鳥海山においては蕨岡が順峰、矢島と滝沢が逆峰を称し、古来より順逆両部勤行の霊山として修行が行われていた。それにもかかわらず、矢島と滝沢の間に逆峰名称の論争が起き、また蕨岡と矢島の間には順逆の論争が発生した。
この状況により滝沢は蕨岡の援助を得て逆峰院主を矢島から奪ったが、延宝6年(1678年)矢島は論争のすえ逆峰院主を取り戻した。
これにより矢島と滝沢の逆峰院主の論争は終結し、また蕨岡と矢島も順逆お互いの法式を相犯さないと確認した。
しかし元禄14年(1701年)山頂社殿建替えの話が上がると、矢島は逆峰側で建替えるのが至当であると、本山である三宝院に総代3名を送って陳訴した。
これに対し三宝院は順逆両方で申し合わせのうえ相勤めよとの和解書を蕨岡へ出したが、これまで一山を取り仕切り、山頂社殿を建替えてきた蕨岡はこれを不服として三宝院へ訴状を出した。
その後、順逆双方から書類を出し、同年11月に三宝院鳳閣寺より次の裁断が下された。
山頂社殿を順逆宗徒が交互に造営する理由は見当たらないので、これまで通り順峰側が建替えること。順峰が鳥海山龍頭寺の寺号を最近名乗り始めたとのことであるが、順峰側では古来より名乗っている寺号とのことであった、
よって逆峰側が更なる証拠を見つけてから申し出ること。山頂社殿の天和2年(1682年)の棟札を遊佐郡から飽海郡へ書き換えているのは、幕府の命に従った為である。
嶺境は行政の領分なので当方では裁断できない。後日判明した際に双方より申し立てること。それまでは従来の通りにすること。鳥海山は古来より順逆両部の山であるので、今後も順逆申し合わせのうえ古例のごとく勤仕すること。この裁断により一旦は息を潜めたかに見えた順逆の論争であるが、山頂社殿建替後の遷宮式において矢島の群衆が棟札を奪い取る事件が発生し、再燃することとなる。
蕨岡、矢島の嶺境の論争建替え論争に破れた矢島宗徒は、三宝院が「嶺境は行政の領分なので後日申し立てること」としたことを以って嶺境の訴訟を起こした。
しかしながら嶺境問題は宗徒間のみならず庄内藩と矢島藩にとっても重大問題であることから、最後は両藩が相争う状態となって行く。元禄16年(1703年) 三宝院鳳閣寺はこれまでの建替論争の経過に付帯文書を添え、さらにその顛末を述べて幕府寺社奉行所に裁決を出願した。寺社奉行所では審理の末、嶺境は不明だが『日本參代實録』に大物忌神社が飽海郡山上にあることが明記されているので、棟札は飽海郡と書くのを妥当とし、嶺境は不問とするよう裁決を出した。
この裁決に矢島宗徒は従わず、それに加え、この問題が重大な国境問題となる矢島藩が領内百姓の名を以って寺社奉行に訴え出た。ここに至り寺社奉行はこの問題を重大事と判断して評定所の審理に移した。
評定所は庄内の修験百姓に答弁書提出を命じ、翌宝永元年(1704年)庄内修験百姓等は答弁書を提出した。
これに対し矢島宗徒は吹浦宗徒の主張を利用し、大物忌神社は吹浦に遷座しており現在の山頂社殿は由利郡に属するものであると主張、追訴した。
評定所は現地に検使を派遣して検分と共に聞き取り調査を行い、かつ双方の修験百姓を江戸に呼び出し吟味した結果、同年9月次の判決を言い渡した。
『日本參代實録』の記述どおり山頂社殿を大物忌神社とし、山頂社殿の所在する場所は飽海郡とする。西は笙野岳腰より稲村岳の8分に亘り、東は女郎岳の腰までをもって郡境と定める。
これにより、由利郡側山腹(秋田側山腹)の7合目より以南が飽海郡になった。 また、この判決に関し、いくつかのいざこざが庄内藩と矢島藩の間に起こったと言われる。
吹浦の一宮名号使用の訴願宝永元年(1704年)の評定所の判決以降、山上に直接奉仕しているのは蕨岡宗徒であると強く認識されるようになり、その勢力は増して行った。勢力の増大により、蕨岡宗徒は山頂社殿を出羽國一宮大物忌神社、蕨岡を鳥海山表口別当、吹浦を末社と称するに至り、吹浦大物忌神社は全く蕨岡に奪われたも同然の状態となってしまった。宝永4年(1707年)社家の進藤曾太夫邦實はこれを嘆き、回復を計らんとして一宮の名号を吹浦に許されることを庄内藩に訴願した。
鶴岡の寺社奉行が吟味した結果、太夫の訴願は幕府の嶺境裁断において山頂社殿を大物忌神社とした際の判決を戻すとして、「公義御裁許破り」の罪名で太夫を出羽一國追放にした。

明治以降
明治元年(1868年)の神仏分離令への対応では吹浦が蕨岡に先行することとなり、明治2年、吹浦の信徒は全て神道を奉ずることとなり、明治3年には社の奉仕者たちが正式に神職となり、社号も大物忌神社となった。
神宮寺等の仏教建築や仏像は撤去され、明治4年(1871年)5月、吹浦の大物忌神社は國幣中社に列せられ、山頂の権現堂の管理もできることとなった。
吹浦の後から神道を奉ずるようになった蕨岡の信徒たちは、自分たちの権利を取り戻そうと山形懸や明治政府に何度も請願して、訴訟も行ったが失敗した。
明治以降も吹浦と蕨岡の争いは続くかに思えたが、松方正義の意見により、明治13年(1880年)8月7日、左大臣有栖川宮熾仁親王から、山頂の権現堂を大物忌神社の本殿とし、吹浦と蕨岡の大物忌神社を、それぞれ里宮(後に口ノ宮:口之宮)とする旨の通達が出され、明治14年(1881年)に実施されたため、両者の争いは収束した。
この変則的な祭祀体制は、吹浦と蕨岡のそれぞれに国幣中社大物忌神社の社務所を置き、宮司は吹浦に駐在するが、本殿への奉幣は両社務所が1年交替で行うというものだった。神仏分離による混乱・動揺の後、鳥海山への山岳信仰は再び盛り上がりをみせ、明治以降も登拝は盛んとなった。特に第2次世界大戦中は登拝が多かったとされる]。昭和30年(1955年)、大物忌神社が山頂と吹浦と蕨岡の3つの社の総社号とされ、吹浦と蕨岡は、それぞれ大物忌神社吹浦口ノ宮・蕨岡口ノ宮とされた。昭和47年(1972年)、鳥海ブルーラインが開通すると、鳥海山は徐々に、山岳信仰の対象としてよりは観光の対象と認識されるようになり、信仰に基づく登拝は昭和40年代(1970年代)後半から、徐々に少なくなり、神仏習合や修験道が盛んだった時代の痕跡もほとんどみられなくなった。神階鳥海山の噴火は大物忌神の神威の表れとされ、噴火のたびに朝廷より神階の陞叙が行われた。『続日本後紀』承和5年(838年)5月11日の条において従五位上であった大物忌神を正五位下に1級進めていることから、これ以前に神階の授位があったことは明らかであるが、文献上の記録が無いため最初の授位がいつかは不明である。以下は時系列的に並べた神階の授与である。『続日本後紀』 承和5年(838年)5月11日の条 従五位上より正五位下勳五等へ進1級の陞叙。『続日本後紀』 承和7年(840年)7月26日の条正五位下勳五等を従四位下勳五等へ陞叙。前年に遭難した遣唐使船が海賊の襲撃にあった際、寡兵で海賊を撃退したが、これは同じ頃に噴火して神威を表した大物忌神の加護によるものであるとして、神封2戸の寄進と共に仁明天皇の宣命が添え下された。『日本參代實録』 貞観4年(862年)11月1日の条 正四位下勳五等へ陞叙。また、官社に指定された。『日本參代實録』 貞観6年(864年)2月5日の条 正四位下勳五等より正四位上勳五等へ陞叙。『日本參代實録』 貞観6年(864年)11月5日の条 正四位上勳五等より従三位勳五等へ陞叙。『日本參代實録』 貞観15年(873年)4月5日の条従三位勳五等より正三位勳五等へ陞叙。貞観13年(871年)の大噴火沈静後、山頂社殿を再建し宿祷報祭記を行ったのを受け陞叙された。『日本參代實録』 元慶2年(878年)8月4日の条秋田夷乱(元慶の乱)において朝廷軍が敗退したのを受け占ったところ、古来より征戦に霊験を有する大物忌神、月山神、小物忌神の3神が、神気賊に帰して祈祷が届かなくなってしまったと出た。そこで爵級を増せば霊応あるべしとして、正三位勳五等を正三位勳三等に進めた。『日本參代實録』によれば、これより前の元慶2年(878年)7月10日の条で神封2戸が加増され、4戸となっている。『日本參代實録』 元慶4年(880年)2月27日の条正三位勲三等より従二位勳三等へ陞叙。秋田夷乱(元慶の乱)平定後、平時に復したのを受け陞叙となった。これが中世以前では最後の昇叙の記録であるが、『本朝世紀』天慶2年(939年)4月19日の条において出羽國司が官符を賜った時は正二位勳三等となっている。元文元年(1736年) 蕨岡の願い出により正一位勳三等に昇進。
参考資料:Wikipedia「鳥海山大物忌神社」(最終更新:2016年10月23日)https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B3%A5%E6%B5%B7%E5%B1%B1%E5%A4%A7%E7%89%A9%E5%BF%8C%E7%A5%9E%E7%A4%BE
閲覧:2018.5.10

「吹浦」について・・
俳人松尾芭蕉が『奥の細道紀行』で元禄2(1689)6月15日(新暦7月31日)、門弟の河合曾良と共に酒田を出立し象潟(きさかた:現 秋田県にかほ市)に向かう。
朝から小雨が降り続いていたが、吹浦に入ると急に大雨となり、急遽吹浦で宿泊する事になった。
『奥の細道』の研究では、
「吹浦には出羽國一宮鳥海山大物忌神社があるのに、この神社のことは全く出てこない。また、ここで読まれた句もない。」と、不思議がる記述があるが、実はこのとき、上記でいう『一宮争い』の真最中で、吹浦の宮は『一宮』ではなかった。
芭蕉としては、争いに巻き込まれては、後半の行程(象潟が折返し地点)に影響すると、敢てここのところは避けたのではなかったのではないかと推察する。(筆者追記)

現地参拝:29.6.26
記事投稿:30.5.10
  調整:30.5.11/30.5.14

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by fbox12 | 2018-05-14 16:02 | 神社

第佰貮拾參 八幡神社(長良若宮) 岐阜県岐阜市鎮座

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a0057057_21433831.pnga0057057_21443452.pngはちまん じんじゃ(ながらわかみや)

鎮座地:岐阜県岐阜市長良577
祭神:品陀和気命(応神天皇)(ほむだわけのみこと(おうじんてんのう))

概要:
岐阜市の北部、長良川をはさんだ金華山(旧名 稲葉山)の対岸にある。
毎年5月11日からの長良川鵜飼の際、鵜匠などにより鵜飼安全祈願祭が行われる。

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この神社最寄の駅・バス停:
JR岐阜駅・名鉄岐阜駅から
岐阜バス 加野団地・大洞団地行き 長良川温泉(長良川グランドホテル前)(停)
または、長良橋方面行き 鵜飼屋(停)下車

参考資料:岐阜バス ホームページ
http://www.gifubus.co.jp/rosen/route/
閲覧:30.5.11

現地参拝:30.2.-7
記事投稿:30.5.11

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by fbox12 | 2018-05-11 22:37 | 神社

第佰貮拾壱 新田神社 鹿児島県薩摩川内市鎮座

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にった じんじゃ

鎮座地:
 鹿児島県薩摩川内市宮内町1935-2
主祭神:天津日高彦火邇邇杵尊
    天照皇大御神
   正哉吾勝々速日天忍穂耳尊
江戸時代までは応神天皇、神功皇后、武内宿禰の八幡三神を祀っていた。

社格等:
 旧國幣中社、薩摩國一宮、神社本庁別表神社
本殿様式:入母屋造別称:新田八幡宮、八幡新田宮、川内八幡宮、一宮八幡、新田明神

歴史:
a0057057_09125083.pnga0057057_09242792.png社伝によると「天津日高彦火邇邇杵尊」(ニニギノミコト)の墓を祀ったのが創始」とされるが、新田神社のことを書いた最も古い史料は永万元年(1165年)のもので、これには「貞観のころに再興」とあり、また「藤原純友の乱のときに国家鎮護を祈願し5か所建てた八幡宮の一つ」とする史料もある。
『延喜式』に全く名前が見えないことから見て、当初の地位はかなり低いものだったと考えられている。
a0057057_16453481.png文治年間(1185年-1190年)、新田神社筆頭職の執印職に守護嶋津氏と祖を同じとする鹿児島郡司の惟宗康友が就き、康友の子孫が執印氏を名乗り(元弘3年(1333年)に後醍醐天皇が新田宮執印職の当知行を安堵)明治に至るまで、代々俗体で世襲することになる。
蒙古襲来(元寇)で、鎌倉幕府は各国の一宮と国分寺に蒙古調伏の祈祷を命じ、各国の守護に一宮への剣、神馬の奉納を命じた。薩摩國では枚聞神社と新田神社の間で一宮相論が起こっていたため、嶋津氏(忠宗)は、一宮の決定とは無関係としながらも 剣、神馬を新田神社(同族の執印氏側)に奉納する。これは事実上一宮は新田神社と認める行為で、一宮相論は決着し、古来から一宮であった枚聞神社から新田神社へと一宮が移ることになるが、最終決定がされておらず、薩摩國に一宮が二つ存在することになる。
また、國分寺留守職、天満宮別当職に執印氏の分流の國分氏が就き、新田神社は薩摩國國分寺とも深い繋がりを持つ事になる。武神である八幡神を祀っていたことから、当地を支配していた嶋津氏に尊崇を受け、暦応4年(1341年)年記のある『嶋津家文書』に依ればこの新田神社が「薩摩國一宮」として挙げられている。
しかし現代においては執印氏の強引な手法も詳らかとなり、古来から一宮とされてきた枚聞神社が正しく薩摩國一宮であるとの意見も多く散見される。
近代社格制度においては、当初無格社であったが明治18年(1885年)に枚聞神社より上の國幣中社に列した。しかしながら現在は枚聞神社と同じ神社本庁の別表神社にあたる。

山陵:
明治7年(1874年)7月10日、明治天皇の裁可を経て可愛山陵(えのやまのみささぎ)が「邇邇芸尊陵」の指定を受け、大正3年(1914年)に宮内省直轄となった。
新田神社のある神亀山の5分の4が陵墓の領域で、現在は宮内庁書陵部桃山監区可愛部事務所が置かれ、内閣府事務官が陵墓守部として管理している。
陵墓と神社が一体となっているのは全国でも珍しい形態である。
大正9年(1920年)3月30日・昭和天皇(当時の皇太子)参拝、昭和37年(1962年)今上天皇(当時の皇太子)及び皇后美智子(当時の皇太子妃)参拝、など皇族の参拝は9回にも及んでいる。

摂末社:
御陵社
可愛陵社(えのみささぎしゃ)
祭神:邇邇杵尊
明治7年の可愛山陵指定によって創建され新田神社の境内社となったが、大正3年に宮内省の管轄に移管される。

端陵神社(はしのみささぎじんじゃ)
祭神:木花開耶姫尊(邇邇杵尊の妃神)
神亀山の頭部部分に鎮座。邇邇杵尊の妃神の御陵と伝わるため、「御前様陵(ごぜんさまのみささぎ)」とも呼ばれる。

中陵神社(なかのみささぎじんじゃ)
祭神:火闌降命(邇邇杵尊の皇子神)
神亀山の首部分に鎮座。

川合陵神社(かわあいのみささぎじんじゃ)
祭神:天火明命(邇邇杵尊の兄弟神、もしくは皇子神)
神亀山ではなく五代町に鎮座。御陵殿(みささぎどん)とも称された。

摂社
四所宮(ししょぐう)
祭神:彦火火出見尊・豊玉姫尊・鵜草葺不合尊・玉依姫尊
本殿の向かって右脇に鎮座。若宮四所宮、若宮殿とも称する。

武内宮(たけうちぐう)
祭神:彦太忍信命(孝元天皇の皇子で武内宿禰の祖父)
本殿の向かって左脇に鎮座。武内社とも称する。

境内末社
二十四社(にじゅうししゃ)
祭神:天孫降臨に際して供をした五伴緒神(天児屋命、太玉命、天鈿女命、石凝姥命、玉祖命)をはじめとする24柱
武内宮の向かって左側に鎮座。

興玉神社(おきたまじんじゃ)
祭神:猿田彦命
西廻廊向かって左側に鎮座。かつては若宮四所宮、武内社に次いで尊重され、大王社(太玉社)とも称された。

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高良神社(こうらじんじゃ)
祭神:天鈿女命
神亀山中腹に鎮座。高良社、猴等神社とも称する。(写真右)

中央神社(ちゅうおうじんじゃ)
祭神:大山祇神(邇邇杵尊の岳父)
神亀山中腹に鎮座。中王社とも。神亀山の地主神と伝わる。(写真中央)

早風神社(はやかぜじんじゃ)
祭神:級長津彦命
神亀山中腹に鎮座。早風社とも。(写真左)


a0057057_21245615.png
東門守神社(ひがしかどもりじんじゃ)
祭神:豊磐間戸神
神亀山石段入口の向かって右側に鎮座。殿門守護の神で、往古は東善神王と称された。(写真右側)

西門守神社(にしかどもりじんじゃ)
祭神:櫛磐間戸命
神亀山石段入口の向かって左側に鎮座。殿門守護の神で、往古は西善神王と称された。(写真左側)

保食神社(うけもちじんじゃ)
祭神:保食神
神亀山麓に鎮座。田の神と同一視され、現在でも農耕儀礼の神事が行われる。

稲荷神社(いなりじんじゃ)
祭神:倉稲魂命
昭和初期に近隣工場の守護神として創建され、後に工場閉鎖に伴って神社境内へ遷座。

※廃絶した境内末社
- 省略 -


この神社最寄の駅・バス停:
a0057057_16222765.pnga0057057_16233644.png
肥薩おれんじ鉄道 上川内駅から徒歩約10分
JR九州 九州新幹線・鹿児島本線・肥薩おれんじ鉄道 川内駅から路線バスで約5分
写真の「くるくるバス(西回り:南国交通担当)」は大回りのため約30分
「くるくるバス(東回り:鹿児島交通担当)は18分
いずれも新田神社(停)下車。

参考資料:Wikipedia「新田神社(薩摩川内市)」(最終更新:2017年12月30日)https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E7%94%B0%E7%A5%9E%E7%A4%BE_(%E8%96%A9%E6%91%A9%E5%B7%9D%E5%86%85%E5%B8%82)
閲覧:2018.5.-6

現地取材:30.3.14
記事投稿:30.5.-6

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by fbox12 | 2018-05-06 21:30 | 神社

第佰貮拾 枚開神社 鹿児島県指宿市鎮座

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a0057057_21391048.pnga0057057_21563973.png
a0057057_21502211.pnga0057057_21580472.pngひらきき じんじゃ

鎮座地:
鹿児島県指宿市開聞十町1366
主祭神:
大日孁貴命(おおひるめのむちのみこと)
配祀神:
五男三女神を配祀。
明治時代以後は近隣の神社を合祀している。祭神については海神(わたつみのかみ)説もある。
社格等:
式内社(小)、薩摩國一宮、旧國幣小社、神社本庁別表神社
本殿様式:入母屋造銅板葺

歴史:
a0057057_22053769.png創始の年月日は社伝でも不明であり、かなり古くからあった神社と考えられている。元々は開聞岳を神体とする山岳信仰に根ざした神社であったと考えられる(右写真:神社横、県道から見える開聞岳)。
信頼できる史料での初出は『日本參代實録』貞観2年(860年)3月20日庚午条の神階昇叙記事で、この日に薩摩國従伍位上開聞神が従四位下を加えられた。
開聞神は、貞観8年(866年)4月7日に従四位上を授けられ、元慶6年(882年)10月9日に正四位下を授けられた。延長5年(927年)の『延喜式神名帖』には「薩摩國穎娃郡 枚聞神社」として記載され、式内社に列している。
鎌倉時代以降は新田神社(現 薩摩川内市)と薩摩國一宮の地位を巡って激しい争いを繰り広げるようになる。
戦国時代は嶋津氏の有力家臣であった頴娃氏の庇護下にあったが、元亀2年(1571年)に「証恩寺崩れ」と言われるお家騒動が起こり、その巻き添えとなって社殿を失った。
しかし、すぐに島津氏の庇護を受けて再興、同氏は当神社の籤により作戦を決めたという。
現在の社殿は慶長15年(1610年)に嶋津義弘が寄進したものを天明7年(1787年)に嶋津重豪が改築した物である。
外洋に面した立地から古くから「航海神」としても崇められ、江戸時代以降は琉球からの使節の崇敬も集めるようになった。
a0057057_22145102.pngしかし、江戸時代になると、宇佐八幡宮の五社別宮ともされていた新田神社の方が次第に重く扱われるようになったらしく、明治4年(1871年)5月に國幣小社に列したが、対して新田神社は同18年(1885年)に上位の國幣中社に列している。
第二次世界大戦後に近代社格制度が廃止されると、当社は神社本庁に参加、その別表神社に定められた。

神階:
貞観2年(860年)3月20日、従伍位上から従四位下 (『日本參代實録』)
貞観8年(866年)4月7日、従四位上 (『日本參代實録』)
元慶6年(882年)10月9日、正四位下 (『日本參代實録』)

境内:
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本殿方3間の入母屋造妻入で、屋根銅板葺、千木・鰹木を置き、正面に縋破風で1間の向拝を付ける。
平成2年(1990年)3月23日に鹿児島県の有形文化財に指定された。参道から本殿の方を向くと、本殿の屋根の上に開聞岳が位置する構造になっているが、現在は背後の樹木が繁茂して見通すことはできなくなっている。

この神社最寄の駅・バス停:
JR九州・指宿枕崎線 開聞駅・・徒歩約12分
鹿児島交通バス 神社前(停)・・開聞駅からの途中には開聞口(停)もある。

参考資料:Wikipedia「枚聞神社」(最終更新:2018年5月2日)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9E%9A%E8%81%9E%E7%A5%9E%E7%A4%BE
閲覧:30.5.-3

現地参拝:30.3.13
記事投稿:30.5.-3
  調整:30.5.-6

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by fbox12 | 2018-05-06 08:54 | 神社

第佰拾九 岩木山神社 青森県弘前市鎮座

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a0057057_10180674.pnga0057057_10484559.pnga0057057_10281599.pnga0057057_13431134.pnga0057057_10323755.pnga0057057_13283384.png
a0057057_14560639.pnga0057057_14571715.pnga0057057_13300180.png
いわきやま じんじゃ

鎮座地:青森県弘前市百沢字寺沢27
主祭神:顕国魂神(うつしくにたまのかみ)-大国主神
    多都比姫神(たつびひめのかみ)
    宇賀能売神(うかのめのかみ)
    大山祇神(おおやまつみのかみ)
    坂上刈田麿命(さかのうえのかりたまろのみこと)
 以上をまとめて岩木山大神(いわきやまおおかみ)と称する。

社格等:旧国幣小社、神社本庁別表神社、津軽国一宮(新一宮)
本殿様式:三間社流造銅瓦葺
別称:「お岩木さま」、「お山」、「奥日光」

a0057057_13252372.pnga0057057_13261108.png
概要:
昔から農漁業の守護神として、津軽の開拓の神として、地元の人々の祖霊の鎮まるところとして、親しまれてきた。なお神社の参道は岩木山の登山道の一つとなっていることでも知られており、この神社の奥宮は岩木山の山頂付近にある。
社殿は、神仏習合の時代の名残りをとどめ、鎌倉時代以後の密教寺院の構造がみられる中に、桃山時代の様式を思わせる色とりどりの絵様彫刻がみられ、そうした外観が日光の東照宮を思わせるとして、「奥日光」と呼ばれるに至った。


a0057057_10573937.pnga0057057_11261251.png
歴史:
創建については諸説があるが、最も古い説では、宝亀11年(780年)、岩木山の山頂に社殿を造営したのが起源とされる。延暦19年(800年)、岩木山大神の加護によって東北平定を為し得たとして、坂上田村麻呂が山頂に社殿を再建し、その後、十腰内地区に下居宮(おりいのみや=麓宮、現在の厳鬼山神社)が建立され、山頂の社は奥宮とされた。
また、田村麻呂は、父の刈田麿も合祀したとされる。寛治5年(1091年)、神宣により、下居宮を十腰内地区から岩木山東南麓の百沢地区に遷座し、百沢寺(ひゃくたくじ)と称したのが現在の岩木山神社となっている。
岩木山の山頂に阿弥陀・薬師・観音の3つの堂があり、真言宗百沢寺岩木山三所大権現と称して、付近の地頭や領主らに広く信仰された。
a0057057_10250918.png天正17年(1589年)、岩木山の噴火により、当時の百沢寺は全焼することとなり、以後、再建が進められることとなった。
江戸時代には津軽藩の総鎮守とされ、津軽為信・信牧・信義・信政らの寄進により社殿等の造営が進んだ。
特に、信義、信政のときに、現在の拝殿(当時は百沢寺の本堂とされた)や本殿(当時の下居宮)が再建された。
明治の神仏分離により寺院を廃止、津軽総鎮守・岩木山神社とされ、明治6年(1873年)、国幣小社に列格された。

境内:
現存する社殿や楼門は江戸時代初期から元禄時代にかけて代々の弘前藩主が造営・寄進したもので、本殿・拝殿・奥門・楼門等が重要文化財に指定されている。

a0057057_14034973.png本殿 - 三間社流造銅瓦葺。全面黒漆塗とする。元禄7年(1694年)建立。(写真:タイトルを含め5段目)
拝殿 - 桁行5間、梁間5間、入母屋造平入、とち葺形銅板葺。寛永17年(1640年)、神仏習合の時代に、百沢寺の本堂として建立された。(写真:タイトルを含め4段目右)
 天正17年(1589年)の岩木山の噴火により焼失したが、慶長8年(1603年)に津軽為信により再建が始まり、寛永17年(1640年)、津軽信義のときに現在のものが完成した。
楼門 - 寛永5年(1628年)、津軽信枚(のぶひら)により、百沢寺の山門として建立された。上層に十一面観音、五百羅漢像が祀られていたが、神仏分離による廃寺の際にそれらは姿を消し、階下に随神像を祀ることとなった。(写真:タイトルを含め2段目右)

摂社・末社:

白雲大龍神社
a0057057_13334406.pnga0057057_13353027.png

a0057057_13474740.png稲荷社

a0057057_10362498.png出雲神社

a0057057_10454109.pnga0057057_10391171.png

白龍神a0057057_10414341.png

この神社最寄りの駅・バス停:
a0057057_11224312.pnga0057057_10110252.png
JR東日本・奥羽本線弘前駅(中央口)、弘南バス弘前バスターミナルより弘南バス枯木平行にて約40分、岩木山神社バス停下車。

参考資料:Wikipedia「岩木山神社」(最終更新:2018年3月3日)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A9%E6%9C%A8%E5%B1%B1%E7%A5%9E%E7%A4%BE
  閲覧:2018.5.-2

現地参拝:29.6.25
記事投稿:30.5.-2



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by fbox12 | 2018-05-02 15:00 | 神社

第佰拾八 駒形神社 岩手県奥州市鎮座

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a0057057_10333555.pnga0057057_10365238.png
こまがたじんじゃ

a0057057_17262279.png鎮座地:岩手県奥州市水沢中上野町1-83(本社)
  岩手県胆沢郡金ケ崎町西根字駒ヶ岳(奥宮)
  岩手県胆沢郡金ケ崎町西根雛子沢13(里宮)

祭神:
駒形大神(主祭神:天照大御神・天常立尊・国狭立尊・吾勝尊・置瀬尊・彦火尊の6柱の総称)
神体:駒ヶ岳(神体山)
社格等:式内社(小)、旧国幣小社、神社本庁別表神社、陸中國一宮(新一宮)
本殿様式:三間社流造

概要:a0057057_10434581.pnga0057057_10401194.png
当社は駒ヶ岳の神霊を祀ったものとされるが、古くよりその神霊を人格神に比定する諸説が挙げられている。現在の6柱とする説は、雛子沢里宮の寛政9年(1797年)棟札や、仙台藩編纂の『安永風土記』に記載が見られる。これらは、中近世の神仏混交(*混淆)期において駒ヶ岳外輪山を各天神地祇に擬したことに由来すると見られている(最高峰の大日岳に天照大神、第2の駒ヶ岳に天照大神の子の吾勝尊、など)。
以上のほか、人格神を宇賀御魂大神・天照大神・天忍穂耳尊とする説、毛野氏の祖神とする説等がある。
a0057057_11010811.png祭神の駒形神は馬の守護神とされ、馬頭観音や大日如来と習合し、東日本の各地に勧請されて信仰されている。馬の守護神とされた背景は、古代に付近一帯が軍馬の産地であったことが考えられている。
境内と水沢公園(右写真)はヒガンザクラ系の桜の名所として知られ、老木の樹齢は250年から300年にも及ぶ。一帯は「駒形神社及び水沢公園のヒガン系桜群」として岩手県指定天然記念物に指定されている。

歴史:
a0057057_19513354.png当社は駒ヶ岳(焼石駒ヶ岳/駒形山)を祀る神社として、明治以前は駒ヶ岳山頂の本宮(奥宮)、北上市和賀町岩崎と金ケ崎町西根雛小沢の各里宮をして奉斎された。水沢の現在社(水沢本社)は明治36年(1903年)の新設である。それ以前の水沢本社の地は鹽竈神社(現 別境内別宮)の境内地であった。以下、駒形神社一般の歴史について概説する。
創建創建は不詳で、様々な伝承が現在に伝えられている。
社伝の1つでは、雄略天皇(第21代)21年に、籠神社(京都府宮津市)から宇賀御魂大神を勧請して山頂に祀り、里宮に大宜津比売神と事代主神を配祀したが、のちに前記6柱となったという。
別伝では、景行天皇(第12代)40年に日本武尊が東征に際し、蝦夷平定のために前記6柱を勧請・創建したという。また、坂上田村麻呂が当地で倒れた愛馬を祀ったが、のちに慈覚大師(円仁)が廻国した際にその駒形神を駒ヶ岳山頂に移して本宮を造営、さらに源義家が前九年の役の際に戦勝祈願をしたともいう。
別説として、上毛野(のちの上野国、現 群馬県)を根拠とする上毛野氏一族が当地に来住するにあたり、駒ヶ岳を上毛野氏氏神の赤城山(赤城神社)に擬して奉斎したとする説もある。その中で、休火山である赤城山の外輪山に「駒形山」が存在することから、毛野氏が上毛野氏と下毛野氏に分かれた後にそれぞれ勢力を北に伸ばし、外輪山を持つ山の中で二番目の高峰を赤城山になぞらえて「駒ヶ岳」または「駒形山」と名付け、駒形大神を祀ったとする。そして雄略天皇の時代に、上毛野氏が奥州において現在の「駒ヶ岳」を見出して名づけ、山頂に駒形大神を勧請したのが始まりであるとするものである。この説に従えば、駒形神社の祭神は赤城山の神と同一か、深い関連を持つ存在ということになる。
関連して、『続日本後紀』承和8年(841年)3月2日条には江刺郡擬大領として「上毛野胆沢公毛人」の名が見え、上毛野氏と胆沢との関わりが指摘される。
さらに赤城神社との関連では、源実朝が『金塊和歌集』において赤城神社を「からやしろ」と詠んでいることから、赤城神社は「から」すなわち中国や韓国に由来するともされるが、当時の朝鮮にあった高麗が「コマ」と呼ばれたことから、駒形という名称は、「高麗唐」すなわち「コマカラ」が「こまかた」のち「こまがた」に転訛したともいう。
関連して箱根神社の摂社である駒形神社では、朝鮮から高麗大神が勧請されたとしている。
なお奥宮は現在駒ヶ岳に鎮座するが、元々は駒ヶ岳南方で最高峰の大日岳(経塚山)山頂にあったとする伝承がある。

概史:
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国史では仁寿元年(851年)に「駒形神」の神階が正五位下に、貞観4年(862年)に従四位下に昇叙された旨の記事が見える。従四位下の神階は陸奥国内で最高位になる(陸奥国内で従四位下は計9社。駒形神社側ではこの神階について、駒形神社への坂上田村麻呂の崇敬が篤かった関係で、胆沢の鎮守府から神階を高くすべきとの申し出が何度もあったためと説明している。
また、延長5年(927年)成立の『延喜式』神名帳では陸奥国胆沢郡に「駒形神社」と記載され、式内社に列している。駒形神社側の見解では、全国の駒形神社の中で当社と宮城県栗原郡の駒形根神社の2社のみが神名帳に記載があるという。
平安時代頃には、上記の坂上田村麻呂のほか、源頼義・義家や平泉の藤原氏の崇敬も篤かったと伝える。箱根神社の縁起には、藤原秀衡が銅を鋳て駒形の神の像を作り祀るなど、藤原氏の駒形大神への信仰の篤さが読み取れる記載があるという。
江戸時代の時点では、駒ヶ岳は仙台藩と盛岡藩の境界であり、里宮はそれぞれの藩内に1社ずつがあった。また、山頂の本宮(奥宮)は両藩によって20年目ごとに交互に建て替えがなされていた。
明治4年(1871年)、山頂の本宮(奥宮)が近代社格制度において国幣小社に列するにあたり、本宮・里宮とも参拝に不便であるとして、当時の水沢県県庁に近い鹽竈神社の本殿が仮遥拝所となされた(鹽竈神社は境内社の春日神社に遷座)。そして明治7年(1874年)、社殿が改修されて正式な遥拝所とされた。明治36年(1903年)に山頂の神霊が遥拝所に遷され、元は鹽竈神社のものであった社殿等一切は駒形神社に編入された。鹽竈神社は境内別宮であった春日神社に合祀され、社名が「春日神社」から「鹽竈神社」に改称されることとなった。
戦後は神社本庁の別表神社に列し、近年では陸中国一宮とも称されている。2010年(平成22年)8月1日、山頂の奥宮にある老朽化した社殿を解体し、新しく社殿を造営した。

神階:
仁寿元年(851年)9月2日、正五位下 (『日本文徳天皇実録』) - 表記は「駒形神」。
貞観4年(862年)6月18日、正五位下から従四位下 (『日本三代実録』) - 表記は「駒形神」。

摂末社:以下はいずれも本社境内社。
a0057057_19592783.pnga0057057_10550277.png
別宮
鹽竈神社
祭神:鹽竈神(塩土老翁神・武甕槌神・経津主神)
 相殿に春日神(天児屋根神・比賣神・藤原鎌足朝臣)

駒形神社本社の新設以前より、当地に鎮座した神社である。
創建は不詳ながら、元々は石田・大明神の地にあったといい、一伝では康平5年(1062年)に源頼義・義家父子が石田・大明神の屋敷に社殿を造営し塩竈神を勧請したことに始まるという。
勧請元の鹽竈神社(宮城県塩竈市)は中世に留守氏の支配下にあったため、実際には寛文6年(1666年)に水沢城に入った留守宗利が勧請したことに始まると推測されている。
一伝では、留守宗利が再興、明和3年(1766年)に現在地に遷座したという。安政6年(1859年)の水沢大火で社殿は焼失したが、文久2年(1862年)に再興。のち当地に駒形神社が移るにあたって社殿を譲り、境内摂社の春日神社に遷座した。明治の一時期は駒形神社とは分割される独立社であったが、その後は駒形神社の境内別宮として推移している。

末社
a0057057_11450499.png山神社
祭神:木花開耶姫神・大山祇神
その他
a0057057_17561455.png水沢招魂社
祭神:
郷土出身の国事殉難者1099柱

かつては水沢公園内に鎮座した。明治11年(1878年)の伊勢神宮分霊の巡行に際して、水沢公園内にあった愛宕神社(安政6年(1859年)の水沢大火で焼失)の跡地上に行在所が建てられたことに始まる。
この行在所は明治42年(1909年)に招魂社に改められたが、その後荒廃し、駒形神社境内に遷座して現在に至っている。

この神社最寄りの駅・バス停:
JR東北新幹線・水沢江刺駅からタクシー
または、JR東北本線水沢駅から徒歩またはタクシー(バスは1日数本程度)

出典・参考:Wikipedia「駒形神社」(最終更新 2018年4月7日)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A7%92%E5%BD%A2%E7%A5%9E%E7%A4%BE

現地参拝:29.6.25
記事投稿:30.4.24
  調整:30.4.27

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by fbox12 | 2018-04-27 17:46 | 神社

第佰拾七 波上宮 沖縄県那覇市鎮座

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a0057057_22481619.pnga0057057_22212245.png
a0057057_22201005.pngなみのうえぐう

鎮座地:沖縄県那覇市若狭一丁目25番11号
祭神:
主祭神
 伊弉冊尊(いざなみのみこと)
 速玉男尊(はやたまをのみこと) 左神座
 事解男尊(ことさかをのみこと) 右神座
相殿神
 竈神(火神)
 産土大神
 少彦名神 (薬祖神)
社格等:旧官幣小社、神社本庁別表神社、琉球国新一の宮
本殿様式:流造
別名:沖縄総鎮守、「なんみんさん」

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概要:
沖縄県那覇市の那覇港を望む高台の上に位置し、「なんみんさん」「ナンミン」として親しまれてきた神社。

歴史:
a0057057_00054749.png当宮創建の年代は不詳である。しかし『琉球宗教史の研究』では、琉球八社は真言宗寺院に併置され、その創建の由緒を見ると多くは社寺同時に創建されたものと考えられることから、当宮は察度王の御代、護国寺(右写真)が開山した時期(貞治7年、1368年)に創建されたのではないかと推測している。
『波上宮 略記』では、遥か昔、人々が海の彼方の海神の国(ニライカナイ)の神々に豊穣や平穏を祈った聖地が当社の鎮座する波の上の崖端で、拝所として日々の祈りを捧げたのに始まると述べている。当地での遥拝に関して『海上の道』では、波の上の丘陵の高みにおいて、毎年、日を定めてこの付近の居留者が各々の故郷の方角に向けて香炉を置き、自身の本国に向かって遥拝する「ネグミ拝み」と言う祭りが近代まで行われていたことを紹介している。
a0057057_22540326.png天啓3年(1623年、和暦では元和9年)完成の『おもろさうし 第十』には「国王様よ、今日の良き輝かしい日に聞得大君を敬って、国中の人々の心を集め揃え、石鎚金槌を準備して石を積み上げ、波の上、端ぐすくを造り聖地へ参詣し給えば、神も権現も喜び給う。」と言う意味の“おもろ”がある。『おもろさうし 上』はこの中に詠われる「波の上、端ぐすく」が当宮鎮座地であると解説し、『日本の神々 -神社と聖地- 13 南西諸島』では当宮創建を詠った“おもろ”ではないかと紹介している。
『神と村』では、グスクは古代祖先達の共同葬所(風葬所)であり、納骨洞穴が拝所になった場所は「テラ」と称される場合があると述べたうえで、上記“おもろ”に記された「なみのうへ は げらへて はなぐすく げらへて ものまいり しよわちへ てらまいり しよわちへ」の「てら」が、古代「鼻(はな)ぐすく」と呼ばれた当宮鎮座地にある「波上洞穴遺跡」を指しており、この地が祖先達の葬所を根源とする「神の居所」であることが覗われると述べている。
a0057057_00285647.png慶長10年(1605年)に倭僧・袋中良定が著した『琉球神道記 巻第五』の「波上権現事」では当宮を琉球国第一大霊現と述べ、さらに以下のような当宮の創設伝承を記している。
南風原の里主という者が釣りをしていると、ある日浜辺で「光り、ものを言う」霊石を見つけた。この石に祈るたびに豊漁となるので、諸神がこの霊石を奪おうとした。そこで里主が当地へ逃れると「吾は熊野権現也、この地に社を建て祀れ、然らば国家を鎮護すべし」との神託があった。里主は琉球王府にこれを奏上し、社殿が創建された。
上記の伝承は、琉球の固有信仰として古くからあった石体信仰と熊野信仰が結合したものであろうと『古代文学講座11 霊異記・氏文・縁起』では考察している。また、上記と同様の伝承が康熙52年(1713年、和暦では正徳3年)に国王へ上覧された琉球王府編纂の地誌『琉球国由来記 巻11』にも記されている。
正平23年(1368年)、頼重法印が当宮の別当寺として護国寺を建立したが、その後一時衰微し、紀伊國熊野から補陀落渡海の果てに琉球へ漂着した真言宗の僧侶日秀上人により大永2年(1522年)再興されている。再興にあたり日秀は熊野三所大権現の本地仏である阿弥陀如来・薬師如来・千手観音を刻して安置している。
寛永10年(1633年)に社殿が焼失したが、本地三尊像は護国寺に移されていて難を逃れた。焼失した社殿は同12年(1635年)に再建されている。さらに享和3年(1803年)社殿が大破したため、それまでの本地三尊像を3殿に分けて安置する形式から1殿に安置する三戸前として改築した。
明治に入り近代社格制度によって官幣小社へ列格され、明治23年(1890年)5月17日に御鎮座告祭式を行った。この御鎮座告祭式の日が、明治26年(1893年)から例大祭の日となっている。『琉球宗教史の研究』によれば、官幣小社へ列格される前年(1889年)に沖縄県が国幣中社の認定を申請していたが、皇室の祖神である伊弉冊尊を祀っていたことを理由として格上げのうえ列格されたのだと言う。昭和10年(1935年)には御再興三百年祭を催行。さらに昭和13年(1938年)頃にかけて神苑を整備している。
太平洋戦争末期の昭和20年(1945年)、戦火が迫ったことから宮司がご神体を奉じて摩文仁村へ避難した。しかし境内は激しい沖縄戦の中で鳥居を残し全てが灰燼に帰してしまった。沖縄戦で壊滅的な損害を被った当宮であったが、昭和23年(1948年)には別表神社へと指定された。昭和27年(1952年)宮司が復興に着手。翌28年(1953年)ハワイ移民の寄進により本殿と社務所を再建、本土へも呼びかけ昭和36年(1961年)には拝殿が再建された。昭和47年(1972年)本土復帰を迎えて沖縄復帰奉告祭が行われ、皇室より幣帛料を賜っている。昭和62年(1987年)旧社務所並びに参集所を撤去し、新しい社務所が新築された。
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平成2年(1990年)御大典を記念して一の鳥居を改築した。さらに平成の御造営により本殿と拝殿を再建、平成5年(1993年)に完成して正遷座祭が催行された。翌6年(1994年)5月に全整備事業の終了により竣功奉告祭が催されている。平成15年(2003年)には第二社務所を新築、平成18年(2006年)長年に亘り信仰の場・景勝地として親しまれてきたことを理由に、当宮敷地一帯が「波上(なんみん)」として那覇市より史跡・名勝文化財へ指定された。
現在、宮内には沖縄県神社庁の事務所が置かれ、沖縄における神道の活動拠点の一つとなっている。

この神社最寄の駅・バス停:
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沖縄都市モノレール(ゆいレール)県庁前駅より西へ1km。
駅前のパレットくもじ前バス停から那覇バス乗車、西武門(にしんじょう)バス停下車。
那覇バス1番(首里牧志線)・2番(識名開南線)・3番(松川新都心線)・5番(識名牧志線)・15番(寒川線)・45番(与根線)で西武門(にしんじょう)バス停下車。

出典参考:Wikipedia「波上宮」(最終更新:2018年3月22日)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%A2%E4%B8%8A%E5%AE%AE

現地取材:2017.5.16
記事投稿:2018.4.15

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by fbox12 | 2018-04-15 23:11 | 神社

第佰拾六 大山祇神社 愛媛県今治市鎮座

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a0057057_22481670.pnga0057057_22562754.pngおおやまづみじんじゃ

鎮座地:愛媛県今治市大三島町宮浦3327番地
祭神:
大山積神(おおやまづみのかみ、おおやまつみのかみ)(主祭神)
社格等:
式内社(名神大)、伊豫國一宮、旧國幣大社、神社本庁別表神社
本殿様式:三間社流造檜皮葺
別名:日本総鎮守(元四国八十八箇所55番札所)

概要:
瀬戸内海に浮かぶ大三島西岸、神体山とする鷲ヶ頭山(標高436.5メートル)西麓に鎮座する。古くは大三島南東部に位置した。三島神社や大山祇神社の総本社であり、山の神・海の神・戦いの神として歴代の朝廷や武将から尊崇を集めた。大山積神を祀る代表的な神社ということもあり、山神社の総本社とされることもある。境内には国の天然記念物「大山祇神社のクスノキ群」がある。また、源氏・平氏をはじめ多くの武将が武具を奉納して武運長久を祈ったため、国宝・重要文化財の指定をうけた日本の甲冑の約4割がこの神社に集まっている。社殿・武具等の文化財として国宝8件、国の重要文化財76件(平成28(2014)年現在)を有し、これらは紫陽殿と国宝館に収納・一般公開されている。さらに、昭和天皇の「御採集船」として活躍した「葉山丸」と、四国の海に生息する魚介類や全国の鉱石、鉱物を展示した大三島海事博物館(葉山丸記念館)が併設されている。近代においても、日本の初代内閣總理大臣の伊藤博文、旧帝國海軍聯合艦隊司令長官の山本五十六をはじめとして、政治や軍事の第一人者たちの参拝があった。現在でも、海上自衛隊・海上保安庁の幹部などの参拝がある。

名称:
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古代には大山積神社の名で記録に現れるが、一般的には三島あるいは御島から、大三島大明神や三島社、あるいは単に大三島と呼ばれた。現在島の名前とされる大三島は本来は神社名であったが、江戸時代以前は島の名前と特に区別なく使われていた。明治時代に入り社名を大山祇神社と定めた。主祭神の大山積神は、別名として「和多志大神(わたしのおおかみ)」とも、「三島大明神」とも。伊弉諾尊と伊弉冉尊の間の子で、磐長姫命と木花開耶姫命(瓊瓊杵尊の妃)の父神。元は山の神であるが、大山祇神社が瀬戸内海の要所に位置することなどから、大山祇神社では海の神としての性格も強い。大山祇神社では社名「大山祇」と祭神名「大山積」とは異なる表記が用いられているが、かつては社名も「大山積」と表記されていた。

歴史:
a0057057_14443506.png創建大山祇神社の鎮座する大三島は古くは「御島」と記されたように、神の島とされていた。大三島に鎮座した由来には諸説がある。『大三嶋記文』(社伝)大山祇神子孫の小千命(乎千命、おちのみこと)が大三島に勧請したとする。『伊豫國風土記』逸文大山積神は百済から渡来して津の国(摂津國)の御嶋に鎮座、のち伊豫國に勧請されたとする。その解釈として、越智氏が朝鮮半島出征で大山積神を戴いて帰国したとする説、越智直が百済に出征し捕虜となり中国を回って帰国したとする説話による説があるが、いずれも確証は欠く。摂津國の御嶋は三嶋江(三嶋鴨神社)が定説だが、鴨神社(式内社三嶋鴨神社の論社)ともされる。『豫章記』・『豫陽河野家譜』越智玉興がこの地での霊験にあやかり、勅宣により社殿を造営したとする。境内には弥生時代の神宝や祭祀遺跡があるといわれており、いずれにしてもかなり古い時代から存在したとされる。

概史:
文献では、古く『続日本紀』天平神護2年(766年)条において、「大山積神」に従四位下の神階を授けるとともに神戸5烟を充てる旨が記されている。『新抄格勅符抄』大同元年(806年)牒においても、当時の「大山積神」には神戸として伊豫國から5戸が充てられ、それは天平神護2年5月3日の符によると記されている。その後の国史では、承和4年(837年)に名神に預かり、貞観8年(866年)に正三位、貞観12年(870年)に従二位、貞観17年(875年)に正二位に昇叙された旨が記されている。延長5年(927年)成立の『延喜式』神名帳では伊豫國越智郡に「大山積神社 名神大」と記載され、名神大社に列している。中世から伊豫國の一宮とされたほか、朝廷からは『日本總鎮守』の号が下賜されたという。神職(大祝職)は、代々越智氏(のち三嶋家)が担い、職名を姓とした大祝氏を称した。大正4年(1915年)、近代社格制度において國幣大社に列格された(四国地方では唯一の大社)。太平洋戦争の終戦直後の一時期には、旧帝國海軍関係の貴重な資料や教材を戦利品として連合国に没収されることを恐れた海軍兵学校から、巖嶋神社と合わせて約1万点を「奉納」の名目で預かっていた。そして後に自衛隊が創設されると、自衛隊に返還がなされた。また、GHQは刀剣類の異常な多さを問題視し、国宝級を除いて処分を命じたが神社側は密かに土中に秘匿した。

神階:
六國史時代における神階奉叙の記録天平神護2年(766年)4月19日、従四位下 (『続日本紀』) - 表記は「大山積神」。
承和4年(837年)8月7日、従四位下、名神に預かる (『続日本後紀』) - 表記は「大山積神」。
貞観8年(866年)閏3月7日、従三位から正三位 (『日本三代実録』) - 表記は「大山積神」。
貞観12年(870年)8月27日、正三位から従二位 (『日本三実録』) - 表記は「大山積神」。
貞観17年(875年)3月29日、従二位から正二位 (『日本三代実録』) - 表記は「大山積神」。
六國史以後寛平9年(897年)、正一位 (社伝)年表:仁徳天皇年代、百済より摂津國御嶋に大山祇神を祀るという(『伊豫國風土記』逸文)
推古天皇2年(594年)、大三嶋瀬戸(遠土宮おんどのみや、現 横殿社。今治市上浦町瀬戸)に移るという (『伊豫國風土記』逸文、『三嶋宮社記』)
大宝元年(701年)、現在地(今治市大三島町宮浦)への遷宮に向け造営が始まる (『三嶋宮御鎮座本縁』)
霊亀2年(716年)、16年をかけ造営終了 (『三嶋宮御鎮座本縁』)
養老3年(719年)4月22日、遷宮の儀 (『三嶋宮御鎮座本縁』)
元亨2年(1322年)、戦火に遭い本殿、拝殿が焼失 (『伊豫國三嶋社縁起』)
天授4年(1378年)、本殿、拝殿再建 (社伝)
応永34年(1427年)、本殿再建 (向拝實肘木墨書)
天文12年(1543年)、大三嶋合戦、鶴姫戦死(社伝)
慶長7年(1602年)、拝殿建築 (社伝)
平成4年(1992年)、「日帝残滓」を焼却処分すると主張した過激派(中核派)の放火により祖霊殿全焼

摂末社:
摂社
上津社
祭神:上津姫、雷神本殿向かって右手に鎮座する境内摂社。
社殿は、本宮本殿と同様に応永年間(1394年-1428年)の再建と推定される。三間社流造で、屋根は檜皮葺。延享年間(1744年-1748年)・文政年間(1818年-1830年)に大改修が行われたほか、昭和43年(1968年)にも解体修理が実施された。愛媛県指定有形文化財に指定されている。

下津社
祭神:下津姫、高籠神本殿向かって左手に鎮座する境内摂社。
社殿は三間社流造檜皮葺。

阿奈波神社(あなばじんじゃ)
鎮座地:今治市大三島町宮浦字御串山
祭神:磐長姫命(いわながひめのみこと) - 大山積神の娘、木花咲耶姫命の姉。
創建:
(伝)宝亀10年(779年)11月御串山山麓、宮浦港に隣接して鎮座する境外摂社。
健康及び長寿の神様として崇められている。子宝に恵まれぬ人や花柳病(女性の下半身の病)に霊験ありとして特別の信仰がおこった。夫婦でお参りに行くと子宝に恵まれることや、女性の下着類や賜物を備えて参拝する習わしが現在に伝えられている。拝殿脇の祈祷奉納品を収める別屋には、男根の奉納品なども収められている。

末社
境内末社
御鉾神社(おほこじんじゃ)
祭神:御鉾大神

八重垣神社
祭神:素戔嗚命

酒殿祭神:大山積神

姫子邑神社
祭神:木花開耶姫命(大山積神の娘)とその御子神(火々出見命・火須勢理命)。
本殿裏に鎮座。

院内荒神社
祭神:神饌調理の竈神。
院内荒神社・地神社・稲荷神社・石神社は4社並んで鎮座する。

地神社
祭神:境内の地主神。

稲荷神社

石神社

伊予国総社・祓殿神社・葛城神社
祭神:大禍津日神・大直日神・伊豆能売神・速佐須良姫神・一言主神。社殿一宇に三社を祀る。

十七神社
祭神:諸山積神社と十六神社諸山積神社に十六社が接続する形をとる。由緒書によれば、神社自体は正安年間(1299年-1302年)の創建、社殿は永和4年(1378年)の再建という。愛媛県指定有形文化財に指定されている。内陣には重要文化財指定の神像群が鎮座する。

宇迦神社
祭神:宇賀神。
放生池の島に鎮座。

馬神社
祭神:天斑駒神。
神馬舎隣に鎮座。

祖霊社
祭神:大国主命と信徒祖霊。
旧神宮寺で、本社からは一段上がった境内地に鎮座する。保延元年(1135年)、「神供寺」として創建された。その後、四国八十八箇所霊場第55番札所・月光山神宮寺となるなどと栄えていたと伝えられる。明治に入り神仏分離がなされ、出雲大社から大国主命の分霊が勧請され末社となった。

八坂神社
祭神:素戔嗚命・少彦名命。
祖霊社横に鎮座。

五穀神社
祭神:宇賀御魂神。
祖霊社横に鎮座。

境外末社
-省略-

この神社最寄の駅・バス停:
a0057057_22003244.pngバス・・瀬戸内運輸・瀬戸内海交通バスで「大山祗神社前」バス停下車 (下車後徒歩すぐ)今治駅や松山市駅(瀬戸内運輸特急便の一部のみ)などを結ぶ瀬戸内運輸特急便・瀬戸内海交通急行便のほか、瀬戸内海交通の路線バス(宮浦港と出走を結ぶ路線)が停車する。また、平成22(2010)年からは観光周遊バス鶴姫号(日曜日・祝日)が停車する。フェリー・・宮浦港 (今治市大三島町宮浦) - 徒歩約15分。大三島ブルーライン 快速船:今治港から約1時間 - 宗方港(大三島)・木江港(大崎上島)を経由。大三島ブルーライン フェリー:今治港から約1時間30分 - 同上。

出典参考:Wikipedia「大山祇神社」(最終更新 2018年1月19日)
現地参拝:29.3.15
記事投稿:30.4.-8

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by fbox12 | 2018-04-09 22:25 | 神社

第佰拾伍 土佐神社 高知県高知市鎮座

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a0057057_23280281.pnga0057057_23280214.pnga0057057_23280100.pnga0057057_23280280.pnga0057057_17262461.pnga0057057_17270483.pnga0057057_23280287.pnga0057057_23280104.pnga0057057_23280250.png
とさじんじゃ

鎮座地:高知県高知市一宮しなね2丁目16-1
祭神:味鋤高彦根神(あぢすきたかひこねのかみ)
   一言主神(ひとことぬしのかみ)
社格等:式内社(大)、土佐國一宮、旧国幣中社、神社本庁別表神社
本殿様式:入母屋造

概要:
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高知市北東部、南国市へと通じる大坂越えの西麓に鎮座する。『日本書紀』や『土佐国風土記』(逸文)の記述で知られるように古代から祀られた古社で、中世・近世には土佐国の総鎮守として崇敬された高知県を代表する神社である。代々の領主は土佐神社に対して崇敬が篤く、現在の主要社殿は戦国大名の長宗我部元親による造営、楼門(神光門)・鼓楼は土佐藩第二代藩主の山内忠義による造営で、いずれも国の重要文化財に指定されている。また祭事としては土佐三大祭の一つとして知られる例祭「志那禰祭(しなねまつり)」が古代から続き、神宝としては鰐口・能面・銅鏡等を伝世している。

由緒:
元亀元(1570)年長宗我部元親公の再建御建立の現社殿(国重文)は入母屋造りの前面に向拝を付けた本殿とその前方の十字形をなす幣殿、拝殿、左右の翼、拝の出からなります。十字形の屋根は交差した部分が重層切妻であり、他は単層切妻です。弊殿を頭とし、尾に相当する拝の出を長くした十字形で、本殿に向かってとんぼが飛び込む形にみたてたいわゆる入蜻蛉形式で、凱旋を報告する社という意味があると言われています。(神社ホームページ)


社名:
現在の社名「土佐神社」は明治の改称によるもので、それ以前の史料では次のように表記される。
 土左大神 - 『日本書紀』、『土佐国風土記』逸文
 土左高賀茂大社 - 『土佐国風土記』逸文
 都佐坐神社 - 『延喜式』神名帳
 都佐坐神 - 『日本三代実録』
 高賀茂神 - 『長寛勘文』中世・近世には一般に「高賀茂大明神」と称されており、一部には「一宮大明神」とする史料も見られる。この「一宮」は土佐神社が土佐国の一宮であったことに由来するもので、土佐神社周辺の地名に現在も使用されるが、土佐では「いっく」と読まれる。
明治4(1871)年、国幣中社に列するに際し社名を「土佐神社」と改称した。地元では「しなねさま(志那禰様)」とも称されている。

摂社:本殿西に奉斎
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a0057057_16271752.pnga0057057_16474878.png大国主神社
a0057057_15343480.pnga0057057_22115355.png西御前社
a0057057_17000393.pnga0057057_17050947.jpg事代主神社

末社:
a0057057_11053426.pnga0057057_10392872.png
厳島神社(上写真) - 祭神:市寸嶋姫命・多紀理比賣命・多岐都比賣命
神明宮 - 祭神:天照皇大御神・豊受大御神。古くは伊勢神宮遥拝所であった。
瀧宮 - 祭神:未詳。
以上のほか、鳥居横には秋葉神社の小祠が鎮座する。

この神最寄の駅・バス停:
四国旅客鉄道(JR四国)土讃線 土佐一宮駅(徒歩約15分)
(JR土讃線)高知駅からバス(乗車時間約15分)「一宮神社前」(停)下車(下車後徒歩すぐ)

出典参考:土佐神社ホームページ
  http://www.tosajinja.i-tosa.com/index.html
 Wikipedia「土佐神社」(最終更新:2018年1月30日)
  https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%9F%E4%BD%90%E7%A5%9E%E7%A4%BE

現地参拝:29.3.14
記事投稿:30.3.31

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by fbox12 | 2018-04-01 22:35 | 神社

第佰拾四 鹿児島神宮 鹿児島県霧島市鎮座

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a0057057_22454749.pnga0057057_22352176.pngかごしまじんぐう

鎮座地:鹿児島県霧島市隼人町内2496番地1
祭神:天津日高彦火火出見尊
  (あまつひだかひこほほでみのみこと)(山幸彦)
 豊玉比売命(とよたまひめのみこと)
合殿:帯中比子尊(なかたらしひこのみこと)(仲哀天皇)
 息長帯比売命
 (おきながたらしひめのみこと)(神功皇后)
 品陀和気尊
 (ほむだわけのみこと)(応神天皇・八幡大神)
 中比売命(なかつひめのみこと)(応神天皇皇后)

社格等:大隅國一宮、国弊中社、神宮号宣下官幣中社、官幣大社、神社本庁別表神社
 正八幡、国分正八幡、大隅正八幡

由緒:
鹿児島神宮の御祭神は海幸山幸の神話によるところの社で創祀は遠く神代にあって、又皇孫神武天皇の御代とも伝えらています。御祭神彦火火出見尊 (別名山幸彦)はこの地に高千穂宮(皇居)を営み給い、500有余歳の長寿に亘り間農耕畜産漁猟の道を開拓し国家の基礎をつくられた。また正八幡宮、国分正八幡、大隅正八幡等とも称し全国正八幡の本宮でもあります。平安時代醍醐天皇の延喜式には大社に列し大隅國一之宮として朝野の崇敬篤く営繕の費は三州の正税を以て充てられ後鳥羽天皇建久年間(1198年)には社領2500余町歩の多きに至り、江戸末期まで千石を有していた。明治4年國幣中社、同7年神宮号宣下官幣中社、同28年官幣大社に列格、勅使皇族の御参拝は20余度に及び、昭和10年と49年には昭和天皇の行幸を仰いだ。

境内摂社・末社:
石體神社(せきたいじんじゃ)
由緒:御創建は遠く神代の頃、御祭神彦火火出見命が高千穂宮を営んでいたところと伝えられる旧社殿地。石體神社にある記念碑には平安時代期の頃、社殿に火を放たれたとの伝えがあるので、その後再興されたものと伝えられる。石體神社は古くより安産成就の神として信仰厚く、境内に積まれた丸石をお守りとして持ち帰ると安産にご利益があると伝わっています。

a0057057_22112081.png四所神社
a0057057_22044174.pnga0057057_21550047.png雨の社(左)
稲荷社(右)

他:卑弥呼神社、招魂社、山神神社、大多羅知女神社、日秀神社、御門神社(タイトル写真)、三の社神社

最寄りの駅・バス停:
 JR日豊本線・隼人駅
 鹿児島交通・鹿児島神宮前(停)

参考資料:鹿児島神宮ホームページ
 http://kagoshima-jingu.jp/

現地参拝:2018.3.14
記事投稿:2018.3.23

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by fbox12 | 2018-03-23 23:01 | 神社