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カテゴリ:神社( 136 )

第佰貮拾七 二荒山神社 栃木県日光市鎮座

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ふたらさんじんじゃ

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所在地:
 本社:栃木県日光市山内2307
 中宮祠:栃木県日光市中宮祠2484
 奥宮:栃木県日光市中宮祠二荒山
主祭神:二荒山大神(大己貴命、田心姫命、味耜高彦根命の総称)
神体:日光三山(神体山)
社格等:式内社(名神大)論社、下野國一宮、旧國幣中社、神社本庁別表神社
本殿様式:八棟造(本社本殿)

概要:
関東平野北部、栃木県北西にそびえる日光連山の主峰・日光三山を神体山として祀る神社である。境内は次の3ヶ所からなる。
 本社(栃木県日光市山内)
  本社 - 日光の社寺最奥に鎮座
  別宮本宮神社 - 日光の社寺入口、女峰山登山口入口
  別宮滝尾神社 - 女峰山登山口入口奥
 中宮祠(栃木県日光市中宮祠) - 中禅寺湖畔。男体山表登山口入口
 奥宮(栃木県日光市中宮祠二荒山) - 男体山山頂
日光三山は男体山(なんたいさん:古名を「二荒山(ふたらさん)」)・女峰山(にょほうさん)・太郎山からなり、二荒山神社ではそれぞれに神をあてて祀っている。三山のほか日光連山を境内地とし、面積は3,400haにも及び、その神域には華厳滝やいろは坂も含まれる。
二荒山神社は古来より修験道の霊場として崇敬された。江戸時代になり幕府によって日光東照宮等が造営されると二荒山神社も重要視され、現在の世界遺産・重要文化財指定の主な社殿が造営された。また、国宝指定の刀剣2口や多数の刀剣等の重要文化財を現在に伝えているほか、境内は国の史跡「日光山内」に包括されている。
宗教法人登記上の正式名称は「二荒山神社」であるが、宇都宮市の二荒山神社(ふたあらやまじんじゃ:宇都宮二荒山神社)との区別のために地名を付して「日光二荒山神社」と称される。古くは「日光三社権現」と称された。
ユネスコの世界遺産に「日光の社寺」の構成資産の1つとして登録されている。

祭神:
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主祭神は次の3柱。それぞれ日光三山の一山にあてられている。3神は「二荒山大神」と総称される。
 男体山(二荒山)(標高、2,486 m) 大己貴命(おおなむちのみこと) 父 千手観音
 女峯山(標高、2,464 m) 田心姫命(たごりひめのみこと) 母 阿弥陀如来
 太郎山(標高、2,368 m) 味耜高彦根命(あじすきたかひこねのみこと) 子 馬頭観音
これらの山々は神体山、いわゆる神奈備であり、霊峰として古くから信仰されてきた。この日光の神々は「日光三山」「日光三所大権現」などと呼ばれ、親子の山と考えられてきた。
二荒山神に現在の人格神があてられたのは12世紀頃だとされる。さらには本地垂迹説により上記のような諸仏があてられ、輪王寺では現在もこれら諸仏を祀っている。

歴史:
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創建霊場としての日光の始まりは、下野国の僧・勝道上人(735年-817年)が北部山岳地に修行場を求め、大谷川北岸に天平神護2年(766年)に紫雲立寺(現在の四本龍寺の前身)を建てたことに始まるとされる。そして二荒山神社の創建は、上人が神護景雲元年(767年)二荒山(男体山)の神を祭る祠を建てたことに始まるとされる。この祠は現在の別宮となっている本宮神社にあたる。上人は延暦元年(782年)二荒山登頂に成功し、そこに奥宮を建てて二荒修験の基礎を築いた。その後、神仏習合の霊場として栄えることとなったと伝えられる。
なお、社伝などでは上記のように勝道上人が開祖と説明されるが、実際には太郎山神社周辺で古代の祭祀の痕跡を示す遺跡が見つかっており、相当古くから聖地として信仰対象であったことがわかっている。
概史
空海が訪れた際、女峰山の神を祀る滝尾神社を建てたと伝えられている。また、円仁も日光を訪れたとされ、その際に現在輪王寺の本堂となっている三仏堂を建てたといい、この時に日光は天台宗となったという。ただし、2人の来訪は史実と言えず、伝承の域は出ていない。
その後、二荒山の神を本宮神社から少し離れた地に移して社殿を建て、本宮神社には新たに御子神である太郎山の神を祀った。このとき新たに建てた現在の本社、元の本宮神社、そして瀧尾神社は総称して「日光三社」と呼ばれる。
平安時代には承和3年(836年)の正五位下勲四等に始まって貞観11年(869年)の正二位勲四等の神階奉授の記録があるほか、『延喜式神名帳』に記載されている名神大社「下野國河内郡 二荒山神社」の記載がある。ただし、この論社には宇都宮市の宇都宮二荒山神社もあり、帰属を巡っては古くから議論がある。また、両社とも下野國一宮を称している。
鎌倉時代初期には、男体山山頂遺跡の出土品から山岳信仰が最盛期を迎えたことが示唆されており、神社祭礼もこの時に確立されたと考えられる。
戦国時代には、後北条氏に加担したことにより豊臣秀吉に領地を没収され、衰退した。
江戸時代初め、徳川家康の側近で日光山貫主となっていた天台宗の僧天海(慈眼大師)により、徳川家康を祀る東照社(日光東照宮)が江戸幕府によって創建されると、二荒山神社もまた、江戸幕府のみならず朝廷や諸大名、さらに民衆からも厚い崇敬を受けた。元和5年(1619年)には、徳川秀忠によって本殿が再建された。
1873年(明治6年)に宇都宮の二荒山神社に加えて國幣中社に追加列格した。
第二次世界大戦後、神社本庁の別表神社となった。

年表:〈〉内は関連事項
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766年(天平神護2年) - 勝道、紫雲立寺(のちの四本龍寺)を建立
767年(神護景雲元年) - 勝道、二荒神の祠(現 別宮本宮神社)を造営
782年(延暦元年) - 勝道、奥宮を造営
784年(延暦3年) - 勝道、中宮祠とその神宮寺の中禪寺を建立
808年(大同3年) - 橘利遠、本宮神社の社殿造営
810年(弘仁元年) - 朝廷より「満願寺」の号が下賜
820年(弘仁11年) - 空海、日光を訪れて瀧尾神社・若子神社を造営
836年(承和3年) - 二荒神、正五位下の神階を下賜(869年(貞観11年)には正二位まで昇叙)
848年(嘉祥元年) - 円仁、日光を訪れて本堂・薬師堂を建立
927年(延長5年)12月26日 - 〈延喜式完成〉
967年(康保4年)7月9日 - 〈延喜式施行〉
1141年(永治元年) - 藤原敦光、『中禪寺私記』を著作
1315年(正和4年) - 仁澄、中禪寺の大造営を執行
1616年(元和2年) - 〈徳川家康、薨去〉
1617年(元和3年) - 天海、日光東照社を建立し、元和の造営を執行
1636年(寛永13年) - 天海、寛永の大造替を執行
1645年(正保2年) - 朝廷より宮号勅許を賜り東照社を「日光東照宮」と改名
1649年(慶安2年) - 日光連山の一つの白根山が噴火し、社殿焼失
1651年(慶安4年) - 〈徳川家光、死去〉
1653年(承応2年) - 大猷院廟建立
1868年(慶応4年3月) - 〈神仏分離令〉
1868年(慶応4年) - 戊辰戦争。旧幕府軍が立てこもるが、新政府軍の板垣退助の説得により戦場を移す。
1868年(明治元年) - 神体動座
1871年 (明治4年)5月14日 - 〈社格制度制定〉
1872年(明治5年) - 山内の女人牛馬禁制解禁
1872年(明治5年) - 日光東照宮、日光山輪王寺、日光二荒山神社に分立
1873年(明治6年) - 國幣中社に列格
1945年(昭和20年)12月15日 - 〈神道指令〉
1998年(平成10年) - 「日光山内」が国の史跡に指定
1999年(平成11年) - 「日光の社寺」が世界遺産(文化遺産)に登録

境内:
江戸時代までは、神領約70郷という広大な社地を有していた。今日でも日光三山を含む日光連山8峰(男体山・女峰山・太郎山・奥白根山・前白根山・大真名子山・小真名子山・赤薙山)や華厳滝、いろは坂などを境内に含み、その広さは3,400haという、伊勢神宮に次ぐ面積を有している。

本社
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日光東照宮の西奥に鎮座し、「日光山内(さんない)」と呼ばれる日光の社寺のうちでは最奥に位置する。
元は現在の別宮・本宮神社の地に鎮座しており、移転後は「新宮」と称された。元和3年(1617年)の東照宮造営の際に現在地に移転し、社殿も一新された。現在の社殿はその時の造営のもので、八棟造の本殿や入母屋造の拝殿を始めとして11棟が国の重要文化財に指定されている(神橋含む)。
神苑内にある正応5年(1292年)銘の銅灯籠(国の重要文化財)は、「化灯籠(ばけどうろう)」と通称される。火を灯すと怪しげな姿に化けたといわれ、武士が刀で斬りつけた傷が無数に残されている。(上右写真)

中宮祠
中宮祠は、男体山中腹の中禅寺湖畔に鎮座する。「中宮祠」とは、本社と奥宮との「中間の祠」の意である。勝道上人による天応2年(782年)の男体山登頂ののち、延暦3年(784年)に建立されたという。この時、同時に中禪寺も二荒山神社の神宮寺として創建された。古くは「男体中宮」「男体権現」「中禪寺権現」とも称された。棟札の写しによれば、永長元年(1096年)、久寿2年(1155年)、永暦2年(1161年)の社殿造営が確認されている。その後、現在の社殿が元禄12年(1699年)に造営された。
当地は古くから男体山登山の表口とされ、現在も登拝口(登山口)が本殿横に位置している。入り口の登拝門は開山時(5月5日-10月25日)のみ門が開く。7月31日-8月8日の登拝祭の間は、中宮祠本殿から奥宮に神像が遷される。
境内は本殿を始めとして7棟が国の重要文化財に指定されている。また男体山の登拝口の近くにある巨大なイチイ(A株とB株の2本)のうち、A株の樹齢は推定1,100年、B株の樹齢は推定1,000年とされ、1969年(昭和44年)10月11日にA株・B株ともに「中宮祠のイチイ」として栃木県指定天然記念物に指定されている。そのほか宝物館では、二荒山神社が所有する刀剣等の多くの宝物を展示している。

奥宮
男体山山頂に鎮座する。勝道上人により天応2年(782年)に創建された。奥宮近くの太郎山神社付近からは奈良時代から近世に至る祭祀遺物が出土し、一帯は「男体山頂遺跡」と言われる。出土品の多数は重要文化財に指定されており、中宮祠宝物館にて保管されている。

摂末社:
別宮
別宮の2社は、本社とともに「日光三社」と称され、かつては「日光三社権現」とも総称されていた。

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本宮神社(ほんぐうじんじゃ)
 鎮座地:栃木県日光市山内。「日光山内」滝尾道の入り口
 祭神:味耜高彦根命 - 太郎山祭神
神護景雲元年(767年)、勝道上人により開山された日光山発祥の地であり、鎮座地は本社の旧鎮座地と伝わる。山を拝した名残りで、本殿裏側には扉が設けられている。本宮に対し、現在の本社を新宮ともいう。
近くには旧別当寺として天平神護2年(766年)に建てられた「四本龍寺」があり、こちらは輪王寺の旧鎮座地とされる。

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滝尾神社(たきのおじんじゃ)
 鎮座地:栃木県日光市山内。「日光山内」滝尾道の北奥、白糸の滝付近
 祭神:田心姫命 - 女峰山祭神
弘仁11年(820年)に空海が開いた。本宮神社同様、山を拝した名残りで本殿裏側には扉が設けられている。
参道には空烟地蔵、影向石が、境内には末社として滝尾稲荷神社が鎮座している。また、奥社として女峰山山頂に女峰山神社が鎮座している。


本社周辺
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若子神社(じゃっこじんじゃ)
 鎮座地:栃木県日光市山内。寂光の滝付近
 祭神:下照姫命
摂社。弘仁11年(820年)に空海が滝尾神社に続いてこの地で修行した。元の名は「寂光寺」または「寂光権現」であり、室町時代には七堂伽藍が立ち並び釘念仏道場として栄えた。明治に入り「若子神社」と改められた。なお、釘念仏のお札は現代では輪王寺で受けることができる。境内には寂光の滝がある。

池石(生石、いけいし)
 鎮座地:栃木県日光市山内。本社から若子神社・寂光の滝へ向かう道の中間
 若子神社遥拝所。本社と若子神社の中間に鎮座する遥拝所(前立て)で、大きな磐座が祭られている。岩の上にある窪みの水が枯れないことからこの名前が付いた。

北野神社(きたのじんじゃ)
 鎮座地:栃木県日光市山内。滝尾道(稲荷川に沿う道)にあり、本社と滝尾神社の中間
 祭神:菅原道真。
末社。寛文元年(1661年)、筑紫安楽寺の大鳥居信幽が太宰府天満宮より勧請。梅鉢の紋を掘り込んだ巨岩もある。

滝尾高徳水神社(たきのおたかとくすいじんじゃ)
 鎮座地:栃木県日光市山内。滝尾道にあり、滝尾神社の入り口、白糸の滝のほとり。
 祭神:罔象女大神(みづはのめのおおかみ)
末社。通称:水神社。1979年(昭和54年)横川信夫県知事が藤原町高徳の鬼怒川沿いに丹生川上神社より勧請、1998年(平成10年)道路拡幅のため現在地に遷座。

滝尾稲荷神社(たきのおいなりじんじゃ)
 鎮座地:栃木県日光市山内。滝尾神社の本殿裏
 祭神:倉稲魂神(うかのみたまのかみ、稲荷大明神)
末社。弘仁11年(820年)に空海が滝尾神社と共に開いた。

本社境内(神苑五社)

a0057057_21304392.pnga0057057_10515720.png朋友神社(みともじんじゃ)
 祭神:少名彦名命
末社。重要文化財。

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大国殿
 祭神:招き大国(大己貴命)
境内社。重要文化財。延享2年(1745年)鎮座。内部には大太刀「太郎丸」が展示されている。

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日枝神社(ひえじんじゃ)
 祭神:大山咋命
 末社。重要文化財
嘉祥元年(848年)鎮座。
滝尾社遥拝所
別宮・滝尾神社の遥拝所。神苑五社には含まれない。樹齢約700年の御神木の下に石碑が祭られている。

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若子神社遥拝所
摂社・若子神社の遥拝所。磐座が祭られている。

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日光連山遥拝所
日光連山八峰、すなわち男体山奥宮、女峰山神社、太郎山神社、大真名子山神社、小真名子山神社、赤薙山神社、前白根山神社、奥白根山神社の遥拝所。磐座が祭られている。

中宮祠境内、奥宮周辺、日光連山八峰
 - 省略 -


アクセス:a0057057_22034420.png
本社まで
 JR東日本日光線・日光駅または東武鉄道日光線・東武日光駅から徒歩約35分
バス
 東武バス日光(世界遺産めぐり:右写真)で「大猷院二荒山神社前」バス停下車 (下車後徒歩すぐ)
 東武バス日光(中禅寺温泉行き・湯元温泉行き・奥細尾行き)で「西参道」バス停下車 (下車後徒歩約8分)

中宮祠まで
バス
 東武バス日光(湯元温泉行き)で、「二荒山神社前」バス停下車 (下車後徒歩すぐ)

出典参考:Wikipedia「日光二荒山神社」(最終更新:2018年6月21日)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E5%85%89%E4%BA%8C%E8%8D%92%E5%B1%B1%E7%A5%9E%E7%A4%BE
最終閲覧:2018.7.17

現地参拝:29.9.-4
記事投稿:30.7.18
  調整:30.7.20

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by fbox12 | 2018-07-19 15:32 | 神社

第佰貮拾六 大神神社 愛知県一宮市鎮座

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おおみわじんじゃ

鎮座地:愛知県一宮市花池2-15-28
主祭神:大物主神
社格等:式内社(名神大)、(称)尾張國一宮、旧郷社
本殿様式:流造
別名:三明神、三宮明神

歴史:
概史創建は不詳。上記のように、大物主神を奉斎する大和の大神氏(三輪氏)一族が来住し祭祀を担ったと見る説と、大美和都禰命を奉斎する尾張氏関係氏族が祭祀を担ったと見る説がある。
延長5年(927年)成立の『延喜式』神名帳では尾張國仲嶋郡に「大神神社 名神大」と記載され、名神大社に列している。社名は、写本によっては「大神々社」「太神社」とも表記される。『妙興寺文書』「仲嶋長利寄進状」(観応元年(1350年))では、大神の地はと(石偏に弓)塚(現 一宮市大和町戸塚)の北東部になるとあり、この記載が名神大社比定の傍証になる。一方、他の名神大社と異なり『延喜式』臨時祭 名神祭条では当社の記載がないため、神名帳の「名神大」を衍字と見る説もあるが、肯定説では『貞観式』や臨時祭式の成立後に当社が名神大社の列に加わったためと推測する。また『和名抄』に見える郷名のうちで、当地を仲嶋郡美和郷にあてて「みわ(神/美和)」のつながりを見る説が古くからあるが、『新編 一宮市史』では拝師郷または川埼郷にあてる。
社伝によると、当地は熱田社(熱田神宮)の荘園(熱田庄)で、毎年旧暦7月7日には熱田社に素麺と蓮を奉納したといい、「花池」の地名はその名残とする。しかし『尾張國地名考』ではこの伝承は否定されており、真偽は不詳。また近世には、当社は「三明神」「三宮明神」と称されていたという。
明治5年(1872年)5月には近代社格制度において郷社に列した。現在では尾張國一宮を称し、全国一の宮会に加盟している(ただし一般的には尾張國一宮は真清田神社とされる)。これに関して大神神社側では、真清田神社・大神神社が対の宮であったとし、ともに一宮となったと主張している。現在神職は常駐しておらず、一宮市内の大神社の宮司が兼務する。

神階:従一位または正二位上 (『尾張國内神名帳』) - 表記は「大神名神」。位階は写本により異同がある。
a0057057_22254720.png摂末社:
現在の摂末社は、次の6社。
 六所社、三島社、白山社、神明社、招魂社(写真)、素盞社
この神社最寄の駅・バス停:
名鉄名古屋本線・妙興寺駅

出典参考:Wikipedia「大神神社(一宮市)」(最終更新:2018年5月30日)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E7%A5%9E%E7%A5%9E%E7%A4%BE_(%E4%B8%80%E5%AE%AE%E5%B8%82)
閲覧:30.7.-8

現地参拝:29.8.25
記事投稿:30.7.-8

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by fbox12 | 2018-07-08 22:34 | 神社

第佰弐拾伍 事任八幡宮 静岡県掛川市鎮座

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ことのままはちまんぐう

鎮座地:静岡県掛川市八坂642
祭神:
主祭神 己等乃麻知媛命(ことのまちひめのみこと)
配神:
息長帯姫命 (おきながたらしひめのみこと、神功皇后)
誉田別命 (ほんだわけのみこと、応神天皇)
玉依比売命 (たまよりひめのみこと)
社格等:式内社(小)、遠江國一宮、旧県社

概要:
旧東海道沿いの、日坂宿(にっさかしゅく)および小夜の中山の西の入口、宮村にある。
当社と諏訪大社、特に下社春宮(長野県諏訪郡下諏訪町)、および修験道場として名高い戸隠山(長野県長野市)は、ほぼ南北一直線上にある。近隣を通る国道1号日坂バイパスの「ことのままトンネル」は事任八幡宮から命名された。

歴史:
創建時期は定かではないが、社伝では成務天皇の治世としている。
古くは真知乃神(まちのかみ)、任事神社(ままのことじんじゃ)などと呼ばれ、『延喜式神名帳』には「己等乃麻知神社」と記載されている。
大同2年(807年)、坂上田村麻呂が東征の折、桓武天皇の勅命によって、それまで鎮座していたすぐ北側の本宮山から現在地へ遷座させたと伝えられる。
平安時代後期に八幡信仰が広まると、康平5年(1062年)、源頼義が石清水八幡宮から八幡神を勧請し、日坂八幡宮(にっさかはちまんぐう)や八幡神社(はちまんじんじゃ)とも称されるようになった。
東海道沿いにあって、難所であった小夜の中山の西側の麓にあたることや、「ことのまま」の名が「願い事が意のままに叶う」の意味を持つことから、多くの人が旅の安全や願い事成就を祈るため立ち寄り、また江戸幕府も朱印高百石余りを献上するなど崇敬を集めた。
また古くから多くの書物がこの社のことを記しており、平安時代には清少納言の「枕草子」や多くの和歌、鎌倉時代には吾妻鏡、江戸時代には十返舎一九の「東海道中膝栗毛」などに「願い事が叶う神社」として登場している。
明治以降は県社に列し、単に八幡神社と称した。第二次大戦後に「ことのまま」の名を復活させ、事任八幡宮とした。

摂末社:
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五社神社(写真左)
 五柱の神を祀る
 祭神:天照大神、八意思兼神、大國主命、火乃迦具土神、東照大権現
金比羅神社(写真右)
 祭神:大物主神

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稲荷神社

「いとたのもし」の解釈に関する批判:
昭和22年(1947年)に、GHQの政教分離政策に伴い「社格」の制度が撤廃された際、由緒ある古来の社号「ことのままの社」に基づき、「事任八幡宮」を復活させたのが、現社名の始まりである。
前述のとおり、事任八幡宮は「願いが『言のまま』に叶う」神社として古くから信仰されてきたという歴史がある。
人々が、いつの時代からこのような考え方を持つように至ったのかは定かではないが、これは、この神社が「ことのまま」という名称を冠していることに由来している。
清少納言の書いた『枕草子』には「ことのままの明神、いとたのもし」とある。この文句が、さまざまな文献の紹介分などに引用され、また、例大祭のポスターのデザインに使用されたこともあり、現代では人々のよく知るところにある。
確かにこれだけを見ると、清少納言が事任八幡宮の力を評価し、感嘆している様に見え、「願いが言のままに叶う」を根拠づけていると言える。
しかし、この文言の後を現代語訳すると次のようである。

≪原文≫布留(ふる)の社。龍田(たつた)の社。花ふちの社。みくりの社。杉の御社、しるしあらんとをかし、ことのままの明神、いとたのもし。さのみ聞きけんとや言われたまはんと思ふぞ、いとをかしき。

この時、“さのみ”以下を現代語訳すると「それほどお聞きになっていると言われていると思うと、大変興味深いことだ」となる。
しかし、この時の“思ふぞ”の「ぞ」は、係助詞となっている。
この「ぞ」は「いとをかし」の部分にかかって強調の役目を果たすが、清少納言は、願いがかなうと「言われている」のではなく、あえて「言われていると思う」ことを強調している。
事任八幡宮の主祭神である己等乃麻知比売命(ことのまちひめのみこと)は、言の葉を通して世の人々に加護を賜う「ことよさし」の神として敬われている。
「ことよさし」という言葉は「ことよす」という語にさらに敬意を含めたもので、「高い神が御言葉を以て、また事になぞられて顕世に御力をする、真を伝えられる」の意味で、記紀にしばしば用いられている。
すなわち、実際は天の声を己等乃麻知比売命が人々に伝えるというのが正確であり、人々の知るところとは逆である。
つまるところ、清少納言は己等乃麻知比売命が人々の願いを天に伝えるという誤った解釈が世間に広まったことを、皮肉を込めて書き綴ったものが『枕草子』であるという主張が、今日でも「願いが言のままに叶う」として参拝する客が多い中で存在している。

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大笛:
中遠竹友会が事任八幡宮に奉納したもの。
(後方の御簾は1間物よりやや大きい)。

この神社最寄りの駅・バス停:
a0057057_17450877.pngJR東海掛川駅北口から掛川バスサービス東山線で約20分、
八幡宮前」下車。

出典・参考:Wikipedia「事任八幡宮」(最終更新:2018年3月16日)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8B%E4%BB%BB%E5%85%AB%E5%B9%A1%E5%AE%AE
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現地参拝:29.8.25
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by fbox12 | 2018-06-23 17:50 | 神社

第佰貮拾四 鹽竈神社 宮城県塩竈市鎮座

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a0057057_09103092.pnga0057057_22083344.pnga0057057_22101785.pnga0057057_18221002.pnga0057057_18231795.pnga0057057_22274503.pnga0057057_23164069.pnga0057057_17363976.png
a0057057_18582163.pnga0057057_18582214.pngしおがまじんじゃ

鎮座地:宮城県塩釜市一森山1番1号

主祭神:
志波彦神社
 志波彦神
鹽竈神社
 塩土老翁神(別宮:下拝殿写真)
 武甕槌神(左宮:上拝殿写真)
 経津主神(右宮:上拝殿写真)


a0057057_17392116.pnga0057057_18013257.png
社格等:
志波彦神社
 式内社(名神大)
鹽竈神社
 式外社 陸奥國一宮
両社共通
 旧国幣中社、神社本庁別表神社
本殿の様式:流造

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概要:
鹽竈神社は、志波彦神社(しわひこじんじゃ)と同一境内に鎮座する神社で、全国にある鹽竈(鹽竃・塩竈・塩竃・塩釜・塩釡)神社の総本社である。神紋は「塩竈桜」。
元は当地に鹽竈神社のみが鎮座していたが、明治時代に志波彦神社が境内に遷座し、現在は正式名称を「志波彦神社・鹽竈神社」とし1つの法人となっている。
鹽竈神社境内には、国の天然記念物に指定されている塩竈桜(シオガマザクラ)があり、毎年当地の報道で取り上げられている。また塩竈みなと祭の際には、鹽竈神社が祭りの出発点となり、志波彦神社・鹽竈神社の神輿が塩竈市内を練り歩き、御座船を始め約100隻の船を従えて松島湾を巡幸する。
東北開拓の守護神であり、多くの初詣客が集まることでも知られ
            る。秋には大規模な菊花展が開催される。
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神社の漢字表記についてはいくつか存在するが、
 タイトルのものは「鹽竈神社」が使用しているもの。
 歴史的な表記は「鹽竃神社」。
 市名の正式表記と同じ「塩竈神社」は、主に報道機関が使用しているものだが、Google 等の検索語「塩釜神社」は誤用である。
(この項の表示は、Windows10 を基準にしているため、システムによっては表示が異なる場合がある)。

a0057057_16550923.png祭神の塩土老翁神は謎の多い神であるが、海や塩の神格化と考えられている。神武天皇や山幸彦を導いたことから、航海安全・交通安全の神徳を持つものとしても見られる。また安産祈願の神でもある。武甕槌神と経津主神は東北を平定するために派遣された朝廷の神。

a0057057_21361621.pnga0057057_21364357.png
歴史:
a0057057_16355213.png創建から中世鹽竈神社は、武甕槌命・経津主神が東北を平定した際に両神を先導した塩土老翁神がこの地に留まり、現地の人々に製塩を教えたことに始まると伝えられる。
弘仁11年(820年)に撰進された『弘仁式』の『主税式』では「鹽竈神を祭る料壹萬束」と記載され、祭祀料10,000束を国家から受けており、これが正史における鹽竈神社の初見と言われている。
さらに延長5年(927年)の『延喜式』の『主税式』においても祭祀料10,000束を国家正税から受けている。『延喜主税式』によれば当時の陸奥國の税収は603,000束、鹽竈神社の他に国家から祭祀料を受けていた3社の祭祀料は、それぞれ伊豆國三嶋社2,000束、出羽國月山大物忌社2,000束、淡路國大和大國魂社800束であった。
これらと比較しても国家から特別の扱いを受けていたのは明白であるが、同式の神名帳に鹽竈神社の記載は無い。また、近世に至るまで神階昇叙の記録も無く、式外社となったことと併せて朝廷が一見矛盾するような扱いをなぜしたのか、その理由はわかっていない。
宇多天皇の御代、仁和4年(888年)に一代一度の奉幣として大神宝使を遣わすこととしたが、鹽竈神社へは寛仁元年(1017年)後一条天皇即位の際に遣わされている。
『朝野群載 巻第6』に所収の「式外神社進合御卜證文」には、白河天皇御代に勅命を受け卜った式外社の記述があるが、その中に「近則去延久二年十二月御卜。坐越後國春日布河兩社。坐陸奥國清竈鳥海二社。同六年六月御卜。坐陸奥國浮嶋鹽竈鳥海三箇社。」の一文がある。「清竈」が「鹽竈」の誤字であるとすれば、勅命により御卜を受けた数少ない式外社の中でも、鹽竈神社は延久2年(1070年)12月と延久6年(1074年)6月の2回御卜を受けたことになる。

中世
中世においては歴代の領主から崇敬された。前九年の役および後三年の役を経て藤原清衡が陸奥押領使に任ぜられると、陸奥國の支配権は奥州藤原氏のものとなった。文治2年(1186年)4月28日付けの竹城保司あて所職安堵の下文や文治3年(1187年)に和泉三郎忠衝より奉納された鉄燈は、鹽竈神社に対し奥州藤原氏が影響力と崇敬をよせていたことを窺わせている。また、奥州藤原氏が文治5年(1189年)に滅亡した後、鎌倉幕府が竹城保司に臨時祭料田を設定するよう命じた建久4年(1193年)3月7日付けの文書には「一宮塩竈社」の記述があり、鎌倉幕府から鹽竈神社が一宮と認識されていたことがわかる。
加えて、文治6年(1190年)に奥州下向の将兵に鹽竈以下の神領において狼藉をしないよう命令が出されていることからも、鎌倉幕府が鹽竈神社を重く見ていたことが覗える。
文治6年(1190年)伊澤家景が源頼朝から陸奥留守職に任じられ、伊沢家景の子である家元の代より伊澤氏は「留守」姓を名乗るようになる。以後は留守氏が管理権を掌握し、神社の宮人を自らの家臣団として編成した。留守氏はまた塩竈神宮寺も支配した。神宮寺(別当寺)とは神社を管理する寺院である。戦国時代の末に別当寺は法蓮寺に変わり、江戸時代も当社の別当であった。
14世紀の南北朝内乱期に入ると、東北地方においても南朝方と北朝方に分かれて合戦が行われるようになり、多賀國府の政治的求心力は低下した。これにより、留守氏も陸奥一国に対する行政権を失っていく。それに代わり陸奥國の武士の統率者となったのは、室町幕府から派遣された奥州管領であった。奥州管領達も鹽竈神社に崇敬をよせ、斯波家兼が文和3年(南朝の元号では正平9年、1354年)に祈願状を奉納、斯波直持は文和5年(南朝の元号では正平11年、1356年)に鹽竈神社の仮殿造営と馬一疋の奉加を行うと共に祈願状を奉納している。同じく奥州管領の𠮷良貞経が延文5年(南朝の元号では正平15年、1360年)に鳥居造立、社頭造営、釜一口奉鋳、神馬奉引、大般若一部読踊、心経十万部読踊、御神樂勤仕などの立願を行い、さらに竹城保を寄進している。
応安8年(南朝の元号では天授元年、1375年)以前に編纂されたとされる卜部宿禰奥書の『諸國一宮神名帳』には、陸奥國の一宮は「鹽竈大明神」と記されている。
しかし、その後の室町期に編纂されたとする『大日本國一宮記』では陸奥國一宮は都都古和氣神社とされた。この後、近世においては主に大日本國一宮記が参照されたことから、鹽竈神社は「近世以降の一宮」との認識が持たれることがあった。
しかしながら、江戸時代初期の神道者・橘三喜が全国の一宮を参拝した際は、『大日本國一宮記』の類本である『𠮷田一宮記』と『豊葦原一宮記』を携帯して諸国を巡ったが、延宝6年(1678年)に鹽竈神社を訪れている。

近世
近世に入り仙台藩伊達家がよせた崇敬は特に厚く、伊達氏が当地を治めた江戸時代以降から明治時代に至るまで、歴代仙台藩主は「大神主」として祭事を司ると共に社領・太刀・神馬などを寄進した。初代藩主政宗は岩出山から仙台に居城を移すと、領内寺社の整備に取り掛かる。鹽竈神社へは元和5年(1619年)に社領24貫336文を寄進、慶長12年(1607年)に社殿造営を行った。 二代藩主忠宗は寛永13年(1636年)に鐘楼を再興し、1664年(寛文4年)には拝殿、さらに慶安3年(1650年)には長床を修造している。 三代藩主綱宗は伊達騒動で万治3年(1660年)に家督を子の綱村に譲っていたが、寛文3年(1663年)に大幅な社殿造り変えを行うと共に社領7貫584文を寄進している。歴代藩主中で最も厚い崇敬を寄せた四代藩主綱村は、まず貞享2年(1685年)に塩竈の租税免除・市場開催許可・港湾整備を行って同地を手厚く遇した。貞享4年(1687年)には𠮷田家に神階昇叙を依頼し、鹽竈神社に正一位が昇叙されている。さらに元禄6年(1693年)には神祇管領𠮷田兼連をして鹽竈社縁起を編纂させ、それまで諸説あった祭神を確定させた。
元禄8年(1695年)に社殿の造営計画を立てて工事に着手し、9年後五代藩主𠮷村の宝永元年(1704年)に竣工している。この時造営されたものが現在の社殿である。宝永期以降は20年に一度の式年遷宮の制度が設けられ現在に至っている。 また、五代藩主𠮷村も1704年(宝永元年)の社殿竣工成就を記念して社領55貫文を寄進している。

明治以降の志波彦神社、鹽竈神社
1871年(明治4年)に志波彦神社が國幣中社に列格、1874年(明治7年)12月に志波彦神社が別宮本殿に遷宮されると同時に鹽竈神社が國幣中社に列格した。その後、1934年(昭和9年)から1938年(昭和13年)に志波彦神社が国費をもって社殿新築、1938年(昭和13年)から1942年(昭和17年)には鹽竈神社が国費による修築を行った。第2次世界大戦後に旧社格が廃止されると、当社は神社本庁が包括する別表神社となった。また前述のように、20年に一度の式年遷宮が現在に至るまで行われている。

摂末社:
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境内末社以下の4社は、楼門を入って左手に朱塗木造銅板葺屋根の雨覆を掛けられ並んで鎮座している。明治維新前後に書かれたと言われる『鹽竈社神籍』では社内摂社であるとしている。

写真:
左から、稲荷神社、住吉神社、八幡神社、神明社

参考:
志波彦神社・鹽竈神社 公式サイト
http://www.shiogamajinja.jp/
閲覧:30.6.16
Wikipedia「鹽竈神社」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B9%BD%E7%AB%88%E7%A5%9E%E7%A4%BE
閲覧:30.6.15

現地取材:29.6.27
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by fbox12 | 2018-06-17 21:21 | 神社

第佰貮拾貮 鳥海山大物忌神社 山形県飽海郡遊佐町鎮座

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ちょうかいさんおおものいみ じんじゃ

鎮座地:山形県飽海郡遊佐町に3宮
主祭神:大物忌大神
神体:鳥海山(神体山)
社格等:式内社(名神大)、出羽國一宮、旧國幣中社、神社本庁別表神社
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概要:
鳥海山頂の本社と、麓の吹浦(ふくら)と蕨岡(わらびおか)の2か所の口之宮(里宮)の総称として大物忌神社と称する(上記写真は朱印を含めすべて吹浦口之宮)。出羽富士、鳥海富士とも呼ばれる鳥海山を神体山とする。
当社は鳥海山の山岳信仰の中心を担ってきており、平成20年(2008年)3月28日に神社境内が国の史跡へ指定されている。
祭神大物忌大神主祭神。記紀には登場しない神で、謎が多い。『神祗志料』や『大日本國壱宮記』では、大物忌大神と倉稻魂命が同一視されている。
豐受姫命月読命 - 吹浦口之宮で祀られている。鳥海山は、古代には国家の守護神として、また古代末期からは出羽國における山岳信仰の中心として現在の山形県庄内地方や秋田県由利郡および横a0057057_11451350.png手盆地の諸地域など周辺一帯の崇敬を集め、特に近世以降は農耕神として信仰されてきた。

歴史:
創建に関する諸説景行天皇または欽明天皇時代の創建と伝えられるが、諸説があり、山頂社殿が噴火焼失と再建を繰り返しているための勧請も絡んでいて、創建時期の特定は困難である。
鳥海山の登山口は、主要なものだけで矢島、小滝、吹浦、蕨岡の4ヶ所があり、各登山口ごとに異なる伝承が伝わるうえに、登山口ごとに信徒が一定の勢力を構成して、互いに反目競争することも多かったため、それらの伝承が歪められることも多く、定説をみない状況である。
吹浦の伝承吹浦の社については、元禄16年(1703年)に芹沢貞運a0057057_16011482.pngが記した『大物忌小物忌縁起』において、景行天皇のとき出羽國に神が現れ、欽明天皇25年 (564年) に飽海郡山上に鎮まり、大同元年 (806年) に吹浦村に遷座したとある記述があり、現在の社伝はこの吹浦の創建についての伝承を踏襲しているとされる。
なお、大同元年は空海が唐から帰国した年にあたり、東北の多くの寺社で創建の年とされているという。
『日本參代實録』貞観13年(871年)5月16日の条にある出羽國司の報告から、飽海郡山上に大物忌神社があったことが確認できるが、大物忌神社の鎮座地は飽海郡にある山の上とあるのみで、上記の吹浦についての言及はない。
創建に関する吹浦の伝承として、他に、吹浦の信徒が蕨岡の勢力に対抗して宝永2年(1705年)に寺社奉行所に提出した「乍恐口上書を以申上候事」という文書に、慈覚大師(円仁)が開基したとの記載がある。
a0057057_16355952.pngこの記載は、蕨岡に伝わる縁起に対抗する意味合いが強かったと思われるが、現在も吹浦には慈覚大師直筆とされる天台智顗の図像と金胎両界曼荼羅図が保管されている。
その他、吹浦の「大日本國大物忌大明神縁起」(成立年代不明)には、地元の他の伝承と融合したと思われる「卵生神話」が記されており、「天地が混沌とした中から両所大菩薩・月氏霊神・百済明神が現れ、大鳥の翼に乗って、天竺から百済を経て日本に渡来した。
左翼にあった二つの卵から両所大菩薩が、右翼にあった一つの卵から丸子元祖が生まれ、鳥は北峰の池に沈んだ。景行天皇のとき、二神が出羽國に現れ、仲哀天皇のとき、三韓征伐で功績をたてたので、正一位を授かり勲一等を得た。
用明天皇のとき、師安元年6月15日に、二神は飽海郡飛沢に鎮まった」という。なお、丸子氏は、遊佐町丸子に住み、鳥海山信仰に大きな影響を与えた一族である可能性があるとされる。
a0057057_16430496.pngその後、貞観6年(864年)、慈覚大師(円仁)が鳥海山から五色の光が放たれているのに気づいて、登ろうとすると、青鬼と赤鬼が妨害したので、火生三昧の法で対抗したところ、鬼は観念して、今後は鳩般恭王として大師に従い仏法を守護すると誓ったという。
そして、円融院の代(969年から984年)に朝廷から両所大菩薩と命名されたという。上記の「卵生神話」は朝鮮の「三國遺事」や「三國史記」にも記載があり、外来の伝承が存在したことが推測されるが、鳥を先祖とするトーテミズム的な発想は、中世に成立した「鳥海山」の名称と関連していて、現在も地元に伝わる霊鳥伝説ともつながりを持っており、中世から近世にかけて成立した伝承である可能性が高いとされる。
永正7年(1510年)の『羽黒山年代記』では、鳥海山は飽海嶽と呼ばれていたとして、欽明天皇7年(546年)に神が出現した後、貞観2年(860年)に、慈覚大師(円仁)が青鬼と赤鬼を退治した後、山の外観が龍に似ているとして、龍の頭部にみえる箇所(龍頭)に権現堂を建て、寺号を龍頭寺(りゅうとうじ)として、さらに、鳥の海に因んで山号を鳥海山としたとされており、卵生神話の記載はないものの、上記の「大日本國大物忌大明神縁」と共通する内容となっている。
なお、現在の龍頭寺は大同2年 (807年) に慈照上人が開いたとされており、上述の空海の帰国の年に合わせられているほか、慈照上人の実在が確認されておらず、慈覚大師(円仁)の錯誤である可能性もあるが、『羽黒山年代記』の貞観2年に開かれたとする記述とは年代が離れている。

a0057057_18284553.png月山神(奥に本殿)
境内社:
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白山神社(左写真一番左)
雷電神社(右写真)

蕨岡の伝承
吹浦とは別の縁起が伝わる蕨岡の「鳥海山記并序」(宝永6年、1709年)では、役行者が開山したとする前提で、行者がはじめて山に登ったとき、「鳥の海」をみたことから「鳥海山」と名づけられたとしている。
なお、社の創建のとき、山に名称はなく、現在の「鳥海山」という山名ができた由来には諸説あり、山上にあって霊鳥が生息すると言い伝えられる「鳥の海」によるとする説が有力である。蕨岡に伝わる他の縁起では、「鳥海山縁起和讃」(嘉永5年、1852年)に、天武天皇のとき、山の神の命により、役行者が山中に出没する鬼を退治し、開山したと記されている。
この縁起は、吹浦に伝わる慈覚大師(円仁)の創建とする説よりも年代を古い説を唱え、対抗しようという意図がみられるとされる。
関連して、蕨岡の東之院興源は「出羽國一宮鳥海山略縁起」(安政4年、1857年)の中で、役行者が山中に神の眷属である三十六王子を祀り山の守護神としたという記載があり、実際に、蕨岡では山道に三十六王子を祀っていたという。

古代
山岳信仰
越國より始められた夷征は、慶雲から和銅の頃に庄内以北の着手に至ったが、当時この地方は原生林に覆われ、また南方を追われた蝦夷が群居し、常に噴煙を吐き時々大爆発する鳥海山の存在は朝廷軍にとって脅威であった。
そのような状況で、もともと日本では山岳信仰が盛んだった背景もあって、朝廷は鳥海山の爆発が夷乱と相関していると疑ったのではないか、と『名勝鳥海山』では推測している。
前述の『日本參代實録』貞観13年(871年)5月16日の条にある出羽國司からの報告には、鳥海山の噴火について、「出羽の名神に祈祷したが後の報祭を怠り、また墓の骸骨が山水を汚しているため怒りを発して山が焼け、この様な災異が起こったのだ」等の記述があり、鳥海山噴火が兵乱の前兆であると信じられていたことを覗わせている、と『名勝鳥海山』では述べている。
上述のとおり、当初、「鳥海山」という山名は無く、山そのものが大物忌神と称されていた。物忌とは斎戒にして不吉不浄を忌むことであり、山の爆発は山神が夷乱凶変を忌み嫌って予め発生させるものだと朝廷は考えたことが、この山神を大物忌神と称した所以であると『名勝鳥海山』では考察している。
また同書では、山神の怒りを鎮め、その力を借りて夷乱凶変を未然に防ごうとした一例として、『日本紀略』天慶2年(939年)4月17日の条にある秋田夷乱(天慶の乱)発生の報が到達した際、朝廷で物忌が行われたことを挙げている。
なお『本朝世紀』天慶2年(939年)4月19日の条には、大物忌明神の山が噴火したとの記述がある。

神仏習合
六國史によれば斉衡3年(856年)から貞観12年(870年)の間に出羽國では定額寺が6ヶ所指定され、また『日本參代實録』仁和元年(885年)11月21日の条では飽海郡に神宮寺があったと記していることから、出羽における神仏習合はこの時期に始まったと『名勝鳥海山』では推測している。また同書によれば、大物忌神へ奉仕する職制は神仏習合以来変化し、従来の唯一神道を以って奉仕する社家、神宮寺の仏式を以って奉仕する社僧に別れたが、その後の仏教隆盛に従い社家は段々と衰退して行き、中世には本地垂迹説により鳥海山大権現と称して社僧が奉仕をしていたのだと言う。これが後の明治の神仏分離によって、大物忌神社に復すまで続くことになる。
延長5年(927年)には『延喜式神名帳』により式内社、名神大社とされた。また、『延喜式』の「主税式」においても祭祀料2,000束を国家から受けている。『延喜主税式』によれば、当時国家の正税から祭祀料を受けていたのは陸奥國鹽竈社、伊豆國三嶋社、淡路國大和大國魂社と他に3社しかないことから、大物忌神社が国家から特別の扱いを受けていたことが覗える。
大物忌神は、六國史にも、13度登場している。なお、当時は「鳥海山」という山名がなかったため、「飽海郡鎮座の大物忌神」と呼ばれていた。

中世
鳥海山における中世の信仰についてはまとまった記録が残っておらず、断片的な記録等から推測せざるをえないとされる。そして、それらによれば、幕府や南朝の有力者が両所宮や両所大菩薩へ寄進を行っていたという。
承久2年(1220年)、藤原氏(三善氏)が北条義時の命により、現在の遊佐町北目の新留守氏に「北條氏雑掌奉書」を送っており、同書に「出羽國両所宮修造之事」とあることから、大物忌神社が、鳥海山と月山の双方を祀る「両所宮」とされていたことがわかる。
南北朝時代に入ると、「鳥海山」という山名の使用がみられるようになる。山中で発見された鰐口の銘に「暦応5年」(1342年) の年号(北朝)がみられ、「奉献鳥海山和仁一口右趣意者藤原守重息災延命如」とあるのが、「鳥海山」という山名の初出とされる。
なお、戸川安章によれば、当時、鰐口は修験道の伽藍に掛けられるのが一般的だったため、鳥海山における修験道の出現は南北朝時代からであるとされる。
当神社は出羽國一宮とされ、南北朝時代の正平13年(北朝の元号では延文3年、1358年)、南朝の陸奥守兼鎮守府将軍である北畠顕信(北畠親房の次男)が南朝復興と出羽國靜謐を祈願し、神領として「出羽國一宮両所大菩薩」に由利郡小石郷乙友村を寄進したことが、吹浦口之宮の所蔵文書である「北畠顕信寄進状」に記されている。
これが文献上における一宮名号の初見であるとされる。
なお、当時、吹浦の両所宮では鳥海山と月山の神とを「両所大菩薩」として祀っており、本地垂迹説に基づき、本地を薬師と阿弥陀とされていた。

一宮争い
吹浦、蕨岡の論争吹浦の信徒は蕨岡の信徒が行っていたような、鳥海山中での修行は行わず、山上に祀られている鳥海山大権現を、月山大権現をとともにふもとに勧請し、両所宮として祀り、神宮寺で行事を行うなどしていた。
吹浦からの登拝は行っていたものの、山頂の権現堂には関与しなかったため、蕨岡の信徒に比べると勢力的に弱かった。
蕨岡の宗徒社人は山上の鳥海山大権現の学頭別当と称し、直接山上に奉仕しており、この考え方の違いがお互いに反目する原因となっていたが、蕨岡宗徒が吹浦からの登山者を差し止めたことから両者の論争となり、承応3年(1654年)ついに庄内藩や江戸寺社奉行に訴えが出された。
幕府検使の臨検の後、明暦元年(1655年)に次の判決が出た。訴えのあった守札の書付について、吹浦は鳥海山と書いていた証拠が無いので両所山と書き、蕨岡は大堂のある松岳山と書いていた証拠があるので松岳山と書くこと。吹浦からの登山者を蕨岡は差し止めないこと。この裁断の後、山上に直接奉仕しているのは蕨岡宗徒であると言う認識が確定的なものとなり、山頂社殿の建替や嶺境争い等の山頂に関連した論争に吹浦は感知しない状態となってしまった。
蕨岡、矢島の御堂建替の論争修験道には紀伊の熊野に始まった順峰と逆峰の2つの法式があるが、鳥海山においては蕨岡が順峰、矢島と滝沢が逆峰を称し、古来より順逆両部勤行の霊山として修行が行われていた。それにもかかわらず、矢島と滝沢の間に逆峰名称の論争が起き、また蕨岡と矢島の間には順逆の論争が発生した。
この状況により滝沢は蕨岡の援助を得て逆峰院主を矢島から奪ったが、延宝6年(1678年)矢島は論争のすえ逆峰院主を取り戻した。
これにより矢島と滝沢の逆峰院主の論争は終結し、また蕨岡と矢島も順逆お互いの法式を相犯さないと確認した。
しかし元禄14年(1701年)山頂社殿建替えの話が上がると、矢島は逆峰側で建替えるのが至当であると、本山である三宝院に総代3名を送って陳訴した。
これに対し三宝院は順逆両方で申し合わせのうえ相勤めよとの和解書を蕨岡へ出したが、これまで一山を取り仕切り、山頂社殿を建替えてきた蕨岡はこれを不服として三宝院へ訴状を出した。
その後、順逆双方から書類を出し、同年11月に三宝院鳳閣寺より次の裁断が下された。
山頂社殿を順逆宗徒が交互に造営する理由は見当たらないので、これまで通り順峰側が建替えること。順峰が鳥海山龍頭寺の寺号を最近名乗り始めたとのことであるが、順峰側では古来より名乗っている寺号とのことであった、
よって逆峰側が更なる証拠を見つけてから申し出ること。山頂社殿の天和2年(1682年)の棟札を遊佐郡から飽海郡へ書き換えているのは、幕府の命に従った為である。
嶺境は行政の領分なので当方では裁断できない。後日判明した際に双方より申し立てること。それまでは従来の通りにすること。鳥海山は古来より順逆両部の山であるので、今後も順逆申し合わせのうえ古例のごとく勤仕すること。この裁断により一旦は息を潜めたかに見えた順逆の論争であるが、山頂社殿建替後の遷宮式において矢島の群衆が棟札を奪い取る事件が発生し、再燃することとなる。
蕨岡、矢島の嶺境の論争建替え論争に破れた矢島宗徒は、三宝院が「嶺境は行政の領分なので後日申し立てること」としたことを以って嶺境の訴訟を起こした。
しかしながら嶺境問題は宗徒間のみならず庄内藩と矢島藩にとっても重大問題であることから、最後は両藩が相争う状態となって行く。元禄16年(1703年) 三宝院鳳閣寺はこれまでの建替論争の経過に付帯文書を添え、さらにその顛末を述べて幕府寺社奉行所に裁決を出願した。寺社奉行所では審理の末、嶺境は不明だが『日本參代實録』に大物忌神社が飽海郡山上にあることが明記されているので、棟札は飽海郡と書くのを妥当とし、嶺境は不問とするよう裁決を出した。
この裁決に矢島宗徒は従わず、それに加え、この問題が重大な国境問題となる矢島藩が領内百姓の名を以って寺社奉行に訴え出た。ここに至り寺社奉行はこの問題を重大事と判断して評定所の審理に移した。
評定所は庄内の修験百姓に答弁書提出を命じ、翌宝永元年(1704年)庄内修験百姓等は答弁書を提出した。
これに対し矢島宗徒は吹浦宗徒の主張を利用し、大物忌神社は吹浦に遷座しており現在の山頂社殿は由利郡に属するものであると主張、追訴した。
評定所は現地に検使を派遣して検分と共に聞き取り調査を行い、かつ双方の修験百姓を江戸に呼び出し吟味した結果、同年9月次の判決を言い渡した。
『日本參代實録』の記述どおり山頂社殿を大物忌神社とし、山頂社殿の所在する場所は飽海郡とする。西は笙野岳腰より稲村岳の8分に亘り、東は女郎岳の腰までをもって郡境と定める。
これにより、由利郡側山腹(秋田側山腹)の7合目より以南が飽海郡になった。 また、この判決に関し、いくつかのいざこざが庄内藩と矢島藩の間に起こったと言われる。
吹浦の一宮名号使用の訴願宝永元年(1704年)の評定所の判決以降、山上に直接奉仕しているのは蕨岡宗徒であると強く認識されるようになり、その勢力は増して行った。勢力の増大により、蕨岡宗徒は山頂社殿を出羽國一宮大物忌神社、蕨岡を鳥海山表口別当、吹浦を末社と称するに至り、吹浦大物忌神社は全く蕨岡に奪われたも同然の状態となってしまった。宝永4年(1707年)社家の進藤曾太夫邦實はこれを嘆き、回復を計らんとして一宮の名号を吹浦に許されることを庄内藩に訴願した。
鶴岡の寺社奉行が吟味した結果、太夫の訴願は幕府の嶺境裁断において山頂社殿を大物忌神社とした際の判決を戻すとして、「公義御裁許破り」の罪名で太夫を出羽一國追放にした。

明治以降
明治元年(1868年)の神仏分離令への対応では吹浦が蕨岡に先行することとなり、明治2年、吹浦の信徒は全て神道を奉ずることとなり、明治3年には社の奉仕者たちが正式に神職となり、社号も大物忌神社となった。
神宮寺等の仏教建築や仏像は撤去され、明治4年(1871年)5月、吹浦の大物忌神社は國幣中社に列せられ、山頂の権現堂の管理もできることとなった。
吹浦の後から神道を奉ずるようになった蕨岡の信徒たちは、自分たちの権利を取り戻そうと山形懸や明治政府に何度も請願して、訴訟も行ったが失敗した。
明治以降も吹浦と蕨岡の争いは続くかに思えたが、松方正義の意見により、明治13年(1880年)8月7日、左大臣有栖川宮熾仁親王から、山頂の権現堂を大物忌神社の本殿とし、吹浦と蕨岡の大物忌神社を、それぞれ里宮(後に口ノ宮:口之宮)とする旨の通達が出され、明治14年(1881年)に実施されたため、両者の争いは収束した。
この変則的な祭祀体制は、吹浦と蕨岡のそれぞれに国幣中社大物忌神社の社務所を置き、宮司は吹浦に駐在するが、本殿への奉幣は両社務所が1年交替で行うというものだった。神仏分離による混乱・動揺の後、鳥海山への山岳信仰は再び盛り上がりをみせ、明治以降も登拝は盛んとなった。特に第2次世界大戦中は登拝が多かったとされる]。昭和30年(1955年)、大物忌神社が山頂と吹浦と蕨岡の3つの社の総社号とされ、吹浦と蕨岡は、それぞれ大物忌神社吹浦口ノ宮・蕨岡口ノ宮とされた。昭和47年(1972年)、鳥海ブルーラインが開通すると、鳥海山は徐々に、山岳信仰の対象としてよりは観光の対象と認識されるようになり、信仰に基づく登拝は昭和40年代(1970年代)後半から、徐々に少なくなり、神仏習合や修験道が盛んだった時代の痕跡もほとんどみられなくなった。神階鳥海山の噴火は大物忌神の神威の表れとされ、噴火のたびに朝廷より神階の陞叙が行われた。『続日本後紀』承和5年(838年)5月11日の条において従五位上であった大物忌神を正五位下に1級進めていることから、これ以前に神階の授位があったことは明らかであるが、文献上の記録が無いため最初の授位がいつかは不明である。以下は時系列的に並べた神階の授与である。『続日本後紀』 承和5年(838年)5月11日の条 従五位上より正五位下勳五等へ進1級の陞叙。『続日本後紀』 承和7年(840年)7月26日の条正五位下勳五等を従四位下勳五等へ陞叙。前年に遭難した遣唐使船が海賊の襲撃にあった際、寡兵で海賊を撃退したが、これは同じ頃に噴火して神威を表した大物忌神の加護によるものであるとして、神封2戸の寄進と共に仁明天皇の宣命が添え下された。『日本參代實録』 貞観4年(862年)11月1日の条 正四位下勳五等へ陞叙。また、官社に指定された。『日本參代實録』 貞観6年(864年)2月5日の条 正四位下勳五等より正四位上勳五等へ陞叙。『日本參代實録』 貞観6年(864年)11月5日の条 正四位上勳五等より従三位勳五等へ陞叙。『日本參代實録』 貞観15年(873年)4月5日の条従三位勳五等より正三位勳五等へ陞叙。貞観13年(871年)の大噴火沈静後、山頂社殿を再建し宿祷報祭記を行ったのを受け陞叙された。『日本參代實録』 元慶2年(878年)8月4日の条秋田夷乱(元慶の乱)において朝廷軍が敗退したのを受け占ったところ、古来より征戦に霊験を有する大物忌神、月山神、小物忌神の3神が、神気賊に帰して祈祷が届かなくなってしまったと出た。そこで爵級を増せば霊応あるべしとして、正三位勳五等を正三位勳三等に進めた。『日本參代實録』によれば、これより前の元慶2年(878年)7月10日の条で神封2戸が加増され、4戸となっている。『日本參代實録』 元慶4年(880年)2月27日の条正三位勲三等より従二位勳三等へ陞叙。秋田夷乱(元慶の乱)平定後、平時に復したのを受け陞叙となった。これが中世以前では最後の昇叙の記録であるが、『本朝世紀』天慶2年(939年)4月19日の条において出羽國司が官符を賜った時は正二位勳三等となっている。元文元年(1736年) 蕨岡の願い出により正一位勳三等に昇進。
参考資料:Wikipedia「鳥海山大物忌神社」(最終更新:2016年10月23日)https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B3%A5%E6%B5%B7%E5%B1%B1%E5%A4%A7%E7%89%A9%E5%BF%8C%E7%A5%9E%E7%A4%BE
閲覧:2018.5.10

「吹浦」について・・
俳人松尾芭蕉が『奥の細道紀行』で元禄2(1689)6月15日(新暦7月31日)、門弟の河合曾良と共に酒田を出立し象潟(きさかた:現 秋田県にかほ市)に向かう。
朝から小雨が降り続いていたが、吹浦に入ると急に大雨となり、急遽吹浦で宿泊する事になった。
『奥の細道』の研究では、
「吹浦には出羽國一宮鳥海山大物忌神社があるのに、この神社のことは全く出てこない。また、ここで読まれた句もない。」と、不思議がる記述があるが、実はこのとき、上記でいう『一宮争い』の真最中で、吹浦の宮は『一宮』ではなかった。
芭蕉としては、争いに巻き込まれては、後半の行程(象潟が折返し地点)に影響すると、敢てここのところは避けたのではなかったのではないかと推察する。(筆者追記)

現地参拝:29.6.26
記事投稿:30.5.10
  調整:30.5.11/30.5.14

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by fbox12 | 2018-05-14 16:02 | 神社

第佰貮拾參 八幡神社(長良若宮) 岐阜県岐阜市鎮座

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a0057057_21332238.pnga0057057_21415594.png
a0057057_21433831.pnga0057057_21443452.pngはちまん じんじゃ(ながらわかみや)

鎮座地:岐阜県岐阜市長良577
祭神:品陀和気命(応神天皇)(ほむだわけのみこと(おうじんてんのう))

概要:
岐阜市の北部、長良川をはさんだ金華山(旧名 稲葉山)の対岸にある。
毎年5月11日からの長良川鵜飼の際、鵜匠などにより鵜飼安全祈願祭が行われる。

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この神社最寄の駅・バス停:
JR岐阜駅・名鉄岐阜駅から
岐阜バス 加野団地・大洞団地行き 長良川温泉(長良川グランドホテル前)(停)
または、長良橋方面行き 鵜飼屋(停)下車

参考資料:岐阜バス ホームページ
http://www.gifubus.co.jp/rosen/route/
閲覧:30.5.11

現地参拝:30.2.-7
記事投稿:30.5.11

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by fbox12 | 2018-05-11 22:37 | 神社

第佰貮拾壱 新田神社 鹿児島県薩摩川内市鎮座

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にった じんじゃ

鎮座地:
 鹿児島県薩摩川内市宮内町1935-2
主祭神:天津日高彦火邇邇杵尊
    天照皇大御神
   正哉吾勝々速日天忍穂耳尊
江戸時代までは応神天皇、神功皇后、武内宿禰の八幡三神を祀っていた。

社格等:
 旧國幣中社、薩摩國一宮、神社本庁別表神社
本殿様式:入母屋造別称:新田八幡宮、八幡新田宮、川内八幡宮、一宮八幡、新田明神

歴史:
a0057057_09125083.pnga0057057_09242792.png社伝によると「天津日高彦火邇邇杵尊」(ニニギノミコト)の墓を祀ったのが創始」とされるが、新田神社のことを書いた最も古い史料は永万元年(1165年)のもので、これには「貞観のころに再興」とあり、また「藤原純友の乱のときに国家鎮護を祈願し5か所建てた八幡宮の一つ」とする史料もある。
『延喜式』に全く名前が見えないことから見て、当初の地位はかなり低いものだったと考えられている。
a0057057_16453481.png文治年間(1185年-1190年)、新田神社筆頭職の執印職に守護嶋津氏と祖を同じとする鹿児島郡司の惟宗康友が就き、康友の子孫が執印氏を名乗り(元弘3年(1333年)に後醍醐天皇が新田宮執印職の当知行を安堵)明治に至るまで、代々俗体で世襲することになる。
蒙古襲来(元寇)で、鎌倉幕府は各国の一宮と国分寺に蒙古調伏の祈祷を命じ、各国の守護に一宮への剣、神馬の奉納を命じた。薩摩國では枚聞神社と新田神社の間で一宮相論が起こっていたため、嶋津氏(忠宗)は、一宮の決定とは無関係としながらも 剣、神馬を新田神社(同族の執印氏側)に奉納する。これは事実上一宮は新田神社と認める行為で、一宮相論は決着し、古来から一宮であった枚聞神社から新田神社へと一宮が移ることになるが、最終決定がされておらず、薩摩國に一宮が二つ存在することになる。
また、國分寺留守職、天満宮別当職に執印氏の分流の國分氏が就き、新田神社は薩摩國國分寺とも深い繋がりを持つ事になる。武神である八幡神を祀っていたことから、当地を支配していた嶋津氏に尊崇を受け、暦応4年(1341年)年記のある『嶋津家文書』に依ればこの新田神社が「薩摩國一宮」として挙げられている。
しかし現代においては執印氏の強引な手法も詳らかとなり、古来から一宮とされてきた枚聞神社が正しく薩摩國一宮であるとの意見も多く散見される。
近代社格制度においては、当初無格社であったが明治18年(1885年)に枚聞神社より上の國幣中社に列した。しかしながら現在は枚聞神社と同じ神社本庁の別表神社にあたる。

山陵:
明治7年(1874年)7月10日、明治天皇の裁可を経て可愛山陵(えのやまのみささぎ)が「邇邇芸尊陵」の指定を受け、大正3年(1914年)に宮内省直轄となった。
新田神社のある神亀山の5分の4が陵墓の領域で、現在は宮内庁書陵部桃山監区可愛部事務所が置かれ、内閣府事務官が陵墓守部として管理している。
陵墓と神社が一体となっているのは全国でも珍しい形態である。
大正9年(1920年)3月30日・昭和天皇(当時の皇太子)参拝、昭和37年(1962年)今上天皇(当時の皇太子)及び皇后美智子(当時の皇太子妃)参拝、など皇族の参拝は9回にも及んでいる。

摂末社:
御陵社
可愛陵社(えのみささぎしゃ)
祭神:邇邇杵尊
明治7年の可愛山陵指定によって創建され新田神社の境内社となったが、大正3年に宮内省の管轄に移管される。

端陵神社(はしのみささぎじんじゃ)
祭神:木花開耶姫尊(邇邇杵尊の妃神)
神亀山の頭部部分に鎮座。邇邇杵尊の妃神の御陵と伝わるため、「御前様陵(ごぜんさまのみささぎ)」とも呼ばれる。

中陵神社(なかのみささぎじんじゃ)
祭神:火闌降命(邇邇杵尊の皇子神)
神亀山の首部分に鎮座。

川合陵神社(かわあいのみささぎじんじゃ)
祭神:天火明命(邇邇杵尊の兄弟神、もしくは皇子神)
神亀山ではなく五代町に鎮座。御陵殿(みささぎどん)とも称された。

摂社
四所宮(ししょぐう)
祭神:彦火火出見尊・豊玉姫尊・鵜草葺不合尊・玉依姫尊
本殿の向かって右脇に鎮座。若宮四所宮、若宮殿とも称する。

武内宮(たけうちぐう)
祭神:彦太忍信命(孝元天皇の皇子で武内宿禰の祖父)
本殿の向かって左脇に鎮座。武内社とも称する。

境内末社
二十四社(にじゅうししゃ)
祭神:天孫降臨に際して供をした五伴緒神(天児屋命、太玉命、天鈿女命、石凝姥命、玉祖命)をはじめとする24柱
武内宮の向かって左側に鎮座。

興玉神社(おきたまじんじゃ)
祭神:猿田彦命
西廻廊向かって左側に鎮座。かつては若宮四所宮、武内社に次いで尊重され、大王社(太玉社)とも称された。

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高良神社(こうらじんじゃ)
祭神:天鈿女命
神亀山中腹に鎮座。高良社、猴等神社とも称する。(写真右)

中央神社(ちゅうおうじんじゃ)
祭神:大山祇神(邇邇杵尊の岳父)
神亀山中腹に鎮座。中王社とも。神亀山の地主神と伝わる。(写真中央)

早風神社(はやかぜじんじゃ)
祭神:級長津彦命
神亀山中腹に鎮座。早風社とも。(写真左)


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東門守神社(ひがしかどもりじんじゃ)
祭神:豊磐間戸神
神亀山石段入口の向かって右側に鎮座。殿門守護の神で、往古は東善神王と称された。(写真右側)

西門守神社(にしかどもりじんじゃ)
祭神:櫛磐間戸命
神亀山石段入口の向かって左側に鎮座。殿門守護の神で、往古は西善神王と称された。(写真左側)

保食神社(うけもちじんじゃ)
祭神:保食神
神亀山麓に鎮座。田の神と同一視され、現在でも農耕儀礼の神事が行われる。

稲荷神社(いなりじんじゃ)
祭神:倉稲魂命
昭和初期に近隣工場の守護神として創建され、後に工場閉鎖に伴って神社境内へ遷座。

※廃絶した境内末社
- 省略 -


この神社最寄の駅・バス停:
a0057057_16222765.pnga0057057_16233644.png
肥薩おれんじ鉄道 上川内駅から徒歩約10分
JR九州 九州新幹線・鹿児島本線・肥薩おれんじ鉄道 川内駅から路線バスで約5分
写真の「くるくるバス(西回り:南国交通担当)」は大回りのため約30分
「くるくるバス(東回り:鹿児島交通担当)は18分
いずれも新田神社(停)下車。

参考資料:Wikipedia「新田神社(薩摩川内市)」(最終更新:2017年12月30日)https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E7%94%B0%E7%A5%9E%E7%A4%BE_(%E8%96%A9%E6%91%A9%E5%B7%9D%E5%86%85%E5%B8%82)
閲覧:2018.5.-6

現地取材:30.3.14
記事投稿:30.5.-6

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by fbox12 | 2018-05-06 21:30 | 神社

第佰貮拾 枚開神社 鹿児島県指宿市鎮座

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a0057057_21391048.pnga0057057_21563973.png
a0057057_21502211.pnga0057057_21580472.pngひらきき じんじゃ

鎮座地:
鹿児島県指宿市開聞十町1366
主祭神:
大日孁貴命(おおひるめのむちのみこと)
配祀神:
五男三女神を配祀。
明治時代以後は近隣の神社を合祀している。祭神については海神(わたつみのかみ)説もある。
社格等:
式内社(小)、薩摩國一宮、旧國幣小社、神社本庁別表神社
本殿様式:入母屋造銅板葺

歴史:
a0057057_22053769.png創始の年月日は社伝でも不明であり、かなり古くからあった神社と考えられている。元々は開聞岳を神体とする山岳信仰に根ざした神社であったと考えられる(右写真:神社横、県道から見える開聞岳)。
信頼できる史料での初出は『日本參代實録』貞観2年(860年)3月20日庚午条の神階昇叙記事で、この日に薩摩國従伍位上開聞神が従四位下を加えられた。
開聞神は、貞観8年(866年)4月7日に従四位上を授けられ、元慶6年(882年)10月9日に正四位下を授けられた。延長5年(927年)の『延喜式神名帖』には「薩摩國穎娃郡 枚聞神社」として記載され、式内社に列している。
鎌倉時代以降は新田神社(現 薩摩川内市)と薩摩國一宮の地位を巡って激しい争いを繰り広げるようになる。
戦国時代は嶋津氏の有力家臣であった頴娃氏の庇護下にあったが、元亀2年(1571年)に「証恩寺崩れ」と言われるお家騒動が起こり、その巻き添えとなって社殿を失った。
しかし、すぐに島津氏の庇護を受けて再興、同氏は当神社の籤により作戦を決めたという。
現在の社殿は慶長15年(1610年)に嶋津義弘が寄進したものを天明7年(1787年)に嶋津重豪が改築した物である。
外洋に面した立地から古くから「航海神」としても崇められ、江戸時代以降は琉球からの使節の崇敬も集めるようになった。
a0057057_22145102.pngしかし、江戸時代になると、宇佐八幡宮の五社別宮ともされていた新田神社の方が次第に重く扱われるようになったらしく、明治4年(1871年)5月に國幣小社に列したが、対して新田神社は同18年(1885年)に上位の國幣中社に列している。
第二次世界大戦後に近代社格制度が廃止されると、当社は神社本庁に参加、その別表神社に定められた。

神階:
貞観2年(860年)3月20日、従伍位上から従四位下 (『日本參代實録』)
貞観8年(866年)4月7日、従四位上 (『日本參代實録』)
元慶6年(882年)10月9日、正四位下 (『日本參代實録』)

境内:
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本殿方3間の入母屋造妻入で、屋根銅板葺、千木・鰹木を置き、正面に縋破風で1間の向拝を付ける。
平成2年(1990年)3月23日に鹿児島県の有形文化財に指定された。参道から本殿の方を向くと、本殿の屋根の上に開聞岳が位置する構造になっているが、現在は背後の樹木が繁茂して見通すことはできなくなっている。

この神社最寄の駅・バス停:
JR九州・指宿枕崎線 開聞駅・・徒歩約12分
鹿児島交通バス 神社前(停)・・開聞駅からの途中には開聞口(停)もある。

参考資料:Wikipedia「枚聞神社」(最終更新:2018年5月2日)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9E%9A%E8%81%9E%E7%A5%9E%E7%A4%BE
閲覧:30.5.-3

現地参拝:30.3.13
記事投稿:30.5.-3
  調整:30.5.-6

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by fbox12 | 2018-05-06 08:54 | 神社

第佰拾九 岩木山神社 青森県弘前市鎮座

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いわきやま じんじゃ

鎮座地:青森県弘前市百沢字寺沢27
主祭神:顕国魂神(うつしくにたまのかみ)-大国主神
    多都比姫神(たつびひめのかみ)
    宇賀能売神(うかのめのかみ)
    大山祇神(おおやまつみのかみ)
    坂上刈田麿命(さかのうえのかりたまろのみこと)
 以上をまとめて岩木山大神(いわきやまおおかみ)と称する。

社格等:旧国幣小社、神社本庁別表神社、津軽国一宮(新一宮)
本殿様式:三間社流造銅瓦葺
別称:「お岩木さま」、「お山」、「奥日光」

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概要:
昔から農漁業の守護神として、津軽の開拓の神として、地元の人々の祖霊の鎮まるところとして、親しまれてきた。なお神社の参道は岩木山の登山道の一つとなっていることでも知られており、この神社の奥宮は岩木山の山頂付近にある。
社殿は、神仏習合の時代の名残りをとどめ、鎌倉時代以後の密教寺院の構造がみられる中に、桃山時代の様式を思わせる色とりどりの絵様彫刻がみられ、そうした外観が日光の東照宮を思わせるとして、「奥日光」と呼ばれるに至った。


a0057057_10573937.pnga0057057_11261251.png
歴史:
創建については諸説があるが、最も古い説では、宝亀11年(780年)、岩木山の山頂に社殿を造営したのが起源とされる。延暦19年(800年)、岩木山大神の加護によって東北平定を為し得たとして、坂上田村麻呂が山頂に社殿を再建し、その後、十腰内地区に下居宮(おりいのみや=麓宮、現在の厳鬼山神社)が建立され、山頂の社は奥宮とされた。
また、田村麻呂は、父の刈田麿も合祀したとされる。寛治5年(1091年)、神宣により、下居宮を十腰内地区から岩木山東南麓の百沢地区に遷座し、百沢寺(ひゃくたくじ)と称したのが現在の岩木山神社となっている。
岩木山の山頂に阿弥陀・薬師・観音の3つの堂があり、真言宗百沢寺岩木山三所大権現と称して、付近の地頭や領主らに広く信仰された。
a0057057_10250918.png天正17年(1589年)、岩木山の噴火により、当時の百沢寺は全焼することとなり、以後、再建が進められることとなった。
江戸時代には津軽藩の総鎮守とされ、津軽為信・信牧・信義・信政らの寄進により社殿等の造営が進んだ。
特に、信義、信政のときに、現在の拝殿(当時は百沢寺の本堂とされた)や本殿(当時の下居宮)が再建された。
明治の神仏分離により寺院を廃止、津軽総鎮守・岩木山神社とされ、明治6年(1873年)、国幣小社に列格された。

境内:
現存する社殿や楼門は江戸時代初期から元禄時代にかけて代々の弘前藩主が造営・寄進したもので、本殿・拝殿・奥門・楼門等が重要文化財に指定されている。

a0057057_14034973.png本殿 - 三間社流造銅瓦葺。全面黒漆塗とする。元禄7年(1694年)建立。(写真:タイトルを含め5段目)
拝殿 - 桁行5間、梁間5間、入母屋造平入、とち葺形銅板葺。寛永17年(1640年)、神仏習合の時代に、百沢寺の本堂として建立された。(写真:タイトルを含め4段目右)
 天正17年(1589年)の岩木山の噴火により焼失したが、慶長8年(1603年)に津軽為信により再建が始まり、寛永17年(1640年)、津軽信義のときに現在のものが完成した。
楼門 - 寛永5年(1628年)、津軽信枚(のぶひら)により、百沢寺の山門として建立された。上層に十一面観音、五百羅漢像が祀られていたが、神仏分離による廃寺の際にそれらは姿を消し、階下に随神像を祀ることとなった。(写真:タイトルを含め2段目右)

摂社・末社:

白雲大龍神社
a0057057_13334406.pnga0057057_13353027.png

a0057057_13474740.png稲荷社

a0057057_10362498.png出雲神社

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白龍神a0057057_10414341.png

この神社最寄りの駅・バス停:
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JR東日本・奥羽本線弘前駅(中央口)、弘南バス弘前バスターミナルより弘南バス枯木平行にて約40分、岩木山神社バス停下車。

参考資料:Wikipedia「岩木山神社」(最終更新:2018年3月3日)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A9%E6%9C%A8%E5%B1%B1%E7%A5%9E%E7%A4%BE
  閲覧:2018.5.-2

現地参拝:29.6.25
記事投稿:30.5.-2



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by fbox12 | 2018-05-02 15:00 | 神社

第佰拾八 駒形神社 岩手県奥州市鎮座

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こまがたじんじゃ

a0057057_17262279.png鎮座地:岩手県奥州市水沢中上野町1-83(本社)
  岩手県胆沢郡金ケ崎町西根字駒ヶ岳(奥宮)
  岩手県胆沢郡金ケ崎町西根雛子沢13(里宮)

祭神:
駒形大神(主祭神:天照大御神・天常立尊・国狭立尊・吾勝尊・置瀬尊・彦火尊の6柱の総称)
神体:駒ヶ岳(神体山)
社格等:式内社(小)、旧国幣小社、神社本庁別表神社、陸中國一宮(新一宮)
本殿様式:三間社流造

概要:a0057057_10434581.pnga0057057_10401194.png
当社は駒ヶ岳の神霊を祀ったものとされるが、古くよりその神霊を人格神に比定する諸説が挙げられている。現在の6柱とする説は、雛子沢里宮の寛政9年(1797年)棟札や、仙台藩編纂の『安永風土記』に記載が見られる。これらは、中近世の神仏混交(*混淆)期において駒ヶ岳外輪山を各天神地祇に擬したことに由来すると見られている(最高峰の大日岳に天照大神、第2の駒ヶ岳に天照大神の子の吾勝尊、など)。
以上のほか、人格神を宇賀御魂大神・天照大神・天忍穂耳尊とする説、毛野氏の祖神とする説等がある。
a0057057_11010811.png祭神の駒形神は馬の守護神とされ、馬頭観音や大日如来と習合し、東日本の各地に勧請されて信仰されている。馬の守護神とされた背景は、古代に付近一帯が軍馬の産地であったことが考えられている。
境内と水沢公園(右写真)はヒガンザクラ系の桜の名所として知られ、老木の樹齢は250年から300年にも及ぶ。一帯は「駒形神社及び水沢公園のヒガン系桜群」として岩手県指定天然記念物に指定されている。

歴史:
a0057057_19513354.png当社は駒ヶ岳(焼石駒ヶ岳/駒形山)を祀る神社として、明治以前は駒ヶ岳山頂の本宮(奥宮)、北上市和賀町岩崎と金ケ崎町西根雛小沢の各里宮をして奉斎された。水沢の現在社(水沢本社)は明治36年(1903年)の新設である。それ以前の水沢本社の地は鹽竈神社(現 別境内別宮)の境内地であった。以下、駒形神社一般の歴史について概説する。
創建創建は不詳で、様々な伝承が現在に伝えられている。
社伝の1つでは、雄略天皇(第21代)21年に、籠神社(京都府宮津市)から宇賀御魂大神を勧請して山頂に祀り、里宮に大宜津比売神と事代主神を配祀したが、のちに前記6柱となったという。
別伝では、景行天皇(第12代)40年に日本武尊が東征に際し、蝦夷平定のために前記6柱を勧請・創建したという。また、坂上田村麻呂が当地で倒れた愛馬を祀ったが、のちに慈覚大師(円仁)が廻国した際にその駒形神を駒ヶ岳山頂に移して本宮を造営、さらに源義家が前九年の役の際に戦勝祈願をしたともいう。
別説として、上毛野(のちの上野国、現 群馬県)を根拠とする上毛野氏一族が当地に来住するにあたり、駒ヶ岳を上毛野氏氏神の赤城山(赤城神社)に擬して奉斎したとする説もある。その中で、休火山である赤城山の外輪山に「駒形山」が存在することから、毛野氏が上毛野氏と下毛野氏に分かれた後にそれぞれ勢力を北に伸ばし、外輪山を持つ山の中で二番目の高峰を赤城山になぞらえて「駒ヶ岳」または「駒形山」と名付け、駒形大神を祀ったとする。そして雄略天皇の時代に、上毛野氏が奥州において現在の「駒ヶ岳」を見出して名づけ、山頂に駒形大神を勧請したのが始まりであるとするものである。この説に従えば、駒形神社の祭神は赤城山の神と同一か、深い関連を持つ存在ということになる。
関連して、『続日本後紀』承和8年(841年)3月2日条には江刺郡擬大領として「上毛野胆沢公毛人」の名が見え、上毛野氏と胆沢との関わりが指摘される。
さらに赤城神社との関連では、源実朝が『金塊和歌集』において赤城神社を「からやしろ」と詠んでいることから、赤城神社は「から」すなわち中国や韓国に由来するともされるが、当時の朝鮮にあった高麗が「コマ」と呼ばれたことから、駒形という名称は、「高麗唐」すなわち「コマカラ」が「こまかた」のち「こまがた」に転訛したともいう。
関連して箱根神社の摂社である駒形神社では、朝鮮から高麗大神が勧請されたとしている。
なお奥宮は現在駒ヶ岳に鎮座するが、元々は駒ヶ岳南方で最高峰の大日岳(経塚山)山頂にあったとする伝承がある。

概史:
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国史では仁寿元年(851年)に「駒形神」の神階が正五位下に、貞観4年(862年)に従四位下に昇叙された旨の記事が見える。従四位下の神階は陸奥国内で最高位になる(陸奥国内で従四位下は計9社。駒形神社側ではこの神階について、駒形神社への坂上田村麻呂の崇敬が篤かった関係で、胆沢の鎮守府から神階を高くすべきとの申し出が何度もあったためと説明している。
また、延長5年(927年)成立の『延喜式』神名帳では陸奥国胆沢郡に「駒形神社」と記載され、式内社に列している。駒形神社側の見解では、全国の駒形神社の中で当社と宮城県栗原郡の駒形根神社の2社のみが神名帳に記載があるという。
平安時代頃には、上記の坂上田村麻呂のほか、源頼義・義家や平泉の藤原氏の崇敬も篤かったと伝える。箱根神社の縁起には、藤原秀衡が銅を鋳て駒形の神の像を作り祀るなど、藤原氏の駒形大神への信仰の篤さが読み取れる記載があるという。
江戸時代の時点では、駒ヶ岳は仙台藩と盛岡藩の境界であり、里宮はそれぞれの藩内に1社ずつがあった。また、山頂の本宮(奥宮)は両藩によって20年目ごとに交互に建て替えがなされていた。
明治4年(1871年)、山頂の本宮(奥宮)が近代社格制度において国幣小社に列するにあたり、本宮・里宮とも参拝に不便であるとして、当時の水沢県県庁に近い鹽竈神社の本殿が仮遥拝所となされた(鹽竈神社は境内社の春日神社に遷座)。そして明治7年(1874年)、社殿が改修されて正式な遥拝所とされた。明治36年(1903年)に山頂の神霊が遥拝所に遷され、元は鹽竈神社のものであった社殿等一切は駒形神社に編入された。鹽竈神社は境内別宮であった春日神社に合祀され、社名が「春日神社」から「鹽竈神社」に改称されることとなった。
戦後は神社本庁の別表神社に列し、近年では陸中国一宮とも称されている。2010年(平成22年)8月1日、山頂の奥宮にある老朽化した社殿を解体し、新しく社殿を造営した。

神階:
仁寿元年(851年)9月2日、正五位下 (『日本文徳天皇実録』) - 表記は「駒形神」。
貞観4年(862年)6月18日、正五位下から従四位下 (『日本三代実録』) - 表記は「駒形神」。

摂末社:以下はいずれも本社境内社。
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別宮
鹽竈神社
祭神:鹽竈神(塩土老翁神・武甕槌神・経津主神)
 相殿に春日神(天児屋根神・比賣神・藤原鎌足朝臣)

駒形神社本社の新設以前より、当地に鎮座した神社である。
創建は不詳ながら、元々は石田・大明神の地にあったといい、一伝では康平5年(1062年)に源頼義・義家父子が石田・大明神の屋敷に社殿を造営し塩竈神を勧請したことに始まるという。
勧請元の鹽竈神社(宮城県塩竈市)は中世に留守氏の支配下にあったため、実際には寛文6年(1666年)に水沢城に入った留守宗利が勧請したことに始まると推測されている。
一伝では、留守宗利が再興、明和3年(1766年)に現在地に遷座したという。安政6年(1859年)の水沢大火で社殿は焼失したが、文久2年(1862年)に再興。のち当地に駒形神社が移るにあたって社殿を譲り、境内摂社の春日神社に遷座した。明治の一時期は駒形神社とは分割される独立社であったが、その後は駒形神社の境内別宮として推移している。

末社
a0057057_11450499.png山神社
祭神:木花開耶姫神・大山祇神
その他
a0057057_17561455.png水沢招魂社
祭神:
郷土出身の国事殉難者1099柱

かつては水沢公園内に鎮座した。明治11年(1878年)の伊勢神宮分霊の巡行に際して、水沢公園内にあった愛宕神社(安政6年(1859年)の水沢大火で焼失)の跡地上に行在所が建てられたことに始まる。
この行在所は明治42年(1909年)に招魂社に改められたが、その後荒廃し、駒形神社境内に遷座して現在に至っている。

この神社最寄りの駅・バス停:
JR東北新幹線・水沢江刺駅からタクシー
または、JR東北本線水沢駅から徒歩またはタクシー(バスは1日数本程度)

出典・参考:Wikipedia「駒形神社」(最終更新 2018年4月7日)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A7%92%E5%BD%A2%E7%A5%9E%E7%A4%BE

現地参拝:29.6.25
記事投稿:30.4.24
  調整:30.4.27

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by fbox12 | 2018-04-27 17:46 | 神社