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カテゴリ:神社( 139 )

第拾九 三嶋大社 静岡県三島市鎮座

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a0057057_2192495.jpgみしまたいしゃ

鎮座地:静岡県三島市大宮町二丁目1-5
祭神:三嶋大明神(大山祇命、積羽八重事代主神)
社格等:式内社(名神大)、伊豆國一宮、伊豆國總社、旧官幣大社、神社本庁別表神社
社殿:本殿を流造とする総欅素木造複合社殿

a0057057_22122841.png静岡県東部の伊豆半島基部、三島市の中心部に鎮座する。境内は交通上の要衝に位置し、大鳥居前を東西に旧東海道、南に旧下田街道(現在、車両は南側から大社側へ一方通行)が走る。当地は伊豆國の中心部として国府のあった地で、古代には「國府(こう)」と称された。そして三嶋神が國府に祀られたのち、13世紀末頃から大社にちなんで地名も「三嶋」と呼ぶようになったとされる。
平安時代の『和名類聚抄』では伊豆國賀茂郡に「三嶋郷(みしまごう)」の記載が見える。

三嶋大社自身は創建時期、由緒ともに不明としているが、社名の「三嶋」とは伊豆大島や三宅島を含む伊豆諸島に対する尊称「御島(みしま)」に由来するとされる。主祭神は伊豆諸島の開拓神である。当社は、古代には伊豆諸島の噴火を畏れた人々から篤く崇敬された。中世に入ると、伊豆國の一宮とし*多くの武家からの崇敬を集めた。近世以降は三島が東海道の宿場町として発達したことに伴い、東海道を往来する庶民からも篤く信仰された神社である。
社は戦前「三島神社」と称したが、戦後は「三嶋大社」を称している。史料には次の呼称が見える。

 三島大社/三嶋大社 (『続日本後紀』)
 伊豆三島神社/伊豆三嶋神社 (『延喜式』神名帳)
 三島社/三嶋社 (『吾妻鏡』、北畠顕家文書、北条氏綱文書)
 三島宮/三嶋宮 (矢田部家文書等)

*「頼朝が三嶋大社を崇敬した。」「旗挙げを祈願した。」という由緒には、後世において書き加えられた感があり、筆者は否定的な意見を持つ(その理由については別の機会で記す)。
また余談ではあるが、頼朝のそばに居た藤九郎を「安達盛長・・」という標記をする文書があるが、藤九郎が安達姓を名乗ったのは、鎌倉の御家人を辞してからで、御家人となっても藤九郎盛長と呼ばれていた。

祭神について:
三嶋大社の祭神に関しては、古くは大山祇命祭神説・事代主神祭神説が存在した。
大山祇命説は、鎌倉時代の『東関紀行』に始まって『源平盛衰記』『釈日本紀』『二十一社記』『日本書紀纂疏』等の諸史料に見える説である。三嶋神が伊豫國一宮の大山祇神社(大三島神)に由来するという伝説に基づき、事代主神説が唱えられるまでは広く定着していた。
一方事代主神説は、江戸時代後期の平田篤胤の『古史伝』での主張に始まる説である。室町時代の『二十二社本縁』に「都波八重事代主神(中略)伊豆賀茂郡坐三島神、伊予国坐三島神同体坐云」とある記載に基づく。
江戸時代までの祭神は大山祇命とされていたが、幕末に篤胤の事代主神説が国学者の支持を得たため、明治6(1873)年に事代主神に改められた。その後大正期に入って大山祇命説が再浮上したため、どちらも本地に関わりが深いということから二柱説が昭和27(1952)年に制定されて現在に至っている。
近年の研究では、三嶋神は「御島神」すなわち伊豆諸島の神を意味するとして、上記2説とも後世の付会とする見方が有力視される。この中で、噴火の盛んな伊豆諸島で原始的な造島神・航海神として祀られたのが「ミシマ神」の始まりであるという。そして「ミシマ」の音から、後世に他の神に結び付けられたともいう。

社史:
創建
上記のとおり、創建は不詳とされる。後述のように『延喜式』神名帳には伊豆国賀茂郡(伊豆半島南部・伊豆諸島)の所在と記載され、現在地(当時は田方郡・・引用 Wikipedia 記載:筆者?)と相違することから、遷座説・郡名誤記説等の諸説が提唱されている。文献上で現在地の鎮座が確実なのは、『吾妻鏡』治承4(1180)年の記事からである。
現在通説として知られるのは、初め賀茂郡三島郷(郡名誤記説では伊豆諸島という説)、のち賀茂郡大社郷白浜(伊古奈比咩命神社付近か)、さらに田方郡小河郷の伊豆国府(現社地・・大仁田京国府説あり)へと遷座(一説に勧請)したとする説である。一方の郡名誤記説では、『延喜式』の記載を疑い、太古より当地に鎮座とする。以上のほか、「三嶋」の神名から伊豫國一宮の大山祇神社(大三島神)との関係を想定する説もある。

平安時代
史料の初見は天平宝字2(758)年で、その後国史では天長9(832)年の記事で、神異により三嶋神・伊古奈比咩命神(伊古奈比咩命神社)を名神となし、地2,000町に「神宮二院・池三処」を作ったという。同記事の3日前の記事では、日照りの原因が「*伊豆国神」の祟りであると記されているが、この「伊豆国神」は三嶋神・伊古奈比咩命神と同一神であるとも考えられる。
『続日本後紀』の記事よると、承和5(838)年7月5日夜に上津島(神津島)で激しい噴火が発生した。占いの結果、それは三嶋神の後后が位階(神階)を賜ったにも関わらず、本后たる阿波神(阿波咩命;阿波命神社)には沙汰がないことに対する怒りによるものだと見なされた。同記事では「後后」に関する具体的な言及はないが、これは伊古奈比咩命を指すとされる。この記事を受けて約一ヶ月後には、阿波咩命と物忌奈命(阿波神の御子神;物忌奈命神社)の神階が無位から従五位下に昇った。
その後、当社には嘉祥3(850)年に従五位上の神階が授けられたのち、仁寿2(852)年に従四位下、貞観元(859)年に従四位上、貞観6(864)年に正四位下、貞観10(868)年に従三位が授けられた。
延長5(927)年成立の『延喜式』神名帳では、伊豆國賀茂郡に「伊豆三島神社 名神大 月次新嘗」として、名神大社に列するとともに月次祭・新嘗祭で幣帛に預かった旨が記載されている。また、『延喜式』主税寮によれば、当社には「三島神料」として2,000束が下されていた。
承平年間(931年-938年)頃の『和名類聚抄』では伊豆国賀茂郡に「大社郷(おおやしろごう)」の地名が見えるが、これは伊豆三島神社・伊古奈比咩命神社に基づく郷名とされる。

*「伊豆国神」・・引用先の Wikipedia の記載であるが、筆者は、これを三嶋大社北遷前の地主神と考える。
下記若宮八幡の昔話のように、三嶋大社の北遷説が実際にあったとすれば、それに絡む形で排除されたものがあり、現在地に三嶋大社が存在する理由を定義するものであるが、決してそれが温和な方法でなかったことの表れではないだろうか。


現社殿は、嘉永7(1854)年11月4日の東海地震で罹災し、時の神主*矢田部盛治の指揮のもと、全国にて再建のための勧進を行い、慶応2(1866)年9月9日に本殿、幣殿、拝殿の完成を見た。その他境内主要建造物は、明治元(1868)年にかけて随時落成した。
社殿彫刻は、当代の名工小沢半兵衛・小沢希道親子とその門弟のほか、後藤芳冶良らによるもの。社殿彫刻としては高い完成度と美術的価値をもつ。平成12(2000)年に重要文化財指定を受けた。

*矢田部盛治(やたべもりはる):江戸時代末から明治時代はじめの三嶋大社神主(宮司)。社殿再興の他、大場川の治水工事、祇園原水路の開削など三島地域の開発に尽力した人物。境内には熱海市生まれの彫刻家澤田晴廣(:三嶋大社ホームページ、「政廣」の誤り)制作による盛治の銅像がある。

a0057057_208521.jpga0057057_20283274.jpg左:現総門
右:旧総門
(現芸能殿)

a0057057_11505955.jpga0057057_21315226.jpg左:神門
右:舞殿

a0057057_15205710.jpga0057057_15262975.jpg左:手水舎
右:神馬舎


a0057057_14374398.jpg昭和9(1934)年5月1日、文部省告示第181号により、文部大臣から国の天然記念物の指定を受けた。
学名は薄黄木犀(うすきもくせい)。薄い黄色の花をつけ、甘い芳香が特徴。


a0057057_19344499.jpg三島の昔話:
現在の三嶋大社は、平安中期以降に田方郡の国府近くに新宮として分祀されたとされる。現在地には元々若宮八幡があったが、三島明神が若宮八幡に「藁一把分の土地を譲ってくれ」と言い、若宮八幡がそれくらいならと了承すると、三島明神は藁の束を解いて輪にし、若宮八幡の広大な敷地を囲んで占有してしまったという伝承がある。現在、若宮八幡は三島市西若町にあるが、そのために三嶋大社に背を向けて建ったという(現在は三嶋大社の末社であり、向きは大社と同じ南向き、また、大社境内にも同名の摂社がある)。


摂社、末社
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by fbox12 | 2018-08-17 22:25 | 神社

第佰貮拾七 二荒山神社 栃木県日光市鎮座

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ふたらさんじんじゃ

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所在地:
 本社:栃木県日光市山内2307
 中宮祠:栃木県日光市中宮祠2484
 奥宮:栃木県日光市中宮祠二荒山
主祭神:二荒山大神(大己貴命、田心姫命、味耜高彦根命の総称)
神体:日光三山(神体山)
社格等:式内社(名神大)論社、下野國一宮、旧國幣中社、神社本庁別表神社
本殿様式:八棟造(本社本殿)

概要:
関東平野北部、栃木県北西にそびえる日光連山の主峰・日光三山を神体山として祀る神社である。境内は次の3ヶ所からなる。
 本社(栃木県日光市山内)
  本社 - 日光の社寺最奥に鎮座
  別宮本宮神社 - 日光の社寺入口、女峰山登山口入口
  別宮滝尾神社 - 女峰山登山口入口奥
 中宮祠(栃木県日光市中宮祠) - 中禅寺湖畔。男体山表登山口入口
 奥宮(栃木県日光市中宮祠二荒山) - 男体山山頂
日光三山は男体山(なんたいさん:古名を「二荒山(ふたらさん)」)・女峰山(にょほうさん)・太郎山からなり、二荒山神社ではそれぞれに神をあてて祀っている。三山のほか日光連山を境内地とし、面積は3,400haにも及び、その神域には華厳滝やいろは坂も含まれる。
二荒山神社は古来より修験道の霊場として崇敬された。江戸時代になり幕府によって日光東照宮等が造営されると二荒山神社も重要視され、現在の世界遺産・重要文化財指定の主な社殿が造営された。また、国宝指定の刀剣2口や多数の刀剣等の重要文化財を現在に伝えているほか、境内は国の史跡「日光山内」に包括されている。
宗教法人登記上の正式名称は「二荒山神社」であるが、宇都宮市の二荒山神社(ふたあらやまじんじゃ:宇都宮二荒山神社)との区別のために地名を付して「日光二荒山神社」と称される。古くは「日光三社権現」と称された。
ユネスコの世界遺産に「日光の社寺」の構成資産の1つとして登録されている。

祭神:
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主祭神は次の3柱。それぞれ日光三山の一山にあてられている。3神は「二荒山大神」と総称される。
 男体山(二荒山)(標高、2,486 m) 大己貴命(おおなむちのみこと) 父 千手観音
 女峯山(標高、2,464 m) 田心姫命(たごりひめのみこと) 母 阿弥陀如来
 太郎山(標高、2,368 m) 味耜高彦根命(あじすきたかひこねのみこと) 子 馬頭観音
これらの山々は神体山、いわゆる神奈備であり、霊峰として古くから信仰されてきた。この日光の神々は「日光三山」「日光三所大権現」などと呼ばれ、親子の山と考えられてきた。
二荒山神に現在の人格神があてられたのは12世紀頃だとされる。さらには本地垂迹説により上記のような諸仏があてられ、輪王寺では現在もこれら諸仏を祀っている。

歴史:
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創建霊場としての日光の始まりは、下野国の僧・勝道上人(735年-817年)が北部山岳地に修行場を求め、大谷川北岸に天平神護2年(766年)に紫雲立寺(現在の四本龍寺の前身)を建てたことに始まるとされる。そして二荒山神社の創建は、上人が神護景雲元年(767年)二荒山(男体山)の神を祭る祠を建てたことに始まるとされる。この祠は現在の別宮となっている本宮神社にあたる。上人は延暦元年(782年)二荒山登頂に成功し、そこに奥宮を建てて二荒修験の基礎を築いた。その後、神仏習合の霊場として栄えることとなったと伝えられる。
なお、社伝などでは上記のように勝道上人が開祖と説明されるが、実際には太郎山神社周辺で古代の祭祀の痕跡を示す遺跡が見つかっており、相当古くから聖地として信仰対象であったことがわかっている。
概史
空海が訪れた際、女峰山の神を祀る滝尾神社を建てたと伝えられている。また、円仁も日光を訪れたとされ、その際に現在輪王寺の本堂となっている三仏堂を建てたといい、この時に日光は天台宗となったという。ただし、2人の来訪は史実と言えず、伝承の域は出ていない。
その後、二荒山の神を本宮神社から少し離れた地に移して社殿を建て、本宮神社には新たに御子神である太郎山の神を祀った。このとき新たに建てた現在の本社、元の本宮神社、そして瀧尾神社は総称して「日光三社」と呼ばれる。
平安時代には承和3年(836年)の正五位下勲四等に始まって貞観11年(869年)の正二位勲四等の神階奉授の記録があるほか、『延喜式神名帳』に記載されている名神大社「下野國河内郡 二荒山神社」の記載がある。ただし、この論社には宇都宮市の宇都宮二荒山神社もあり、帰属を巡っては古くから議論がある。また、両社とも下野國一宮を称している。
鎌倉時代初期には、男体山山頂遺跡の出土品から山岳信仰が最盛期を迎えたことが示唆されており、神社祭礼もこの時に確立されたと考えられる。
戦国時代には、後北条氏に加担したことにより豊臣秀吉に領地を没収され、衰退した。
江戸時代初め、徳川家康の側近で日光山貫主となっていた天台宗の僧天海(慈眼大師)により、徳川家康を祀る東照社(日光東照宮)が江戸幕府によって創建されると、二荒山神社もまた、江戸幕府のみならず朝廷や諸大名、さらに民衆からも厚い崇敬を受けた。元和5年(1619年)には、徳川秀忠によって本殿が再建された。
1873年(明治6年)に宇都宮の二荒山神社に加えて國幣中社に追加列格した。
第二次世界大戦後、神社本庁の別表神社となった。

年表:〈〉内は関連事項
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766年(天平神護2年) - 勝道、紫雲立寺(のちの四本龍寺)を建立
767年(神護景雲元年) - 勝道、二荒神の祠(現 別宮本宮神社)を造営
782年(延暦元年) - 勝道、奥宮を造営
784年(延暦3年) - 勝道、中宮祠とその神宮寺の中禪寺を建立
808年(大同3年) - 橘利遠、本宮神社の社殿造営
810年(弘仁元年) - 朝廷より「満願寺」の号が下賜
820年(弘仁11年) - 空海、日光を訪れて瀧尾神社・若子神社を造営
836年(承和3年) - 二荒神、正五位下の神階を下賜(869年(貞観11年)には正二位まで昇叙)
848年(嘉祥元年) - 円仁、日光を訪れて本堂・薬師堂を建立
927年(延長5年)12月26日 - 〈延喜式完成〉
967年(康保4年)7月9日 - 〈延喜式施行〉
1141年(永治元年) - 藤原敦光、『中禪寺私記』を著作
1315年(正和4年) - 仁澄、中禪寺の大造営を執行
1616年(元和2年) - 〈徳川家康、薨去〉
1617年(元和3年) - 天海、日光東照社を建立し、元和の造営を執行
1636年(寛永13年) - 天海、寛永の大造替を執行
1645年(正保2年) - 朝廷より宮号勅許を賜り東照社を「日光東照宮」と改名
1649年(慶安2年) - 日光連山の一つの白根山が噴火し、社殿焼失
1651年(慶安4年) - 〈徳川家光、死去〉
1653年(承応2年) - 大猷院廟建立
1868年(慶応4年3月) - 〈神仏分離令〉
1868年(慶応4年) - 戊辰戦争。旧幕府軍が立てこもるが、新政府軍の板垣退助の説得により戦場を移す。
1868年(明治元年) - 神体動座
1871年 (明治4年)5月14日 - 〈社格制度制定〉
1872年(明治5年) - 山内の女人牛馬禁制解禁
1872年(明治5年) - 日光東照宮、日光山輪王寺、日光二荒山神社に分立
1873年(明治6年) - 國幣中社に列格
1945年(昭和20年)12月15日 - 〈神道指令〉
1998年(平成10年) - 「日光山内」が国の史跡に指定
1999年(平成11年) - 「日光の社寺」が世界遺産(文化遺産)に登録

境内:
江戸時代までは、神領約70郷という広大な社地を有していた。今日でも日光三山を含む日光連山8峰(男体山・女峰山・太郎山・奥白根山・前白根山・大真名子山・小真名子山・赤薙山)や華厳滝、いろは坂などを境内に含み、その広さは3,400haという、伊勢神宮に次ぐ面積を有している。

本社
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日光東照宮の西奥に鎮座し、「日光山内(さんない)」と呼ばれる日光の社寺のうちでは最奥に位置する。
元は現在の別宮・本宮神社の地に鎮座しており、移転後は「新宮」と称された。元和3年(1617年)の東照宮造営の際に現在地に移転し、社殿も一新された。現在の社殿はその時の造営のもので、八棟造の本殿や入母屋造の拝殿を始めとして11棟が国の重要文化財に指定されている(神橋含む)。
神苑内にある正応5年(1292年)銘の銅灯籠(国の重要文化財)は、「化灯籠(ばけどうろう)」と通称される。火を灯すと怪しげな姿に化けたといわれ、武士が刀で斬りつけた傷が無数に残されている。(上右写真)

中宮祠
中宮祠は、男体山中腹の中禅寺湖畔に鎮座する。「中宮祠」とは、本社と奥宮との「中間の祠」の意である。勝道上人による天応2年(782年)の男体山登頂ののち、延暦3年(784年)に建立されたという。この時、同時に中禪寺も二荒山神社の神宮寺として創建された。古くは「男体中宮」「男体権現」「中禪寺権現」とも称された。棟札の写しによれば、永長元年(1096年)、久寿2年(1155年)、永暦2年(1161年)の社殿造営が確認されている。その後、現在の社殿が元禄12年(1699年)に造営された。
当地は古くから男体山登山の表口とされ、現在も登拝口(登山口)が本殿横に位置している。入り口の登拝門は開山時(5月5日-10月25日)のみ門が開く。7月31日-8月8日の登拝祭の間は、中宮祠本殿から奥宮に神像が遷される。
境内は本殿を始めとして7棟が国の重要文化財に指定されている。また男体山の登拝口の近くにある巨大なイチイ(A株とB株の2本)のうち、A株の樹齢は推定1,100年、B株の樹齢は推定1,000年とされ、1969年(昭和44年)10月11日にA株・B株ともに「中宮祠のイチイ」として栃木県指定天然記念物に指定されている。そのほか宝物館では、二荒山神社が所有する刀剣等の多くの宝物を展示している。

奥宮
男体山山頂に鎮座する。勝道上人により天応2年(782年)に創建された。奥宮近くの太郎山神社付近からは奈良時代から近世に至る祭祀遺物が出土し、一帯は「男体山頂遺跡」と言われる。出土品の多数は重要文化財に指定されており、中宮祠宝物館にて保管されている。

摂末社:
別宮
別宮の2社は、本社とともに「日光三社」と称され、かつては「日光三社権現」とも総称されていた。

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本宮神社(ほんぐうじんじゃ)
 鎮座地:栃木県日光市山内。「日光山内」滝尾道の入り口
 祭神:味耜高彦根命 - 太郎山祭神
神護景雲元年(767年)、勝道上人により開山された日光山発祥の地であり、鎮座地は本社の旧鎮座地と伝わる。山を拝した名残りで、本殿裏側には扉が設けられている。本宮に対し、現在の本社を新宮ともいう。
近くには旧別当寺として天平神護2年(766年)に建てられた「四本龍寺」があり、こちらは輪王寺の旧鎮座地とされる。

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滝尾神社(たきのおじんじゃ)
 鎮座地:栃木県日光市山内。「日光山内」滝尾道の北奥、白糸の滝付近
 祭神:田心姫命 - 女峰山祭神
弘仁11年(820年)に空海が開いた。本宮神社同様、山を拝した名残りで本殿裏側には扉が設けられている。
参道には空烟地蔵、影向石が、境内には末社として滝尾稲荷神社が鎮座している。また、奥社として女峰山山頂に女峰山神社が鎮座している。


本社周辺
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若子神社(じゃっこじんじゃ)
 鎮座地:栃木県日光市山内。寂光の滝付近
 祭神:下照姫命
摂社。弘仁11年(820年)に空海が滝尾神社に続いてこの地で修行した。元の名は「寂光寺」または「寂光権現」であり、室町時代には七堂伽藍が立ち並び釘念仏道場として栄えた。明治に入り「若子神社」と改められた。なお、釘念仏のお札は現代では輪王寺で受けることができる。境内には寂光の滝がある。

池石(生石、いけいし)
 鎮座地:栃木県日光市山内。本社から若子神社・寂光の滝へ向かう道の中間
 若子神社遥拝所。本社と若子神社の中間に鎮座する遥拝所(前立て)で、大きな磐座が祭られている。岩の上にある窪みの水が枯れないことからこの名前が付いた。

北野神社(きたのじんじゃ)
 鎮座地:栃木県日光市山内。滝尾道(稲荷川に沿う道)にあり、本社と滝尾神社の中間
 祭神:菅原道真。
末社。寛文元年(1661年)、筑紫安楽寺の大鳥居信幽が太宰府天満宮より勧請。梅鉢の紋を掘り込んだ巨岩もある。

滝尾高徳水神社(たきのおたかとくすいじんじゃ)
 鎮座地:栃木県日光市山内。滝尾道にあり、滝尾神社の入り口、白糸の滝のほとり。
 祭神:罔象女大神(みづはのめのおおかみ)
末社。通称:水神社。1979年(昭和54年)横川信夫県知事が藤原町高徳の鬼怒川沿いに丹生川上神社より勧請、1998年(平成10年)道路拡幅のため現在地に遷座。

滝尾稲荷神社(たきのおいなりじんじゃ)
 鎮座地:栃木県日光市山内。滝尾神社の本殿裏
 祭神:倉稲魂神(うかのみたまのかみ、稲荷大明神)
末社。弘仁11年(820年)に空海が滝尾神社と共に開いた。

本社境内(神苑五社)

a0057057_21304392.pnga0057057_10515720.png朋友神社(みともじんじゃ)
 祭神:少名彦名命
末社。重要文化財。

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大国殿
 祭神:招き大国(大己貴命)
境内社。重要文化財。延享2年(1745年)鎮座。内部には大太刀「太郎丸」が展示されている。

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日枝神社(ひえじんじゃ)
 祭神:大山咋命
 末社。重要文化財
嘉祥元年(848年)鎮座。
滝尾社遥拝所
別宮・滝尾神社の遥拝所。神苑五社には含まれない。樹齢約700年の御神木の下に石碑が祭られている。

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若子神社遥拝所
摂社・若子神社の遥拝所。磐座が祭られている。

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日光連山遥拝所
日光連山八峰、すなわち男体山奥宮、女峰山神社、太郎山神社、大真名子山神社、小真名子山神社、赤薙山神社、前白根山神社、奥白根山神社の遥拝所。磐座が祭られている。

中宮祠境内、奥宮周辺、日光連山八峰
 - 省略 -


アクセス:a0057057_22034420.png
本社まで
 JR東日本日光線・日光駅または東武鉄道日光線・東武日光駅から徒歩約35分
バス
 東武バス日光(世界遺産めぐり:右写真)で「大猷院二荒山神社前」バス停下車 (下車後徒歩すぐ)
 東武バス日光(中禅寺温泉行き・湯元温泉行き・奥細尾行き)で「西参道」バス停下車 (下車後徒歩約8分)

中宮祠まで
バス
 東武バス日光(湯元温泉行き)で、「二荒山神社前」バス停下車 (下車後徒歩すぐ)

出典参考:Wikipedia「日光二荒山神社」(最終更新:2018年6月21日)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E5%85%89%E4%BA%8C%E8%8D%92%E5%B1%B1%E7%A5%9E%E7%A4%BE
最終閲覧:2018.7.17

現地参拝:29.9.-4
記事投稿:30.7.18
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by fbox12 | 2018-08-17 21:56 | 神社

第壱 伊豆山神社 静岡県熱海市鎮座

a0057057_15274119.png


a0057057_1782159.pnga0057057_1872218.png
a0057057_16322868.pngいずさんじんじゃ

鎮座地:静岡県熱海市伊豆山上野地708番地1
祭神:
 正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊
 拷幡千千姫尊
 瓊瓊杵尊
社格等:旧国幣小社、神社本庁別表神社
社殿:


a0057057_16141420.png概要:
全国各地に点在する伊豆山神社や伊豆神社(いずじんじゃ)、走湯神社(そうとうじんじゃ、はしりゆじんじゃ)などの起源となった事実上の総本社格の社である。

当社は明治以前においては久しく神仏習合の社であって、富士開山の僧である末代上人や、修験道の始祖とされる役小角、空海(弘法大師)など多くの山嶽仏教徒や修験者が修行を積んだ霊場であった。後白河法皇勅撰の「梁塵秘抄」には「四方の霊験者は伊豆の走湯、信濃の戸穏、駿河の富士山、伯耆の大山」と記されている。
a0057057_1805755.pnga0057057_22005597.png明治維新の神仏分離令により寺を分離して伊豆山神社と称するまでは、天台宗や真言宗と関わりの深い神仏習合の神社であり、現在地へ遷座して以降は主に、高野山真言宗である般若院(はんにゃいん)の別当寺が伊豆大権現と等しく祀られていた。
しかし、
 勢力間の主導権争いなどによって度々祭神や由緒が改竄されたこと
 神仏分離の混乱や数度にわたる火災などで史料が逸失したこと
などから山の歴史には不明点が多く、調査・研究が待たれる。
なお、頼朝と政子の恋の舞台であったため、現在も縁結びや恋愛成就の神社として人気がある。
(下線部分の記述については、参考資料原文のまま)

歴史:
創建の年代は不詳だが、社伝によれば孝昭天皇の時代(紀元前5世紀~紀元前4世紀)とされる。古くは以下の名で呼ばれた。
 伊豆大権現(いずだいごんげん)
 伊豆御宮(いずおんみや)
 伊豆山(いずさん)
 走湯大権現(そうとうだいごんげん、麓の海岸に点在した温泉・間歇泉に由来し、推古天皇3(594)年に朝廷から贈られた名とされる)
 走湯山(そうとうさん)

a0057057_20264256.pnga0057057_2031392.png当初は日金山(ひがねさん:久地良山、万葉集にいう伊豆高嶺)の山上にあった。その後については諸説があるが、本宮山(ほんぐうさん)を経て、承和3(836)年に甲斐国の僧・賢安により現在地へ遷座したとの説が有力である。
十六代仁徳天皇が勅願所としたとされるため歴代皇族の崇敬が篤く、二十二代清寧、三十代敏達、三十三代推古、三十六代孝徳、百五代後奈良の六天皇の勅願所となったと社伝に謳われており、特に後奈良天皇は自筆の般若心経一巻(昭和2(1927)年国宝指定、現重要文化財)を奉納している。
源頼朝は平治の乱の後伊豆國に配流されたとき、当社に源氏再興を祈願した。この間有力豪族の伊東祐親に追われて当社に身を寄せたり、小豪族の娘であった北條政子との逢瀬の場にするなど関わりが深く、後に鎌倉幕府を開くと箱根とともに当社を「二所」として、幕府の最高の崇敬を示す「関八州鎮護」として多くの社領を寄進した。南北朝時代の「寺領知行地注文」によれば、遠くは越州に至るまで数多くの知行地を所有したとされるなど、この時期、当社が最盛期を迎えていたことがうかがわれる。
戦国時代、小田原北条氏(早雲、氏綱、氏康)の篤い崇敬を受けたが、豊臣秀吉の小田原征伐で焼失した(一説では、その張本人は徳川家康とされる)。
a0057057_21102697.png江戸時代に入ると山麓の阿多湊(または阿多美の郷)が湯治場として名高くなり、徳川家康はじめ多くの大名や文化人たちが訪れた。焼失していた当社は再建され、江戸幕府からは文禄3年伊豆國加増も葛見郡のうち二百石を、慶長14年には関ヶ原の戦いでの勝利の礼として百石を、それぞれ朱印領として寄進され、以後、代々の将軍からも同様に寄進を受けた。
神仏分離後の大正3(1914)年1月13日、当時皇太子であった昭和天皇が当社に参拝、本殿脇に黒松一株を手植した。
大正7(1918)年、宮内省から金参萬円を支給される。
昭和3(1928)年の昭和天皇御大典の際に国幣小社に列し、秩父、高松、久邇、伏見、山階、賀陽、東伏見の各宮家から金壱封を、梨本宮家からは日本刀一口及び槍一筋、祭祀料の寄進を受けた。
第二次世界大戦後に社格制度が廃止されて以降は別表神社とされ、宗教法人化された。
昭和55(1980)年9月12日、現東宮浩宮徳仁親王が参拝する。また、同年、童画家黒崎義介が拝殿の天井画390枚を奉納した。

赤白二龍
『走湯山縁起』に、「伊豆山の地下に赤白二龍交和して臥す。その尾を箱根の芦ノ湖に付け、その頭は伊豆山の地底にあり、温泉の湧く所はこの龍の両眼二耳鼻穴口中なり」と記載があり、伊豆山神社の「伊豆山大神」が、赤龍と白龍の二龍の姿となって、温泉を生み出す様が描かれているとされる。赤龍は火の力、白龍は水の力を操るとされ、二龍は温泉の守護神ともされる。
この「赤白二龍」(せきびゃくにりゅう)は、伊豆山神社のシンボルとされ、社殿の手前にある手水舎にも、二龍をかたどった装飾がみられる。伊豆山神社が縁結びの神社ともされることから、赤龍を母親、白龍を父親とみなし、あわせて夫婦和合や縁結びの象徴ともしている。

境内社:
本宮社

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ほんぐうしゃ
鎮座地:静岡県熱海市伊豆山七尾
祭神:正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊、拷幡千千姫尊、瓊瓊杵尊

仁徳天皇の御代に松葉仙人が神鏡を崇め、社を造り日金山に祀り、後に社はこの地に移され祀られてきた。さらに承和3(836)年に今の伊豆山神社の社を建造し遷座したため、残った二番目の社が現在の本宮社となった。
江戸時代初期には広さ東西五間、南北三間半の拝殿、鳥居三ヶ所、付近に求聞持堂、東西三間南北二間の建物等を有したが、江戸時代後期の野火により全焼し、現在は石鳥居一基、拝殿が一棟建っているのみ。


結明神本社(むすびみょうじんほんしゃ)
御祭神:結明神(日精・月精)

走湯山縁起によれば景行天皇の三十一年、日金山の大杉の中より一男一女が出生した。初島の初木神社の祭神である初木姫が二子を引き取り育てたが、時を経ずしてたちまち成長し、一女を日精、一男を月精と号した。後に二人は夫婦となり、日金山に仕えて「伊豆権現氏人之祖」となったと云う。
日精・月精その終没を不知(富士山)から神上がったと記され、後の人たちより結明神として仰がれ祀られたと伝られる。
祭神は男女の縁結びを叶えてくれる神で古くは一名恋祭りという神事があり、各地から集まった若い男女の参列を得て行われていたことが伝えられている。


白山神社(はくさんじんじゃ)
御祭神:菊理媛命

伊豆山記、走湯山記によれば、天平元年夏、東国に疫病が流行した際、北条の祭主が伊豆権現に祈願したところ「悪行のなす所、救いの術なし、これ白山の神威を頼むべし」との神託があり、猛暑の頃であったにもかかわらず、一夜のうちに石蔵谷(白山神社鎮座地)に雪が降り積もり、幾日経っても消えず、病人がこの雪をなめたところ、病苦がたちどころに平癒したことから、この御社が創立された。
古来より、病気平癒、厄難消除の神として厚い信仰を集めている。


摂社 雷電社(らいでんしゃ)(若宮)
a0057057_16463770.png御祭神:伊豆大神荒魂、雷電童子(瓊瓊杵尊)

創立年代は不詳。吾妻鏡に「光の宮」と別名があり、鎌倉幕府三代将軍源實朝が再興し、その後暦応四年に足利氏が、慶長十七年に徳川二代将軍秀忠が改築、現社殿は昭和十(1935)年に内務省によって改築された。
政治を司り導く神として、源頼朝を始め歴代の将軍家の崇敬が厚く、室町時代には多数の社領を有していた。
事業、経営、商売繁盛、心願成就、良縁成就、家内安全、夫婦円満、子孫繁栄など、強い神威を持つ神である。

結明神社(むすびみょうじんしゃ)
a0057057_178739.png御祭神:結明神(日精・月精)

子恋の森公園上(伊豆山七尾)にむすぶ平らに鎮座する本社の里宮。

役小角社(えんのおづぬしゃ:足立権現社(あしだてごんげんしゃ))
御祭神:役小角(神変大菩薩、役優婆塞(えんのうばそく))

舒明天皇六(634)年、大和の葛城上郡茅原に生まれ神仏両道に渉り行を積み深く学を究め孔省咒法修習、奇異の験術を証、また日本国中の名山高山を開き登り、修験道の祖、開山の祖とも仰がれる。
文武天皇三年、伊豆大島に流刑にされた折、昼は皇命を慎み、夜は飛行の術を駆使し伊豆大権現に飛び来て修行重ねたと伝えられる、大島に在ること三年、大宝元年勅名を以って許され大和に還ったが遂に仙人と化って唐に渡ったといわれる、役小角隠れ給ひてより千百余年後、光格天皇の寛政十一(1799)年その神徳を讃えられて神変大菩薩の神号を賜う。
当社は運命開拓の神なり、また古くから足の病に悩める者、足腰弱き者、祈願致さば神護を享けて強足となるという信仰がある。


祖霊社(それいしゃ)
a0057057_15534035.png御祭神:伊豆大権現氏人祖霊

先祖の御霊を祀る社で、伊豆山の人々の守護神として景仰されている。

境外社 走湯神社


参考資料:伊豆山神社ホームページ/神社由緒書き他

記事投稿:
  調整:29.7.14/29.10.-4

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by fbox12 | 2018-08-17 21:52 | 神社

第佰四 大神宮社 北海道沙流郡日高町鎮座

a0057057_21320730.pngだいじんぐうしゃ
別社名:富川神社(とみかわじんじゃ)

鎮座地:北海道沙流郡日高町富川東二丁目6-12
祭神:
 天照皇大神(あまてらすすめおおかみ)
 八幡大神(はちまんおおかみ)
 塩竃大神(しおがまのおおかみ)
社格等:旧村社
社殿様式:神明造

由緒:
文政2年4月、仙台藩士が協議の上、宮城県鹽竈神社より御分霊を戴き、胆振の白老に祀ったことに始まる。明治8年5月、石河仁兵衛・荒井直三郎らが中心となり沙流郡佐瑠太村に遷座、翌9年6月15日には村社に列せられている。丘の上の中規模の神社。社務所は道路の向かい側にある。白い石鳥居の右側にある社号には、富川神社となっている。

この神社最寄りの駅・バス停:
 JR日高本線富川駅から約3km
 道南バス富川元町下車

参考資料:北海道神社庁神社データベース
 http://www.hokkaidojinjacho.jp/datamain.html
現地参拝:60.7.-8
記事投稿:29.7.-9

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by fbox12 | 2018-08-17 21:50 | 神社

第佰参 浦河神社 北海道浦河郡浦河町鎮座

a0057057_15563560.pngうらかわじんじゃ

鎮座地:北海道浦河郡浦河町大通二丁目29番地
祭神:
 保食神(うけもちのかみ)
 大物主命(おおものぬしのみこと)
 市杵嶋姫命(いちきしまひめのみこと)
社格等:旧郷社
社殿様式:神明造

由緒:
寛文9(1669)年東蝦夷地の争乱が鎮圧され、この年に松前藩の将佐藤権左衛門が配下を遣わし讃岐の金刀比羅宮の御分霊を戴き、東蝦夷地鎮護の神として現浦河神社社務所付近に小祠を建立して奉斎したことに始まる。享和元年8月15日、更にこの場所に場所請負人佐野嘉右衛門が海上安全や豊漁などを祈念して、山城國紀伊郡伏見に鎮座する稲荷大明神の御分霊を戴き小祠を建立、また露冦により蝦夷地が騒然としていた文化4年、東蝦夷地に駐屯の南部藩が家臣一戸政尹を遣わし安芸國佐伯郡厳島町に鎮座する厳島神社より御分霊を戴き小祠を建立した。天保13年、この3祠を浦河の漁場支配人近江屋周助が現社務所山側に石屋根の社殿を造営し1社に合祀し稲荷神社と称した。明治8年、郷社に列せられる。明治25年に屋根の葺替えを行ったが、社殿の老朽化が進み同45年6月7日に許可を受け改修に着工、同年9月13日に竣功した。明治44年5月21日には神饌幣帛料供進神社に指定され、昭和6年5月12日には社名改称が認可され郷社浦河神社と称するに至った。
浦河市街地にあるため、参拝客も多く、町民多くの信仰を集めている。
平成22(2010)年に浦河神社の過去の神事であった「海上渡御」が約半世紀ぶりに復活した。


この神社最寄の駅・バス停:
 JR日高本線浦河駅より徒歩10分


出典・参考:
北海道神社庁HP
 http://www.hokkaidojinjacho.jp/data/13/13013.html
Wikipedia「浦河神社」
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%A6%E6%B2%B3%E7%A5%9E%E7%A4%BE
閲覧:2017.7.-6

現地参拝:60.7.-7
記事投稿:2017.7.-6
  調整:2018.8.14

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第佰八 上富良野神社 北海道空知郡上富良野町鎮座

a0057057_21041997.pngかみふらのじんじゃ

鎮座地:北海道空知郡上富良野町宮町1丁目4番26号
祭神:天照皇大神(あまてらすすめおおかみ)
社格等:旧村社
本殿様式:神明造

由緒:
当神社明細書に「明治35年創祀以来富良野神社と称し、富良野村総鎮守たりしが、下富良野村分村以来上富良野神社と号す」とある。当地が未歌志内戸長役場管轄下であった明治30年(1897年)4月に開拓入植第1陣・三重県人の団体入植以来、全国各地より団体・個人の入植が順調に増加し、明治32年(1899年)5月『富良野村』として戸長役場の分離独立にいたるまでに各入植地毎に小祀を奉祀していたが、上富良野村史旧原稿によると、明治35年(1902年)3月、「当時本村は富良野村と称し現今の南富良野までの区域なりしが、役場所在地なる本市街地に氏神なきは遺憾なりとし、…中略…更に協議を重ね富良野総鎮守として社殿を建設することに決し、…後略…」とあり、社殿を建設、天照皇大神を奉斎し以て創祀となす。大正9年(1920年)5月18日、内務省北社第2号を以て無格社として創立を許可される。大正12年(1923年)8月7日、内務省北社第7号を以て村社に列せられる。

出典:北海道神社庁HP「上富良野神社」
http://www.hokkaidojinjacho.jp/data/06/06018.html
閲覧:2018.8.14

現地参拝:60.7.-4
記事投稿:2018.8.14

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第佰貮拾九 大神神社 奈良県桜井市鎮座

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a0057057_22233397.pnga0057057_22095791.pnga0057057_16554774.pnga0057057_16351374.pnga0057057_22151378.pnga0057057_21563027.png
おおみわじんじゃ

所在地:奈良県桜井市三輪1422
主祭神:大物主大神
配神:大己貴神 (おおなむちのかみ)、少彦名神 (すくなひこなのかみ)
神体:三輪山(神体山)
社格等:式内社(名神大)、大和國一宮、十二社(中七社)、旧官幣大社、神社本庁別表神社
本殿様式:流造
別名:美和乃御諸宮、大神大物主神社、三輪明神、三輪神社

概要:
日本でも古い神社の一つで、神聖な信仰の場であったと考えられる。全国各地に大神神社・神神社(三輪神社、美和神社)が分祀されており、既に『延喜式神名帳』(『延喜式』巻9・10の神名式)にも記述がある。その分布は、山陽道に沿って播磨(美作)・備前・備中・周防に多い。
三輪山(三諸山)を神体山としているため本殿をもたず、山中には上から奥津磐座(おきついわくら)・中津磐座(なかついわくら)・辺津磐座(へついわくら)の3つの磐座がある。
大神神社は拝殿から三輪山自体を神体として仰ぎ見る古神道(原始神道)の形態を残している。その拝殿は江戸時代4代将軍徳川家綱によって再建された。
現在の拝殿(国の重要文化財)は寛文4年(1664年)に地元三輪薬師堂の松田氏を棟梁とし造営されたもので、それ以前は三つ鳥居(三ツ鳥居)とそれに続く瑞垣が巡るに過ぎなかった。
三ツ鳥居(三輪鳥居)は現在は拝殿奥にあり、明神鳥居3つを1つに組み合わせた特異な形式のものである。
三つ鳥居から辺津磐座までが禁足地で、麓の山ノ神祭祀遺跡などからは、古墳時代中期以降の布留式土器や須恵器・子持勾玉・臼玉などが出土した。三輪山祭祀は、三輪山の山中や山麓にとどまらず、初瀬川と巻向川にはさまれた地域(水垣郷)でも三輪山を望拝して行われた。
例年11月14日に行われる醸造安全祈願祭(酒まつり)で拝殿に杉玉が吊るされる。これが各地の造り酒屋へと伝わった。

伊勢神宮との関係
大神神社の摂社の檜原神社は倭姫命が天照大神を磯堅城の神籬を立てて磯城の厳橿の本にはじめて宮中の外に祀った「倭笠縫邑」の地であると伝えられ、元伊勢の始まりの地となっている(『日本書紀』垂仁天皇段)。

歴史:
創建
記紀によれば、大国主神(大己貴神)は少彦名神ともに国造りをしていたが、大国主が、「お前は小さな神だな」と愚弄したために、国造りなかばにして少彦名神は常世に帰ってしまった。大国主神が「この後どうやって一人で國造りをすれば良いのだ」と言うと、海原を照らして神が出現した。その神は大国主の幸魂奇魂(和魂)であり、「大和國の東の山の上に祀れば國造りに協力する」と言った。この神が御諸山(三輪山)に鎮座している大物主神であるという。この神を祀ったのが大神神社と思われる。

祭祀
崇神天皇5年から疫病が流行り民が死亡し、同6年には、百姓流離し国に叛くものがあった。天皇はこれを憂慮し、祭祀によって事態を解決しようとした。同7年2月、倭迹迹日百襲媛命に憑依して、大物主神を祀れば平らぐと神懸りし、その後、天皇に大物主神が夢懸りして現れ、その神託に従って同7年11月に物部氏の祖伊香色雄に命じ、大田田根子を茅渟県陶邑(のちの東陶器村)に探し出して祭祀主とし、大物主神を祀らせた。その結果、国内が鎮まり、五穀豊穣して百姓が賑わった(『日本書紀』)。
三輪山から出土する須恵器の大半は大阪府堺市の泉北丘陵にある陶邑古窯址群で焼かれたとされており、このことは大田田根子が陶邑から見いだされたという伝承と一致する。
大田田根子の祖先は、皇室の外戚ともなった(媛蹈鞴五十鈴媛命などによる)先住族である。大田田根子の子孫は纒向一帯に勢力を持ち、大神神社を崇敬した。大神神社では、諸説あるが代々その族長により磐座祭祀が営まれたとされる。その子孫はのちに三輪氏(神氏(姓は君)とも)となり、さらにのちに大神氏(姓は君)・大三輪氏(姓は朝臣)となった。

古代
国史には奉幣や神階の昇進など当社に関する記事が多数あり、朝廷から厚く信仰されていたことがわかる。貞観元年(859年)2月、神階は最高位の正一位に達した。また、『延喜式神名帳』には「大和國城上郡 大神大物主神社 名神大 月次相嘗新嘗」と記載され、名神大社に列している。

中世以降
中世以降、神仏習合の色濃く、三輪明神として篤く信仰された。室町時代に創作された作者不詳(一説に金春禅竹ともいう)の謡曲、「三輪」ではキリ(終りの部分)の詞章に「思えば伊勢と三輪の神、一体分身の御事。いわくら(磐座・言はくら)や」の言葉(天岩戸の事)がある。
平等寺、大御輪寺、浄願寺(尼寺)という三つの大きな神宮寺があったが、明治時代に行われた廃仏毀釈で三寺全てが廃寺となり、大御輪寺の本尊であった十一面観音像が聖林寺に移管された。その後、昭和52年(1977年)に平等寺は曹洞宗の寺院として再興された。大和七福八宝めぐり(三輪明神、長谷寺、信貴山朝護孫子寺、當麻寺中之坊、安倍文殊院、おふさ観音、談山神社、久米寺)の1つに数えられている。

現代
今上天皇が2回参拝(皇太子時代(昭和45年:1960年)と平成26年(2014年))されている。平成の参拝の折、美智子皇后は毎年4月に催される「鎮花祭(はなしずめのまつり)」に心引かれたという。

神階:
六國における神階奉叙の記録。いずれも神名は「大神大物主神」と記される。
 嘉祥3年(850年)10月7日、正三位 (『日本文徳天皇實録』)
 仁寿2年(852年)12月14日、従二位 (『日本文徳天皇實録』)
 貞観元年(859年)1月27日、従二位勲二等から従一位勲二等 (『日本參代實録』)
 貞観元年(859年)2月、正一位勲二等 (『日本參代實録』)

摂末社:
摂社
本社近く(二の鳥居の内側)

高宮社(たかみやしゃ)
祭神:日向御子神
三輪山上に鎮座する。

狭井神社(さいじんじゃ)
祭神:大神荒魂神
式内社「狭井坐大神荒魂神社五座」。
垂仁天皇の御代に創建されたと伝わり、祭神の荒魂(あらみたま)を祀る延喜式内社。病気平癒の神社。御神体である三輪山への登拝口が境内にある。但し、三輪山は御神体であり山そのものが神域であるため、軽率な気持ちで入山することは出来ない。(明治に渡るまで「神域」として一般の入山禁止であった。)登拝料を払い受付より渡されるたすきを首にかけるなどの厳守すべき規則があり、それを了承した上で登拝することが義務づけられている。なお、入山中は撮影・飲食は禁止である。

活日神社(いくひじんじゃ)
祭神:高橋活日命
崇神天皇の時代に大神神社の掌酒を務めた名人、髙橋活日命を祀る。記録に残る日本最初の杜氏であり、酒の神として知られる。

磐座神社(いわくらじんじゃ)
祭神:少彦名神
社殿がなく、神の鎮まる三輪山周辺に点在する頑固な岩(磐座)を神座(中心)として少彦名神(すくなひこなのかみ)をまつる。少彦名神は「神農さん」とも呼ばれる薬の神。

市杵島神社(いちきしまひめじんじゃ)
祭神:宗像大神の一柱、市杵島姫命を祀る。

末社

久延彦神社(くえひこじんじゃ)
祭神:久延毘古命。
合格祈願の神社。受験生や就活生の参拝が多く、たくさんのふくろうを模した絵馬が奉納される。

大行事社
祭神:事代主神、八尋鰐、加屋奈流美神

成願稲荷神社(じょうがんいなりじんじゃ)
a0057057_09173473.pnga0057057_09060633.png
祭神:保食神、宇迦御魂神(稲荷大神)、大宮売命。
鎌倉時代に創祀。元は尼寺、浄願寺の鎮守祠。

天皇社(てんのうしゃ)
a0057057_09333448.pnga0057057_09385142.png
祭神:御真木入日子印恵命
三輪山の麓に都をおいた第十代の崇神天皇を祀る。

神宝神社(かんだからじんじゃ)
a0057057_09551169.pnga0057057_09235782.png
祭神:家都御子神、熊野夫須美神、御子速玉神(熊野権現の三神)。
熊野三山の神々を祀る。神社名の通り、古くより宝・財物を守護する神として信仰されている。
毎年元旦未明の繞道祭十八社巡りにおいて三ツ鳥居から出た御神火が最初に捧げられる社。

祓戸神社(はらえどじんじゃ)
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祭神:祓戸四神

交通アクセス:
鉄道
JR西日本万葉まほろば線(桜井線) 三輪駅下車 (拝殿まで徒歩約10分) - 列車本数は年末年始を除いて1時間2本程度。

バス
a0057057_08585174.png(JR・近鉄)桜井駅北口バス乗り場から、奈良交通
二の鳥居前まで運行(土日祝の昼間時のみ・年末年始及び毎月1日を除く)

出典・参考:Wikipedia「大神神社」(最終更新 2018年7月4日)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E7%A5%9E%E7%A5%9E%E7%A4%BE
閲覧:2018.8.13

現地参拝:29.9.16
記事投稿:2018.8.13
  調整:2018.8.14

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by fbox12 | 2018-08-14 17:59 | 神社

第佰貮拾六 大神神社 愛知県一宮市鎮座

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おおみわじんじゃ

鎮座地:愛知県一宮市花池2-15-28
主祭神:大物主神
社格等:式内社(名神大)、(称)尾張國一宮、旧郷社
本殿様式:流造
別名:三明神、三宮明神

歴史:
概史創建は不詳。上記のように、大物主神を奉斎する大和の大神氏(三輪氏)一族が来住し祭祀を担ったと見る説と、大美和都禰命を奉斎する尾張氏関係氏族が祭祀を担ったと見る説がある。
延長5年(927年)成立の『延喜式』神名帳では尾張國仲嶋郡に「大神神社 名神大」と記載され、名神大社に列している。社名は、写本によっては「大神々社」「太神社」とも表記される。『妙興寺文書』「仲嶋長利寄進状」(観応元年(1350年))では、大神の地はと(石偏に弓)塚(現 一宮市大和町戸塚)の北東部になるとあり、この記載が名神大社比定の傍証になる。一方、他の名神大社と異なり『延喜式』臨時祭 名神祭条では当社の記載がないため、神名帳の「名神大」を衍字と見る説もあるが、肯定説では『貞観式』や臨時祭式の成立後に当社が名神大社の列に加わったためと推測する。また『和名抄』に見える郷名のうちで、当地を仲嶋郡美和郷にあてて「みわ(神/美和)」のつながりを見る説が古くからあるが、『新編 一宮市史』では拝師郷または川埼郷にあてる。
社伝によると、当地は熱田社(熱田神宮)の荘園(熱田庄)で、毎年旧暦7月7日には熱田社に素麺と蓮を奉納したといい、「花池」の地名はその名残とする。しかし『尾張國地名考』ではこの伝承は否定されており、真偽は不詳。また近世には、当社は「三明神」「三宮明神」と称されていたという。
明治5年(1872年)5月には近代社格制度において郷社に列した。現在では尾張國一宮を称し、全国一の宮会に加盟している(ただし一般的には尾張國一宮は真清田神社とされる)。これに関して大神神社側では、真清田神社・大神神社が対の宮であったとし、ともに一宮となったと主張している。現在神職は常駐しておらず、一宮市内の大神社の宮司が兼務する。

神階:従一位または正二位上 (『尾張國内神名帳』) - 表記は「大神名神」。位階は写本により異同がある。

摂末社:
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現在の摂末社は、次の6社。
 六所社、三島社、白山社、神明社、招魂社(写真)、素盞社

この神社最寄の駅・バス停:
名鉄名古屋本線・妙興寺駅

出典参考:Wikipedia「大神神社(一宮市)」(最終更新:2018年5月30日)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E7%A5%9E%E7%A5%9E%E7%A4%BE_(%E4%B8%80%E5%AE%AE%E5%B8%82)
閲覧:30.7.-8

現地参拝:29.8.25
記事投稿:30.7.-8
  調整:30.8.-9
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by fbox12 | 2018-08-09 22:11 | 神社

第佰貮拾八 二荒山神社 栃木県宇都宮市鎮座

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ふたあらやまじんじゃ

鎮座地:栃木県宇都宮市馬場通り一丁目1番1号
主祭神:豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)
相殿:大物主命、事代主命
社格等:式内社(名神大)論社、下野國一宮、旧國幣中社、神社本庁別表神社
本殿様式:神明造
神紋:三つ巴(菊に三つ巴)

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概要:
鳥居宇都宮市の中心部、明神山(臼ヶ峰、標高約135m)山頂に鎮座する。
東国を鎮めたとする豊城入彦命を祭神として古くより崇敬され、宇都宮は当社の門前町として発展してきた。また、社家から武家となった宇都宮氏が知られる。社殿は創建以来何度も火災に遭っており、現在の社殿は戊辰戦争による焼失後の明治10年(1877年)の再建。
二荒山神社が正式名称であるが、日光の二荒山神社(ふたらさんじんじゃ)との区別のために鎮座地名を冠して「宇都宮二荒山神社」と呼ばれる。古くは宇都宮大明神などとも呼ばれた。現在は通称として「二荒さん」とも呼ばれる。
文化財として、国認定の重要美術品である三十八間星兜、鉄製狛犬などを有している。

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主祭神、豊城入彦命 (とよきいりひこのみこと)は、第10代崇神天皇の第一皇子で、天皇の命で東国を鎮めたとされる。毛野國(のちの下野國・上野國)の開祖とされる。
主祭神については、時代によって彦狭嶋王、御諸別王(彦狭嶋王の子)、事代主命、健御名方命、日光三所神など諸説ある。江戸期には日光山大明神と称されたこともあり、天保14年(1843年)には大己貴命、事代主命、健御名方命が祭神であった。


歴史:
社伝では、仁徳天皇41年に毛野國が下野國と上野國に分けられた際、下野國國造に任じられた奈良別王(ならわけのきみ)が曽祖父・豊城入彦命をこの地域の氏神として祀ったのに始まると伝える。ただし、それ以前に豊城入彦命によって三輪山から勧請された大物主命が祀られていたとも伝えられている。地元では、当社に参拝すれば下野國にある全ての神社の御利益を受けられるとされ、人々の信仰を集めた。
当初の鎮座地は現在地から大通りを隔てた南側にある荒尾崎(現 摂社下之宮が鎮座)であったが、承和5年(838年)に現在地の臼ヶ峰(明神山)に遷座した。
「二荒山神社」を名乗る神社は関東地方を中心に数多くあるが、中でも当社と日光の二荒山神社の2社が古社として知られている。平安時代中期の『延喜式神名帳』には名神大社として「下野國河内郡 二荒山神社」の記載があるが、その帰属を巡って日光社との間で議論がある。その後神階は正一位まで進み、下野國一宮となったとされる(ただし日光社も一宮を称する)。
豊城入彦命は武徳にも優れ、藤原秀郷、源頼義、源義家、源頼朝、徳川家康など著名な武将らも戦勝祈願し、種々の寄進や社殿の改築をしたと伝えられている。平将門の乱にあっては、藤原秀郷がこの神社で授かった霊剣をもって将門を討ったと言われる。また『平家物語』によると、屋島の戦いにあって那須与一は平家船上の扇の的を射る際に「日光権現、宇都宮、那須の温泉大明」と祈ったという。
また、宇都宮氏の初代当主であり、宇都宮城を築いたとされる摂関家藤原北家道兼流藤原宗円が、当社の宮司を務めたという説もある。宇都宮氏は、藤原宗円が、この地の豪族で当時の当社の座主であった下毛野氏ないし中原氏と姻戚関係となり土着したのが始まりであり、当時の毛野川(当時の鬼怒川)流域一帯を支配し、平安時代末期から約500年間に亘り関東地方の治安維持に寄与した名家である。庶流に常陸國守護小田氏や武茂氏がおり、また毛野川東岸および小貝川流域一帯を支配した紀清両党とも姻戚関係にあった。
「宇都宮」という地名は当社に由来するものとされる。ただし、一宮(いちのみや)の訛りという説、遷座したことから「移しの宮」の転という説、「二荒山の神の現宮(うつつのみや)」という説、豊城入彦命が東国の総監として此処に住し国がよく治まったことから「宇津くしき宮」と呼ばれそれが「うつのみや」に転じたという説など諸説ある。
明応9年(1498年)に17代当主宇都宮成綱によって建て替えられる。
明治20年(1887年)3月17日の内務省訓令第15号「官國幣社保存金制度」により、以降15年間に亘り官國弊社保存金が配付された。
平成28年(2014年)に「火焰太鼓山車」を修復。平成28年(2016年)に、大正2年(1913年)まで菊水祭で使用されていた「桃太郎山車」が修復され復活した。桃太郎山車は長さ約3.7m、幅約2.7m、最大の高さ約5.65m。平成28(2016年)、戊辰戦争で新政府軍が下野の戦いで使った菊の紋章の旗2点が当社で見つかった。白生絹(しろすずし)御紋之旗は白い絹に墨で菊が描かれ、縦332.4cm、横58.9cmで書付には「宇都宮藩奉納」とある。菊御紋紅大四半は紅色の絹に菊が描かれ、縦164.8cm、横154.9cmで書付には「野津参謀奉納」とある。

摂末社:
摂社
境外摂社

下之宮
 鎮座地:宇都宮市馬場通り3-1(本社鳥居前の道路を渡ってすぐ)
 祭神:豊城入彦命(本社と同神)
周辺の旧地名を「荒尾崎」といい、本社の旧鎮座地と伝えられる。明治期までは小高い丘になっていたが終戦後、相生地区の大通り沿いに合同店舗「バンビル」が建設され、下之宮は地区南側の路地裏にひっそりと鎮座していた。現在の下之宮は、地区の再開発(相生ビル「宇都宮パルコ」建設)のため平成7年(1995年)に移転・創建されたもので、前の広場はイベントスペースなどに利用され市民の憩いの場となっている。

末社
神門内

a0057057_22150331.png女体宮
 祭神:三穂津姫命
a0057057_22172938.png須賀神社
 祭神:素戔嗚命
市神社
 祭神:大市姫

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十社宮
 祭神:下野國内の式内社の神


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初辰稲荷神社
 祭神:倉稲魂命

表参道左手

a0057057_22315719.png剣宮
 祭神:素戔嗚命
a0057057_22124086.png菅原神社
 祭神:菅原道真

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十二社
 祭神:国常立神ほか12柱


表参道右手

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松尾神社
 祭神:大山咋神・中津嶋姫命

a0057057_21551026.png荒神社
 祭神:素戔嗚命

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水神社
  祭神:罔象女神

裏参道

東照宮
 祭神:徳川家康公

この神社最寄の駅・バス停:
東武宇都宮駅(徒歩10分)・JR宇都宮駅(徒歩15分)
バス
a0057057_22282602.png関東バス、ジェイアールバス関東、東野交通の路線バス「馬場町・二荒山神社前」(写真)
または「二荒山前」バス停下車 (下車後徒歩すぐ)
出典・参考:Wikipedia「宇都宮二荒山神社」(最終更新:2018年1月25日)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%87%E9%83%BD%E5%AE%AE%E4%BA%8C%E8%8D%92%E5%B1%B1%E7%A5%9E%E7%A4%BE
閲覧:2018.7.27

現地参拝:29.9.-4
記事投稿:2018.7.27

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by fbox12 | 2018-08-02 22:36 | 神社

第佰弐拾伍 事任八幡宮 静岡県掛川市鎮座

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ことのままはちまんぐう

鎮座地:静岡県掛川市八坂642
祭神:
主祭神 己等乃麻知媛命(ことのまちひめのみこと)
配神:
息長帯姫命 (おきながたらしひめのみこと、神功皇后)
誉田別命 (ほんだわけのみこと、応神天皇)
玉依比売命 (たまよりひめのみこと)
社格等:式内社(小)、遠江國一宮、旧県社

概要:
旧東海道沿いの、日坂宿(にっさかしゅく)および小夜の中山の西の入口、宮村にある。
当社と諏訪大社、特に下社春宮(長野県諏訪郡下諏訪町)、および修験道場として名高い戸隠山(長野県長野市)は、ほぼ南北一直線上にある。近隣を通る国道1号日坂バイパスの「ことのままトンネル」は事任八幡宮から命名された。

歴史:
創建時期は定かではないが、社伝では成務天皇の治世としている。
古くは真知乃神(まちのかみ)、任事神社(ままのことじんじゃ)などと呼ばれ、『延喜式神名帳』には「己等乃麻知神社」と記載されている。
大同2年(807年)、坂上田村麻呂が東征の折、桓武天皇の勅命によって、それまで鎮座していたすぐ北側の本宮山から現在地へ遷座させたと伝えられる。
平安時代後期に八幡信仰が広まると、康平5年(1062年)、源頼義が石清水八幡宮から八幡神を勧請し、日坂八幡宮(にっさかはちまんぐう)や八幡神社(はちまんじんじゃ)とも称されるようになった。
東海道沿いにあって、難所であった小夜の中山の西側の麓にあたることや、「ことのまま」の名が「願い事が意のままに叶う」の意味を持つことから、多くの人が旅の安全や願い事成就を祈るため立ち寄り、また江戸幕府も朱印高百石余りを献上するなど崇敬を集めた。
また古くから多くの書物がこの社のことを記しており、平安時代には清少納言の「枕草子」や多くの和歌、鎌倉時代には吾妻鏡、江戸時代には十返舎一九の「東海道中膝栗毛」などに「願い事が叶う神社」として登場している。
明治以降は県社に列し、単に八幡神社と称した。第二次大戦後に「ことのまま」の名を復活させ、事任八幡宮とした。

摂末社:
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五社神社(写真左)
 五柱の神を祀る
 祭神:天照大神、八意思兼神、大國主命、火乃迦具土神、東照大権現
金比羅神社(写真右)
 祭神:大物主神

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稲荷神社

「いとたのもし」の解釈に関する批判:
昭和22年(1947年)に、GHQの政教分離政策に伴い「社格」の制度が撤廃された際、由緒ある古来の社号「ことのままの社」に基づき、「事任八幡宮」を復活させたのが、現社名の始まりである。
前述のとおり、事任八幡宮は「願いが『言のまま』に叶う」神社として古くから信仰されてきたという歴史がある。
人々が、いつの時代からこのような考え方を持つように至ったのかは定かではないが、これは、この神社が「ことのまま」という名称を冠していることに由来している。
清少納言の書いた『枕草子』には「ことのままの明神、いとたのもし」とある。この文句が、さまざまな文献の紹介分などに引用され、また、例大祭のポスターのデザインに使用されたこともあり、現代では人々のよく知るところにある。
確かにこれだけを見ると、清少納言が事任八幡宮の力を評価し、感嘆している様に見え、「願いが言のままに叶う」を根拠づけていると言える。
しかし、この文言の後を現代語訳すると次のようである。

≪原文≫布留(ふる)の社。龍田(たつた)の社。花ふちの社。みくりの社。杉の御社、しるしあらんとをかし、ことのままの明神、いとたのもし。さのみ聞きけんとや言われたまはんと思ふぞ、いとをかしき。

この時、“さのみ”以下を現代語訳すると「それほどお聞きになっていると言われていると思うと、大変興味深いことだ」となる。
しかし、この時の“思ふぞ”の「ぞ」は、係助詞となっている。
この「ぞ」は「いとをかし」の部分にかかって強調の役目を果たすが、清少納言は、願いがかなうと「言われている」のではなく、あえて「言われていると思う」ことを強調している。
事任八幡宮の主祭神である己等乃麻知比売命(ことのまちひめのみこと)は、言の葉を通して世の人々に加護を賜う「ことよさし」の神として敬われている。
「ことよさし」という言葉は「ことよす」という語にさらに敬意を含めたもので、「高い神が御言葉を以て、また事になぞられて顕世に御力をする、真を伝えられる」の意味で、記紀にしばしば用いられている。
すなわち、実際は天の声を己等乃麻知比売命が人々に伝えるというのが正確であり、人々の知るところとは逆である。
つまるところ、清少納言は己等乃麻知比売命が人々の願いを天に伝えるという誤った解釈が世間に広まったことを、皮肉を込めて書き綴ったものが『枕草子』であるという主張が、今日でも「願いが言のままに叶う」として参拝する客が多い中で存在している。

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大笛:
中遠竹友会が事任八幡宮に奉納したもの。
(後方の御簾は1間物よりやや大きい)。

この神社最寄りの駅・バス停:
a0057057_17450877.pngJR東海掛川駅北口から掛川バスサービス東山線で約20分、
八幡宮前」下車。

出典・参考:Wikipedia「事任八幡宮」(最終更新:2018年3月16日)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8B%E4%BB%BB%E5%85%AB%E5%B9%A1%E5%AE%AE
閲覧:30.6.23

現地参拝:29.8.25
記事投稿:30.6.23

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by fbox12 | 2018-06-23 17:50 | 神社