fbox12 blog (博物館fbox12 館長の雑記帳)

カテゴリ:近代化産業遺産( 23 )

機1 ゐのくち式渦巻きポンプ

a0057057_21345953.png機械遺産

指定:第9号
所在:博物館明治村
 愛知県犬山市内山1

概要:
このポンプは東京帝国大学教授の井口在屋(いのくちありや)が発明し、教え子の畠山一清が実用化の研究を進め、畠山が所属する国友機械製作所が製造したものである。井口のポンプは当時世界でも注目を集める画期的な発明であった。国友機械製作所が経営に行き詰まると畠山は自宅を事務所とし、「ゐのくち式機械事務所」を起こし、引き続きポンプを実用化し製造にあたった。この「ゐのくち式渦巻きポンプ」は揚水用ポンプとして、千葉県桁沼揚水機場で1965(昭和40)年代まで用いられてきたのである。井口の理論を応用した渦巻きポンプは現在も製作されている。

日本機械学会機械遺産HP
 https://www.jsme.or.jp/kikaiisan/data/no_009.html(閲覧:2019.1.17)から引用

写真:博物館明治村 2018.2.-6
by fbox12 | 2019-01-17 21:36 | 近代化産業遺産

近7 肥薩線大畑駅 / 近14 大畑駅周辺のループ・スイッチバック線

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指定:近代化産業遺産 2007年(平成19年)11月30日 近代化産業遺産群
32.九州南部における産業創出とこれを支えた電源開発・物資輸送の歩みを物語る近代化産業遺産群
整理番号:近7 物資輸送関連遺産・肥薩線(大畑駅)
大畑駅周辺の鉄道施設遺産群、大畑駅石造りの給水塔・朝顔型噴水

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指定:近代化産業遺産 2009年(平成21年)2月6日 近代化産業遺産群続33
8.山岳・海峡を克服し全国鉄道網形成に貢献したトンネル建設等の歩みを物語る近代化産業遺産群
整理番号:近14 JR肥薩線の関連遺産
大畑駅周辺のループ・スイッチバック線
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記事投稿:2018.11.-3
  調整:2019.1.15 / 16

by fbox12 | 2019-01-15 22:07 | 近代化産業遺産

鉄103 C621号機関車

a0057057_21434824.jpg準鉄道記念物

整理番号:鉄103
所在:京都鉄道博物館
 京都市下京区観喜寺町
指定:準鉄道記念物 1976年(昭和51年)

基本情報:運用者 運輸省→日本国有鉄道
製造所 日立製作所笠戸工場
製造番号 1921
製造年 1948年(昭和23年)1月17日
運用開始 1948年(昭和23年)1月23日
引退 1967年(昭和42年)7月14日
ボイラー D5274
形式全製造数 49両

概要:
1948年(昭和23年)1月17日に日立製作所笠戸工場で落成。同年1月23日付で広島第二機関区に新製配置された後、1950年(昭和25年)8月23日に宮原機関区に転属し、東海道本線で特急「つばめ」・「はと」などを牽引した。
1957年(昭和32年)7月10日に再び広島第二機関区に転属されると、特急「かもめ」や寝台特急「あさかぜ」・「さくら」などを中心に牽引し下関電化後も岩徳線直通など山陽本線列車の一部に充当されたが、1966年(昭和41年)9月30日に急行「音戸」を牽引して広島 - 下関間を往復したのが最後の運用となり、同年10月1日付で第一種休車となった。
1967年(昭和42年)4月1日に広島機関区へ移り、同年6月1日に第二種休車を経て、同年7月14日付で除籍となった(中国支達1460号)。
除籍後は解体が予定されたが国鉄本社からその処分を保留する指示が出され、保存を見越して広島機関区、次いで小郡機関区において長らく保管され続け、1976年(昭和51年)3月に広島鉄道学園(国鉄職員の研修施設)敷地内で静態保存されるとともに、同年3月31日付で準鉄道記念物に指定された。
しかし、国鉄改革の際に同学園が閉鎖され、しばらく同敷地内に放置されていたが、1994年(平成6年)に梅小路蒸気機関車館に移されており、標準では引掛け式となる標識灯を端梁に埋め込むなど、山陽本線で運用されていた本形式独特の改造を施された姿を今に伝えている。
2013年(平成25年)7月20日にはイベント「銀河鉄道999とC62形蒸気機関車」にて、漫画「銀河鉄道999」の999号と同形式であるC62 1のデフレクタに「999」のエンブレムとヘッドマークの取り付け、同年9月1日まで蒸気機関車館扇形車庫11番線に展示された。
梅小路蒸気機関車館を拡張・改称した京都鉄道博物館で引き続き保存展示されている。

出典・参考:Wikipedia「C62形蒸気機関車#62 1」(最終更新 2019年1月1日)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E9%89%84C62%E5%BD%A2%E8%92%B8%E6%B0%97%E6%A9%9F%E9%96%A2%E8%BB%8A(閲覧:2019.1.12)

写真:旧 梅小路蒸気機関車館

by fbox12 | 2019-01-12 14:54 | 近代化産業遺産

近13 清水隧道

a0057057_22185848.png指定:近代化産業遺産 2009年(平成21年)2月6日

近代化産業遺産群・続33

8.山岳・海峡を克服し全国鉄道網形成に貢献したトンネル建設等の歩みを物語る近代化産業遺産群

整理番号:近13 戦前の主要鉄道トンネル(清水隧道)

基本情報:
路線上越線
位置群馬県・新潟県
現況供用中
起点新潟県南魚沼郡湯沢町
終点群馬県利根郡みなかみ町
運用
建設開始1922年(大正11年)
開通1931年(昭和6年)9月1日
所有東日本旅客鉄道株式会社(JR東日本)
通行対象鉄道車両

技術情報
全長9,702m(上り線専用)
軌道数1(単線)
軌間1,067mm
電化の有無有 (直流1500V)
高さ6,012mm (施工基面上)
幅4,877mm
勾配2.5‰

概要:
トンネル開通前清水トンネルができる前の関東地区と新潟を結ぶ鉄道は、高崎から碓氷峠を越えて長野・直江津経由となっていた。よってこれが新潟県(越後)へ行くメインルートで、信越本線と呼ばれていた。途中に難所の碓氷峠もあり、関東と新潟の往来は非常に不便であった。1914年(大正3年)には磐越西線が全通し、東北本線と同線を使用して向かうこともできるようになったが、いずれにしろ遠回りであることに変わりはなかった。

トンネル工事
群馬県の水上から新潟県の越後中里まで、その間にそびえる谷川岳の中腹を貫いて、7つの単線トンネルが掘削された。谷川岳の山体は「閃緑岩」と呼ばれる硬い岩ではあったが、総体としての工事自体は丹那トンネルのような悪戦苦闘の難工事ではなかった。群馬側・新潟側の両方にループ線を設置して高度を稼ぎ、土合駅と土樽駅間の本トンネル(清水トンネル)の長さをできるだけ短縮した。

開通後の状況
新潟と上野の間が路線距離にして98km短縮されたうえ、碓氷峠の難所を通らずに済む効果で、到着時間の短縮幅は約4時間に達した。その結果、新潟地区と首都圏の交通事情が飛躍的に改善された。
なお、上越線の清水トンネルを挟む水上駅 - 石打駅間は1931年(昭和6年)の開業当時から直流電化され、電気機関車が使用されていた。これは、蒸気機関車を使用して長大な清水トンネルを越えることは、機関士・機関助士が煤煙によって窒息する事故を起こす危険性があるために不可能だったからである。なお気動車による列車に関しては、上越線の全線電化が早かったこともあって数は少なかったが、戦後になって非電化の羽越本線・只見線に直通する列車(特急「いなほ」、急行「鳥海」「奥只見」)を中心にいくつか生まれている。
またこの県境の長大なトンネルは、さまざまな点から注目を集めた。開通後、川端康成が越後湯沢(湯沢町)を訪れるようになり、その経験を元に1935年(昭和10年)から執筆されたのが有名な『雪国』である。小説冒頭の「国境の長いトンネル」が、完成したばかりの清水トンネルであったとされる。
一方戦前の国定教科書である第4期『小學國語讀本』(通称:サクラ読本。全12巻、1933年(昭和8年)から使用開始)の第8巻末には「淸水トンネル」として、3月に関東平野を走る汽車が清水トンネルを抜けて越後へ向かう様子が描かれている。作家の宮脇俊三はこの国定教科書で国語を習ったため、1937年(昭和12年)に小学4年の3学期の授業で「淸水トンネル」を見て同トンネルの虜になったという。当人は、同年夏に母と嫁ぎ先が新潟に転勤となった姉の元へ行くため、急行列車で清水トンネルを通ったときの様子を『時刻表昭和史』でつづっている。群馬の郷土カルタ「上毛かるた」に「ループで名高い清水トンネル」と詠まれたのもこうした知名度を反映しているといえよう。
また、トンネルの上にそびえる谷川岳は、この線の開通により首都圏から手軽に行ける本格的山岳として大人気となったが、冬の雪の多さと岩壁の厳しさは多くの遭難者を出し、「魔の山」と呼ばれるようになった。
開通当時は日本最長の鉄道トンネルで、1962年(昭和37年)6月10日に北陸トンネルが開通するまで30年以上その地位を保った。
2009年(平成21年)2月6日に、経済産業省より「近代化産業遺産群 続33(鉄道トンネル)」の一つとして笹子トンネルや柳ヶ瀬トンネルなどとともに近代化産業遺産に認定されている。
以上、出典・参考資料:Wikipedia「清水トンネル」(最終更新 2018年10月28日)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%85%E6%B0%B4%E3%83%88%E3%83%B3%E3%83%8D%E3%83%AB(閲覧:2019.1-9)

写真:上越線土樽駅のプレート 2016.8.27
初稿:2019.1.-9

by fbox12 | 2019-01-09 17:28 | 近代化産業遺産

鉄102 EF55 1号機関車

a0057057_22212654.png準鉄道記念物

整理番号:鉄102
所在:鉄道博物館
 埼玉県さいたま市大宮区大成町三丁目47番
指定:準鉄道記念物 1973年(昭和58年)

基本情報:
運用者 鐵道省→日本国有鉄道→東日本旅客鉄道
製造所 日立製作所
製造番号
製造年 1936年(昭和11年)
製造数 3両
運用開始
引退 2009年(平成21年)

概要:
日本国有鉄道(国鉄)の前身である鐵道省が製造した直流用電気機関車で、1936年(昭和11年)に日立製作所、日本車輌製造・東洋電機、川崎車輛で1両ずつ、計3両が製造された。
当時は日本国外の新鋭車両に影響され、国鉄・私鉄を問わず流線形(ストリームライナー)ブームの只中で、蒸気機関車のC53形の1両(43号機)が試験的に流線形に改造されたのを皮切りに、C55形の20 - 40号機が流線形で製造され、電車ではモハ52系、気動車ではキハ43000形が次々と登場している時代であり、本形式もそのような流れの中で製造されたものである。
流線美を追求するため、車体の組み立てからリベットやボルトを排し、新技術の電気溶接を全面的に導入し、前位側連結器は格納式とされた。当初はペンシルバニア鉄道GG1形を元に、さらに流線の度合いを強めたようなデザインとして計画されていたが、連結面に大きく空間ができてしまうため、現行のデザインとなった。
基本的にはEF53形のメカニズムを踏襲しているが、歯車比はEF53形の2.63に対して2.43とより高速側に振られている。車体は、片側(第1エンド)のみが流線形とされ、反対側(第2エンド)は切妻で、運転台設備は当初構内運転用程度のものしか設置されておらず、前照灯も取り付けられていなかった。このように、常に第1エンド側を先頭にして運転されることから、前部の台車は先輪2軸を有する旅客列車用電気機関車の標準形であるが、第2エンド側は、先輪(従輪と言うべきか)1軸の貨物機用のものを採用しており、前後非対称の特異な軸配置となっている。
製造当初は沼津機関区に配置され、東海道本線の特急用として「つばめ」「富士」の牽引を中心に、運用の都合それ以外の旅客列車や小荷物列車の牽引にも使用された。しかし、最高速度95km/h程度では流線形による空気抵抗低減の効果が出ないことや、終端駅では電気機関車であるにもかかわらず転車台により方向転換をしなければならないこと、スカートを装着したことで保守に手間がかかることなどにより、わずか3両で製造を打ち切られた。もっとも、これらの不合理は製造前から既に明らかなことであり、一連の流線化は、国鉄技術陣の威信の顕示や、現場の士気発揚、あるいは宣伝などが主目的であった。ただし、空気抵抗に関しては、新製後の1936年(昭和11年)5月に行われた試験により、流線形側を先頭に走行した方が、切妻形側を先頭に走行するより9%空気抵抗が減じたという結果が出ている。流線形にまったく意味がなかったわけではない。
その後、1938年(昭和13年)頃に格納式だった前位側連結器の固定化、後位側運転台を本線運転用に整備するなどの小規模な改造を経て戦後まで東海道本線で使用された。戦後には連合軍専用列車や特急復活試運転列車の牽引にも使用されたが、東海道本線の列車単位が増大したことから1952年(昭和27年)に3両とも高崎第二機関区に転属し、高崎線でEF53形とともに使用されることとなり、第二次世界大戦中に撤去を免れた台車周りのスカートや連結器カバーはこの時期に撤去されただけでなく、後位側を先頭にして短距離の普通列車や貨物列車を運転する例もみられた。碓氷峠(信越本線横川 - 軽井沢間)の空転試験列車やED71形の性能試験時に本機が死重として連結されたこともある。
しかし、保守の不便や方向転換の問題といった問題は残されたことから次第に本形式の運用も減らされ休車となることも多くなり、1960年代に入り次々と廃車されることとなった。1962年(昭和37年)に鉄道開業90年記念として開催された「伸びゆく鉄道科学大博覧会」に際しては本機が会場となった東京国際見本市会場へ運ばれマイテ39 11を連結した状態で展示されたが、同年に3号機は試作交直流両用電気機関車のED30形 (ED30 1) に機器を流用され解体、本機と2号機も1964年(昭和39年)に廃車され、2号機は解体、本機は中央鉄道学園の教習用となった。その後、本機は1978年(昭和53年)に準鉄道記念物に指定され、既に撤去されていたスカートや連結器カバーが復元され、長らく中央鉄道学園に静態保存されていたが、後に高崎第二機関区に移され、転車台脇に留置された。長年の屋外留置で外板の塗装も艶がなくなり退色の進んだ状態であったが、1985年(昭和60年)に実施された機関車展示会において、同機関区有志の手により、構内運転が可能な状態にまで整備された。この機関車展示会におけるレールファン人気を見た国鉄本社は、リバイバルトレインでの運用を前提として1986年(昭和61年)に大宮工場で動態復元、6月24日に車籍を復活させた。従来ならばまず考えられないことであった。翌1987年(昭和62年)4月1日の国鉄分割民営化後は東日本旅客鉄道(JR東日本)に引き継がれ、高崎運転所に配置された。
その後は、イベントに欠かせない機関車となり、上越線高崎 - 水上間の「EL&SL奥利根号やEF55奥利根号」を中心に、各地で同機を使用した臨時列車が運行された。その際はEF64形 (1001) を補機として連結することが多かった。ATS-Pも搭載されている。
2006年(平成18年)には、3月25日から4月3日まで千代田区神田須田町にあった交通博物館閉館記念イベントで神田川沿いの旧萬丗𣘺駅跡に特別展示された。また、12月2日には「EF55形誕生70周年記念号」が上野 - 高崎間で運転された。2007年は「お座敷ゆとり水上号」の高崎 - 水上間を牽引予定だったが、電動空気圧縮機 (CP) の故障によりEF60 19に変更となった。
その後は目立った運用がなかったが、故障箇所の修理と復元工事が実施され、臨時快速列車で同機のさよなら運転が実施された。2009年(平成21年)1月18日のさよなら運転を最後に運用を終了し、高崎車両センターで車籍を残したまま静態保存されていたが、2015年(平成27年)4月12日からさいたま市の鉄道博物館で保存展示されている。この保存を以ってEF55 1は同日付で除籍され、廃形式となった。
先述のとおり2、3号機は解体されているため、現存するEF55形はこの1号機が唯一である。
愛称は「ムーミン」であるが、これは1986年(昭和61年)に復帰した頃に、トーベ・ヤンソン原作のアニメや絵本のキャラクター「ムーミン(ムーミン・トロール)」に外観が似ていることに由来して呼ばれるようになったものである。流線形蒸気機関車に比べ、精悍な風貌とは言いがたいことから、現役時代は「ドタ靴」(チャップリンが一連の喜劇映画で用いていた大振りの靴)・「靴のお化け」あるいは「カバ」と呼ばれていた。
ユニークな愛称で親しまれる一方、戦時中に機銃掃射を受けた経歴があり、運転台の真上部分にその弾痕を今も残す、「太平洋戦争の生き証人」でもある。

出典・参考:Wikipedia「EF55形電気機関車」(最終更新 2018年10月30日)に一部加筆(閲覧:2018.1.-8)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E9%89%84EF55%E5%BD%A2%E9%9B%BB%E6%B0%97%E6%A9%9F%E9%96%A2%E8%BB%8A

写真:EF55 1 2017.10.17 鉄道博物館初稿:2018.1.-8

by fbox12 | 2019-01-08 23:09 | 近代化産業遺産

近12 肥薩線嘉例川駅

a0057057_21372016.png指定:
近代化産業遺産 2007年(平成19年)11月30日

近代化産業遺産群32.
九州南部における産業創出とこれを支えた電源開発・物資輸送の歩みを物語る近代化産業遺産群

整理番号:近12 物資輸送関連遺産・肥薩線(嘉例川駅)




by fbox12 | 2019-01-06 21:40 | 近代化産業遺産

鉄101 熱海鉄道7号機関車

a0057057_22051929.jpg準鉄道記念物

整理番号:鉄101
所在:JR熱海駅前
 静岡県熱海市田原本町6-7
指定:
準鉄道記念物 1976年(昭和51年)JR東日本横浜支社第1号

概要:
国鉄(鐡道省)熱海線(現 東海道本線)開業前の 1907年(明治40年)から 1923年(大正12年)まで、熱海-小田原間 25km を2時間40分で走っていた軽便鉄道の機関車。関東大震災によってこの路線は廃止されたが、各地の鉄道建設工事で活躍し神戸市の国鉄鷹取工場内で標本車として展示されていたものを熱海市が払い下げを受け修復。交通記念物として展示されている。その低重心な形状から「へっつい機関車」とも呼ばれた。1907年(明治40年)、池貝鉄工所製。1976年(昭和51年)にJR東日本より準鉄道記念物に指定されている。
以前は、熱海駅前の現 足湯付近に置かれていたが、場所が80m程移動した。

写真:2018.10.10
初稿:2019.1.ー3


by fbox12 | 2019-01-04 21:06 | 近代化産業遺産

近11 肥薩線大隅横川駅

a0057057_22161021.png
指定:
登録有形文化財 2006年(平成18年)年10月

近代化産業遺産 2007年(平成19年)11月30日
近代化産業遺産群32.
九州南部における産業創出とこれを支えた電源開発・物資輸送の歩みを物語る近代化産業遺産群

整理番号:近11 物資輸送関連遺産・肥薩線(大隅横川駅)


by fbox12 | 2018-12-29 22:22 | 近代化産業遺産

鉄4 ナデ6141号電動車

a0057057_21161681.png鉄道記念物

整理番号:鉄4
所在:鉄道博物館
 埼玉県さいたま市大宮区大成町三丁目47番

指定:重要文化財 2017年(平成29年)9月
   鉄道記念物 1972年(昭和47年)10月14日 指定第35号
基本情報:運用者 鐵道院→鐵道省
製造所 鐵道院新𣘺工場
製造番号
製造年 1913年(大正2年)~ 1914年(大正3年)
製造数 12両
運用開始
引退

特徴:
製造時にナデ6110形(6133 - 6144)と称したが、1914年(大正3年)8月29日付けでデハ6285形(6285 - 6296)に改称されている。
木製の両運転台式の制御電動車で、デハ6280形の増備として製造された。
車体は16m級の木製車体で、出入り台は両端部に設けられているが、幅が狭められ910mmとされ、従来のような折戸ではなく開き戸とされた。
また、デハ6280形と同様、車体中央部にも引戸式の客用扉が設置され、客室と直結されていたが、中央扉に圧搾空気で自動的に上下する踏段(ステップ)が設けられている。
運転台と出入り台は本形式から一応仕切りが設けられ、前面は左右に軽い後退角がついた三面折妻となり、前面中央部に貫通扉が設けられている。側面窓は下降式の一段窓となっており、窓配置は1D222D222D1。屋根は、出入り大部分を含めてモニター屋根とされ、製造当初から水雷形通風器が片側4個設けられた。車体幅は、車両限界の小さい中央線でも共通に使用できるよう、2500mm幅とされた。
台車は1913年(大正2年)度製の6両(6133 - 6138)は試験的に輸入した3種の台車(ブリル27GE-1、同27E、ボールドウィン84-35-A)が2両ずつ装備された。1914年(大正3年)製の6138 - 6144は釣合梁式の明治43年電車標準形であった。
制御装置は総括制御可能な間接式で、電動機は、6137, 6138はゼネラル・エレクトリック製のもの(70PS)、である。集電装置は、トロリーポールがモニター屋根の前後に2本ずつ装備されている。

新宿電車庫火災による廃車:
1916年(大正5年)11月24日、新宿電車庫が火災により焼失し、同庫に配属されていた電車20両が焼失した。本形式では、4両(6286, 6287, 6291, 6292)が被災し、同年11月23日付けで廃車されている。当時、電装品は輸入に頼らざるを得ず、貴重品であったことから、焼け残った電装品はデハ6380形新製の際に再用されている。

標準化改造:
標準化改造については、1920年(大正9年)8月から翌年3月にかけて、火災で廃車となった4両を除く8両に対して実施された。この際、前後の客用扉(開き戸)が引戸に改められ、中央扉の自動踏み段も撤去された。妻の三面折妻形状については、後退角がごくわずかであることもあって、折妻のまま存置された。

使用停止・譲渡:
本形式は8両が中央線・山手線で使用されたが、両線の昇圧に伴い1925年(大正14年)に使用停止され、7両を目黒蒲田電鉄に譲渡(うち3両は目蒲で使用せず、阪神急行電鉄に再譲渡)、1両(6296)は電装解除され、サハ6410形(26414)に編入された。
そのうちの6293 は、目黒蒲田電鐵デハ41 → 芝浦製作所専用線モハ41 → 鶴見臨港鐵道モハ202 → モハ142 → 鐵道省モハ142 → 日立電鐵モハ101(1948年) → モワ101 となったが、1972年(昭和47年)3月、廃車となった。
その後、当時の日本国有鉄道に引き取られ、日本の鉄道100年の記念事業として大井工場においてナデ6141に復元された。同車は、同年10月14日、鉄道記念物に指定されている。1987年(昭和62年)には東日本旅客鉄道に引き継がれ、同年8月には動態復元され、引き続き大井工場(東京総合車両センター)に保管されていたが、2007年(平成19年)10月、さいたま市大宮区に開館した鉄道博物館に移され、保存展示されている。その後、2017年(平成29年)9月に国の重要文化財に指定された。

出典・参考:Wikipedia「国鉄デハ6285形電車」(2018.12.28閲覧)に加筆
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E9%89%84%E3%83%87%E3%83%8F6285%E5%BD%A2%E9%9B%BB%E8%BB%8A

写真:ナデ6141号電動車 2017.10.17 鉄道博物館

初稿:2018.12.28

by fbox12 | 2018-12-29 22:01 | 近代化産業遺産

近10 肥薩線人吉機関庫

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指定:近代化産業遺産 2007年(平成19年)11月30日
近代化産業遺産群32. 九州南部における産業創出とこれを支えた電源開発・物資輸送の歩みを物語る近代化産業遺産群

整理番号:近10 物資輸送関連遺産・肥薩線(人吉機関庫)

日本国内で現役唯一の石造車庫(旧 人吉機関区、後の人吉鉄道事業部・・2005年(平成17年)3月に熊本鉄道事業部へ統合)
by fbox12 | 2018-12-28 17:09 | 近代化産業遺産