fbox12 blog (博物館fbox12 館長の雑記帳)

カテゴリ:近代化産業遺産( 11 )

近8 肥薩線矢岳駅

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指定:近代化産業遺産 2007年(平成19年)11月30日
近代化産業遺産群32.九州南部における産業創出とこれを支えた電源開発・物資輸送の歩みを物語る近代化産業遺産群

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整理番号:近8 物資輸送関連遺産・肥薩線(矢岳駅)
矢岳駅「SL展示館」保存蒸気機関車D51170号

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by fbox12 | 2018-11-16 21:40 | 近代化産業遺産

鉄7 5号御料車

鉄道記念物

a0057057_21091557.png整理番号:鉄7
所在:博物館明治村
 愛知県犬山市字内山1
指定:鉄道記念物 1959年(昭和34年)指定第7号

基本情報:運用者 鐵道作業局 → 国鉄
製造所:鐵道作業局新𣘺工場

5号御料車は、明治天皇の皇后(昭憲皇太后)の御乗用として1902年(明治35年)3月、鐵道作業局新𣘺工場で製造された。
計画自体は、3号御料車(初代)と同時に行われたものであるが、着工が3号御料車の完成後となったため、完成が遅れたものである。
二重屋根の木造車で、全長は16.129m、最大幅は2.654m、高さは3.337m、自重は19.13t(改造後は21.94t)で、3号御料車、4号御料車と同じである。
1912年(明治45年)の形式図によれば、本車は軸距4ft9inの3軸ボギー台車を装着しているが、大正時代に出入り台を開放式から密閉式に改造した際に、現在装着している2軸ボギー台車(明治45年度基本型)に交換したものと思われる。
騒音防止のため本車にはブレーキ装置は装備されていないが、3軸ボギー時代の形式図には「真空ブレーキ」と記されている。
車内は、前位から大膳室(調理室)、女官室、御座所、寝室、厠、供奉員室に分かれ、女官室の両側に皇后が乗降するための扉がある。御座所は車体の中央部に配置され、内装は欅材で、天井は桐柾板で構成されている。
中央部には、玉座用として桑材彫刻の大型ソファが置かれている。
外板は、製造当初は深紅色のペンキ塗りであったが、1915年(大正4年) - 1916年(大正5年)頃に同色の漆塗りに改められている。
1916年に8号御料車が完成すると休車となり、大井工場の御料車庫に保管されていたが、1959年(昭和34年)10月には、鉄道記念物(第7号)に指定された。
1966年(昭和41年)に国鉄大井工場で外装のみ再塗装し(塗料は、漆ではなくカシウが使われた)、6号御料車とともに愛知県犬山市に開設された博物館明治村に移され、同年7月から同村内に移築された「鉄道局新橋工場」内で一般公開されている。

ここまで、出典・参考:Wikipedia「皇室用客車#5号御料車}
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9A%87%E5%AE%A4%E7%94%A8%E5%AE%A2%E8%BB%8A#5%E5%8F%B7%E5%BE%A1%E6%96%99%E8%BB%8A
閲覧:2018.11.8

明治村展示、御料車の矛盾
明治村の展示は、「復元」(現在の材料などで当時の姿を再現する。すなわち、建築物ならば「新築」)ではなくて、「復原」(修理・修繕を施し、改造されていれば改造前の姿に戻して、当時の姿を再現する)がコンセプトである。
建物などではかなり忠実にそのことを貫いているいるように思えるが、6号御料車とこの御料車についていえば、あえて「復原」された、とは言い難いのである。
というのも、車端に付いている連結器は「自動連結器」という名のものである。
この連結器はそれまでの「ネジ式の緩衝連結器」(明治村「蒸気機関車12号」や客車に付いている連結器)に代わり 1925年(昭和10年)、全国一斉に交換されたもので、現在でも貨車など一部で使用されているが、明治・大正の頃にはアメリカ製の車両など位置を除いて存在しない。
加えて、連結器横のブレーキホースも現代のものである。
なぜ明治の車輛に現代のものが付いているのかと言えば、実はこの2輌の車両、1966年(昭和41年)に東京の国鉄大井工場で外装の再整備が行われ、工場に近い山手線の大崎駅から臨時列車として明治村へ送られた経緯がある。
すなわち、自動連結器とブレーキホースなどはその移送の際に機関車にけん引されるため取り付けられたもの(どちらの車輛も大正時代に休車となり、大井工場内の御料車庫に保管されていて、この移送のとき以外、自動連結器などを装着した状態で線路上を走行したことはない)で、外装も明治の頃の漆塗りから*カシュウ塗りにより修復されに明治の頃の姿ではないのである。
(もともと、6号御料車は落成が 1910年(明治43年)10月29日で、明治の時代は2年程度しか在籍していない)。

ただ、明治村側の擁護をすれば、この展示物をはじめとする展示物の多くは、あえて明治村側が要望したものではなく、特に国鉄から来た展示物は当時、東京オリンピック(1964年(昭和39年))を控え新幹線などのため多額の借金をして、その財政がひっ迫し始めた国鉄がある意味持て余していたものをトップダウンによって、半ば押し付け気味に明治村へ持って来られた。
時の総理大臣は運輸官僚(元は国鉄職員)出身の佐藤栄作であり、国鉄側の車輛事情としては、このときすでに昭和天皇ご乗車用として1号御料車(3代目)編成が落成(1960年(昭和35年))運行を開始しており、正直、これ以前の歴史的車輛は廃車にするにはしのびないが、自社にて保存をする余裕がなかったのである。

*カシュウ塗り・・カシュウナッツの殻から絞り出した油を塗料とした塗装。一見して漆塗りと見分けがつかない。

引用:2018.2 筆者某大学でのレポート(一部改訂)


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by fbox12 | 2018-11-08 21:51 | 近代化産業遺産

近7 肥薩線大畑駅

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指定:近代化産業遺産 2007年(平成19年)11月30日 近代化産業遺産群
32.九州南部における産業創出とこれを支えた電源開発・物資輸送の歩みを物語る近代化産業遺産群
整理番号:近7 物資輸送関連遺産・肥薩線(大畑駅)
大畑駅周辺の鉄道施設遺産群、大畑駅石造りの給水塔・朝顔型噴水

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記事投稿:2018.11.-3
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by fbox12 | 2018-11-03 22:46 | 近代化産業遺産

近6 旧津山機関区の関連遺産(扇形機関庫、転車台)

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指定:近代化産業遺産 2009年(平成21年)2月6日 近代化産業遺産群・続33
10.全国に遍く人と物を運び産業近代化に貢献した鉄道施設の歩みを物語る近代化産業遺産群
整理番号:近6 旧津山機関区の関連遺産(扇形機関庫、転車台


指定:鉄道記念物 2018年(平成30年)10月14日(JR西日本指定 準鉄道記念物からの昇格)
整理番号:鉄7 旧津山扇形機関車庫と転車台

概要:
扇形機関車庫
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津山駅に隣接した旧津山機関区の扇形機関車庫は、鐵道省津山機關区の施設として1936年(昭和11年)に建設された。
現在も使用されており、現役を引退した静態保存車両を展示する鉄道保存展示施設(津山まなびの鉄道館)として活用されている。
扇形庫は、奥行きが22.1mで17線あり、現存する施設としては京都市にある梅小路運転区(京都鉄道博物館)の扇形庫に次いで日本で2番目の規模である。
また、近代化産業遺産の他、社団法人土木学会が選定した「日本の近代土木遺産 −現存する重要な土木構造物2800選」および、岡山県教育委員会が選定した「岡山の近代化遺産」にも指定されている。
さらに、2018年(平成30年)10月14日、転車台と共に鉄道記念物にも指定された(JR西日本指定、準鉄道記念物から昇格)。
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津山鉄道部時代の2007年(平成19年)から、扇形庫と隣接する旧津山機関区事務所を利用した「懐かしの鉄道展示室」が一般公開(不定期、予約制)されていた。
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2015年(平成27年)2月26日 - JR西日本岡山支社が施設のリニューアルを発表し、2014年(平成26)に閉館した交通科学博物館(大阪)に保存されていたD51形蒸気機関車(D51 2:上左写真右側)、DD13形ディーゼル機関車(DD13 638:上右写真右側、DF50形ディーゼル機関車(DF50 18:上右写真左側)を移設・展示することが明らかになり、リニューアルの間、この施設の一般公開をとりやめた。
2015年(平成27年)8月6日 - DD16 304(下写真)が輸送された。
2016年(平成28年)4月2日 - リニューアルオープンし、施設の運営は津山市観光協会が主体となり、施設名も「津山まなびの鉄道館」に変更された。

以上、出典・参考:Wikipedia「津山まなびの鉄道館」(最終更新 2018年5月30日)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B4%A5%E5%B1%B1%E3%81%BE%E3%81%AA%E3%81%B3%E3%81%AE%E9%89%84%E9%81%93%E9%A4%A8
閲覧:2018.10.18

転車台
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鉄道の転車台は、主に片側にしか運転台がない車両や、逆機では性能が限られている機関車を載せて回転させて、車両の向きを進行方向に向けるために用いられる施設。
一般に蒸気機関車の方向転換に用いるものとして知られており、蒸気機関車の全盛期には各地の機関区や拠点駅・起終点駅に必ず設けられていたが、蒸気機関車が廃止され、方向転換の必要がない電気機関車やディーゼル機関車などが増加するにつれ不要となり撤去され、あまり見られなくなってきた。
撤去されないまま放置されていた転車台が蒸気機関車の復活運転用として整備され、再使用されている例もある。また電車や気動車・機関車に改造を施す際や、運用の都合や配置転換などに伴い、車両単独または編成すべての向きを変える必要が生じることもあるため、工場や車両基地・運転所などでは現在でも使用され、また旭川運転所のように移転後に新たに設置される事例もある。
アメリカなどでは、ディーゼル機関車においても片側にのみ運転台を備えている車両が広く用いられているため、現代においてもなおよく用いられる設備である。
蒸気機関車の基地(機関区・機関庫)においては、転車台の周囲から放射状に線路を伸ばし、その先に機関車の車庫や修理・点検設備として用いる扇形庫を設置した例が広く見られる。
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これも蒸気機関車の時代には広く見られた設備であったが、転車台自体の減少もあって残存しているものは少ない。
転車台の上には架線が張られていないことが一般的であり、電気車(電気機関車と電車)の方向転換を行う必要がある場合は、他の動力車を用いるなどして転車台に出し入れする必要がある。ただし、国鉄EF55形電気機関車(写真・・鉄道博物館の転車台に乗っている)のように転車台で方向転換を行う前提の電気機関車もあり、また、スペースの問題からどうしても扇形庫に電気機関車を留置せざるを得なくなるなどの事情で、東海道本線電化時の浜松機関区(現 浜松運輸区)や高崎運転所(現 高崎車両センター高崎支所)、水上駅のように、転車台上空にも架線を張って電気機関車の自走を可能にした例もある。
転車台には、取っ手を人間が手で押して回転させるものと、電動機や圧縮空気などによる動力で回転させるものがある。主桁(後述)の回転中心に車両を跨ぐ門形の構造物があり、その上部に電線が引かれている場合があるが、それは車両へ電力を供給する架線ではなく、回転式の集電装置を介して電気動力式の転車台自体を動かすためのものである(左写真の中央部よりやや右寄りに見える架線状のもの。動力部は手前の小屋の様な操作室(運転室)の下にあり、横のプレートに見える配管で繋がっている)。
右写真は、操作室窓下に付けられた近代化産業遺産のプレート。

Wikipedia「転車台」(最終更新 2018年10月15日)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BB%A2%E8%BB%8A%E5%8F%B0

閲覧:2018.10.18
記事投稿:2018.10.18
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by fbox12 | 2018-10-18 22:06 | 近代化産業遺産

近5 JR鶴見線

近代化産業遺産

17.『重工業化のフロントランナー』京浜工業地帯発展の歩みを物語る近代化産業遺産群

京浜工業地帯のインフラ施設 JR鶴見線

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JR鶴見線は、東京地区の電車特定区間の路線の一つであり、鶴見から横浜・川崎市内の京浜工業地帯へ向かう短い路線である。3つの路線から構成されており、沿線は工場が多く、旅客列車はそれらの工場への通勤客が主に利用する。
また旅客列車のほか、貨物列車が日本貨物鉄道(JR貨物)によって運転されている。

参考:Wikipedia「鶴見線」(最終更新 2018年7月5日)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B6%B4%E8%A6%8B%E7%B7%9A
閲覧:2018.10.-4

記事投稿:2018.10.-5
  調整:2018.10.13

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by fbox12 | 2018-10-13 21:00 | 近代化産業遺産

近4 奈良ホテルと奈良観光関連遺産Ⅱ

近代化産業遺産

5.外貨獲得と近代日本の国際化に貢献した観光産業草創期の歩みを物語る近代化産業遺産群

整理番号:近4 奈良ホテルと奈良観光関連遺産(旧JR奈良駅舎)

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記事投稿:2018.9.27
  調整:2018.10.-1
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by fbox12 | 2018-10-01 22:47 | 近代化産業遺産

近3 奈良ホテルと奈良観光関連遺産

近代化産業遺産

5.外貨獲得と近代日本の国際化に貢献した観光産業草創期の歩みを物語る近代化産業遺産群

整理番号:近3 奈良ホテルと奈良観光関連遺産(奈良ホテル)

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ホテルチェーン JR西日本ホテルズ、都ホテルズ&リゾーツ
運営株式会社 奈良ホテル
所有者 西日本旅客鉄道株式会社
部屋数 129室
開業 1909年(明治42年)10月17日
最寄駅 近鉄奈良駅
最寄IC 天理インターチェンジ
所在地 〒630-8301 奈良県奈良市高畑町1096

概要
春日大社一の鳥居前から天理方面へ向かう国道169号(天理街道)沿いにある、荒池と呼ばれる農業用灌漑池の畔、かつては興福寺の塔頭である大乗院が所在した跡地の小高い丘に建っており、天理街道から本館玄関に至るアプローチ道路南方に旧大乗院庭園が所在する。興福寺、春日大社、奈良公園などの観光地にも近い。
第二次世界大戦前には国営(鐵道院→鐵道省直営)の時代が長く、近畿において国賓・皇族の宿泊する迎賓館に準ずる施設としての役割をになっていた。このため「西の迎賓館」とも呼ばれる。今日でも著名人が多く宿泊し、皇族の奈良宿泊の際にはこのホテルが利用されることが専らである。
現在、本ホテルは株式会社奈良ホテルが経営しており、資本金は4億円。後述する歴史的経緯から、うち西日本旅客鉄道株式会社(JR西日本)が50%、近鉄グループホールディングス株式会社(近鉄GHD)が50%出資していた。
インバウンドへの強化を目的に、2018年(平成30年)8月31日付けでJR西日本が近鉄GHDから全株式を取得して完全子会社化した。ただし、近鉄グループとの協力関係は続けるとしている。
JR西日本ホテルズと都ホテルズ&リゾーツの両方に加盟するホテルである。

設備
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宿泊設備としては木造2階建て瓦葺き建築で創業以来の本館と、1984年(昭和59年)に営業を開始した鉄筋コンクリート造4階建ての新館よりなり、小高い丘の上に建つ本館1階とその丘の南側斜面を削って建設された新館の屋上が同一平面となる。
2010年(平成22年)現在の客室数は本館・新館合わせて129で、シングル・ツイン・ダブルの洋室を基本とするが、少数ながら和室も用意されている。木造の本館は全室禁煙である。フロントと、メインダイニングルーム「三笠」、ティーラウンジ、バー、そして売店は本館1階に、日本料理「花菊」は新館5階にあり、宴会場は本館フロント周辺に2室、新館に5室用意されている。また、これらに料理を供する厨房は本館と新館とを連結する区画の地下、つまり新館4階と同一平面に設けられている。

歴史
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開業まで
日露戦争後、日本を来訪する外国人観光客が急増した。これに対して日本政府は外国人宿泊施設整備を支援する政策をとり、これを契機として古都である奈良でも都ホテルの創始者である西村仁兵衛(ホテル運営)、奈良市(用地提供)、そして当時奈良を勢力圏としていた關西鐵道(ホテル建設)の思惑が一致して本格的な洋風ホテルの建設計画が立てられた。
ところが、その直後に關西鐵道は国有化され、さらに奈良市の意欲も薄れたため、以後の本ホテルは西村仁兵衛、奈良市に代わって奈良懸、それに關西鐵道を買収した鐵道院の3者の手によって建設計画が推進された。
当初、東大寺南大門前参道東側の用地が奈良懸によって提示されたが、運営に当たる西村はこれを拒否し、彼は1906年(明治39年)7月に髙畑町飛鳥山の現在地を独自に選出して坪1円で購入、併せて「奈良ホテル」の商号を登録した。
本館の建築にあたっては鐵道院によって鹿鳴館の建設費のおよそ2倍に当たる35万円という巨費が投じられ、東京驛駅舎を手がけた辰野金吾と片岡安のコンビが設計を、近畿の建築界において指導的立場にあった河合浩蔵が工事監理をそれぞれ担当するという、建築当時の日本を代表する建築家たちによる万全の体制が敷かれた。
本館は寺社の多い奈良の景観に配慮し、屋根上に鴟尾を置き壁面を白い漆喰仕上げとした木造2階建て瓦葺き建築で、内装は桃山風の豪奢・華麗な意匠とドイツ風の重厚な意匠が混在する、和洋折衷様式となっている。
和風の外観になったのは本館の設計当時、奈良では宮内省匠寮技師の片山東熊によって設計され、奈良公園内に建設された奈良帝室博物舘(現 奈良国立博物館本館:1894年(明治27年)完成)の純洋風建築が「奈良公園の景観にそぐわない」として当時の奈良県民に大不評だったためという。こうした市民の声に応えて宇治平等院鳳凰堂をモチーフとして取り入れた奈良県物産陳列所をはじめ風景と調和しつつ新時代に対応する和洋折衷構造建築の模索が続けられていた。
以上のような紆余曲折を経て1909年(明治42年)10月に現在地に本館が竣工、西村が経営する大日本ホテル株式会社によって営業が開始された。

開業後
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1909年(明治42年)10月17日の営業開始以来、大日本ホテル株式会社によって運営が続けられた本ホテルであるが、経営難から1913年(大正2年)5月に同社は撤退、以後は鐵道院→鐵道省→運輸通信省→運輸省の直営で宿泊客について「高等官以上又は資本金一定額以上の会社の重役」という原則に従って、迎賓館に準じた施設として国の手厚い保護の下で運営されるようになった。
またその経緯ゆえに、鐵道省によって外国からの観光客誘致のためのポスターなどで使用することを目的として制作が依頼された、上村松園、前田青邨、横山大観、川合玉堂、竹内栖鳳ら当時を代表する日本画家による絵画や、やはり鐵道省の依頼で制作された鳥瞰図の名手吉田初三郎による「奈良ホテル鳥瞰図」の原画などが本ホテルに所蔵・展示されている。
1914年(大正3年)には翌年に京都で挙行される大正天皇即位式典に備え、従来の暖炉による暖房に代えてラジエター式のスチームヒーターによるセントラルヒーティングが1年をかけて全館に導入された。これに伴い、本館屋根上に突き出していた煙突が順次撤去された。もっとも、煙突は撤去されたもののロビーをはじめ各所に設けられていた暖炉のマントルピースは室内装飾として残され、これらは現在に至るまで存続している。
1935年(昭和10年)4月に国賓として訪日した満州國皇帝溥儀の宿泊に際しては、高価な調度品や美術品が買い揃えられた。皇族・国賓などの食事の際に供される食器がこの時に新調され、特にディナーセットなどの磁器については当時の最高級品が大倉陶園に特注された。
1944年(昭和19年)の金属供出の際には、階段の柱頭に装飾として取り付けられていた真鍮製の擬宝珠まで供出された。そこでその代わりに地元名産の赤膚焼で大家であった7代目大塩正人に依頼して製作された陶製の擬宝珠が取り付けられた。この擬宝珠は代用品ながらその個性的かつ趣のある姿ゆえにむしろ好評を博し、以後本ホテルの名物の一つとして定着した。

戦後
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1945年(昭和20年)の終戦後、同年12月1日に運輸省は本ホテルを日本交通公社に貸し付け、営業も委ねることとしたが、これと前後して同年9月28日、本ホテルはサンフランシスコ講和条約発効後の1952年(昭和27年)6月30日の解除まで連合軍に接収されることとなった。
この際、白木仕上げの内外装が不潔であるとして米兵によって危うく全館ペンキ塗り潰しにされるところであったが、当時の日本側支配人が必死で本ホテルの来歴を米軍担当指揮官に説明して説得し、欄干など直接手が触れる部分を朱塗りとし、従業員スペースの内装をペンキ塗り潰しとすることで由緒ある本館主要部を守った、というエピソードが残された。
連合軍による接収解除後、経営難に苦慮した日本交通公社は1954年(昭和29年)4月、運輸省から権利を承継した日本国有鉄道へ本ホテル営業の返還を申し出た。だが、日本国有鉄道法の規定で本来の業務から外れる事業への参入・兼業を事実上禁止されていた当時の国鉄ではホテル直営は不可能であった。そこへ国鉄の特急・急行列車で列車食堂の営業を行い、また歴史的にも本ホテル創設に強く関わっていた都ホテルが営業を引き受ける旨申し出を行い、1956年(昭和31年)3月以降は同社によって運営されるようになった。
その後、1960年代末までは複数の部屋で共用する形態となっていた風呂・洗面所を個別化するなどの内装の間取りの変更や、冷房装置の設備などの改修はあったものの概ね創建当時の姿を保っていた。だが、この状況は大阪・千里丘陵で1970年(昭和45年)に日本万国博覧会が開催されることが公表されたために一変することとなる。

万博開催に伴う改修・拡張
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海外からの観光客が多数来訪することが予想された日本万国博覧会の開催に備え、本ホテルは1968年(昭和43年)に以下のような大規模な増改築を計画した。
 客室98、宴会場2、食堂等3、と大きな収容力を備えた新館を本館食堂南側の斜面に建設。
 個別の風呂・洗面所の設置で不要となった本館の共同風呂・洗面所を改装して客室を22室増設。
 近鉄奈良駅の地下化に伴い建設される駅ビル6 - 8階に別館を開設。
ところが、肝心の新館は工期の問題から見切り発車で起工したものの、古都保存法の区域内であることから風致審議会から建設を差し止められ建設中止となった。そのため、本館の拡充については館内の間取り変更による客室増設が予定通り実施される一方で、すでに着工していた新館の基礎部を生かして近代的な外観の半地下式グリルが景観に大きな影響の無い規模で新設され、これに伴い不要となったラウンジが撤去されるに留まった。
近鉄奈良駅ビルに開設された別館は、1970年(昭和45年)に予定通り営業開始した。

新館建設
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1970年代末には国鉄の兼業に関する規制が緩和されたことから、安い賃料で他社に営業を委託し続ける状態に甘んじる必要が無くなった国鉄当局は、1981年(昭和56年)に都ホテルに対し本ホテルを直営としたい旨を、さらに1982年(昭和57年)には土地建物の賃貸借契約を解除したい旨を通告した。都ホテル側はこれに対して使用承認の継続を求め、協議の結果、国鉄と都ホテルが株式を折半保有する新会社、1983年(昭和58年)1月31日に株式会社奈良ホテルが設立され、本ホテルは同年4月1日からは同社によって運営されるようになった。併せて万博以後の状況の変化に対応すべく万博時には断念された新館の建設が再び計画された。
この際、1984年(昭和59年)のわかくさ国体を控えて県下の宿泊施設増強を迫られていた奈良県はこの計画に協力的に対応し、最大の難関であった風致審議会においても条件付きながら新館の建設が承認された。1983年(昭和58年)8月に総工費24億円を投じた新館の工事が開始され、1984年(昭和59年)8月に竣工、開業した。
この新館は本館の建つ高台の南側傾斜面を削り込んで埋め込む形で建設された半地下式の鉄筋コンクリート造り4階建てで、客室数65、4つの宴会場と新グリル「ツェダー」を備え、本館を含めた供食設備の大幅強化を伴う大工事となった。
新館の設計・工事監理は日本国有鉄道大阪工事局建築二課、同東京建築工事局建築二課、それに安井設計事務所が共同で担当し、工事は奥村組が担当した。
新館は1階から3階までの客室についてすべて南側を窓とした開放的なレイアウトとしてあり、制約が厳しい中で各階の天井高さ3mを確保し、かつ景観に配慮した吉野造りとするなど、外観・接客設備面ともに既存の本館との調和を図りつつ独自性を発揮した設計となっている。

新館完成後
1987年(昭和62年)4月1日の国鉄分割民営化の際、本ホテルにかかる資産はJR西日本が承継し、株式会社奈良ホテルも同社と都ホテルの共同出資となった。
「なら・シルクロード博覧会」閉幕後までは本館・新館と、別館(近鉄奈良駅ビル内)の3館体制で営業が続けられたが、別館は採算性の問題から、1991年(平成3年)6月に撤退・閉鎖された。それに先立つ1989年(平成元年)4月には新設されたばかりの奈良県新公会堂1階でレストラン「能」の営業を開始している。
本館では、新館完成後も日本万国博覧会開催以前より使用されてきた古風な調度品が修理を重ねつつ長く使用され続けていたが、2006年(平成18年)に寝具や家具、空調設備の全面更新が実施されて面目を一新した。翌2007年(平成19年)には新館の設備更新も完了して本館・新館の基本的な接客設備の仕様統一がなされ、最期に料理場の改装工事が2008年(平成20年)9月に完了、3年に渡った一連の館内設備更新工事が完成した。
開設100周年を迎える2009年(平成21年)には各種記念イベントが館内で行われ、2月にはホテル所蔵の絵画20点を展示する絵画展が開かれた。その一方でこの年の11月には1989年(平成元年)より20年にわたったレストラン「能」の営業を終了、奈良県新公会堂から撤退した。
2015年(平成27年)には新館屋上にテラスガーデンを新設、同時に同一平面にある宴会場を南側屋上に張り出すように拡張する工事を設計監理はアーキテクツ・オフィス、構造・設備はJR西日本グループである大鉄工業の担当で実施、同年11月に落成した。この工事に際しては外観上増築されたことに気づかれないほどの従来の宴会場部とのデザインの連続性や一体感、違和感のなさを重視して内外装が設計された。この拡張により得られたスペースを利用して宴会場「金剛の間」が大改装され、また同年12月には日本料理レストラン「花菊」の新館5階宴会場フロア南側拡張部分への移転が実施された。さらに「花菊」の5階への移転で空いた新館4階のスペースは翌2016年(平成28年)に隣接する宴会場「大和の間」の拡張に役立てられ、ホテル全体の宴会場施設の拡充や供食施設の改良が実現している。
2017年(平成29年)4月中旬から一部客室のリニューアル工事を、5月中旬から木造本館の耐震補強工事を実施する。期間は約3年間を予定している。できるだけ原型を損なわないよう、松野浩一東洋大学教授(建築構造学)考案の新しい耐震補強法「複層斜交重ね板壁」(「さねはぎ」で継いだ小幅板を斜めに重ねた3層の補強壁で揺れに抵抗する)が採用された。

宿泊した著名人
宿泊した海外の著名人
 セルゲイ・プロコフィエフ 1918年(大正7年)5月19日 - 27日 ロシアの作曲家
 バートランド・ラッセル 1921年(大正10年)7月19日 イギリスの数学者
 アルベルト・アインシュタイン 1922年(大正11年)12月17・18日 物理学者
 エドワード8世 1922年(大正11年) 英国王(当時は皇太子)
 グロスター公ヘンリー 1929年(昭和4年) 英国王子
 チャールズ・リンドバーグ 1931年(昭和6年) アメリカの飛行家
 愛新覚羅溥儀 1935年(昭和10年) 満州國皇帝
 ホセ・ラウレル 1945年(昭和20年) 元フィリピン大統領 亡命の為に2ヶ月間滞在
 ヘレン・ケラー 1948年(昭和23年) アメリカの社会福祉事業家
 マーロン・ブランド 1956年(昭和31年)
 グレン・フォード 1956年(昭和31年)
 ハイレ・セラシエ1世 1956年(昭和31年) エチオピア帝国皇帝。戦後初の国賓
 ジャワハルラール・ネルー 1957年(昭和32年)
 インディラ・ガンディー 1957年(昭和32年)
 オリヴィエ・メシアン 1962年(昭和37年) フランスの作曲家
 イヴォンヌ・ロリオ 1962年(昭和37年) フランスのピアニスト
 カールハインツ・シュトックハウゼン 1966年(昭和41年)3月 ドイツの作曲家
 マーガレット王女 1970年(昭和45年) 英国王女
 鄧小平 1978年(昭和53年)
 オードリー・ヘプバーン 1983年(昭和58年)3月31日 - 4月2日 女優
 ダライ・ラマ14世

宿泊した日本の著名人
 皇室関係者多数
 乃木希典 1911年(明治44年)10月
  関西で実施された陸軍師団対抗演習での統裁官の任に当たる際に宿泊。
 高浜虚子 1916年(大正5年)11月
  国民新聞記者として連載記事『奈良ホテル』取材のため宿泊。
 東条英機
 宇垣一成
 荒木貞夫
 堀辰雄 1941年(昭和16年)10月に約20日間滞在。
 佐藤栄作 日本国首相。
  鉄道官僚として大阪鉄道局長を務めていた時代に所轄の本ホテルを度々訪れ、政治家に転身後も最晩年まで何度も宿泊した。
 三船敏郎、京マチ子、清川虹子 1956年(昭和31年)4月
   MGM映画「八月十五夜の茶屋」撮影のため宿泊。
 司馬遼太郎

出典・参考:Wikipedia「奈良ホテル」(最終更新 2018年8月31日)に加筆
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%88%E8%89%AF%E3%83%9B%E3%83%86%E3%83%AB
閲覧:2018.9.14

現地取材:2016.3.-6(宿泊)
記事投稿:2018.9.14
  調整:2018.9.23
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by fbox12 | 2018-09-24 10:16 | 近代化産業遺産

鉄3 弁慶号機関車

鉄道記念物

整理番号:鉄3
所蔵:鉄道博物館
指定:鉄道記念物 1958年(昭和33年)指定第3号
   
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基本情報:
運用者 日本国鉄(官営幌内鐵道→北海道炭礦鐵道→鐵道院・鐵道省)
製造所 H. K. ポーター(米)
製造番号 369
製造年 1880年
運用開始 1880年(明治13年)11月28日
引退 1924年(大正13年)


国鉄7100形蒸気機関車(⁺この場合の国鉄は国有鉄道の意)
製造数 8両

主要諸元:
分類 飽和式テンダー式蒸気機関車
 軸配置 2-6-0 (1C)
 軌間 1,067 mm
 全長 12,173 mm
 全高 3,394 mm
 運転整備重量 16.37 t
 動輪上重量 13.84 t (運転整備時)
 炭水車重量 10.59 t (運転整備時)
 固定軸距
 動輪径 914 mm(3フィート))
 軸重 4.84 t (第1動輪上)
 シリンダ数 単式2気筒シリンダ
 (直径×行程) 305 mm × 406 mm
 弁装置 スチーブンソン式アメリカ形
 基本型ボイラー圧力 7.7 kg/cm2 
 ボイラー水容量 1.8m3 小煙管(直径×長さ×数)45 mm × 2,404 mm × 119本
 火格子面積 0.93 m2
 煙管蒸発全伝熱面積 30.6 m2
 火室蒸発伝熱面積 10.0 m2
 燃料搭載量
 水タンク容量 3.64 m3
 制動装置 手ブレーキ(炭水車のみ)、空気ブレーキ、カムドライバブレーキ
 シリンダ引張力 2,700 kg

概要:
辨慶(弁慶)号機関車 7100 形は、かつて日本国有鉄道の前身である鐵道院に在籍した蒸気機関車である。
1880年(明治13年)、北海道初の鉄道(官営幌内鐵道)の開業にあたり、アメリカ合衆国から輸入されたテンダー式蒸気機関車で 1889 年(明治32)までに同形機が合計8両が輸入された。当初輸入された順に番号( - )が附番され、さらに歴史上の人物(北海道絡みが多い傾向)にちなんだ愛称が付され(1889年(明治22年)製の2両は無名)、そのうちの 番が、「辨慶(弁慶/べんけい)」である。鉄道記念物に指定されている。

構造:
前端梁に取り付けられたカウキャッチャー(牛よけ = 排障器)や大型のダイヤモンドスタック(火の粉止め)を取り付けた煙突、大型の油灯式前照灯、第1缶胴上に設けられたベル、木製の運転室など、西部劇から抜け出てきたような、アメリカの古典的スタイルが特徴的である。1880年(明治13年)に輸入された (義經(義経/よしつね))号と辨慶号の2両には、ウェスティングハウス・エア・ブレーキ製空気ブレーキが装備されており、客車とともに貫通制動ができるようになっていた。標準装備されていた自動連結器とともに、本形の先進的な部分である。当時、北海道以外の国内の鉄道では、真空ブレーキとリンク式連結器が用いられていた。

運転・経歴:
1880年(明治13)11月28日、手宮 - 札幌間が開業し、「義經」と 「辨慶」の使用が開始された。
1889年(明治22)12月10日、官営幌内鐵道は北海道炭礦鐵道に払下げられ、本形8両すべてが同社に引き継がれた。
北海道炭礦鐵道ではA形(1 - 8)、後にイ形と称した。同鐵道では、本形に対し煙室の延長やダイヤモンド形煙突のパイプ形への交換、カウキャッチャーの撤去などの改造が行なわれ、原形が損なわれていった。
1906年(明治39年)10月1日、北海道炭礦鐵道は買収・(再)国有化され、このときも8両全てが官設鉄道に引き継がれた。
1909年(明治42年)には、鐵道院の車両称号規程が制定され、8両は 7100形(7100 - 7107)に改められたが、このときから、実際の番号と現車の製造番号の間の関係に相当の乱れが生じている。
これは、製造銘板がボイラーに取り付けられていたことと、北海道炭礦鐵道では修繕の効率化のため、足回りとボイラーを別々に管理しており、相互の振替えが頻繁に行なわれていたために生じたもので、本形が3両も保存されることとなる遠因となっている。

保存:
東京へ送られた 7101
1922年(大正11年)、北海道の1号機関車である「義經」を東京に新設される鐵道博物舘(のちの交通博物館)に保存することとなり、7101 が「義經」の後身であると推定され、1923年(大正12年)8月に同館に送られた。しかし、同年9月1日に発生した関東大震災により東京入りできず、同機は黒磯驛構内の機関庫に10年以上も保管(放置)されることとなった。
1936年(昭和11年)、7101 は大宮工場(現在の大宮総合車両センター)で「義經」として復元されることとなった。しかし同年、鉄道ファンである嶋崎英一と川上幸義が『7101 が「辨慶」、7105 が「義經」である』との調査結果を大宮工場に報告し、7101 は一転「辨慶」として復元されることとなった。
1940年(昭和15年)、同機の復元が完成し、鉄道博物館に収蔵、静態保存された。
1958年(昭和33年)には鉄道記念物に指定されている。
交通博物館閉館後は、2007年(平成19年)10月14日にさいたま市大宮区に開館した鉄道博物館に移され、展示されている。

出典・参考:
Wikipedia「国鉄7100形蒸気機関車」(2018.9.17閲覧)に一部加筆
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E9%89%847100%E5%BD%A2%E8%92%B8%E6%B0%97%E6%A9%9F%E9%96%A2%E8%BB%8A

写真:弁慶号機関車 2017.10.17 鉄道博物館

初稿 2018.9.17
調整 2018.9.21

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by fbox12 | 2018-09-21 10:18 | 近代化産業遺産

近2 日光金谷ホテルと日光観光関連遺産

近代化産業遺産

5.外貨獲得と近代日本の国際化に貢献した観光産業草創期の歩みを物語る近代化産業遺産群

整理番号:近2 日光金谷ホテルと日光観光関連遺産(JR日光駅)
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現地取材:2017.9.-4

初稿:2018.9.-9
調整:2018.9.21

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by fbox12 | 2018-09-21 10:17 | 近代化産業遺産

近1 東京都千代田区の赤煉瓦建造物

近代化産業遺産

4.建造物の近代化に貢献した赤煉瓦生産などの歩みを物語る近代化産業遺産群

整理番号:近1 東京都千代田区の赤煉瓦建造物(東京駅)
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初稿:2018.9.-2
調整:2018.9.21

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by fbox12 | 2018-09-21 10:15 | 近代化産業遺産