fbox12 blog (博物館fbox12 館長の雑記帳)

第佰貮拾四 鹽竈神社 宮城県塩竈市鎮座

a0057057_20525394.png

a0057057_09103092.pnga0057057_22083344.pnga0057057_22101785.pnga0057057_18221002.pnga0057057_18231795.pnga0057057_22274503.pnga0057057_23164069.pnga0057057_17363976.png
a0057057_18582163.pnga0057057_18582214.pngしおがまじんじゃ

鎮座地:宮城県塩釜市一森山1番1号

主祭神:
志波彦神社
 志波彦神
鹽竈神社
 塩土老翁神(別宮:下拝殿写真)
 武甕槌神(左宮:上拝殿写真)
 経津主神(右宮:上拝殿写真)


a0057057_17392116.pnga0057057_18013257.png
社格等:
志波彦神社
 式内社(名神大)
鹽竈神社
 式外社 陸奥國一宮
両社共通
 旧国幣中社、神社本庁別表神社
本殿の様式:流造

a0057057_18072799.pnga0057057_18081455.png
概要:
鹽竈神社は、志波彦神社(しわひこじんじゃ)と同一境内に鎮座する神社で、全国にある鹽竈(鹽竃・塩竈・塩竃・塩釜・塩釡)神社の総本社である。神紋は「塩竈桜」。
元は当地に鹽竈神社のみが鎮座していたが、明治時代に志波彦神社が境内に遷座し、現在は正式名称を「志波彦神社・鹽竈神社」とし1つの法人となっている。
鹽竈神社境内には、国の天然記念物に指定されている塩竈桜(シオガマザクラ)があり、毎年当地の報道で取り上げられている。また塩竈みなと祭の際には、鹽竈神社が祭りの出発点となり、志波彦神社・鹽竈神社の神輿が塩竈市内を練り歩き、御座船を始め約100隻の船を従えて松島湾を巡幸する。
東北開拓の守護神であり、多くの初詣客が集まることでも知られ
            る。秋には大規模な菊花展が開催される。
a0057057_22131139.pnga0057057_22140581.png

神社の漢字表記についてはいくつか存在するが、
 タイトルのものは「鹽竈神社」が使用しているもの。
 歴史的な表記は「鹽竃神社」。
 市名の正式表記と同じ「塩竈神社」は、主に報道機関が使用しているものだが、Google 等の検索語「塩釜神社」は誤用である。
(この項の表示は、Windows10 を基準にしているため、システムによっては表示が異なる場合がある)。

a0057057_16550923.png祭神の塩土老翁神は謎の多い神であるが、海や塩の神格化と考えられている。神武天皇や山幸彦を導いたことから、航海安全・交通安全の神徳を持つものとしても見られる。また安産祈願の神でもある。武甕槌神と経津主神は東北を平定するために派遣された朝廷の神。

a0057057_21361621.pnga0057057_21364357.png
歴史:
a0057057_16355213.png創建から中世鹽竈神社は、武甕槌命・経津主神が東北を平定した際に両神を先導した塩土老翁神がこの地に留まり、現地の人々に製塩を教えたことに始まると伝えられる。
弘仁11年(820年)に撰進された『弘仁式』の『主税式』では「鹽竈神を祭る料壹萬束」と記載され、祭祀料10,000束を国家から受けており、これが正史における鹽竈神社の初見と言われている。
さらに延長5年(927年)の『延喜式』の『主税式』においても祭祀料10,000束を国家正税から受けている。『延喜主税式』によれば当時の陸奥國の税収は603,000束、鹽竈神社の他に国家から祭祀料を受けていた3社の祭祀料は、それぞれ伊豆國三嶋社2,000束、出羽國月山大物忌社2,000束、淡路國大和大國魂社800束であった。
これらと比較しても国家から特別の扱いを受けていたのは明白であるが、同式の神名帳に鹽竈神社の記載は無い。また、近世に至るまで神階昇叙の記録も無く、式外社となったことと併せて朝廷が一見矛盾するような扱いをなぜしたのか、その理由はわかっていない。
宇多天皇の御代、仁和4年(888年)に一代一度の奉幣として大神宝使を遣わすこととしたが、鹽竈神社へは寛仁元年(1017年)後一条天皇即位の際に遣わされている。
『朝野群載 巻第6』に所収の「式外神社進合御卜證文」には、白河天皇御代に勅命を受け卜った式外社の記述があるが、その中に「近則去延久二年十二月御卜。坐越後國春日布河兩社。坐陸奥國清竈鳥海二社。同六年六月御卜。坐陸奥國浮嶋鹽竈鳥海三箇社。」の一文がある。「清竈」が「鹽竈」の誤字であるとすれば、勅命により御卜を受けた数少ない式外社の中でも、鹽竈神社は延久2年(1070年)12月と延久6年(1074年)6月の2回御卜を受けたことになる。

中世
中世においては歴代の領主から崇敬された。前九年の役および後三年の役を経て藤原清衡が陸奥押領使に任ぜられると、陸奥國の支配権は奥州藤原氏のものとなった。文治2年(1186年)4月28日付けの竹城保司あて所職安堵の下文や文治3年(1187年)に和泉三郎忠衝より奉納された鉄燈は、鹽竈神社に対し奥州藤原氏が影響力と崇敬をよせていたことを窺わせている。また、奥州藤原氏が文治5年(1189年)に滅亡した後、鎌倉幕府が竹城保司に臨時祭料田を設定するよう命じた建久4年(1193年)3月7日付けの文書には「一宮塩竈社」の記述があり、鎌倉幕府から鹽竈神社が一宮と認識されていたことがわかる。
加えて、文治6年(1190年)に奥州下向の将兵に鹽竈以下の神領において狼藉をしないよう命令が出されていることからも、鎌倉幕府が鹽竈神社を重く見ていたことが覗える。
文治6年(1190年)伊澤家景が源頼朝から陸奥留守職に任じられ、伊沢家景の子である家元の代より伊澤氏は「留守」姓を名乗るようになる。以後は留守氏が管理権を掌握し、神社の宮人を自らの家臣団として編成した。留守氏はまた塩竈神宮寺も支配した。神宮寺(別当寺)とは神社を管理する寺院である。戦国時代の末に別当寺は法蓮寺に変わり、江戸時代も当社の別当であった。
14世紀の南北朝内乱期に入ると、東北地方においても南朝方と北朝方に分かれて合戦が行われるようになり、多賀國府の政治的求心力は低下した。これにより、留守氏も陸奥一国に対する行政権を失っていく。それに代わり陸奥國の武士の統率者となったのは、室町幕府から派遣された奥州管領であった。奥州管領達も鹽竈神社に崇敬をよせ、斯波家兼が文和3年(南朝の元号では正平9年、1354年)に祈願状を奉納、斯波直持は文和5年(南朝の元号では正平11年、1356年)に鹽竈神社の仮殿造営と馬一疋の奉加を行うと共に祈願状を奉納している。同じく奥州管領の𠮷良貞経が延文5年(南朝の元号では正平15年、1360年)に鳥居造立、社頭造営、釜一口奉鋳、神馬奉引、大般若一部読踊、心経十万部読踊、御神樂勤仕などの立願を行い、さらに竹城保を寄進している。
応安8年(南朝の元号では天授元年、1375年)以前に編纂されたとされる卜部宿禰奥書の『諸國一宮神名帳』には、陸奥國の一宮は「鹽竈大明神」と記されている。
しかし、その後の室町期に編纂されたとする『大日本國一宮記』では陸奥國一宮は都都古和氣神社とされた。この後、近世においては主に大日本國一宮記が参照されたことから、鹽竈神社は「近世以降の一宮」との認識が持たれることがあった。
しかしながら、江戸時代初期の神道者・橘三喜が全国の一宮を参拝した際は、『大日本國一宮記』の類本である『𠮷田一宮記』と『豊葦原一宮記』を携帯して諸国を巡ったが、延宝6年(1678年)に鹽竈神社を訪れている。

近世
近世に入り仙台藩伊達家がよせた崇敬は特に厚く、伊達氏が当地を治めた江戸時代以降から明治時代に至るまで、歴代仙台藩主は「大神主」として祭事を司ると共に社領・太刀・神馬などを寄進した。初代藩主政宗は岩出山から仙台に居城を移すと、領内寺社の整備に取り掛かる。鹽竈神社へは元和5年(1619年)に社領24貫336文を寄進、慶長12年(1607年)に社殿造営を行った。 二代藩主忠宗は寛永13年(1636年)に鐘楼を再興し、1664年(寛文4年)には拝殿、さらに慶安3年(1650年)には長床を修造している。 三代藩主綱宗は伊達騒動で万治3年(1660年)に家督を子の綱村に譲っていたが、寛文3年(1663年)に大幅な社殿造り変えを行うと共に社領7貫584文を寄進している。歴代藩主中で最も厚い崇敬を寄せた四代藩主綱村は、まず貞享2年(1685年)に塩竈の租税免除・市場開催許可・港湾整備を行って同地を手厚く遇した。貞享4年(1687年)には𠮷田家に神階昇叙を依頼し、鹽竈神社に正一位が昇叙されている。さらに元禄6年(1693年)には神祇管領𠮷田兼連をして鹽竈社縁起を編纂させ、それまで諸説あった祭神を確定させた。
元禄8年(1695年)に社殿の造営計画を立てて工事に着手し、9年後五代藩主𠮷村の宝永元年(1704年)に竣工している。この時造営されたものが現在の社殿である。宝永期以降は20年に一度の式年遷宮の制度が設けられ現在に至っている。 また、五代藩主𠮷村も1704年(宝永元年)の社殿竣工成就を記念して社領55貫文を寄進している。

明治以降の志波彦神社、鹽竈神社
1871年(明治4年)に志波彦神社が國幣中社に列格、1874年(明治7年)12月に志波彦神社が別宮本殿に遷宮されると同時に鹽竈神社が國幣中社に列格した。その後、1934年(昭和9年)から1938年(昭和13年)に志波彦神社が国費をもって社殿新築、1938年(昭和13年)から1942年(昭和17年)には鹽竈神社が国費による修築を行った。第2次世界大戦後に旧社格が廃止されると、当社は神社本庁が包括する別表神社となった。また前述のように、20年に一度の式年遷宮が現在に至るまで行われている。

摂末社:
a0057057_20595189.png
境内末社以下の4社は、楼門を入って左手に朱塗木造銅板葺屋根の雨覆を掛けられ並んで鎮座している。明治維新前後に書かれたと言われる『鹽竈社神籍』では社内摂社であるとしている。

写真:
左から、稲荷神社、住吉神社、八幡神社、神明社

参考:
志波彦神社・鹽竈神社 公式サイト
http://www.shiogamajinja.jp/
閲覧:30.6.16
Wikipedia「鹽竈神社」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B9%BD%E7%AB%88%E7%A5%9E%E7%A4%BE
閲覧:30.6.15

現地取材:29.6.27
記事投稿:30.6.15
  調整:30.6.16/30.6.17

[PR]
by fbox12 | 2018-06-17 21:21 | 神社