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263 吉松駅 (JR九州)

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よしまつ

所在地:鹿児島県姶良郡湧水町川西968
所属路線:九州旅客鉄道株式会社・肥薩線
電報略号/事務管コード:ヨマ/940201
キロ程:86.8km(八代起点)
駅形態:業務委託駅

概要:
JR九州・肥薩線に所属し、当駅を起点とする吉都線を加えた2路線が乗り入れる。かつて両線は鹿児島本線と日豊本線であり、この駅は幹線の分岐駅として賑わった。特急「はやとの風」の始発・終着駅であるとともに、人吉駅・熊本駅まで走る観光列車「いさぶろう・しんぺい」号の始発・終着駅でもある。

歴史:
明治30年代ごろにおいては、鹿児嶋懸と、既に鉄道が敷設されている九州北部とを結ぶことが必須の課題となっていた。そこで九州鐵道の路線が八代驛まで開通を見ていたため、この八代と鹿児嶋懸を結ぶ計画が立てられた。八代と鹿児嶋をどう結ぶかについては、海岸線周りの案と山中を進む案とがあったが、結局最初にとられたのは山中を進む案であった。これには「海岸線に線路を敷設しては危険」との、軍の意向が関係したともいわれている。
まず明治34年(1901年)6月10日に鹿児嶋線として鹿児嶋驛から國分驛(現在の隼人駅)までが開通した。これは九州で初めての官設鉄道である。ついで明治36年(1903年)1月15日には國分驛からさらに橫川驛(現在の大隅横川駅)までの延伸が成った。そして同じ明治36年(1903年)の9月5日に、橫川驛からこの𠮷松驛までさらに延伸となって、このとき当駅は開業する。
一方の八代側では明治41年(1908年)6月1日に八代驛から人𠮷驛までが開業したが、問題は南九州中央部の山岳地帯を貫く、人𠮷驛からこの𠮷松驛までの間であった。ここに線路を敷くのは困難を極めたが、それでもスイッチバックやループ線等をいくつも取り入れた線路の敷き方によって、明治42年(1909年)11月21日、遂に人𠮷驛からこの𠮷松驛までの間が開業し、この開通を以って鹿児嶋から福岡(博多驛)、門司(現 門司港駅)までが一本の線路でつながり、さらに關門連絡船を経由して大阪、東京にもつながることとなった。今でも吉松駅前にはこれを記念する「肥薩鐵道開通記念碑」が機関車の動輪とともに設けられている。
門司から八代、人𠮷、𠮷松をへて鹿児嶋までは人𠮷から𠮷松までの開通とともに鹿児嶋本線となった。
大正元年(1912年)10月1日には、同じく鉄道網から外れていた宮崎懸とこの𠮷松驛を結ぶために宮崎線が小林町驛(現在の小林駅)まで開通する。
宮崎線はその後大正2年(1913年)5月11日に谷頭驛まで、同じ年の10月8日に都城驛まで延伸を果たした。
その後も少しずつ線路を伸ばして行き、大正5年(1916年)の10月25日には宮崎驛まで全通し、その後宮崎本線とされたのち、小倉驛から𠮷松驛までが日豐本線とされたため、その一部となった。
このころ𠮷松は熊本方面・宮崎方面・鹿児嶋方面からの線路が一つに集まる交通の要衝として繁栄を見せていた。
人だけではなく物資の流れの中心地ともなって、駅附近にはさまざまなこれらの人々、物たちを対象とする商売が盛んに行われた。
また吉松は附近の路線の管理を一手に引き受ける駅となっており𠮷松機関区もおかれていたので、鉄道関係の職員もこの町には多く住んでいたという。
しかし鹿児嶋本線においては、人𠮷と𠮷松の間の急勾配を避けるため海岸回りの路線の工事が着々と進み、昭和2年(1927年)10月17日の湯浦驛から水俣驛までの開通を以って、海岸線周りの八代驛から鹿児嶋驛までが全通、こちらが鹿児嶋本線の一部となって、同時に八代驛から鹿児嶋驛までの従来の鹿児嶋本線は肥薩線という一支線に格下げとなった。
また日豐本線においても、都城驛から現在の隼人駅までを海岸回りで通す路線の建設が行われ、昭和7年(1932年)の12月6日に大隅大川原驛から霧島神宮驛までの開通によってこちらも全通、日豐本線の一部となり、𠮷松から都城まではこれも一つの支線たる𠮷都線に格下げとなってしまった。
それからのこの駅は𠮷都線と肥薩線、二つの小さなローカル線の接続駅としての役目を持つに過ぎない。
この駅は昭和62年(1987年)の4月1日に国鉄の分割民営化により九州旅客鉄道の駅となり、その後平成4年(1992年)6月1日には構内に霧島高原鉄道事業部が発足したが、平成20年(2008年)4月1日に鹿児島鉄道事業部と統合し霧島高原鉄道事業部は廃止となった。

年表:
1903年(明治36年)9月5日 - 鹿児嶋線の橫川驛(現在の大隅横川駅)から当駅までの延伸にともない𠮷松驛として開業する。
1909年(明治42年)11月21日 - 当駅から人𠮷驛までが開通する。同時に門司驛から当駅を経て鹿児嶋驛までが鹿児嶋本線とされる。
1912年(大正元年)10月1日 - 宮崎線が当駅から小林町驛(現在の小林駅)まで開通し接続駅となる。
1917年(大正6年)9月21日 - 宮崎懸営鐵道の国有化により当駅から宮崎驛をへて広瀨驛(現在の佐土原駅)までが宮崎本線とされる。
1923年(大正12年)12月15日 - 市棚驛から重岡驛までの開通により豐州本線と宮崎本線の小倉驛から宮崎驛を経て当駅までが日豐本線とされる。
1927年(昭和2年)10月17日 - 鹿児嶋本線の八代驛から当駅を経て隼人驛までが肥薩線として分離される。
1932年(昭和7年)12月6日 - 日豐本線の当駅から都城驛までが𠮷都線として分離される。
1968年(昭和43年)4月13日 - 現在の鉄筋コンクリート二階建ての駅舎が落成。
1987年(昭和62年)4月1日 - 国鉄の分割民営化に伴い九州旅客鉄道に継承される。
1992年(平成4年)6月1日 - 構内に霧島高原鉄道事業部が発足。
1996年(平成8年)3月16日 - 肥薩線の当駅から人吉駅までの列車のうち1往復を観光列車「いさぶろう・しんぺい」として運行開始。
2000年(平成12年)3月11日 - 急行「えびの」運行廃止。
2004年(平成16年)3月13日 - 特急「はやとの風」運転開始。
2007年(平成19年)11月30日 - 吉松駅横の石倉(燃料庫)と駅前の保存車両(蒸気機関車「C5552号」)が南九州近代化産業遺産群の物資輸送関連遺産の1つとして選ばれる。
2008年(平成20年)4月1日 - 霧島高原鉄道事業部を廃止(鹿児島鉄道事業部に統合)。

駅構造:
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北方より来た肥薩線に、東から吉都線が寄り添う形で構内に入る。地上駅で島式ホーム2面4線とかつての幹線の要衝らしい規模である。
駅舎とホームは真幸方(北側)の跨線橋により行き来できる。駅舎に接して、既に使われなくなった単式ホームがある(左写真「はやとの風」の左側)。
現在の駅舎(=2代目)は昭和43年(1968年)4月に落成したもので、鉄筋コンクリート2階建てで、1階部分に待合所や改札口・切符売り場などがある(上駅舎写真)。
なお以前(=初代)は木造駅舎であった。
a0057057_22380673.png改札上の運賃表には真幸駅・矢岳駅・大畑駅への運賃が書かれていないが、これは当駅との間を乗り降りする人がほとんどいないためである。
当駅の窓口では、真幸駅の記念入場券(右写真:裏側・・表側は「真幸駅」のページに表示予定)や「鶴丸 - 吉松 - 真幸」と縁起の良い駅名の並ぶ記念乗車券も発売されている。改札外に待合所がありここには囲炉裏の付いた座敷がある。
肥薩線および吉都線のCTCセンターが併設されている。
このCTCセンターでの列車の運行管理や駅構内の車両入換え・運転士労務管理などの運転関係業務はJR九州鹿児島鉄道事業部吉松運輸センター社員が行い、出改札業務のみ子会社であるJR九州鉄道営業へ委託となっている。
マルス(みどりの窓口)はないが感熱式POS端末が設置されている(上入場券、乗車券面参照)。なお、自動券売機は設置されておらず、早朝・夜間は車内精算となる(つまり、通常の切符は上記のPOS券のみ)。
1・2番のりばのホーム上には売店があり、特急「はやとの風」運転開始を機に駅弁(幕の内弁当)の販売を再開した。また全国的に珍しくなった駅弁の立ち売りが行われている。

のりば:
1~3番のりば 肥薩線上り 人吉・熊本方面
           下り 隼人・鹿児島中央方面
        吉都線 都城・宮崎方面
4番線は現在は留置線として扱われている。

参考資料:Wikipedia「吉松駅」(最終更新:2018.4.14)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E6%9D%BE%E9%A7%85
  閲覧:2018.4.27

現地取材:2018.3.14
記事投稿:2018.4.30
  調整:2018.5.-1

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by fbox12 | 2018-05-01 16:46 | 鉄道・バス