人気ブログランキング | 話題のタグを見る

fbox12 blog (博物館fbox12 館長の資料収蔵庫)

第九拾八 氣比神宮 福井県敦賀市鎮座

第九拾八 氣比神宮 福井県敦賀市鎮座_a0057057_2215474.png

第九拾八 氣比神宮 福井県敦賀市鎮座_a0057057_22164649.png第九拾八 氣比神宮 福井県敦賀市鎮座_a0057057_22172333.png

第九拾八 氣比神宮 福井県敦賀市鎮座_a0057057_22211719.png第九拾八 氣比神宮 福井県敦賀市鎮座_a0057057_22224216.pngけひじんぐう

鎮座地:福井県敦賀市曙町11-68
主祭神:伊奢沙別命
社格等:式内社(名神大七座)、越前國一宮、旧官幣大社、神社本庁別表神社、笥飯宮・笥飯大神宮

由緒、概要:
福井県中央部、敦賀市市街地の北東部に鎮座する。敦賀は天然の良港を有するとともに、北陸道諸國(現在の北陸地方)から畿内への入り口であり、対外的にも朝鮮半島や中国東北部への玄関口にあたる要衝である。神宮はそのような立地であることから、「北陸道総鎮守」と称されて朝廷から特に重視された神社であった。
『古事記』『日本書紀』では早い時期に神宮についての記事が見えるが、特に仲哀天皇(第14代)・神功皇后・応神天皇(第15代)との関連が深く、古代史において重要な役割を担う。また、中世には越前國の一宮に位置づけられており、福井県から遠くは新潟県まで及ぶ諸所に多くの社領を有していた。
社殿のほとんどは第二次世界大戦中の空襲で焼失したため、現在の主要社殿は戦後の再建になる。空襲を免れた大鳥居は「日本三大鳥居」にも数えられる壮麗な朱塗鳥居であり、国の重要文化財に指定されている。また境内社の角鹿(つぬが)神社は「敦賀」の地名発祥地であると伝える。そのほか祭事では多数の特殊神事が現在まで続き、古図、古面等の有形文化財を伝えている。

第九拾八 氣比神宮 福井県敦賀市鎮座_a0057057_2219279.png神宮の社名について、史料には主なものとして次の呼称が見える。
 氣比大神/氣比神 (『古事記』、『続日本紀』等)
 笥飯大神/笥飯神 (『日本書紀』)
 氣比神社 (『日本後紀』、『延喜式』神名帳)
 氣比大神宮 (『続日本後紀』等)
 氣比神宮 (『日本文徳天皇実録』等)
以上のほか、史料には「氣比宮」「氣比大明神」「氣比社」「氣比明神」などの呼称も見える。明治維新後、明治28(1895)年には神宮号が宣下され、それ以後は社名を「氣比神宮」としている。なお、氣比の松原の冠称「氣比」も神宮の社名に由来するもので、同地が古くは神宮の領地であったことに因むとされる。
「ケヒ(氣比/笥飯)」の由来としては、『古事記』では「御食津(みけつ)」から「氣比」に転訛したという。『古事記』の伝承に加え、古い表記の「笥飯」は当て字ながら「箱中の飯」を意味することから、「ケヒ」とは「食(け)」の「霊(ひ)」、すなわち食物神としての性格を表す名称とする説がある。これとは別に、応神天皇と氣比神との名の交換を意味する「かへ(kafë)」から「けひ(këfi)」に変化したとする説もある。

祭神について:
上記の通り主祭神はイザサワケ(伊奢沙別/去来紗別)で、氣比神宮特有の神である。神名「イザサワケ」のうち「イザ」は誘い・促し、「サ」は神稲、「ワケ」は男子の敬称の意といわれる。そのほかの名称として、史書では「笥飯」「氣比」「御食津」と記されるほか、『氣比宮社記』では「保食神」とも記される。これらは、いずれも祭神が食物神としての性格を持つことを指す名称であり、敦賀が海産物朝貢地であったことを反映するといわれる。このことから、神宮の祭神は上古より当地で祀られた在地神、特に海人族によって祀られた海神であると解されている。一方、『日本書紀』に新羅王子の天日槍の神宝として見える「胆狭淺大刀(いささのたち)」との関連性の指摘があり、イザサワケを天日槍にあてて新羅由来と見る説もある。

このイザサワケは、仲哀天皇・神功皇后・応神天皇と深いつながりにあることが『古事記』『日本書紀』によって知られる。両書では、仲哀天皇が角鹿に行宮として「笥飯宮」を営んだとあるほか、天皇の紀伊國滞在中に熊襲の謀叛があり角鹿にいた神功皇后を出発させたと見え、角鹿の地が登場する。神功皇后は、仲哀天皇の突然死を経て新羅に遠征(三韓征伐)、帰途に太子(誉田別尊;応神天皇)を産んだ。そして、皇后と太子がヤマトへ戻る際に謀叛があったが無事平定し、太子は武内宿禰に連れられて禊のため氣比神に参詣したという。以上のように、歴史の早い段階から氣比神が朝廷の崇敬を受ける神として登場しており、一連の出征の始まり・終わりを成したことから古くは軍神として崇敬されたとも見られる。
『古事記』ではその後の経緯として、武内宿禰に連れられた太子(応神天皇)はイザサワケと名の交換を行ったとする(易名説話)。説話によれば、太子が角鹿(敦賀)の仮宮を営んでいると、夜の夢にイザサワケが現れて名を交換するよう告げられた。太子が承諾するとイザサワケは翌朝に浦に出るように言い、太子が言われたとおりにすると浦には一面にイザサワケの献じた入鹿魚(イルカ)があった。これにより太子はイザサワケを「御食津大神(みけつのおおかみ)」と称え、のちにその名が「氣比大神」となったという。同様の説話は『日本書紀』でも別伝として記されているが、『古事記』『日本書紀』とも内容には疑問点が指摘される。この説話の解釈には諸説あるが、特にその真相を「名(な)と魚(な)の交換」すなわち「名の下賜」と「魚の献上」であるとして、氣比神とその奉斎氏族)の王権への服属儀礼を二重に表すと見る説が有力視される。また、以上のように当地が応神天皇系の勢力基盤であったことは、越前から出た応神天皇五世孫の継体天皇(第26代)とも関係するといわれる。
イザサワケとともに祀られる仲哀天皇以下6柱に関しては、7世紀後半に天皇霊が国家守護神として各地に設置された動きと関連づける説がある。その中で、守護神として合祀された仲哀天皇は敗者の霊として「祟り性」を備えていたために、全国でも早期の神宮寺成立・神階昇叙につながったと指摘される。

歴史:
創建・伝承
社伝では、上古に主祭神の伊奢沙別命は東北方の天筒山に霊跡を垂れ、境内北東方にある土公の地に降臨したという。そして『氣比宮社記』によれば、仲哀天皇の時に神功皇后が三韓征伐出兵にあたって氣比神に祈願をすると、海神を祀るように神託があり、皇后は穴門に向かう途中で海神から干・満の珠を得た。そして仲哀天皇八年三月に神功皇后と武内宿禰が安曇連に命じて氣比神を祀らせたといい、これが神宮の創建になるとしている。またこの時、氣比大神は玉姫命に神憑りして三韓征伐の成功を再び神託したとも伝える。その後大宝二(702)年に文武天皇の勅によって社殿を造営し、本宮に仲哀天皇・神功皇后を合祀、東殿宮・総社宮・平殿宮・西殿宮の4殿に各1柱を祀ったという。
また前述のように、『古事記』『日本書紀』では仲哀天皇・神功皇后・応神天皇の時期に記事が記されている。しかしながら、その後は持統天皇六(692)年まで神宮に関する記事は見えないことから、7世紀中頃までは朝廷とのつながりは薄かったとして、7世紀後半頃に氣比神の祭祀権が在地豪族から朝廷の手に移ったと推測される。

概史:
古代
国史において氣比神が再び現れるのは持統天皇6(692)年で、その記事では越前の國司が角鹿郡の浜で獲った白蛾を献上したため、20戸の神封(神社に寄進された封戸)が増封されたと記されている。霊亀元(715)年には境内に神宮寺(氣比神宮寺)が設けられたというが、これは文献上で全国最古の神宮寺成立になる。また『新抄格勅符抄』によれば、天平3(731)年に従三位料として200戸の神封があり、天平神護元(765)年には神封は244戸に及んだ。同記事では神階として「従三位」と記されているが、これも全国諸神の神階記事の内で最古になる。その後、神階は寛平5(893)年までに正一位勲一等の極位に達した。このような神階昇叙には9世紀の東アジア情勢が背景にあり、この時期に海神としての本来の性格が朝廷から重要視されたと推測される。
また、神宮は朝廷鎮護の重要な一角として古くから朝廷との結びつきが強く、朝廷からの奉幣が宝亀元(770)年(使者:中臣葛野連飯麻呂)、承和6(839)年(使者:大中臣朝臣礒守・大中臣朝臣薭守)、仁寿2(852)年、貞観元(859)年(使者:大中臣朝臣豊雄)にあった。また、承和6(839)には神宮の雑務は国司預かりから神祇官直轄に移行され、朝廷との関わりを一層強めている。
延長5(927)年成立の『延喜式』神名帳では越前國敦賀郡に「氣比神社七座 並名神大」と記載され、七座が名神大社に列している。また、同帳に見える「角鹿神社」「大神下前神社」「天利剣神社」「天比女若御子神社」「伊佐奈彦神社」の式内社5社は神宮の境内社に比定される。そのうちでも特に、天利剣・天比女若御子・天伊佐奈彦の3社は『続日本後紀』において「気比大神之御子」と見える。このことから、神宮周辺の諸社が御子神として編成されたとして、敦賀の在地社会において神宮中心の国家祭祀体系が構築されたと考えられている。

中世から近世
中世以降は越前國の一宮に位置づけられ、「北陸道總鎭守」とも称されたという。古代に続いて中世も広大な社領を有しており、その土地は越前を中心として遠く越中・越後・佐渡にまで及んでいた。南北朝時代の戦乱では、宮司の氣比氏治は南朝方につき金ヶ崎城を築いて奮戦したが、北朝方に敗れ一門は討ち死した。この敗死により神宮の社領も減じられたが、それでもなお24万石を所領したと伝える。神宮は中世を通じて社殿焼失が多く、史料には再建を示す記事が多く見られる。
戦国時代には、社家は戦国大名朝倉氏の下に組み込まれた。そのため、織田信長の侵攻によって社殿のほとんどを焼失、朝倉氏滅亡とともに社領も没収されて社勢は著しく衰退した。
江戸時代に入ると慶長8(1603)年に結城秀康から百石が寄進され、慶長9(1604)年には社殿造営がなされて再興が果たされた。その後は、徳川家光から秀忠の病気平癒祈願料として五十石が寄進されたほか、大野城主の松平但馬守などからの奉幣も受けている。しかしながら、かつての繁栄は見られなくなったという。

近代以降
明治維新後、明治4(1871)年に近代社格制度において国幣大社に列した。明治28(1895)年には官幣大社に昇格するとともに、神宮号宣下により社名を現在の「氣比神宮」に改称した。
昭和20(1945)年には敦賀空襲により旧国宝の本殿ほか社殿の多くを焼失した。本殿は昭和25(1950)年に再建され、その他の社殿も再建・修復を経て現在に至っている。また、戦後は神社本庁の別表神社に列している。

神階:
六國史時代における神階奉叙の記録
天平3(731)年12月10日、従三位 (『新抄格勅符抄』) - 表記は「氣比神」
承和2(835)年2月23日、正三位勲一等 (『続日本後紀』) - 表記は「氣比大神」
承和6(839)年12月9日、正三位勲一等から従二位勲一等 (『続日本後紀』) - 表記は「氣比大神」
承和7(840)年9月13日、従二位勲一等 (『続日本後紀』) - 表記は「氣比大神」
嘉祥3(850)年10月7日、正二位 (『日本文徳天皇実録』) - 表記は「氣比神」
天安3(859)年1月27日、正二位勲一等から従一位勲一等 (『日本三代実録』) - 表記は「氣比神」
六國史以後
寛平元(889)年7月17日、越前國神を一階昇叙 (『日本紀略』)
寛平5(893)年12月29日、正一位勲一等 (『類聚參代格』) - 表記は「氣比大神」
正一位勲一等 (『越前國内神名帳』) - 表記は「氣比大明神」

神職:
氣比神の祭祀は、古代には角鹿氏(つぬがうじ、角鹿直・角鹿海直)が担ったといわれる。この角鹿氏は敦賀における海上交通・漁業の統率者(海人族)であり、一説には角鹿國造の氏族ともいわれる。敦賀市には首長墓として5世紀末の向出山1号墳(直径約60メートルの円墳)が残るが、その副葬品には被葬者と朝鮮半島の深いつながりが指摘される。この角鹿氏は、7世紀後半頃には朝廷の支配下に入ったと見られている。
記録上では、宝亀7(776)年に朝廷から初めて宮司職が置かれ、宮司は従八位に準じたとある。以後、文献では宮司として大中臣氏・中臣氏の各人物が見える。延暦23(804)年からは、宮司の就任には神祇官の認可が必要となり、朝廷とのつながりを強めている。また承和2(835)年の記事では禰宜・祝の各職が見える。『延喜式』によれば、松原客館(渤海使の客館)の検校も宮司が担っていた。なお『朝野群載』には、承暦4(1080)年に神事を穢した祟りがあったため、神官に中祓を科した記録が見える。
古くは神職として大宮司・大祝・権祝・副祝・正禰宜・副禰宜職があり、48の社家は大中臣姓・角鹿姓を称したという(室町時代からは菅原姓も加わった)。人物としては特に、南北朝の争乱で恒良親王・尊良親王を奉じた大宮司の氣比氏治・斎晴親子が知られる。また検校・行司・別当・執当等36坊を数える社僧職もあったという。信長の越前侵攻後は、大中臣姓の東河端・西河端・北河端・石倉・石塚・平松の6家と、角鹿姓の嶋家、菅原姓の宮内家の計8家を残すのみとなった。この社家制度は、明治4(1871)年の太政官布告を以て廃止されている。

社領:
六國史時代における社領の記録は次の通り。
持統天皇6(692)年9月26日、20戸増封 (『日本書紀』) - 表記は「笥飯神」
天平3(731)年12月10日、従三位料として200戸 (『新抄格勅符抄』) - 表記は「氣比神」
天平神護元(765)年9月7日、44戸(計244戸) (『新抄格勅符抄』) - 表記は「氣比神」
上記のうち持統天皇6年の記事は「増封」であるため、これに先立ってすでに封戸があったとされる。また244戸という神封は、全国でも屈指の数になる。その後、『日本參代実録』によれば元慶8(884)年に神宮の封租穀は神庫に納めて祭祀費にあてられるともに、神戸の百姓の國役への充当が停止されている。
平安時代末期以降には社領が荘園化し、鳥羽院を本家として皇室領に入り、美福門院・八條院・春華門院・順徳院・後髙倉院・安嘉門院・室町院・亀山院・後宇多院・後醍醐天皇へと大覚寺統に伝えられた。また、律令制の崩壊とともに先の封戸も荘園化したとされる。それらの荘園領は建暦2(1212)年注進の目録によって知られ、同文によると社領は敦賀郡を中心とする越前國に加え、敦賀港・三國港の要港、越中・越後までの一部にまで及んでいた。作田は257町余で所当米は1,700石余、さらに請加米を加えると2,111石であった。そのうち本家分は702石余、領家分は292石余、大宮司(預所)分は177石余である。前述のようにこれら荘園の本家は皇室であったが、領家は九条良輔(九条兼実の子)の知行に始まって延暦寺属の青蓮院に伝えられた。
応仁の乱の後は、武家による侵略を受けながら朝倉氏滅亡までは所々の社領を有したが、朝倉氏の滅亡後に衰退した。江戸時代の社領は100石であった。

社殿:
主要社殿は昭和20(1945)年の空襲で焼失したため、いずれも戦後の再建である。本殿(本宮)は昭和25(1950)年の再建で、南面して鎮座する。本殿の周囲には東殿宮(本殿の東)・総社宮(東北)・平殿宮(西北)・西殿宮(西)の4社殿が建てられ、これらは「四社の宮(ししゃのみや、四社之宮)」と総称される。四社の宮はいずれも平成に入っての再建社殿である。また、本殿に接続して内拝殿・外拝殿が建てられているが、これらは昭和の大造営時の再建になる。
戦災で焼失した旧本殿は、江戸時代初期の慶長19(1614)年に結城秀康によって再建されたもので、旧国宝に指定されていた。桁行三間・梁間四間、「両流造」という独特の形式の大規模な社殿で、屋根は檜皮葺、正面には一間の向拝が付設されていた。また内部は正面一間通りを外陣とし、奥は一間ごとに3分割して中央間に中陣・内陣・内々陣を設け、左右脇間は空殿とされていた。『氣比宮旧記』によれば、そのうち内々陣の中央に仲哀天皇、右(西)に神功皇后、左(東)に保良太神(伊奢沙別命)が祀られていたという。
社務所は平成23(2011)年の再建。以前の社務所では裁判所庁舎が移転・使用されていた。

大鳥居
境内入り口に建てられている大鳥居(上写真左)は、江戸時代前期の正保2(1645)年の造営。木造朱塗の両部鳥居で、高さ36尺(10.93メートル)・柱間24尺である。扁額「氣比神宮」は有栖川宮威仁親王の染筆になる。
神宮の境内入り口は古くは東側にあったため、初代鳥居は弘仁元(810)年に境内東側に建てられていたが、その鳥居は康永2(1343)年に大風で倒壊したという。そして、寛永年間(1624年-1644年)に佐渡の旧神領地の鳥居ケ原から奉納された榁(むろ)の大木を使用して、現在の大鳥居が境内西側に建てられたと伝える。この鳥居は空襲の被害を免れており、国の重要文化財に指定されている。また、奈良の春日大社・広島の厳島神社の大鳥居とともに「日本三大鳥居」にも数えられている。

摂末社:
現在の摂末社は、摂社5社・末社9社の計14社(いずれも境内社)。摂社は伊佐々別神社以外は式内社で、末社のうちでも大神下前神社は式内社である。
これら摂末社のうち、本殿向かって左手に鎮座する伊佐々別・天利劔・天伊弉奈姫・天伊弉奈彦・擬領・劔・金・林・鏡の9社には本宮と関係が深い神々が祀られており、「九社の宮(くしゃのみや、九社之宮)」と総称される。『続日本後紀』によると、天利劔・天伊弉奈姫・天伊弉奈彦の3社は「氣比大神之御子」であるという。

摂社
98-1 角鹿神社 つぬがじんじゃ
祭神:都怒我阿羅斯等命(つぬがあらしとのみこと)、合祀に松尾大神
社格:式内社「角鹿神社」、越前國内神名帳「正四位 敦賀神」
地名「敦賀」の発祥地と伝える。境内東側の裏参道に鎮座する。『氣比宮社記』や「氣比宮古図」では「政所神(まんどころのかみ)」と見える。また、正安2(1300)年まで東口が境内表口であったことにより、別に「門神(かどのかみ)」とも称されていた。
祭神の都怒我阿羅斯等は、『日本書紀』において垂仁天皇の時に渡来したと記されている意富加羅国(任那国)王子で、同書では笥飯浦に至ったと見える。神宮の伝承では、その後天皇は阿羅斯等に当地の統治を任じたといい、この角鹿神社はその政所跡に阿羅斯等を祀ったことに始まるとして、「敦賀(つるが)」の地名は当地を「角鹿(つぬが)」と称したことに始まるとしている。
角鹿神社の祭神を都怒我阿羅斯等とする説は諸文献に記されているが、一方で祭神を角鹿国造祖の建功狭日命(たけいさひのみこと)とする説もある。建功狭日命は『先代旧事本紀』に角鹿国造として見える人物で、江戸時代末期まで角鹿神社の社家であった島家が角鹿氏後裔を称したことからも、角鹿氏祖と推測される建功狭日命説が有力視されている。またこれとは別に、この角鹿神社は古くからの敦賀の地主神であったとして、イザサワケ並びに応神天皇が主神として本宮に祀られるとともに、その客神の地位に位置づけられたと見る説もある。なお、松尾大神は天保10(1839)年の合祀とされる。
明治10(1877)年に神宮摂社の第一に定められた。社殿は流造銅板葺。嘉永4(1851)年の改築によるもので、神宮の境内社では唯一戦災を免れている。

九社の宮
 写真左・・北面:手前 伊佐々別神社、奥 擬領神社
 写真右・・東面:手前から 天井弉奈彦神社、天井弉奈姫神社、天利劔神社、鏡神社、林神社、金神社、劔神社
第九拾八 氣比神宮 福井県敦賀市鎮座_a0057057_1811178.png第九拾八 氣比神宮 福井県敦賀市鎮座_a0057057_2135122.png

98-2 伊佐々別神社
いささわけじんじゃ
祭神:御食津大神荒魂(みけつおおかみあらみたまのかみ)
九社の宮の一社として本殿西側に鎮座する。祭神は本宮主祭神の荒魂である。社伝では、氣比神から御食の魚を賜った誉田別命(応神天皇)が、武内宿禰に命じて新たに氣比神の荒魂を勧請したことに始まるという。漁撈の神であるとされ、海を向くために社殿は北面するという。

98-3 天利劔神社
あめのとつるぎじんじゃ
祭神:天利劔大神(あめのとつるぎのおおかみ)
社格:式内社「天利剣神社」、越前国内神名帳「正四位 天利剣神」
九社の宮の一社で、第五之王子宮。社伝では仲哀天皇による宝剣の奉納に始まるという。『続日本後紀』によると承和7(840)年に無位から従五位下に昇叙された。
明治10(1877)年に境内摂社に定められた。社殿は戦災で焼失、昭和55(1980)年に流造銅板葺で再建。

98-4 天伊弉奈姫神社
祭神:天比女若御子大神(あめひめわかみこのおおかみ)
社格:式内社「天比女若御子神社」、越前國内神名帳「正四位 天若神子神」
「あめのいざなひめじんじゃ」。九社の宮の一社で、第六之王子宮。社伝では天伊弉奈姫神社・天伊弉奈彦神社の2社は造化陰陽2柱を祀るという。『続日本後紀』によると「天比女若御子神」として承和7(840)年に無位から従五位下に昇叙された。
明治10(1877)年に境内摂社に定められた。社殿は戦災で焼失、昭和55(1980)年に流造銅板葺で再建。

98-5 天伊弉奈彦神社
祭神:天伊弉奈彦大神(あめのいざなひこのおおかみ)
社格:式内社「伊佐奈彦神社」、越前國内神名帳「正四位 天伊佐奈彦神」
「あめのいざなひこじんじゃ」。九社の宮の一社で、第七之王子宮。社伝では天伊弉奈姫神社・天伊弉奈彦神社の2社は造化陰陽2柱を祀るという。『続日本後紀』によると「天伊佐奈彦神」として承和7(840)年に無位から従五位下に昇叙された。
明治10(1877)年に境内摂社に定められた。社殿は戦災で焼失、昭和55(1980)年に流造銅板葺で再建。

末社
98-11 擬領神社
祭神:建功狭日命(たけいさひのみこと)
「おおみやつこじんじゃ」。九社の宮の一社。祭神は一説に大美屋都古神(おおみやつこのかみ)とも、玉佐々良彦命(たまささらひこのみこと)とも。建功狭日命は『先代旧事本紀』に角鹿國造祖と記されている人物である。

98-12 劔神社
祭神:姫大神尊(ひめのおおかみのみこと)
「つるぎじんじゃ」。九社の宮の一社で、第一之王子宮。社伝では、敦賀市莇生野の劔神社からの勧請という。

98-13 金神社
祭神:素盞嗚尊(すさのおのみこと)
「かねのじんじゃ」。九社の宮の一社で、第二之王子宮。社伝では弘仁7(816)年に参詣した空海が金神社の霊鏡を高野山に遷したとして、高野山鎮守社の丹生都比売神社で祀られる氣比神は当社にあたるという(ただし、現在の丹生都比売神社では祭神を大食都比売神とする)。

98-14 林神社
祭神:林山姫神(はやまひめのかみ)
「はやしのじんじゃ」。九社の宮の一社で、第三之王子宮。社伝では延暦7(788)年に参詣した最澄が林神社の霊鏡を比叡山に遷したとして、比叡山鎮守社の日吉大社で祀られる氣比神は当社にあたるという(ただし、現在の日吉大社では祭神を仲哀天皇とする)。

98-15 鏡神社
祭神:神功皇后奉献の宝鏡の神霊
「かがみのじんじゃ」。九社の宮の一社で、第四之王子宮。社伝では、神功皇后が奉献した神宝のうち宝鏡が霊異をなしたので、別殿に國常立尊とともに「天鏡宮(あめのかがみのみや)」として祀ったことに始まるという。

98-16 大神下前神社
祭神:大己貴命、合祀に稲荷神・金刀比羅神
社格:式内社「大神下前神社」、越前国内神名帳「従五位 大神下前神」または「従五位 道後神」、旧村社
例祭:10月10日
「おおみわしもさきじんじゃ」。角鹿神社とともに裏参道に鎮座する。古くは「道後神社」と称し、神宮の北方鎮守社として天筒山山麓の宮内村(現 敦賀市金ケ崎町)に鎮座したとされる(旧社地は不詳)。明治9(1876)年に村社に列したが、明治44(1911)年に鉄道敷設に伴って境内に遷座した。本殿は流造檜皮葺。

98-17 兒宮(児宮)
祭神:伊弉冊尊
例祭:11月15日
「このみや」。角鹿神社とともに裏参道に鎮座する。寛和2(986)年に遷宮があったといい、それ以前からの鎮座と伝える。江戸時代以降は子育て・小児の守護神として信仰されている。

第九拾八 氣比神宮 福井県敦賀市鎮座_a0057057_17414152.png98-18 猿田彦神社
祭神:猿田彦大神
表参道の大鳥居近くに鎮座する。祭神は氣比神を案内する神であるという。

98-19 神明両宮
祭神:天照皇大神(内宮)、豊受大神(外宮)
九社の宮と並んで鎮座する。外宮は慶長17(1612)年、内宮は元和元(1615)年の勧請。

現地参拝:28.10.12

参考資料:Wikipedia(2017年1月16日)
記事:
 投稿:29.5.-7

by fbox12 | 2017-05-07 22:47 | 神社