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三菱鉱業株式会社(三菱石炭鉱業株式会社)

美唄鉄道線
三菱鉱業株式会社(三菱石炭鉱業株式会社)_a0057057_14563785.png概要:
4110形タンク機関車の活躍する路線として鉄道ファンの間で有名だった美唄鉄道は、石狩石炭株式會社(社長浅野総一郎)が明治39(1906)年に敷設免許を取得した石炭輸送のための専用鉄道が前身である。この専用鉄道は美唄 - 沼貝(後の美唄炭山)間に計画され、明治41(1908)年夏頃には路盤工事を終えていたが、諸般の事情により石狩石炭は沿線の鉱区の多くを失ったことから工事は中断、さらに明治44(1911)年の洪水で路盤や石垣の多くが流出する被害を受け、そのまま竣功期限を迎えた。
その後石狩石炭は残った鉱区を開発するために再度専用鉄道敷設願いを提出するが、沿線の有力鉱区の所有者となった飯田延太郎や、山林や共同牧場の所有者である桜井良三他数名が、石狩石炭の占有を恐れて同区間に軽便鉄道敷設免許を申請したため、競願する形となった石狩石炭は新たに軽便鉄道敷設免許(1067mm軌間、蒸気動力)を申請、大正2(1913)年にこれを取得した。これは先の専用鉄道を改良の上完成して旅客・貨物運輸に使用するもので、当初は運転管理を鐡道省(国鉄)に委託する計画であったが、開業間近になって鐡道省より7010形蒸気機関車、三等客車、貨車等の払下げを受けられたことから、自社での運転管理に変更した。大正3(1914)年11月5日に美唄 - 沼貝(後の美唄炭山)間の一般運輸営業を開始した。
ところが石狩石炭は、開業翌年の大正4(1915)年8月31日付で美唄軽便鐡道の施設・車両・用地等すべてと所有する鉱区の一部を手放し、美唄炭礦を所有する飯田延太郎に売却した。さらに約1か月後に飯田は三菱合資會社(のちの三菱鑛業)が9月29日に設立した美唄鐡道株式会社に鉄道の一切を売却、10月11日より美唄鐡道としての営業が始まった。
さらに炭鉱の奥部開発の進展に伴って三菱鑛業が使用していた美唄炭山 - 北弐ノ沢間の専用鉄道を大正13(1924)年に買収して地方鉄道に変更、このうち美唄炭山 - 北壱ノ沢(常盤台に改称)間の保安設備等を改良して一般運輸営業を開始した。北壱ノ沢 - 北弐ノ沢間については休坑中の弐ノ沢坑の再開坑まで設備を改良せずに未開業としたが、結局再開の目途が立たず、昭和12(1937)年に起業廃止となった。
昭和25(1950)年、三菱鑛業は企業再建整備法に基づく整備計画によって金属鉱山部門を分離して太平鑛業(のちの三菱金属鑛業)とした上、残る炭鉱部門の効率化を図ることになり、同社美唄礦業所と不可分の美唄鐡道を吸収して三菱鑛業美唄鐡道事務所とした。炭鉱の隆盛により輸送量も増加したが、昭和30(1955)年(昭和30年)に石炭鉱業合理化臨時措置法が施行されると閉山や合理化が始まった。三菱鉱業美唄礦業所も縮小・合理化が進められ、昭和40(1965)年には美唄炭礦株式会社として三菱鉱業より分離した。さらに、二度にわたる災害に見舞われた常盤坑を昭和45(1970)年7月に閉鎖し、竪砿のみの単独操業となったことから経営が悪化、事業の効率化のため昭和46(1971)年7月に同資本系列の三菱大夕張炭礦に吸収合併して同社美唄鉱業所となったが、翌昭和47(1972)年4月には閉山、美唄鉄道線も5月31日限りで廃止された。
当初は明治6(1873)年製の7010形機関車を初めとする鐡道省払下げの中古車両で運輸を開始した美唄鐡道だが、輸送量の増加に伴って国鉄4110形や9600形と同形の蒸気機関車を自社発注し、国鉄払下げの9200形などと共に使用した。旅客についても昭和10(1935)年に半鋼製ボギー客車を新造し、輸送力増強に努めた。同資本系列の三菱大夕張鉄道と共に戦後もずっと蒸気機関車牽引の混合列車であったが、昭和40(1965)年に国鉄気動車の払下げを受け、朝夕の一往復の混合列車を残して客貨分離を行った。炭鉱の経営が悪化した昭和45(1970)年には気動車を廃止して朝夕1往復の混合列車に逆戻りし、昼間の旅客輸送は同社バス(三菱鉱業バス、のちの美鉄バス*)に切り換えた。なお、鉄道廃止後に専業となったバス部門も、その後幾多の変遷を経て平成14(2002)年に廃業した。
(*バス路線にあっては、戦後、北海道内の地方鉄道でもバス事業の兼業が進んだが、同線については三菱鑛業社内で検討の結果、同社美唄鉄道事務所が担当した)

運行形態:
昭和40(1965)年に気動車を導入、客貨分離を図った。昭和42(1967)年時点で旅客列車は5往復であったが、廃線時は混合1往復となった。他に数本の貨物列車があった。最盛期でも旅客列車は7往復と2-3往復の区間列車しかなく、これは石炭輸送をしていた貨物を優先していたためで、一方並行するバス路線は道路の整備と共に充実し最大89往復運行していた。
運賃は、廃線直前の昭和46(1971)年から昭和47(1972)年当時、美唄駅 - 美唄炭山駅間で大人50円、子供25円。

歴史:
明治38(1905)年11月27日 石狩石炭が専用鉄道敷設免許申請
明治39(1906)年8月2日 美唄 - 沼貝間5M21C専用鉄道敷設免許
 10月 石狩石炭が美唄驛郊外より敷設工事を開始
明治42(1909)年石狩石炭が鉱区係争問題により敷設工事を中断
明治44(1911)年3月3日 沼貝 - 四ノ沢間専用鉄道敷設免許申請(書類不備により返戻)
明治45(1912)年4月 - 石狩石炭が敷設工事を再出願
(大正元年)12月22日 桜井良三らが北海道美唄軽便鐡道敷設免許申請(のちに却下)
大正2(1913)年9月17日 石狩石炭が美唄軽便鐡道美唄 - 沼貝間の軽便鉄道敷設免許申請
 10月14日 石狩石炭の美唄軽便鐡道に軽便鉄道敷設免許(1067mm軌間、蒸気動力)
大正3(1914)3月 石狩石炭が敷設工事を再開
11月5日 美唄軽便鐡道美唄 - 沼貝(後の美唄炭山)間5M39C運輸営業開始(美唄、我路、沼貝の3驛開業)
大正4(1915)年8月31日 飯田延太郎が石狩石炭より美唄軽便鐡道の施設・権利等一切と鉱区の一部を譲受
 10月11日 美唄鐡道が飯田延太郎より鉄道施設・権利等一切を譲り受けて運輸営業開始
大正6(1917)年5月31日 三菱鑛業に沼貝(のちの美唄炭山) - 北壱ノ沢(のちの常盤台)間専用鉄道敷設免許
大正7(1918)年3月1日 三菱鑛業に北壱ノ沢 - 北弐ノ沢間専用鉄道敷設免許
 9月1日 沼貝驛を美唄炭山驛に改称(届出日)
大正8(1919)年7月10日 三菱鑛業専用鉄道 美唄炭山 - 北弐ノ沢間運輸開始届
大正11(1922)年11月7日 美唄驛を国鉄との共同使用駅とする契約を結ぶ。
大正13(1924)年11月14日 美唄鐡道による三菱鑛業美唄炭山 - 北弐ノ沢間2M22Cの専用鉄道買収および地方鉄道に変更許可
 12月6日 北壱ノ沢驛を常盤台驛に改称(届出日)
 12月15日 美唄炭山 - 常盤台間1M35C運輸営業開始(常盤台驛開業)
大正14(1925)年12月15日 盤の沢驛開業
昭和12(1937)年3月15日 常盤台 - 北弐ノ沢間1.5km起業廃止許可
昭和23(1948)年1月10日 東明驛開業
昭和25(1950)年4月25日 三菱鑛業が美唄鐡道を吸収し、三菱鑛業美唄鐡道事務所による三菱鑛業美唄鐡道となる。
昭和31(1956)年6月1日 国鉄連絡運輸業務を大夕張鉄道との併合精算に変更し、三菱鉱業美唄鉄道線となる。
昭和40(1965)年4月1日より 三菱美唄炭礦の企業縮小合理化に伴い鉄道事業順次合理化。東明・我路・美唄炭山各駅の委託化
 12月 ディーゼルカー導入。客貨分離。
昭和45(1970)年10月1日 鉄道事業再合理化。東明・盤の沢・我路・美唄炭山各駅の無人化。ディーゼルカー全廃(混合列車復活)。
昭和47(1972)年6月1日 美唄炭鉱の閉山に伴い、美唄鉄道線美唄 - 常盤台間10.6km廃止

路線データ:
路線距離(営業キロ):美唄 - 常盤台間 10.6km
軌間:1067mm
駅数:7駅(起終点駅含む)
複線区間:なし(全線単線)
電化区間:なし(全線非電化)
閉塞方式:タブレット閉塞式

駅一覧
美唄駅 - 東美唄信号所 - 東明駅 - 盤の沢駅 - 我路駅 - 美唄炭山駅 - 常盤台駅


大夕張鉄道線(廃止時:三菱石炭鉱業株式会社)
三菱鉱業株式会社(三菱石炭鉱業株式会社)_a0057057_2126480.png概要:
明治44(1911)年開業の大夕張炭礦専用鐡道(清水澤 - 南大夕張)の経営主体が三菱合資・三菱鑛業として代わったのち、炭鉱の北部開発により延長され昭和14(1939)年に三菱鑛業株式會社線(清水澤 - 大夕張炭山)として地方鉄道に改組・開業した。昭和25(1950)年には美唄鐡道株式會社の吸収により「三菱鑛業大夕張鐡道」となり、昭和31(1956)年6月国鉄との連絡運輸の精算を美唄鉄道との併合精算に変更、「三菱鉱業大夕張鉄道線」となった。
沿線炭鉱の石炭輸送や、夕張岳山麓から森林鉄道により運び出された林産品の輸送に活躍する一方、道路が未整備だった昭和30年代後半まで沿線住民にとっては貴重な足であった。その後炭鉱の経営主体の変遷により昭和44(1969)年10月には三菱大夕張炭礦株式会社、昭和48(1973)年12月には三菱石炭鉱業株式会社に譲渡され、相次ぐ閉山・合理化により昭和62(1987)年7月に廃止された。
廃止後、およそ20年余を経て沿線の変化は激しい。国道の防災工事や現在進行中の夕張シューパロダム建設工事の影響もあり鉄道の痕跡は確実に消滅しつつある。清水沢駅構外の大夕張炭山駅方にあった転車台跡にはシューパロダム建設に伴い大夕張地区(鹿島)から移転した住民のために集合住宅が建設されている。清水沢・遠幌間にあった葡萄山トンネルも国道の防災工事により消滅した。
遠幌駅舎も既に無く、駅前には北炭遠幌炭鉱の事務所であった建物が残るだけである。遠幌・南大夕張間の遠幌加別川橋梁も橋台・橋脚とも綺麗に撤去されており、遠幌駅の構外側線扱いだった北菱岐線には、石炭積込のポケット(ホッパー)の基礎が残っている。
南大夕張駅跡には三菱大夕張鉄道保存会により客車や石炭貨車などの鉄道車両が保存されている。これらは平成13(2001)年に「空知の炭鉱関連施設と生活文化」として北海道遺産として指定されたのに加え、平成19(2007)年11月30日には経済産業省より近代化産業遺産として認定された。
平成26(2014)年3月4日から夕張シューパロダムの試験湛水開始により南大夕張以北、大夕張(鹿島)地区の廃線跡の大半は水没した。南大夕張以北の廃線跡に並行する国道は平成23(2011)年12月に新道に切替えられ、旧道はダム工事の専用道路として利用されていたがこれも水没している。以下は水没前の状況である。青葉トンネルはシューパロダム堤体建設に伴い、国道迂回路となり拡幅使用されたが、大夕張ダム管理事務所横には崩落覆いが当時のまま残っていた。シューパロ湖駅跡も階段と土台が残っていたが、明石町駅跡前後には比較的鉄道の痕跡が多く残っていた。清水沢駅方には明石沢(8号)橋梁、大夕張炭山駅方には旭沢 (5号) 橋梁が残り、明石町駅跡にもホームへの連絡地下道の跡が残っていた。 千年町駅以北の廃線跡は水没を免れている。住民が集団移転した大夕張地区(鹿島)にはダム工事のプラントが設けられたが、千年町駅跡の痕跡もない。大夕張駅跡もコンクリートの基礎が確認出来る。大夕張炭山駅跡も背後に残るずり山の存在が、かつてここに炭鉱があったことを伝える。

路線データ:
路線距離(営業キロ):清水沢 - 大夕張炭山間17.2km
軌間:1067mm
駅数:8駅(起終点駅含む)
複線区間:なし(全線単線)
電化区間:なし(全線非電化)
閉塞方式:タブレット閉塞式

運行形態:
内閣鐡道院運転管理下の専用鉄道時代の詳しい運行状況は不明だが、夕張機関庫に所属する機関車が入線し、残された写真から7200形や9030形、9050形等が入線し石炭輸送に当たっていたことがわかっている。
自営運転開始、地方鉄道化後は9200形、9600形、C11形が混合列車や貨物列車の牽引に活躍したが昭和48(1973)年には国鉄DD13形と同等の社形DL55形が導入された。保存目的を別にすると、日本の私鉄で旅客営業に蒸気機関車を用いた路線はここが最後であった。
気動車を導入したことは無く、廃線まで機関車が客車・貨車を牽引する方式だった。混合列車は昭和43(1967)年時点では1日7往復(内1往復は区間列車)、昭和62(1987)年の廃止直前時点では1日3往復運転されていた。冬季、客車暖房にはダルマストーブが使用され人気を集めた。他に数本の貨物列車があった。
全線廃止直前時点での運賃は初乗り40円、清水沢 - 南大夕張間が60円で、北大阪急行電鉄と並ぶ日本一の低運賃であった。
歴史:
明治44(1911)年6月1日 大夕張炭礦専用鐡道 清水澤 - 弐股(のちの南大夕張)間7.6km開業(21日説あり)
大正5(1916)年2月17日 大夕張炭礦が三菱合資會社に合併
大正7(1918)年4月10日 三菱合資會社炭坑部を分離し三菱鑛業設立
 6月14日 三菱鑛業に移管後労務係詰所を大夕張驛と称した。
昭和4(1929)年1月22日 大夕張驛を南大夕張驛に、北部驛を大夕張驛に改称
昭和4(1929)年6月1日 南大夕張 - 通洞間9.6km開業
昭和13(1938)年10月20日 通洞驛を大夕張炭山驛に改称
昭和14(1939)年4月20日 清水澤 - 大夕張炭山間17.2kmを専用鉄道から地方鉄道に変更。大夕張 - 大夕張炭山間は貨物営業のみ
昭和15(1940)年9月1日 遠幌加別驛開業
昭和17(1942)年8月1日 遠幌加別驛を遠幌驛に改称
昭和20(1945)年5月6日 (臨)農場前驛(初代)開業
 9月1日 大夕張鑛業所に鐡道課設置
昭和21(1946)年2月1日 (臨)第弐農場前驛開業。農場前驛を第壱農場前驛に改称
昭和22(1947)年1月16日 清水澤驛乗入れ。新清水澤驛廃止
昭和25(1950)年4月25日 三菱鑛業が美唄鐡道を吸収・合併。三菱鑛業大夕張鑛業所鐡道課による「三菱鑛業大夕張鐡道」となる。
 11月1日 千年町駅開業。第一農場前駅を通年営業とし明石町駅に改称。第二農場前駅を農場前駅(2代)に改称
昭和28(1953)年12月25日 大夕張 - 大夕張炭山間旅客営業開始
昭和31(1956)年6月1日 国鉄との連絡運輸の精算を美唄鉄道との併合精算に変更。「三菱鉱業大夕張鉄道線」となる
昭和37(1962)年6月1日 シューパロ湖駅開業
昭和44(1969)年10月1日 シューパロ湖駅廃止(・・車内乗車券はこの頃のもの)
昭和44(1969)年10月1日 清水沢 - 大夕張炭山間を三菱大夕張炭礦に譲渡。三菱大夕張炭礦大夕張鉄道となる。
昭和48(1973)年12月15日 三菱大夕張炭礦が三菱高島炭礦と合併し三菱石炭鉱業に社名変更
 12月16日 三菱大夕張炭鉱閉山に伴い南大夕張 - 大夕張炭山間廃止
昭和62(1987)年7月22日 三菱南大夕張炭鉱の合理化に伴い、清水沢 - 南大夕張間7.6km廃止

駅一覧
清水沢 - 新清水沢 - 遠幌駅 - 南大夕張 - 農場前駅 - シューパロ湖駅 - 明石町 - 千年町 - 大夕張 - 大夕張炭山


(参考資料:Wikipedia 平成27(2015)年8月25日更新・・美唄鉄道線 / 同9月12日更新・・大夕張鉄道線)
by fbox12 | 2016-06-18 23:01 | 鉄道・バス