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fbox12 blog (博物館fbox12 館長の資料収蔵庫)

C55形蒸気機関車

C55形蒸気機関車_a0057057_17595367.jpgC55形蒸気機関車は、日本国有鉄道(国鉄)の前身である鐵道省が設計した亜幹線旅客列車用中型テンダー式蒸気機関車の一つである。愛称はシゴゴ。

1930年代に入ると、亜幹線の旅客輸送力強化を目的として、*丙線規格の路線に入線可能なC51形の後継機種の製造が計画された。しかし、最初に設計されたC54形(昭和25(1931)年)は、ボイラー圧力の高圧化と過度の軽量化に起因し空転(車輪のスリップ)を頻発するなど、乗務員からの不評が殺到し、わずか17両で生産が打ち切られていた。
そこで、丙線規格の各線で不足する旅客列車用機関車を補うべく設計されたのが本形式である。本形式は、C54形の失敗を教訓としつつ、より新しい技術を取り入れたものであった。
本形式は内地向けには昭和10(1935)年に製造が開始され、川崎車輛、汽車製造会社、三菱重工業、日立製作所の4社により、昭和12(1937)年までの間に3次に分けて合計62両が製造された。
63号機以降も一部設計変更のうえで本形式が増備される計画であったが、当該設計変更が多岐に渡ったことから、63号機に相当するもの以降には、C57形という新形式が付与された。結果、本形式は62両で製造が打ち切られた。
また、内地向けのほか、当時日本統治下にあった台湾の臺灣總督府鐵道向けに、昭和10(1935)年および昭和13(1938)年に同形車9両が納入されている。最初の5両は基隆機関区に配置され、増備車が揃った昭和14(1939)年には臺北機関区5両、苗栗機関区4両となっていた。昭和20(1945)年に日本が太平洋戦争に敗れた後は、臺灣鐵路管理局に引き継がれてCT250形となった。

本形式は各部においてC51形やC54形をそのまま踏襲しているが、それらの不都合な点について改良が加えられた。
まず、強力な(自動空気)ブレーキの採用の結果、下り勾配走行中に急ブレーキをかけた際に水面傾斜が原因で蒸気ドーム内に湯が入り込むというトラブルが発生したことから、蒸気ドームの位置が設計変更された。また、これにあわせて砂箱(摩擦力を増して空転を防ぐ目的で線路に撒かれる砂を入れたもの)も移設された。
また、電気溶接技術の進歩を受けて溶接工法の採用部位を大幅に拡大し、外観上リベットを減少させるとともに多くの部分に直線基調のディテールを採ったことと併せて、それまでの古典的機関車に比して格段にモダナイズされた。
その他、空転防止のため各動軸の軸重を増し、そのことにより動輪の構造を強化した。
大型蒸気機関車としては最後のスポーク動輪採用形式である。

流線形:
本形式が登場した時代は世界各国で鉄道車両や自動車の流線形ブームが起こっていた。これは美観とともに高速化に伴う空気抵抗を減らすことを目指したものであった。その流れに沿い、[C53 43]で試験された流線形構造が本形式にも本格導入され、昭和11(1936)年製の2次車([C55 20] - [C55 40])の21両は新造時から流線形デザインにて登場した。

この構造は、形状面では[C53 43]と同様に、ボイラー前端の煙室部分を斜めに欠き取り煙室扉周辺を傾斜させた上で、ボイラー全体にケーシングを被せ、前部デッキからランボード(狭い通路の様なもの)、運転台までの足回りをスカートとケーシングで覆った構造であった。これにより、炭水車でも全溶接構造の車体上部までケーシングが伸びており、台車周辺をスカートで覆うことにより一体感が演出された。
なお、[C53 43]では独立した大型除煙板(デフレクタ)を取り付けず、ボイラーケーシングの煙突周辺に小型の除煙板を形成するに留めていたが、本形式では小型除煙板に加え、ランボード上のサイドスカートから連続する形で半円形の背の低い大型除煙板も立てられた。
これらのケーシングやスカートの意図は、デモンストレーション効果だけでなく、空気の流れを良くすることで煙突から排出される煤煙が列車に絡みつくのを防ぐことであったといわれる。また、流線形の初期製造車では側面にステンレス製の飾り帯が付けられていたが、後期製造車では省略された。これらの流線形機は、四国以外の全国各地に数両ずつ分散して配置され、主に急行列車を牽引した。名古屋機関区配属の[C55 24] - [C55 26]は臨時特急「燕」の牽引にも起用された。
しかし、同時期のEF55形電気機関車でも採用された流線形は、実用上の効果がほとんどないと判断され、さらに現場からも嫌われ、早い時期に先台車周辺のスカートや炭水車上部のケーシングの撤去が始まった。流線型の実用上の効果のなさは、昭和11(1936)年5月に鹿児島本線で鐵道省運転課や門司鐵道局などの関係者が立会いの下10日間にわたって行われた牽引力や走行状態に関する試運転の結果、当時の鐵道省における旅客列車の最高速度である100km/h前後までの運転速度において、流線形化による製造費や機関車重量の増加に見合うほどの空力面での利点がないと判断された。また現場からは、様々な部分がケーシングに覆われているため、整備点検の際にはそれらを取り外すか点検蓋を開ける必要があることから一般車より手間が余計にかかり、給水・給炭や火床整理にも不便なこと、空気シリンダーで開閉する構造だった煙室戸は故障で作業中の燃料掛が一時閉じ込められたこと、密閉式運転台はその内部に熱がこもりやすく、単線区間では通票の取り扱いにも難儀すること、炭水車は内部に設置されていた石炭押寄せ装置(炭庫後方部の押寄せ板を蒸気ピストンによって前後動させるもの)が、石炭の固着により動作不能となって故障することもあって運転中の石炭かき寄せ作業ができない、といった問題が指摘された。後に太平洋戦争か激化すると、足回りを中心にスカートやケーシングの大半を撤去し、当初の外見とは大きく異なる無惨な姿で用いられた。

戦後になると、昭和25(1950)年から翌26(1951)年にかけて、これら本形式の流線形機は、残っていた流線形ケーシングが完全に撤去され、1次車とほぼ同等の外観となるように再整備が行われてその面目を一新した。ただし、特に改修を必要としなかった丸みを帯びた深い運転台の屋根や、側面の乗務員出入り口はそのまま残されが、一部の形状や機構は流線形機のままで、その面影を残していた。これらの流線形機から再整備されたものは流線形改造機、または流改機とも呼ばれた。これらについては流線形の新車当時よりも、再整備後の方が美しい、という評もある。これら再整備後の21両は一般車と完全に同等の扱いを受け、本形式の最終期まで徐々に数を減じつつ運用された。なお、これらは1両も現存しない。最後まで運用され保存予定だった30号機が手違いで解体されてしまったためである。

本形式は新造後、本州・九州・北海道の幹線・亜幹線を担当する各機関区へ配置され、運用が開始された。特に流線形となった2次車は、宣伝効果も考慮して全国の広範囲に少数ずつ分散して配置された。
本形式は、より近代化され、より強化されたC57形がすぐに登場し大量生産されたため、その影に隠れ、ともすれば目立ちにくいきらいはあった。しかし両者は、互いにほぼ同等に取り扱うことが可能な上、いずれも性能や使い勝手も良好であったことから、四国を除く各地の幹線・亜幹線で長期間にわたり重用された。
丙線規格路線に入線可能なこのクラスは需要が高かったことから、事故や戦災に遭わず昭和39(1964)年までは62両全てが在籍していた。本州では昭和41(1966)年頃までに転属や廃車で姿を消したが、北海道では昭和49(1974)年10月まで、九州では昭和50(1975)年3月まで現役にあった。北海道で最後の使用線区になった宗谷本線では、昭和45(1970)年12月まで夜行急行列車「利尻」を牽引したことや、道北の自然風景を背景にした姿がファンに強い印象を残している。

62両と少数製造であったこと、本州では比較的早期に廃車されたため、全体の形状を留める個体はわずかに4両のみである。 1号機が梅小路蒸気機関車館(写真:平成18(2006)年、「梅小路の蒸気機関車群と関連施設」として、準鉄道記念物に指定)に、50号機が小樽市総合博物館(鉄道・科学・歴史館、旧・北海道鉄道記念館)に、52号機が吉松駅前に、46号機(車番は53)が大分市若草公園にそれぞれ静態保存されている(注、1号機は、当初動態保存だった)。

*丙線規格:
もともとは鐵道省(戦後は運輸省)の国有鉄道建設規程で甲線、乙線、丙線に分類して線路種別と称していたもの。この建設規程は昭和4(1929)年に定められたものであり、後の情勢に合わなくなったため、昭和40(1965)年(国鉄の頃)になって、部内規程の線路管理規程において、各線区を1級線、2級線、3級線、4級線と分類した(線路等級と呼んでいた)。
線路等級は、年間の通過t数と列車速度を基準にして線路を破壊する力を算出して決められ、道床(レール下の土台)の厚さや枕木の構造・本数などにより等級が分けられる。1級線、2級線、3級線、4級線は、それぞれ軸重(レールにかかる車軸の重量)が18t、17t、15t、14tに、最高速度が110km/h、100km/h、95km/h、85km/h(一般列車の基本値)に制限されるなどの相違がある。

(以上、C55記事内容 Wikipedia:25.9.15更新から)

(29車14)
by fbox12 | 2014-06-28 18:36 | 鉄道・バス