fbox12 blog (博物館fbox12 館長の雑記帳)

リポビタンローヤル11

a0057057_21503959.pngミニチュアボトルコレクション1018

販売名:リポビタンローヤル11
品名:指定医薬部外品
原材料:
タウリン・ローヤルゼリー・シゴカ流エキス・クコシ流エキス・塩化カルニチン・イシリトール・ニコチン酸アミド・チアミン硝化物(ビタミンB1)・リポフラビン酸エステルナトリウム(ビタミンB2)・ピリドキシン塩酸塩(ビタミンB6)・無水カフェイン他添加物
容量:50ml
製造販売元:大正製薬株式会社(東京都豊島区高田三丁目24番1号)

記事投稿:29.7.19

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# by fbox12 | 2017-07-19 22:00 | コレクション

第佰伍 櫻山八幡宮 岐阜県高山市鎮座 

a0057057_23353859.pngさくらやまはちまんぐう

鎮座地:岐阜県高山市桜町178
祭神:八幡大神(応神天皇)
相殿:熱田大神(日本武尊命)
   香椎大神(仲哀天皇・神功皇后)
社格等:八幡神社、旧県社、神社本庁別表神社

概要:
秋の例祭は、春の日枝神社の例祭とともに高山祭として知られ、国の重要無形民俗文化財に指定されている。

歴史:
仁徳天皇65年、飛驒國に二つの顔を持つ宿儺(すくな)という賊が現れ、それを討伐するために派遣された難波根子武振熊命が戦勝祈願のために先代の応神天皇を祀ったのに始まると伝える。また、聖武天皇が諸国に設けた護国八幡だという説もある。江戸時代に金森氏が当地の領主となったとき氏神として当社を保護し、宮川以北の住民を氏子とした。明治時代に八幡神社に改称し、昭和7(1932)年に県社になる。櫻山八幡宮の名は戦後からという。境内に高山屋台会館があり、秋の高山祭に実際に曳き出される屋台が通年展示されている。近年、高山祭屋台会館と館名変更がなされている。
a0057057_23512439.png

参考資料:Wikipedia「桜山八幡宮」
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%9C%E5%B1%B1%E5%85%AB%E5%B9%A1%E5%AE%AE

現地参拝:-8.6.-8
記事投稿:29.7.18


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# by fbox12 | 2017-07-18 23:54 | 神社

226 倉賀野駅(JR東日本)

a0057057_17201844.png
くらがの

所在地:群馬県高崎市倉賀野町1797(JR東日本)
    群馬県高崎市東中里町65(JR貨物)
所属・路線:東日本旅客鉄道株式会社・高崎線/日本貨物鉄道株式会社
電報略号/事務管コード:ラノ/411414
キロ程:(大宮起点)70.3km

概要:
倉賀野駅は、群馬県高崎市にあり、JR貨物の駅は旅客駅の東側にあるため、両駅の所在地は若干異なる。
高崎線と八高線が乗り入れている。このうち、高崎線が当駅の所属線である。八高線は路線としては当駅が終点であるが、列車運行上は隣の高崎駅を起終点し、施設上の分岐点は当駅ではなく、北藤岡駅構内(高崎線に旅客扱い施設なし)となっている。また、高崎線は上野駅発着系統と、新宿駅経由で東海道線に直通する湘南新宿ライン、上野駅・東京駅経由で東海道線に直通する上野東京ラインが停車する。

歴史:
明治27(1894)年5月1日 - 日本鐵道の駅として開業。一般駅。
明治39(1906)年11月1日 - 日本鐵道国有化、国有鉄道(当時は逓信省鐵道作業局)の駅となる。
大正6(1917)年4月28日 - 岩鼻軽便鐵道開業。
昭和6(1931)年7月1日 - 八高北線(現在の八高線)開業。
昭和20(1945)年9月1日 - 岩鼻軽便鐵道廃止。
昭和42(1967)年10月1日 - 日本オイルターミナル高崎営業所開所。
昭和45(1970)年1月15日 - 荷物取扱廃止。
昭和62(1987)年4月1日 - 国鉄分割民営化によりJR東日本・JR貨物の駅となる。
平成13(2001)年11月18日 - ICカードSuica供用開始。

駅構造:
島式ホーム2面4線を有する地上駅で、橋上駅舎を有している。高崎駅管理のJR東日本ステーションサービスが業務を受託する業務委託駅で、みどりの窓口・自動改札機が設置されている。夜から早朝は無人時間があるので、乗車駅証明書発行機が改札前に設置されている。高崎線と八高線はホームを共用する。ホームは嵩上げされておらず、E233系やE231系等のステップのない車両には段差が生ずる。また、到着前の車内放送ではその案内がされる。発車ベルが整備されているが、高崎線の電車でのみ使用される(八高線の列車では省略される)。

のりば:
1・2番線 高崎線(八高線含む)下り 高崎・前橋方面
 2番線は定期旅客列車の入線なし
3・4番線 高崎線上り 大宮・東京・新宿・横浜方面(湘南新宿ライン)(上野東京ライン)
 4番線は定期旅客列車の入線なし。湘南新宿ラインの列車は大船駅から上野東京ラインの列車は上野駅を経由して東京駅から東海道線へ直通。八高線寄居・高麗川方面定期旅客列車は1番線(下り)と3番線(上り)のみ使用する。待避線(2番線・4番線)は旅客用としては予備ホームで、貨物列車が使用するのみである。貨物駅JR貨物の施設は旅客駅の東側にあり、「倉賀野駅貨物基地」の通称がある。基地を貫く1本の側線(主線、全長約2.5km)があり、この主線の先に操車場が設置されている。また、操車場からさらに先へ伸びる引き上げ線(入換線)があり、この線から駅構内へ戻るように多くの側線が分岐している。なお、この主線は岩鼻軽便鐵道の廃線跡を転用したものである。操車場の北側に1面2線のコンテナホームがあり、南側に日本オイルターミナル高崎営業所(油槽所)の石油荷役線、さらに南に1面1線のコンテナホームがある。また、操車場の駅構内側にはセメントターミナル高崎営業所の荷役線があるが、これは平成11(1999)年9月以降使用されていない。貨物駅構内の入換作業は、ジェイアール貨物・北関東ロジスティクス(旧・高崎運輸)が担当している。入換に用いる入換動車は他社から転籍されたDE10形ディーゼル機関車が使用される。かつては、当駅の西側にあった日本たばこ産業高崎工場(平成17(2005)年閉鎖)やキリンビール高崎工場(平成12(2000)年閉鎖)への専用線もあった。前者はコンテナ輸送も行っていたが工場閉鎖により廃止され、後者は横浜本牧駅発送の麦芽輸送などに使用されていたが、麦芽輸送の海上コンテナ化により1998年(平成10年)に廃止された。また、貨物基地周辺にある太平洋セメント高崎サービスステーション・日本ケロッグ高崎工場・岩谷産業群馬LPGセンターなどへの専用線もあった。

路線バス:
乗場 系統    主要経由地           行先    運行会社
11(倉賀野線)高崎産業技術専門校・商科大学前 高崎駅西口 高崎市内循環バスぐるりん
12(倉賀野線)下中居町東           高崎駅西口
15(岩鼻線) 群馬の森            昭和病院
16(岩鼻線) 産業創造館入口・上佐野町    高崎駅東口

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参考資料:Wikipedia「倉賀野駅」(最終更新 2017年6月4日)
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%80%89%E8%B3%80%E9%87%8E%E9%A7%85

現地取材:29.1.-5
記事投稿:29.7.14
  調整:29.7.18

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# by fbox12 | 2017-07-18 22:57 | 鉄道・バス

004 新日本橋駅(JR東日本)

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a0057057_1753452.pnga0057057_17112956.png

a0057057_1844368.pngしんにほんばし

所在地:東京都中央区日本橋室町四丁目4
所属・路線:東日本旅客鉄道株式会社・総武本線
(タイトル写真:4番出口/タイトル右下写真:3番出口)

概要:
当駅は総武本線の地下区間に設置されており、運転系統としては総武快速線の列車が停車する。
当駅に乗り入れているのはJR東日本のみであるが、当駅からの連絡通路を経由して、三越前駅に乗り入れる東京地下鉄(東京メトロ)の銀座線と半蔵門線との乗り換えが可能となっている。開業時から地下鉄の三越前駅との乗り換え駅だが、当駅開業当初の国鉄に「新駅を開設する際、駅名に私企業(名)を入れてはならない」旨の規約があり、そのため「三越」が使えず、なおかつ日本橋に近い事から、「新日本橋駅」の名称がつけられた。市販の地図に掲載されている路線図では、新日本橋・三越前両駅が乗り換え扱いになっていないものもいくつかある。なお、JR横須賀・総武快速線の電車内に掲出してある停車駅案内でも、当駅は銀座線・半蔵門線の乗り換え表示が省略されているが、自動放送では乗り換えのアナウンスが行われている。
建設時の仮称は「本町駅」と称していた。

歴史:
昭和47(1972)年7月15日 - 開業
昭和62(1987)年4月1日 - 国鉄分割民営化により、JR東日本の駅となる。
平成13(2001)年11月18日 - ICカードSuica供用開始
平成22(2010)年10月31日 - みどりの窓口営業終了

a0057057_193798.png駅構造:
島式ホーム1面2線を有する地下駅である。隣駅の馬喰町駅と同じ発車ベルが用いられている。エレベーターはホームと改札を結ぶものが設置されている。
かつては、切符売り場の横にみどりの窓口が設置されていたが、平成22(2010)年10月31日で営業を終了した。

入場券:
右上の入場券は、開業半年後のものである(料金30円)が、当時他の駅では硬券(硬いボール紙の切符)で発売されていた。
新しく出来たこの駅には新型の印刷発行(券)機が導入されたため、硬券の発売はなかった。

のりば:
1番線 総武(快速)・横須賀線 上り 東京・品川・横浜・横須賀方面
2番線 総武線(快速) 下り 津田沼・千葉・成田空港・大原・木更津方面

バス路線:
室町三丁目
(都営バス)
 <東42甲> 南千住駅西口・南千住車庫行き(浅草橋駅・東武浅草駅経由) / 東京駅八重洲口行き
 平成12(2000)年12月11日までは、<茶51>の駒込駅南口~東京駅丸の内北口線も発着していた。
JR新日本橋駅
(日の丸自動車興業)
 <メトロリンク日本橋> 日本橋二丁目・地下鉄京橋・宝町駅方面
 <スカイホップバス 浅草・東京スカイツリーコース> 東京駅丸ノ内三菱ビル方面
新日本橋駅
(日立自動車交通)
 <江戸バス(中央区コミュニティバス) 北循環> 中央区役所行(馬喰横山駅・浜町駅・水天宮前駅経由)


(参考資料:Wikipedia 平成27(2015)年9月16日更新)
記事投稿:27.10.26
  調整:29.7.14

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# by fbox12 | 2017-07-14 16:54 | 鉄道・バス

197 二宮駅(JR東日本)

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a0057057_2102649.pnga0057057_210555.jpga0057057_2111899.pnga0057057_2113748.png

にのみや

所在地:神奈川県中郡二宮町二宮838
所属・路線:東日本旅客鉄道株式会社・東海道本線
電報略号/事務管(駅)コード:ニノ/440123

歴史:
a0057057_2132396.png明治35(1902)年4月15日 - 官設鉄道(当時は逓信省鐵道局)東海道本線の駅として開業。旅客・貨物の取り扱いを開始
明治39(1906)年8月1日 - 当駅と秦野驛駅(現在の小田急線秦野駅とは別の場所)との間に湘南馬車鐵道(後の湘南軌道)が開通
昭和10(1935)年10月9日 - 湘南軌道営業休止(昭和12(1937)年8月25日廃止)
昭和20(1945)年8月5日 - 米軍戦闘機P-51による機銃掃射の被害を受け、5名が死亡
a0057057_2184813.png昭和46(1971)年9月25日 - 貨物取り扱い廃止
昭和47(1972)年3月15日 - 荷物取り扱い廃止
昭和57(1982)年10月 - 改築し橋上駅舎化
昭和62(1987)年4月1日 - 国鉄分割民営化により、東日本旅客鉄道の駅となる。
平成10(1998)年3月14日 - 当駅始発の列車が2本設定される。
平成13(2001)年11月18日 - ICカードSuica供用開始
平成16(2004)年 - 構内にエレベーター・エスカレーター設置

駅構造:
a0057057_219314.png島式ホーム1面2線を持つ地上駅。かつて駅舎は下り方に設置されていたが、現在は橋上駅舎となっている。みどりの窓口(営業時間7:00~19:00)・指定席券売機・自動改札機が設置されている。
国府津駅管理の業務委託駅(JR東日本ステーションサービス受託)。
昭和20(1945)年8月5日の機銃掃射の弾痕が、ホームの大磯側の天井梁に残っている。

のりば:
1番線 東海道線下り小田原・熱海・伊東・沼津方面
2番線 東海道線上り横浜・品川・東京・上野方面 (上野東京ライン含む)上野駅から宇都宮線・高崎線へ直通 (平塚・藤沢・大船方面)(写真)
 湘南新宿ライン北行横浜・渋谷・新宿方面 大宮駅から高崎線へ直通
平成10(1998)年3月14日ダイヤ改正より、平日朝ラッシュ時に当駅始発の上り列車が2本設定されている。これは、国府津車両センターから出庫する際に国府津駅の線路容量が足りないため、当駅まで回送して営業運行しているものである。なお、当駅止まりの列車の設定はない(上写真の列車が先に発車の高崎線内快速「アーバン」高崎行き。「グリーンアテンダント」は、先行列車に国府津から便乗している)。

発車メロディ:
発車メロディは平成28(2016)年1月9日から、吾妻山公園の早咲きの菜の花にちなんで「朧月夜(おぼろづきよ)」が使用されている。当初は同年4月10日までの期間限定使用の予定であったが、その後も継続使用されることになった。

参考資料:Wikipedia(2017年1月6日)
記事:
 取材:28.5.15/29.1.-5
 投稿:
 調整:29.7.14

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# by fbox12 | 2017-07-14 16:28 | 鉄道・バス

213 中部天竜駅(JR東海)

a0057057_227079.pngちゅうぶてんりゅう

所在地:浜松市天竜区佐久間町半場15-3
所属・路線:東海旅客鉄道株式会社・飯田線
電報略号/事務管コード:チウ/521732

概要:
飯田線の要所となる駅であり、飯田線の静岡県内にある駅では唯一の有人駅である。
普通列車は朝を中心に当駅始発の列車が数多く設定されており、特急「伊那路」、快速列車も停車する。かつて運転されていた臨時列車「トロッコファミリー号」の終着駅でもあった。また、二俣線遠江二俣駅(現 天竜浜名湖鉄道天竜浜名湖線天竜二俣駅)から乗り入れる「佐久間線」(未成線)の終点に予定されていた。
かつては駅構内に鉄道車両を展示する「佐久間レールパーク」が併設されていたが、平成21(2009)年に閉園した。
平成24(2012)年3月17日より、当駅以南(豊橋方面)を走る一部の列車がワンマン化された。ただし当駅以北(飯田方面)へ直通する列車は当駅から車掌が乗務することもある。

歴史:
駅名は、天竜川を挟んだ対岸の地名、中部(なかっぺ)に由来し、現在でも浜松市天竜区佐久間町中部(なかべ)と言う読みで地名が残っている。当初は「なかっぺてんりゅう」という読みであったが途中で現在の読みに変更されている。
昭和9(1934)年11月11日 - 三信鐵道が三信三輪驛(現 東栄駅)から延伸した際の終着駅である佐久間驛(さくまえき、初代)として開業。旅客と貨物をともに扱う一般駅であった。
昭和10(1935)年5月24日 - 中部天龍驛(なかっぺてんりゅうえき)への改称を届出
昭和11(1936)年11月10日 - 三信鐵道線が佐久間水窪口停留場(現 佐久間駅)を経て天龍山室驛まで延伸し、途中駅となる(ただし佐久間水窪口停留場から先は昭和30(1955)年のルート切り替え時に廃止)。
昭和17(1942)年3月24日 - 中部天龍驛(ちゅうぶてんりゅうえき)への(読み替え)改称を届出
昭和18(1943)年8月1日 - 三信鐵道線が飯田線の一部として国有化され、鐵道省の駅となる。
a0057057_2149459.png昭和55(1980)年10月1日 - 専用線発着を除く車扱貨物取り扱い廃止
昭和57(1982)年3月31日 - 車扱貨物取り扱い全廃
昭和59(1984)年2月1日 - 荷物取扱廃止
昭和62(1987)年4月1日 - 国鉄分割民営化によりJR東海が継承
平成3(1991)年4月21日 - 構内に「佐久間レールパーク」開設
平成8(1996)年3月16日 - 定期特急「(ワイドビュー)伊那路」運転開始。停車駅となる。
平成21(2009)年11月1日 - 「佐久間レールパーク」閉園

駅構造:
島式ホーム1面2線と側線を持ち、列車交換が可能な地上駅。駅舎とホームは、ホームの下川合駅側にある構内踏切で連絡している。
駅長配置駅(直営駅)である。管理駅として、飯田線の静岡県内にある各駅(出馬駅 - 小和田駅間)を管理している。みどりの窓口(営業時間9:10 - 17:25、一部休止する時間帯あり)があるが、早朝・夜間は無人となる。
駅舎内には土産物屋、駅構内には旧中部天竜機関区の施設と留置線を利用した佐久間レールパークがあった。

のりば:
1番線 飯田線 下り 天竜峡・飯田方面
2番線 飯田線 上り 豊橋方面
駅南西から天竜川を渡り国道473号に出る細い道路がある。これは、かつて当駅から分岐し佐久間周波数変換所へ向かっていた資材輸送用専用線の廃線跡である。

バス路線:
浜松市自主運行バス -「中部天竜駅」バス停
中部天竜駅から佐久間駅を経由して、遠鉄バス北遠本線と接続する「西渡」バス停に至るバス路線。一部の便は同路線の「間庄口」または「大輪」バス停まで向かう。
そのほか、かつては国鉄バスが佐久間ダムまでの路線を運行していたが昭和39(1964)年3月に廃止、廃止後の代替輸送機関として「共益バス」が、共益株式会社(電源開発(Jパワー)グループ、現 JPビジネスサービス)により昭和59(1984)年頃まで運行されていた。佐久間ダムまでの唯一の公共交通機関が消えたことにより、翌昭和60(1985)年に国鉄の一般周遊券における「周遊指定地」から佐久間ダムが削除されている。周遊指定地が削除となった第1号の事例である。

参考資料:Wikipedia(2017年4月20日)
記事:
 取材:29.4.-6他
 投稿:29.4.21
 調整:29.7.14

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# by fbox12 | 2017-07-14 16:26 | 鉄道・バス

第拾九 三嶋大社 静岡県三島市鎮座

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a0057057_2028040.jpga0057057_20344412.jpg

a0057057_2192495.jpgみしまたいしゃ

鎮座地:静岡県三島市大宮町二丁目1-5
祭神:三嶋大明神(大山祇命、積羽八重事代主神)
社格等:式内社(名神大)、伊豆國一宮、伊豆國総社、旧官幣大社、神社本庁別表神社
社殿:本殿を流造とする総欅素木造複合社殿

a0057057_22122841.png静岡県東部の伊豆半島基部、三島市の中心部に鎮座する。境内は交通上の要衝に位置し、大鳥居前を東西に旧東海道、南に旧下田街道(現在、車両は南側から大社側へ一方通行)が走る。当地は伊豆國の中心部として国府のあった地で、古代には「國府(こう)」と称された。そして三嶋神が國府に祀られたのち、13世紀末頃から大社にちなんで地名も「三嶋」と呼ぶようになったとされる。
平安時代の『和名類聚抄』では伊豆國賀茂郡に「三嶋郷(みしまごう)」の記載が見える。

三嶋大社自身は創建時期、由緒ともに不明としているが、社名の「三嶋」とは伊豆大島や三宅島を含む伊豆諸島に対する尊称「御島(みしま)」に由来するとされる。主祭神は伊豆諸島の開拓神である。当社は、古代には伊豆諸島の噴火を畏れた人々から篤く崇敬された。中世に入ると、伊豆國の一宮とし*多くの武家からの崇敬を集めた。近世以降は三島が東海道の宿場町として発達したことに伴い、東海道を往来する庶民からも篤く信仰された神社である。
社は戦前「三島神社」と称したが、戦後は「三嶋大社」を称している。史料には次の呼称が見える。

 三島大社/三嶋大社 (『続日本後紀』)
 伊豆三島神社/伊豆三嶋神社 (『延喜式』神名帳)
 三島社/三嶋社 (『吾妻鏡』、北畠顕家文書、北条氏綱文書)
 三島宮/三嶋宮 (矢田部家文書等)

*「頼朝が三嶋大社を崇敬した。」「旗挙げを祈願した。」という由緒には、後世において書き加えられた感があり、筆者は否定的な意見を持つ(その理由については別の機会で記す)。
また余談ではあるが、頼朝のそばに居た藤九郎を「安達盛長・・」という標記をする文書があるが、藤九郎が安達姓を名乗ったのは、鎌倉の御家人を辞してからで、御家人となっても藤九郎盛長と呼ばれていた。

祭神について:
三嶋大社の祭神に関しては、古くは大山祇命祭神説・事代主神祭神説が存在した。
大山祇命説は、鎌倉時代の『東関紀行』に始まって『源平盛衰記』『釈日本紀』『二十一社記』『日本書紀纂疏』等の諸史料に見える説である。三嶋神が伊豫國一宮の大山祇神社(大三島神)に由来するという伝説に基づき、事代主神説が唱えられるまでは広く定着していた。
一方事代主神説は、江戸時代後期の平田篤胤の『古史伝』での主張に始まる説である。室町時代の『二十二社本縁』に「都波八重事代主神(中略)伊豆賀茂郡坐三島神、伊予国坐三島神同体坐云」とある記載に基づく。
江戸時代までの祭神は大山祇命とされていたが、幕末に篤胤の事代主神説が国学者の支持を得たため、明治6(1873)年に事代主神に改められた。その後大正期に入って大山祇命説が再浮上したため、どちらも本地に関わりが深いということから二柱説が昭和27(1952)年に制定されて現在に至っている。
近年の研究では、三嶋神は「御島神」すなわち伊豆諸島の神を意味するとして、上記2説とも後世の付会とする見方が有力視される。この中で、噴火の盛んな伊豆諸島で原始的な造島神・航海神として祀られたのが「ミシマ神」の始まりであるという。そして「ミシマ」の音から、後世に他の神に結び付けられたともいう。

社史:
創建
上記のとおり、創建は不詳とされる。後述のように『延喜式』神名帳には伊豆国賀茂郡(伊豆半島南部・伊豆諸島)の所在と記載され、現在地(当時は田方郡・・引用 Wikipedia 記載:筆者?)と相違することから、遷座説・郡名誤記説等の諸説が提唱されている。文献上で現在地の鎮座が確実なのは、『吾妻鏡』治承4(1180)年の記事からである。
現在通説として知られるのは、初め賀茂郡三島郷(郡名誤記説では伊豆諸島という説)、のち賀茂郡大社郷白浜(伊古奈比咩命神社付近か)、さらに田方郡小河郷の伊豆国府(現社地・・大仁田京国府説あり)へと遷座(一説に勧請)したとする説である。一方の郡名誤記説では、『延喜式』の記載を疑い、太古より当地に鎮座とする。以上のほか、「三嶋」の神名から伊豫國一宮の大山祇神社(大三島神)との関係を想定する説もある。

平安時代
史料の初見は天平宝字2(758)年で、その後国史では天長9(832)年の記事で、神異により三嶋神・伊古奈比咩命神(伊古奈比咩命神社)を名神となし、地2,000町に「神宮二院・池三処」を作ったという。同記事の3日前の記事では、日照りの原因が「*伊豆国神」の祟りであると記されているが、この「伊豆国神」は三嶋神・伊古奈比咩命神と同一神であるとも考えられる。
『続日本後紀』の記事よると、承和5(838)年7月5日夜に上津島(神津島)で激しい噴火が発生した。占いの結果、それは三嶋神の後后が位階(神階)を賜ったにも関わらず、本后たる阿波神(阿波咩命;阿波命神社)には沙汰がないことに対する怒りによるものだと見なされた。同記事では「後后」に関する具体的な言及はないが、これは伊古奈比咩命を指すとされる。この記事を受けて約一ヶ月後には、阿波咩命と物忌奈命(阿波神の御子神;物忌奈命神社)の神階が無位から従五位下に昇った。
その後、当社には嘉祥3(850)年に従五位上の神階が授けられたのち、仁寿2(852)年に従四位下、貞観元(859)年に従四位上、貞観6(864)年に正四位下、貞観10(868)年に従三位が授けられた。
延長5(927)年成立の『延喜式』神名帳では、伊豆國賀茂郡に「伊豆三島神社 名神大 月次新嘗」として、名神大社に列するとともに月次祭・新嘗祭で幣帛に預かった旨が記載されている。また、『延喜式』主税寮によれば、当社には「三島神料」として2,000束が下されていた。
承平年間(931年-938年)頃の『和名類聚抄』では伊豆国賀茂郡に「大社郷(おおやしろごう)」の地名が見えるが、これは伊豆三島神社・伊古奈比咩命神社に基づく郷名とされる。

*「伊豆国神」・・引用先の Wikipedia の記載であるが、筆者は、これを三嶋大社北遷前の地主神と考える。
下記若宮八幡の昔話のように、三嶋大社の北遷説が実際にあったとすれば、それに絡む形で排除されたものがあり、現在地に三嶋大社が存在する理由を定義するものであるが、決してそれが温和な方法でなかったことの表れではないだろうか。


現社殿は、嘉永7(1854)年11月4日の東海地震で罹災し、時の神主*矢田部盛治の指揮のもと、全国にて再建のための勧進を行い、慶応2(1866)年9月9日に本殿、幣殿、拝殿の完成を見た。その他境内主要建造物は、明治元(1868)年にかけて随時落成した。
社殿彫刻は、当代の名工小沢半兵衛・小沢希道親子とその門弟のほか、後藤芳冶良らによるもの。社殿彫刻としては高い完成度と美術的価値をもつ。平成12(2000)年に重要文化財指定を受けた。

*矢田部盛治(やたべもりはる):江戸時代末から明治時代はじめの三嶋大社神主(宮司)。社殿再興の他、大場川の治水工事、祇園原水路の開削など三島地域の開発に尽力した人物。境内には熱海市生まれの彫刻家澤田晴廣(:三嶋大社ホームページ、「政廣」の誤り)制作による盛治の銅像がある。

a0057057_208521.jpga0057057_20283274.jpg左:現総門
右:旧総門
(現芸能殿)

a0057057_11505955.jpga0057057_21315226.jpg左:神門
右:舞殿

a0057057_15205710.jpga0057057_15262975.jpg左:手水舎
右:神馬舎


a0057057_14374398.jpg昭和9(1934)年5月1日、文部省告示第181号により、文部大臣から国の天然記念物の指定を受けた。
学名は薄黄木犀(うすきもくせい)。薄い黄色の花をつけ、甘い芳香が特徴。


a0057057_19344499.jpg三島の昔話:
現在の三嶋大社は、平安中期以降に田方郡の国府近くに新宮として分祀されたとされる。現在地には元々若宮八幡があったが、三島明神が若宮八幡に「藁一把分の土地を譲ってくれ」と言い、若宮八幡がそれくらいならと了承すると、三島明神は藁の束を解いて輪にし、若宮八幡の広大な敷地を囲んで占有してしまったという伝承がある。現在、若宮八幡は三島市西若町にあるが、そのために三嶋大社に背を向けて建ったという(現在は三嶋大社の末社であり、向きは大社と同じ南向き、また、大社境内にも同名の摂社がある)。


摂社、末社
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# by fbox12 | 2017-07-14 16:07 | 神社