fbox12 blog (博物館fbox12 館長の雑記帳)

216 東成田駅 (京成/芝山鉄道)(←成田空港駅(初代)(京成))

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a0057057_22274055.pngひがしなりた(なりたくうこう)

所在地:千葉県成田市古込字込前124
所属・路線:(216-1)京成電鉄株式会社・東成田線(旧 本線)
      (216-2)芝山鉄道株式会社・芝山鉄道線
駅番号:(京成)KS44
    (芝山)なし
キロ程:(京成:京成成田起点)7.1km
    (芝山:東成田起点)0.0km
乗換:空港第2ビル駅(JR成田線・京成本線・京成成田空港線(成田スカイアクセス)) 

a0057057_21562473.png概要:
この駅は現在京成電鉄が管轄する共同使用駅である。(空港第2ビル駅管理)。
京成電鉄の東成田線と、芝山鉄道の芝山鉄道線が乗り入れている。東成田線の終点かつ芝山鉄道線の起点駅である。なお、両線の列車は当駅を介して相互直通運転を行っており、ほぼ一体の形で運用されている。ただし、芝山鉄道線でのPASMO・Suica等ICカードの利用はできない。京成電鉄と他社の共同使用駅では、押上線の押上駅を除き、駅を実際に管理している会社の駅番号のみが付与されるため、京成東成田線に対してのみKS44の駅番号が付与されている。
a0057057_21582143.png成田国際空港の敷地内にあり、昭和53(1978)年に成田空港旅客ターミナルビルの最寄りとなるターミナル駅「(216-91:初代)成田空港駅」として開業したが、平成3(1991)年に現 成田空港駅(以下「新駅」)が開業した際に現在の名称へ変更され、ターミナル駅としての役割は新駅と空港第2ビル駅(平成4(1992)年開業)に譲ったが、空港内に勤務する利用客が多いほか、現在も改札外コンコースからは、空港第2ビル駅を経由して成田空港第2ターミナルへ抜ける地下連絡通路が延びている。このような経緯から、平成29(2017)年時点でも「成田空港駅」だった当時の名残が各所に見られる。

年表:
昭和53(1978)年5月21日 - 京成電鉄本線の終点の成田空港駅として開業。当時は成田新幹線計画があり、当駅から空港に直結することができなかった。そのため、当時は現在の第1ターミナルしかなかった成田空港まで、成田空港交通により有料の連絡バスが運行されていた。また、徒歩で行くことも可能だった。
平成3(1991)年3月19日 - 成田新幹線計画が消滅し、同線の施設の一部を活用して成田空港ターミナルに直接乗り入れる成田空港高速鉄道(JR東日本成田線・京成本線)の開業により、新線の方が本線となり、それまでの本線だった京成成田 - 成田空港間を「東成田線」として分離、成田空港駅は東成田駅に改称した。
平成14(2002)年10月27日 - 東成田線を延長する形で芝山鉄道線が開業。同時に京成東成田線と芝山鉄道線の相互直通運転が開始され、当駅は両社の共同使用駅となる。

駅構造:
島式ホーム2面4線を有する地下駅。そのうち、実際に列車発着に使用されているのは1面2線である。
エレベーターは設置されていないが、上りエスカレーター1基がホーム中央と改札内コンコースを結んでいる。トイレは改札内、および地上の旧第4ゲート内にある。
地上駅舎には、成田空港へ向かう連絡バス乗客のための第4ゲート(現在は閉鎖)が併設されていた。また、これとは別に空港敷地内に入るための徒歩専用の第5ゲート(実質的な東成田駅の出入り口)がある。
当駅は駅構内に大型のレリーフを飾るなど、ほとんどの場所で成田空港駅時代の面影を残している。成田空港駅時代は広大なコンコースを有し、駅構内店舗も営業し、エスカレーターも稼動していたが、改称後は駅本屋と改札外コンコースを連絡する2基やホームとコンコースを結ぶ下りエスカレーターが使用停止状態となっている。ホームについても1・2番線は特急・スカイライナー、3・4番線が普通専用であり、字幕式の発車標も設置されていた。しかし、改称して以降、営業用として供用するコンコース面積は大幅に縮小され、発車標も撤去された。特急ホームも閉鎖されて関係者以外立入禁止となり、2本の線路を留置線として使用している。旧特急ホームの床タイルもすべて剥がされ、エスカレーターも停止しているが、駅名標は「なりたくうこう 成田空港 NARITA AIRPORT」のまま残されている。また、同ホーム側に掲示されている広告も成田空港駅時代末期当時のままである。なお、旧特急ホームの線路は芝山千代田方には繋がっておらず行き止まりとなっている。
成田空港駅時代に3・4番線として使用していた現在のホームも当駅への改称後に駅名標が京成タイプのものに置き換わり、広告も日本の風景のものに置き換えられた。しかし、芝山鉄道線が開業した後は新しく駅名標が設置され、従来の駅名標は使用停止となった。
改札外コンコースからは、空港第2ビル駅を経由して成田空港第2ターミナルへ抜ける全長500mの地下通路が延びている(営業時間は 5:20から23:15まで)。当駅にも空港第2ビル駅の時刻表が掲出されており、連絡通路を抜けたところに設置されている自動券売機で同駅からの乗車券を購入することができる。
成田空港駅時代は列車の接近、到着、発車時における案内放送が流れ、発車ベルも鳴っていたが、改称してからは接近、案内放送が流れず、発車時にベルが鳴るのみとなっている。
平成9(1997)年4月1日に博物館動物園駅が営業休止(平成16(2004)年4月1日に廃止)してから、平成22(2010)年7月17日に成田空港線(成田スカイアクセス)が開業し成田湯川駅が新設されるまでの間、京成電鉄で停車する列車本数が最少の駅だった。芝山鉄道線開業前は上野・都営浅草線方面の列車を中心に発着していたが、開業後はそれが朝と夕方以降に縮小され、日中は成田 - 芝山千代田間の区間列車が発着している。

のりば:
1番線 京成・東成田線 上り 京成成田・津田沼・船橋・京成上野・都営浅草線・京急線方面
2番線 芝山鉄道線 下り 芝山千代田方面
旧特急ホーム(旧1・2番線)京成・留置線 上り 留置もしくは留置後に京成成田方面へ折り返し

参考資料:Wikipedia(東成田駅:2017年4月1日)
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# by fbox12 | 2017-05-21 23:15 | 鉄道・バス

215 神保原駅 (JR東日本)

a0057057_15482953.pngじんぼはら

所在地:埼玉県児玉郡上里町大字神保原町267-5
所属・路線:東日本旅客鉄道株式会社・高崎線
キロ程:(大宮起点)59.7km
電報略号:ホラ

概要:
神保原駅は、埼玉県児玉郡上里町大字神保原町にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)高崎線の駅。埼玉県最北端の駅である。
上野駅発着系統と、新宿駅経由で東海道線に直通する湘南新宿ライン、上野駅・東京駅経由で東海道線に直通する上野東京ラインの列車が停車する。高崎線内における「休日おでかけパス」のフリーエリアは当駅までである。

歴史:
明治30(1897)年11月15日 - 日本鐵道の駅として開業
明治39(1906)年11月1日 - 買収により、国有化される。
明治42(1909)年10月12日 - 線路名称設定により、高崎線の駅となる。
昭和62(1987)年4月1日 - 国鉄の分割民営化により、JR東日本の駅となる。
平成13(2001)年11月18日 - ICカードSuica供用開始
平成17(2005)年2月1日 - 自動改札機稼動開始
平成18(2006)年2月23日 - 「もしもし券売機Kaeruくん」稼働開始
平成24(2012)年2月20日 - 「もしもし券売機Kaeruくん」稼働終了

駅構造:
単式ホーム1面1線と島式ホーム1面2線、計2面3線のホームを有する地上駅。原則として1番線は上り(上野方面)ホーム、3番線は下り(高崎方面)ホームとなっており、一部の普通列車が特急列車の通過待ちなどの際に待避線の2番線を使用する。2番線は上り側、下り側のいずれも出発信号機を設けているため、理論上は折り返し運転が可能である。
1番線ホーム上には、七福神の像が鎮座しているほか、鯉の泳ぐ池もある。なお、改札内トイレは1番線ホーム池のすぐ横(新町寄り)にある。
指定席券売機・自動改札機・自動券売機が設置されている。また、ホームをつなぐ階段にはエレベーターが設置されている。かつてはみどりの窓口も設置されていたが、「もしもし券売機Kaeruくん」へ置き換えられる形で廃止された。さらに、「もしもし券売機Kaeruくん」も多機能券売機に置き換えられる形で営業を終了した。そのため一時当駅で指定券等の購入ができない時期があったが、平成26(2014)年3月、券売機更新により指定席券売機が導入され、指定券購入が再度可能となった。初電 - 6:30は駅員不在となり自動券売機が稼働しないため、乗車駅証明書発行機が設置されている。あらかじめ乗車券を購入していない場合、該当時間帯は乗車駅証明書を持って乗車し、車内もしくは着駅で精算することになる。

のりば:
1・2番線 高崎線上り大宮・東京・新宿・横浜方面(湘南新宿ライン)(上野東京ライン)
2・3番線 高崎線 下り 高崎・前橋方面
2番線は上り列車の一部列車が使用する。

路線バス:上里町コミュニティバス「こむぎっち号」(受託:行田市 協同バス)
 運賃:1乗車100円(1日乗車券300円)
のりば:神保原駅北口/神保原駅南広場
中央ルート:
 上里SA上り-天神・真下-イオンタウン-カインズホーム-神保原駅北口-トライアル南-西原町
 -上里町役場-保健センター-農協前-ワープ上里・図書館前-神保原駅南広場-群馬銀行-とりせん北
 -ベルク七本木店-ウニクス上里
北部ルート:
 上里SA上り-イオンタウン-トライアル南-神保原駅北口-カインズホーム-神保原駅北口-群馬銀行-上里町役場
 -保健センター-農協前-群馬銀行-とりせん北-ウニクス上里
 黛・忍保・八町河原などの北部の地区を経由する。


参考資料:Wikipedia(神保原駅・・2017年4月1日/こむぎっち号・・2017年1月14日)
記事投稿:29.5.14

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# by fbox12 | 2017-05-14 17:21 | 鉄道・バス

第九拾九 西古渡神社 愛知県名古屋市中川区鎮座

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にしふるわたりじんじゃ

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鎮座地:愛知県名古屋市中川区尾頭橋4丁目2−3
祭神:須佐之男大神他

由緒:
「古渡」の名は、かつてここに鎌倉街道の渡し船があったことに由来する。
JR東海道本線 尾頭橋駅(東海道本線 金山・名古屋駅間の駅:旧ナゴヤ球場正門前駅)前にあり、神社の横には西古渡公園がある。
名古屋市中区の闇之森八幡社(くらがりのもりはちまんしゃ)の兼務社。

境内社:
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福徳稲荷社

ふくとくいなりしゃ

祭神:福徳稲荷大神


この神社最寄の駅・バス停
 JR東海 東海道本線・尾頭橋


現地参拝:26.8.30
記事投稿:29.5.13
 調整:29.5.14

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# by fbox12 | 2017-05-13 10:39 | 神社

第九拾八 氣比神宮 福井県敦賀市鎮座

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a0057057_22211719.pnga0057057_22224216.pngけひじんぐう

鎮座地:福井県敦賀市曙町11-68
主祭神:伊奢沙別命
社格等:式内社(名神大七座)、越前國一宮、旧官幣大社、神社本庁別表神社、笥飯宮・笥飯大神宮

由緒、概要:
福井県中央部、敦賀市市街地の北東部に鎮座する。敦賀は天然の良港を有するとともに、北陸道諸國(現在の北陸地方)から畿内への入り口であり、対外的にも朝鮮半島や中国東北部への玄関口にあたる要衝である。神宮はそのような立地であることから、「北陸道総鎮守」と称されて朝廷から特に重視された神社であった。
『古事記』『日本書紀』では早い時期に神宮についての記事が見えるが、特に仲哀天皇(第14代)・神功皇后・応神天皇(第15代)との関連が深く、古代史において重要な役割を担う。また、中世には越前國の一宮に位置づけられており、福井県から遠くは新潟県まで及ぶ諸所に多くの社領を有していた。
社殿のほとんどは第二次世界大戦中の空襲で焼失したため、現在の主要社殿は戦後の再建になる。空襲を免れた大鳥居は「日本三大鳥居」にも数えられる壮麗な朱塗鳥居であり、国の重要文化財に指定されている。また境内社の角鹿(つぬが)神社は「敦賀」の地名発祥地であると伝える。そのほか祭事では多数の特殊神事が現在まで続き、古図、古面等の有形文化財を伝えている。

a0057057_2219279.png神宮の社名について、史料には主なものとして次の呼称が見える。
 氣比大神/氣比神 (『古事記』、『続日本紀』等)
 笥飯大神/笥飯神 (『日本書紀』)
 氣比神社 (『日本後紀』、『延喜式』神名帳)
 氣比大神宮 (『続日本後紀』等)
 氣比神宮 (『日本文徳天皇実録』等)
以上のほか、史料には「氣比宮」「氣比大明神」「氣比社」「氣比明神」などの呼称も見える。明治維新後、明治28(1895)年には神宮号が宣下され、それ以後は社名を「氣比神宮」としている。なお、氣比の松原の冠称「氣比」も神宮の社名に由来するもので、同地が古くは神宮の領地であったことに因むとされる。
「ケヒ(氣比/笥飯)」の由来としては、『古事記』では「御食津(みけつ)」から「氣比」に転訛したという。『古事記』の伝承に加え、古い表記の「笥飯」は当て字ながら「箱中の飯」を意味することから、「ケヒ」とは「食(け)」の「霊(ひ)」、すなわち食物神としての性格を表す名称とする説がある。これとは別に、応神天皇と氣比神との名の交換を意味する「かへ(kafë)」から「けひ(këfi)」に変化したとする説もある。

祭神について:
上記の通り主祭神はイザサワケ(伊奢沙別/去来紗別)で、氣比神宮特有の神である。神名「イザサワケ」のうち「イザ」は誘い・促し、「サ」は神稲、「ワケ」は男子の敬称の意といわれる。そのほかの名称として、史書では「笥飯」「氣比」「御食津」と記されるほか、『氣比宮社記』では「保食神」とも記される。これらは、いずれも祭神が食物神としての性格を持つことを指す名称であり、敦賀が海産物朝貢地であったことを反映するといわれる。このことから、神宮の祭神は上古より当地で祀られた在地神、特に海人族によって祀られた海神であると解されている。一方、『日本書紀』に新羅王子の天日槍の神宝として見える「胆狭淺大刀(いささのたち)」との関連性の指摘があり、イザサワケを天日槍にあてて新羅由来と見る説もある。

このイザサワケは、仲哀天皇・神功皇后・応神天皇と深いつながりにあることが『古事記』『日本書紀』によって知られる。両書では、仲哀天皇が角鹿に行宮として「笥飯宮」を営んだとあるほか、天皇の紀伊國滞在中に熊襲の謀叛があり角鹿にいた神功皇后を出発させたと見え、角鹿の地が登場する。神功皇后は、仲哀天皇の突然死を経て新羅に遠征(三韓征伐)、帰途に太子(誉田別尊;応神天皇)を産んだ。そして、皇后と太子がヤマトへ戻る際に謀叛があったが無事平定し、太子は武内宿禰に連れられて禊のため氣比神に参詣したという。以上のように、歴史の早い段階から氣比神が朝廷の崇敬を受ける神として登場しており、一連の出征の始まり・終わりを成したことから古くは軍神として崇敬されたとも見られる。
『古事記』ではその後の経緯として、武内宿禰に連れられた太子(応神天皇)はイザサワケと名の交換を行ったとする(易名説話)。説話によれば、太子が角鹿(敦賀)の仮宮を営んでいると、夜の夢にイザサワケが現れて名を交換するよう告げられた。太子が承諾するとイザサワケは翌朝に浦に出るように言い、太子が言われたとおりにすると浦には一面にイザサワケの献じた入鹿魚(イルカ)があった。これにより太子はイザサワケを「御食津大神(みけつのおおかみ)」と称え、のちにその名が「氣比大神」となったという。同様の説話は『日本書紀』でも別伝として記されているが、『古事記』『日本書紀』とも内容には疑問点が指摘される。この説話の解釈には諸説あるが、特にその真相を「名(な)と魚(な)の交換」すなわち「名の下賜」と「魚の献上」であるとして、氣比神とその奉斎氏族)の王権への服属儀礼を二重に表すと見る説が有力視される。また、以上のように当地が応神天皇系の勢力基盤であったことは、越前から出た応神天皇五世孫の継体天皇(第26代)とも関係するといわれる。
イザサワケとともに祀られる仲哀天皇以下6柱に関しては、7世紀後半に天皇霊が国家守護神として各地に設置された動きと関連づける説がある。その中で、守護神として合祀された仲哀天皇は敗者の霊として「祟り性」を備えていたために、全国でも早期の神宮寺成立・神階昇叙につながったと指摘される。

歴史:
創建・伝承
社伝では、上古に主祭神の伊奢沙別命は東北方の天筒山に霊跡を垂れ、境内北東方にある土公の地に降臨したという。そして『氣比宮社記』によれば、仲哀天皇の時に神功皇后が三韓征伐出兵にあたって氣比神に祈願をすると、海神を祀るように神託があり、皇后は穴門に向かう途中で海神から干・満の珠を得た。そして仲哀天皇八年三月に神功皇后と武内宿禰が安曇連に命じて氣比神を祀らせたといい、これが神宮の創建になるとしている。またこの時、氣比大神は玉姫命に神憑りして三韓征伐の成功を再び神託したとも伝える。その後大宝二(702)年に文武天皇の勅によって社殿を造営し、本宮に仲哀天皇・神功皇后を合祀、東殿宮・総社宮・平殿宮・西殿宮の4殿に各1柱を祀ったという。
また前述のように、『古事記』『日本書紀』では仲哀天皇・神功皇后・応神天皇の時期に記事が記されている。しかしながら、その後は持統天皇六(692)年まで神宮に関する記事は見えないことから、7世紀中頃までは朝廷とのつながりは薄かったとして、7世紀後半頃に氣比神の祭祀権が在地豪族から朝廷の手に移ったと推測される。

概史:
古代
国史において氣比神が再び現れるのは持統天皇6(692)年で、その記事では越前の國司が角鹿郡の浜で獲った白蛾を献上したため、20戸の神封(神社に寄進された封戸)が増封されたと記されている。霊亀元(715)年には境内に神宮寺(氣比神宮寺)が設けられたというが、これは文献上で全国最古の神宮寺成立になる。また『新抄格勅符抄』によれば、天平3(731)年に従三位料として200戸の神封があり、天平神護元(765)年には神封は244戸に及んだ。同記事では神階として「従三位」と記されているが、これも全国諸神の神階記事の内で最古になる。その後、神階は寛平5(893)年までに正一位勲一等の極位に達した。このような神階昇叙には9世紀の東アジア情勢が背景にあり、この時期に海神としての本来の性格が朝廷から重要視されたと推測される。
また、神宮は朝廷鎮護の重要な一角として古くから朝廷との結びつきが強く、朝廷からの奉幣が宝亀元(770)年(使者:中臣葛野連飯麻呂)、承和6(839)年(使者:大中臣朝臣礒守・大中臣朝臣薭守)、仁寿2(852)年、貞観元(859)年(使者:大中臣朝臣豊雄)にあった。また、承和6(839)には神宮の雑務は国司預かりから神祇官直轄に移行され、朝廷との関わりを一層強めている。
延長5(927)年成立の『延喜式』神名帳では越前國敦賀郡に「氣比神社七座 並名神大」と記載され、七座が名神大社に列している。また、同帳に見える「角鹿神社」「大神下前神社」「天利剣神社」「天比女若御子神社」「伊佐奈彦神社」の式内社5社は神宮の境内社に比定される。そのうちでも特に、天利剣・天比女若御子・天伊佐奈彦の3社は『続日本後紀』において「気比大神之御子」と見える。このことから、神宮周辺の諸社が御子神として編成されたとして、敦賀の在地社会において神宮中心の国家祭祀体系が構築されたと考えられている。

中世から近世
中世以降は越前國の一宮に位置づけられ、「北陸道總鎭守」とも称されたという。古代に続いて中世も広大な社領を有しており、その土地は越前を中心として遠く越中・越後・佐渡にまで及んでいた。南北朝時代の戦乱では、宮司の氣比氏治は南朝方につき金ヶ崎城を築いて奮戦したが、北朝方に敗れ一門は討ち死した。この敗死により神宮の社領も減じられたが、それでもなお24万石を所領したと伝える。神宮は中世を通じて社殿焼失が多く、史料には再建を示す記事が多く見られる。
戦国時代には、社家は戦国大名朝倉氏の下に組み込まれた。そのため、織田信長の侵攻によって社殿のほとんどを焼失、朝倉氏滅亡とともに社領も没収されて社勢は著しく衰退した。
江戸時代に入ると慶長8(1603)年に結城秀康から百石が寄進され、慶長9(1604)年には社殿造営がなされて再興が果たされた。その後は、徳川家光から秀忠の病気平癒祈願料として五十石が寄進されたほか、大野城主の松平但馬守などからの奉幣も受けている。しかしながら、かつての繁栄は見られなくなったという。

近代以降
明治維新後、明治4(1871)年に近代社格制度において国幣大社に列した。明治28(1895)年には官幣大社に昇格するとともに、神宮号宣下により社名を現在の「氣比神宮」に改称した。
昭和20(1945)年には敦賀空襲により旧国宝の本殿ほか社殿の多くを焼失した。本殿は昭和25(1950)年に再建され、その他の社殿も再建・修復を経て現在に至っている。また、戦後は神社本庁の別表神社に列している。

神階:
六國史時代における神階奉叙の記録
天平3(731)年12月10日、従三位 (『新抄格勅符抄』) - 表記は「氣比神」
承和2(835)年2月23日、正三位勲一等 (『続日本後紀』) - 表記は「氣比大神」
承和6(839)年12月9日、正三位勲一等から従二位勲一等 (『続日本後紀』) - 表記は「氣比大神」
承和7(840)年9月13日、従二位勲一等 (『続日本後紀』) - 表記は「氣比大神」
嘉祥3(850)年10月7日、正二位 (『日本文徳天皇実録』) - 表記は「氣比神」
天安3(859)年1月27日、正二位勲一等から従一位勲一等 (『日本三代実録』) - 表記は「氣比神」
六國史以後
寛平元(889)年7月17日、越前國神を一階昇叙 (『日本紀略』)
寛平5(893)年12月29日、正一位勲一等 (『類聚參代格』) - 表記は「氣比大神」
正一位勲一等 (『越前國内神名帳』) - 表記は「氣比大明神」

神職:
氣比神の祭祀は、古代には角鹿氏(つぬがうじ、角鹿直・角鹿海直)が担ったといわれる。この角鹿氏は敦賀における海上交通・漁業の統率者(海人族)であり、一説には角鹿國造の氏族ともいわれる。敦賀市には首長墓として5世紀末の向出山1号墳(直径約60メートルの円墳)が残るが、その副葬品には被葬者と朝鮮半島の深いつながりが指摘される。この角鹿氏は、7世紀後半頃には朝廷の支配下に入ったと見られている。
記録上では、宝亀7(776)年に朝廷から初めて宮司職が置かれ、宮司は従八位に準じたとある。以後、文献では宮司として大中臣氏・中臣氏の各人物が見える。延暦23(804)年からは、宮司の就任には神祇官の認可が必要となり、朝廷とのつながりを強めている。また承和2(835)年の記事では禰宜・祝の各職が見える。『延喜式』によれば、松原客館(渤海使の客館)の検校も宮司が担っていた。なお『朝野群載』には、承暦4(1080)年に神事を穢した祟りがあったため、神官に中祓を科した記録が見える。
古くは神職として大宮司・大祝・権祝・副祝・正禰宜・副禰宜職があり、48の社家は大中臣姓・角鹿姓を称したという(室町時代からは菅原姓も加わった)。人物としては特に、南北朝の争乱で恒良親王・尊良親王を奉じた大宮司の氣比氏治・斎晴親子が知られる。また検校・行司・別当・執当等36坊を数える社僧職もあったという。信長の越前侵攻後は、大中臣姓の東河端・西河端・北河端・石倉・石塚・平松の6家と、角鹿姓の嶋家、菅原姓の宮内家の計8家を残すのみとなった。この社家制度は、明治4(1871)年の太政官布告を以て廃止されている。

社領:
六國史時代における社領の記録は次の通り。
持統天皇6(692)年9月26日、20戸増封 (『日本書紀』) - 表記は「笥飯神」
天平3(731)年12月10日、従三位料として200戸 (『新抄格勅符抄』) - 表記は「氣比神」
天平神護元(765)年9月7日、44戸(計244戸) (『新抄格勅符抄』) - 表記は「氣比神」
上記のうち持統天皇6年の記事は「増封」であるため、これに先立ってすでに封戸があったとされる。また244戸という神封は、全国でも屈指の数になる。その後、『日本參代実録』によれば元慶8(884)年に神宮の封租穀は神庫に納めて祭祀費にあてられるともに、神戸の百姓の國役への充当が停止されている。
平安時代末期以降には社領が荘園化し、鳥羽院を本家として皇室領に入り、美福門院・八條院・春華門院・順徳院・後髙倉院・安嘉門院・室町院・亀山院・後宇多院・後醍醐天皇へと大覚寺統に伝えられた。また、律令制の崩壊とともに先の封戸も荘園化したとされる。それらの荘園領は建暦2(1212)年注進の目録によって知られ、同文によると社領は敦賀郡を中心とする越前國に加え、敦賀港・三國港の要港、越中・越後までの一部にまで及んでいた。作田は257町余で所当米は1,700石余、さらに請加米を加えると2,111石であった。そのうち本家分は702石余、領家分は292石余、大宮司(預所)分は177石余である。前述のようにこれら荘園の本家は皇室であったが、領家は九条良輔(九条兼実の子)の知行に始まって延暦寺属の青蓮院に伝えられた。
応仁の乱の後は、武家による侵略を受けながら朝倉氏滅亡までは所々の社領を有したが、朝倉氏の滅亡後に衰退した。江戸時代の社領は100石であった。

社殿:
主要社殿は昭和20(1945)年の空襲で焼失したため、いずれも戦後の再建である。本殿(本宮)は昭和25(1950)年の再建で、南面して鎮座する。本殿の周囲には東殿宮(本殿の東)・総社宮(東北)・平殿宮(西北)・西殿宮(西)の4社殿が建てられ、これらは「四社の宮(ししゃのみや、四社之宮)」と総称される。四社の宮はいずれも平成に入っての再建社殿である。また、本殿に接続して内拝殿・外拝殿が建てられているが、これらは昭和の大造営時の再建になる。
戦災で焼失した旧本殿は、江戸時代初期の慶長19(1614)年に結城秀康によって再建されたもので、旧国宝に指定されていた。桁行三間・梁間四間、「両流造」という独特の形式の大規模な社殿で、屋根は檜皮葺、正面には一間の向拝が付設されていた。また内部は正面一間通りを外陣とし、奥は一間ごとに3分割して中央間に中陣・内陣・内々陣を設け、左右脇間は空殿とされていた。『氣比宮旧記』によれば、そのうち内々陣の中央に仲哀天皇、右(西)に神功皇后、左(東)に保良太神(伊奢沙別命)が祀られていたという。
社務所は平成23(2011)年の再建。以前の社務所では裁判所庁舎が移転・使用されていた。

大鳥居
境内入り口に建てられている大鳥居(上写真左)は、江戸時代前期の正保2(1645)年の造営。木造朱塗の両部鳥居で、高さ36尺(10.93メートル)・柱間24尺である。扁額「氣比神宮」は有栖川宮威仁親王の染筆になる。
神宮の境内入り口は古くは東側にあったため、初代鳥居は弘仁元(810)年に境内東側に建てられていたが、その鳥居は康永2(1343)年に大風で倒壊したという。そして、寛永年間(1624年-1644年)に佐渡の旧神領地の鳥居ケ原から奉納された榁(むろ)の大木を使用して、現在の大鳥居が境内西側に建てられたと伝える。この鳥居は空襲の被害を免れており、国の重要文化財に指定されている。また、奈良の春日大社・広島の厳島神社の大鳥居とともに「日本三大鳥居」にも数えられている。

摂末社:
現在の摂末社は、摂社5社・末社9社の計14社(いずれも境内社)。摂社は伊佐々別神社以外は式内社で、末社のうちでも大神下前神社は式内社である。
これら摂末社のうち、本殿向かって左手に鎮座する伊佐々別・天利劔・天伊弉奈姫・天伊弉奈彦・擬領・劔・金・林・鏡の9社には本宮と関係が深い神々が祀られており、「九社の宮(くしゃのみや、九社之宮)」と総称される。『続日本後紀』によると、天利劔・天伊弉奈姫・天伊弉奈彦の3社は「氣比大神之御子」であるという。

摂社
98-1 角鹿神社 つぬがじんじゃ
祭神:都怒我阿羅斯等命(つぬがあらしとのみこと)、合祀に松尾大神
社格:式内社「角鹿神社」、越前國内神名帳「正四位 敦賀神」
地名「敦賀」の発祥地と伝える。境内東側の裏参道に鎮座する。『氣比宮社記』や「氣比宮古図」では「政所神(まんどころのかみ)」と見える。また、正安2(1300)年まで東口が境内表口であったことにより、別に「門神(かどのかみ)」とも称されていた。
祭神の都怒我阿羅斯等は、『日本書紀』において垂仁天皇の時に渡来したと記されている意富加羅国(任那国)王子で、同書では笥飯浦に至ったと見える。神宮の伝承では、その後天皇は阿羅斯等に当地の統治を任じたといい、この角鹿神社はその政所跡に阿羅斯等を祀ったことに始まるとして、「敦賀(つるが)」の地名は当地を「角鹿(つぬが)」と称したことに始まるとしている。
角鹿神社の祭神を都怒我阿羅斯等とする説は諸文献に記されているが、一方で祭神を角鹿国造祖の建功狭日命(たけいさひのみこと)とする説もある。建功狭日命は『先代旧事本紀』に角鹿国造として見える人物で、江戸時代末期まで角鹿神社の社家であった島家が角鹿氏後裔を称したことからも、角鹿氏祖と推測される建功狭日命説が有力視されている。またこれとは別に、この角鹿神社は古くからの敦賀の地主神であったとして、イザサワケ並びに応神天皇が主神として本宮に祀られるとともに、その客神の地位に位置づけられたと見る説もある。なお、松尾大神は天保10(1839)年の合祀とされる。
明治10(1877)年に神宮摂社の第一に定められた。社殿は流造銅板葺。嘉永4(1851)年の改築によるもので、神宮の境内社では唯一戦災を免れている。

九社の宮
 写真左・・北面:手前 伊佐々別神社、奥 擬領神社
 写真右・・東面:手前から 天井弉奈彦神社、天井弉奈姫神社、天利劔神社、鏡神社、林神社、金神社、劔神社
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98-2 伊佐々別神社
いささわけじんじゃ
祭神:御食津大神荒魂(みけつおおかみあらみたまのかみ)
九社の宮の一社として本殿西側に鎮座する。祭神は本宮主祭神の荒魂である。社伝では、氣比神から御食の魚を賜った誉田別命(応神天皇)が、武内宿禰に命じて新たに氣比神の荒魂を勧請したことに始まるという。漁撈の神であるとされ、海を向くために社殿は北面するという。

98-3 天利劔神社
あめのとつるぎじんじゃ
祭神:天利劔大神(あめのとつるぎのおおかみ)
社格:式内社「天利剣神社」、越前国内神名帳「正四位 天利剣神」
九社の宮の一社で、第五之王子宮。社伝では仲哀天皇による宝剣の奉納に始まるという。『続日本後紀』によると承和7(840)年に無位から従五位下に昇叙された。
明治10(1877)年に境内摂社に定められた。社殿は戦災で焼失、昭和55(1980)年に流造銅板葺で再建。

98-4 天伊弉奈姫神社
祭神:天比女若御子大神(あめひめわかみこのおおかみ)
社格:式内社「天比女若御子神社」、越前國内神名帳「正四位 天若神子神」
「あめのいざなひめじんじゃ」。九社の宮の一社で、第六之王子宮。社伝では天伊弉奈姫神社・天伊弉奈彦神社の2社は造化陰陽2柱を祀るという。『続日本後紀』によると「天比女若御子神」として承和7(840)年に無位から従五位下に昇叙された。
明治10(1877)年に境内摂社に定められた。社殿は戦災で焼失、昭和55(1980)年に流造銅板葺で再建。

98-5 天伊弉奈彦神社
祭神:天伊弉奈彦大神(あめのいざなひこのおおかみ)
社格:式内社「伊佐奈彦神社」、越前國内神名帳「正四位 天伊佐奈彦神」
「あめのいざなひこじんじゃ」。九社の宮の一社で、第七之王子宮。社伝では天伊弉奈姫神社・天伊弉奈彦神社の2社は造化陰陽2柱を祀るという。『続日本後紀』によると「天伊佐奈彦神」として承和7(840)年に無位から従五位下に昇叙された。
明治10(1877)年に境内摂社に定められた。社殿は戦災で焼失、昭和55(1980)年に流造銅板葺で再建。

末社
98-11 擬領神社
祭神:建功狭日命(たけいさひのみこと)
「おおみやつこじんじゃ」。九社の宮の一社。祭神は一説に大美屋都古神(おおみやつこのかみ)とも、玉佐々良彦命(たまささらひこのみこと)とも。建功狭日命は『先代旧事本紀』に角鹿國造祖と記されている人物である。

98-12 劔神社
祭神:姫大神尊(ひめのおおかみのみこと)
「つるぎじんじゃ」。九社の宮の一社で、第一之王子宮。社伝では、敦賀市莇生野の劔神社からの勧請という。

98-13 金神社
祭神:素盞嗚尊(すさのおのみこと)
「かねのじんじゃ」。九社の宮の一社で、第二之王子宮。社伝では弘仁7(816)年に参詣した空海が金神社の霊鏡を高野山に遷したとして、高野山鎮守社の丹生都比売神社で祀られる氣比神は当社にあたるという(ただし、現在の丹生都比売神社では祭神を大食都比売神とする)。

98-14 林神社
祭神:林山姫神(はやまひめのかみ)
「はやしのじんじゃ」。九社の宮の一社で、第三之王子宮。社伝では延暦7(788)年に参詣した最澄が林神社の霊鏡を比叡山に遷したとして、比叡山鎮守社の日吉大社で祀られる氣比神は当社にあたるという(ただし、現在の日吉大社では祭神を仲哀天皇とする)。

98-15 鏡神社
祭神:神功皇后奉献の宝鏡の神霊
「かがみのじんじゃ」。九社の宮の一社で、第四之王子宮。社伝では、神功皇后が奉献した神宝のうち宝鏡が霊異をなしたので、別殿に國常立尊とともに「天鏡宮(あめのかがみのみや)」として祀ったことに始まるという。

98-16 大神下前神社
祭神:大己貴命、合祀に稲荷神・金刀比羅神
社格:式内社「大神下前神社」、越前国内神名帳「従五位 大神下前神」または「従五位 道後神」、旧村社
例祭:10月10日
「おおみわしもさきじんじゃ」。角鹿神社とともに裏参道に鎮座する。古くは「道後神社」と称し、神宮の北方鎮守社として天筒山山麓の宮内村(現 敦賀市金ケ崎町)に鎮座したとされる(旧社地は不詳)。明治9(1876)年に村社に列したが、明治44(1911)年に鉄道敷設に伴って境内に遷座した。本殿は流造檜皮葺。

98-17 兒宮(児宮)
祭神:伊弉冊尊
例祭:11月15日
「このみや」。角鹿神社とともに裏参道に鎮座する。寛和2(986)年に遷宮があったといい、それ以前からの鎮座と伝える。江戸時代以降は子育て・小児の守護神として信仰されている。

a0057057_17414152.png98-18 猿田彦神社
祭神:猿田彦大神
表参道の大鳥居近くに鎮座する。祭神は氣比神を案内する神であるという。

98-19 神明両宮
祭神:天照皇大神(内宮)、豊受大神(外宮)
九社の宮と並んで鎮座する。外宮は慶長17(1612)年、内宮は元和元(1615)年の勧請。

現地参拝:28.10.12

参考資料:Wikipedia(2017年1月16日)
記事:
 投稿:29.5.-7

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# by fbox12 | 2017-05-07 22:47 | 神社

061 大手町駅(東京メトロ / 都営地下鉄)

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(タイトル:昭和40年代発売されていた都営地下鉄の入場券)

おおてまち

所在地:(下記参照)
所属:東京地下鉄株式会社 / 東京都交通局
駅番号:(下記参照)

概要:
駅周辺には大手銀行や商社・マスメディアなどの本部・本社およびその業界団体などが立地し、日本経済の中枢部である。JR東京駅の最寄駅として代表的な存在であり、東京の地下鉄の中心的存在の駅。
東京メトロ自社の駅では接続しないJR中央・総武緩行線と常磐緩行線の列車が、相互乗り入れ先である当駅において連絡している。
丸ノ内線には「サンケイ前」の駅名併称がある。なお、三田線でも以前「読売新聞社前」の駅名併称があり、次駅案内放送でも流れていた。

乗り入れ路線:
以下の5路線が通っており、これは東京の地下鉄の駅では最も多い。東京駅との徒歩連絡が可能であるが、東西線のみしか案内されていない。東西線の乗り換え案内では「JR線」と放送される。

東京メトロ
 丸ノ内線 - ホームの位置:東側
 東西線 - 南側
 千代田線 - 西側
 半蔵門線 - 北側
都営地下鉄
 三田線 - 南西側
駅番号は、丸ノ内線がM18, 東西線がT09, 千代田線がC11, 半蔵門線がZ08, 三田線がI09となっている。

所在地:
 丸ノ内線・千代田線・半蔵門線:東京都千代田区大手町一丁目6-1
 東西線:東京都千代田区大手町二丁目1-1
 三田線:東京都千代田区丸の内一丁目3-1

歴史:
昭和31(1956)年7月20日 - 営団地下鉄丸ノ内線開業(最初に東京サンケイビル下に開業したのが始まり。丸ノ内線の車内放送では「大手町」の後に「サンケイ前」とアナウンスしている)。
昭和41(1966)年10月1日 - 営団地下鉄東西線開業(東京駅に近い永代通り地下に駅を建設。東京駅ではなく大手町駅として開業)
昭和44(1969)年12月20日 - 営団地下鉄千代田線開業(千代田線と都営地下鉄6号線が当駅 - 日比谷駅間を一体で建設するが、千代田線の駅が先に開業する)
昭和47(1972)年6月30日 - 都営地下鉄6号線開業
昭和53(1978)年7月1日 - 都営地下鉄6号線を三田線に改称
平成元(1989)年1月26日 - 営団地下鉄半蔵門線開業(丸ノ内線と千代田線との間にホームがあり、これが完成して現在の形態となった)
平成16(2004)年4月1日 - 営団地下鉄民営化に伴い、丸ノ内線・東西線・千代田線・半蔵門線の駅は東京地下鉄(東京メトロ)に継承
平成20(2008)年3月15日 - 小田急ロマンスカーの千代田線への直通運転開始

駅構造:
各路線の駅をつなぎ合わせるとアルファベットの「P」のような配置になっており、左下から時計回りに三田線・千代田線・半蔵門線・丸ノ内線・東西線の順に並んでいる。半蔵門線の駅が開業した当時は「日本一の地下鉄駅」としてNHKのニュース番組などでも取り上げられた。

61-1 東京メトロ
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丸ノ内線は相対式ホーム2面2線、その他の路線は島式ホーム1面2線を有する地下駅である。
東京メトロ各線は改札内で連絡しているが、丸ノ内線・半蔵門線と東西線の乗り換え部分は直接の連絡がなく、乗り換える時には一旦改札を出場するほうが至近なため、いずれの乗車券類でも改札外での乗り換えが可能になっている。ただし、遠回りになるが千代田線ホームを経由すれば改札内での乗り換えは可能である。東西線と半蔵門線を乗り換える際に東西線ホーム中野寄りや半蔵門線ホーム渋谷寄りから乗り換える場合は千代田線ホーム経由の方が距離が若干短い。なお、現在は構内の工事(後述)により通路が狭くなっている箇所があるため、いずれの路線も東京メトロの他の3路線全てとの間で改札外乗換ができるようになっている。
東西線と半蔵門線、三田線と半蔵門線・丸ノ内線の相互間は乗り換えに時間がかかる。東西線と半蔵門線の場合は九段下駅、三田線と半蔵門線の場合は神保町駅が至便である。
丸ノ内線のホームは、南隣の東京駅に近すぎないようにという理由で、現在の位置に建設された。なお、当駅 - 東京駅間のトンネルの下にも駅施設があるため、東西線ホーム上の改札外通路は丸ノ内線トンネルの部分を掘り下げた構造になっており、また東西線ホームも丸ノ内線トンネルとの交差部分のみ天井が少し低くなっている。
JR東京駅とホームが最も近接している東西線に限り、東京駅への乗り換え案内を行っている。逆に、東京駅では東西線への案内を駅構内のみで行っている。東京駅構内には東西線と丸ノ内線の乗り換え案内があるが、これは東京駅を接続駅としているものである。
千代田線はもともと当駅が第一期開業区間の終点であったことから、新御茶ノ水駅寄りに渡り線が設置されている。当駅から先への延伸後は緊急時に使用されている。
東西線の改札口からJR東京駅八重洲口・丸の内口への2方向に分かれるが、新幹線は八重洲口(日本橋口を含む)を利用するよう表記されている。
駅務管区所在駅であり、大手町駅務管区として大手町地域、日比谷地域、新木場地域を管理する。

のりば:
 1番線 丸ノ内線 銀座・新宿・荻窪方面
 2番線 丸ノ内線 後楽園・池袋方面
 3番線 東西線 西船橋・津田沼・東葉勝田台方面
 4番線 東西線 飯田橋・中野・三鷹方面
 5番線 千代田線 霞ケ関・代々木上原・本厚木・唐木田方面
 6番線 千代田線 北千住・綾瀬・我孫子・取手方面
 7番線 半蔵門線 半蔵門・永田町・渋谷・中央林間方面
 8番線 半蔵門線 清澄白河・押上〈スカイツリー前〉・久喜・南栗橋方面
当駅のホーム番号は8番線まであり、東京の地下鉄の中では最多である。
千代田線では、小田急線と直通する特急ロマンスカー「メトロはこね」「メトロさがみ」「メトロホームウェイ」が当駅に停車(小田急線方面は乗車のみ、北千住行きは降車のみ取り扱う)する。夜間時間帯には当駅始発の本厚木行特急ロマンスカー「メトロホームウェイ」が2本設定されている。ただし、千代田線内でのダイヤの関係上、湯島駅より回送してから客扱いを行う。
半蔵門線ホームは押上側のホームがやや湾曲しているため、終日駅員による立ち番がいる。
丸ノ内線ホーム以外は改札口とホームとの間を連絡するエレベーターが設置されている。
トイレは全部で6か所あるが、多機能トイレは東西線中央改札と半蔵門線ホーム直上の渋谷側地下3階の2か所のみの設置である。乳幼児・オストメイト対応設備は後者にのみ併設されている。

61-2 都営地下鉄
島式ホーム1面2線を有する地下駅である。
一時期は、コンコースの壁にスタジオジブリ作品や読売日本交響楽団の画像がデザインされたラッピングが施されていた。同様にプラットホームの柱や駅広告には読売ジャイアンツや新聞の意匠のラッピングも施されていた。
平成20(2008)年1月に東京メトロのものに類似した案内サインシステムに更新されている。これは先に新宿線の新宿三丁目駅で更新されたものと同じである。発車メロディは、東急目黒線のものと共通である。
日比谷側の地上出入口の一部は、千代田線二重橋前駅の出口と共用している。また、平成19(2007)年に行幸地下通路が完成し、東京駅へ地下道経由でアクセスすることができる。
乗り換え各線が帝都高速度交通営団(営団地下鉄)だった時代は駅到着時の放送で「営団地下鉄線はお乗り換えです」と放送されていたが、東京メトロ発足後は「東西線、千代田線、丸ノ内線、半蔵門線はお乗り換えです」と路線名を案内するようになった。

のりば:
 1番線 都営三田線 日比谷・白金高輪・目黒・東急線方面
 2番線 都営三田線 水道橋・巣鴨・西高島平方面

バス路線:
神田橋(C1・C2出口付近)
 東43:荒川土手行・江北駅行/東京駅丸の内北口行
大手町(C8・C9出口付近)
 東43:荒川土手行・江北駅行/東京駅丸の内北口行
丸の内一丁目(B2出口付近)
 東20・東22:東京駅丸の内北口行
呉服橋(B6・B7出口付近)
 東20:東京都現代美術館経由 錦糸町駅行/東京駅丸の内北口行
 東22:東陽町駅経由 錦糸町駅行/東京駅丸の内北口行
東京サンケイビル(A4出口付近)・経団連会館・JAビル(C2出口付近)・読売新聞(C3出口付近)
 丸の内シャトル:東京會舘・日比谷方面行
パレスホテル
 空港連絡バス:成田空港行


参考資料:Wikipedia(2016年3月23日)
記事:
 投稿:
 調整:29.5.-2/29.5.-3
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# by fbox12 | 2017-05-02 09:54 | 鉄道・バス

214 近鉄奈良駅 (近鉄)

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a0057057_22211389.pngきんてつなら
所在地:奈良県奈良市東向中町29
所属・路線:近畿日本鉄道株式会社・奈良線
電報略号/駅番号:ナラ/A28

概要:
大正3(1914)年4月30日に開業したが、奈良市街地への乗り入れに係る協議が難航していたため、当初は奈良市高天(たかま)町に仮駅として設けられていた。同年7月8日に当初の計画通り奈良市東向中町まで延伸し駅が移転した。開業以来地上駅で、駅へは併用軌道で乗り入れていたが、併用軌道により奈良線の高速化は妨げられ、さらにモータリゼーションが進展すると当駅付近で自動車の渋滞が頻発していたことから、大阪万博の開催を控えた昭和43(1968)年より奈良市内の都市計画事業の一環として地下化が実施された。駅は地下へ移設され昭和44(1969)年12月9日に開業し、旧駅の跡地には翌年3月11日に駅ビルとして奈良近鉄ビルが開業した。
JR西日本の奈良駅に比べて奈良市中心寄りに位置し、付近には娯楽施設、商業施設や各金融機関の奈良支店が集まり、それらに足を運ぶ地元住民が多く、乗降客数はJR駅より多い。
平日の主な利用客は奈良交通バスを通じて市内東南部や京都府木津川市(旧 加茂町方面)までの広範囲から集まる通勤・通学客であり、大阪圏有数のベッドタウン駅である。また奈良県・国の出先機関など官公庁への利用客もある。
南側は県都・奈良の顔として、ショッピングなどの娯楽施設の密集地、南都銀行など県内企業の本支店も多い。駅を西に出ると小西通り、東に出ると東向通り。どちらも南下すると、東西に走る奈良市街の目抜き通り、三条通りに至る(駅が面しているのは登大路・大宮通り)。
東側は古い社寺を含む観光名所、奈良公園は東へ坂を上がる。奈良県官庁街もこの方向である。
三条通りを東に向かえば猿沢池、三条通りから更に南に向かうとならまちと呼ばれる古い町並みが続く。
北側は古くからの市街地であり、奈良きたまち散策スポット(まちかど博物館)として脚光を浴びつつある。奈良女子大学はこの域内に位置する。

歴史:
大正3(1914)年4月30日 - 大阪電氣軌道上本町 - 当駅間開業と共に奈良驛として仮駅で開業。位置は現在の高天交差点付近
 7月8日 - 仮駅から本駅へ移転(現在の大宮通西行車線と駅ビル北側部分の地上区画に存在。当時の大宮通は近鉄奈良驛より西側は現東行車線のみ、同駅より東側は現西行車線のみの幅員であった)。
昭和3(1928)年8月 - 大軌奈良驛に改称
昭和5(1930)年2月 - 降車ホームを上本町寄り本線上に設置。乗降分離実施
昭和16(1941)年3月15日 - 関西急行鐵道発足(大阪電氣軌道と參宮急行電鐵が合併)。関急奈良驛に改称
昭和19(1944)年6月1日 - 近畿日本鐵道発足(関西急行鐵道と南海鐵道が合併。ただし南海線は後に再分離)。近畿日本奈良驛に改称
昭和43(1968)年2月3日 - 油阪 - 当駅間の地下線建設工事着工
昭和44(1969)年12月9日 - 地下化
昭和45(1970)年3月1日 - 近鉄奈良駅に改称
 3月11日 - 奈良近鉄ビルがオープン、ビル内に奈良ホテル別館が開業
昭和63(1988)年3月18日 - 1・2番線の延長工事が完成した(同年1月)ため、当駅発着列車の10両運転を本格開始
平成3(1991)年6月30日 - 駅ビル内の奈良ホテル別館閉館
平成19(2007)年4月1日 - PiTaPa使用開始

駅構造:
櫛形ホーム4面4線の、奈良県内では唯一の地下駅。改札口は東西双方に設けられている。コンコースは広く、修学旅行生の集合場所に使われることもある。近年はそのスペースを利用して、近鉄の奈良駅営業所(旅客案内窓口)、奈良市の酒造会社・奈良豊澤酒造が運営する立ち飲み処「蔵元 豊祝」、イタリアンカフェの「カフェ チャオプレッソ」(運営は近鉄リテーリング)、ドラッグストアのマツモトキヨシなどの店舗が設けられている。
大正3(1914)年の大阪電氣軌道開業以来、翌年の日本万国博覧会開催を控えて実施された昭和44(1969)年12月の地下線切り替えまでは併用軌道の終端に位置する地上駅であり、現在のバスターミナルに相当する区画を中心に、櫛桁式配置のプラットホームや駅舎などが設置されていた。
駅ビルである奈良近鉄ビルは平成21(2009)年に全面改装され、特に1階周辺やビル全体の外観が大きく変わった。1階には、奈良市観光協会が運営する「近鉄奈良駅総合観光案内所」がある。階上には、近鉄観光グループの中国料理店「百楽」、イタリアンレストランチェーン「サイゼリヤ」、日本赤十字社の献血ルームなどが入居している。
駅ビルには当初、大口テナントとして6階から8階に奈良ホテル別館が入居していたが、採算性の問題から平成3(1991)年6月に撤退した。また3・4階に歴史・観光の展示館「なら奈良館」(旧 奈良歴史教室)があったが、奈良市の事業仕分けで「不要」と判定され、平成23(2011)年3月で閉館した。
平成28(2016)年10月20日、同年11月の春日大社式年造替に向けてリニューアル工事を進めていた地下1階コンコースの供用を開始した。「古都奈良の自然と歴史」をデザインコンセプトに定め、シルクロードの終着点として栄えた奈良の歴史と、若草山や奈良公園などの自然をデザインモチーフとして取り入れた。コンコースのリニューアル工事に合わせて案内サインも更新された。また、地下1階コンコースのリニューアルオープンにともない、5店舗のみだった駅ナカショッピングモール「Time's Place 奈良」も、駅構内の14店舗すべてに拡大し、同年10月21日にリニューアルオープンした。
駅長が置かれ、当駅と新大宮駅を管理している。

のりば:
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 A 奈良線 大和西大寺・大阪上本町・大阪難波方面、阪神なんば線・本線 尼崎・神戸三宮方面 
 B 京都線直通 京都方面、京都市営地下鉄烏丸線 京都国際会館方面

 降車ホーム
(1番線)
 1番ホーム  
(2番線)
 2番ホーム
 降車ホーム  
(3番線)
 降車ホーム 
 3番ホーム(上右写真左側)
(4番線)
 4番ホーム(上左写真)
ホーム有効長は1・2番線が10両、3番線が8両、4番線が6両。
特急列車は3・4番線から、大阪方面の快速急行・急行は1・2番線から出ることが多いが、必ずしも固定されているわけではない。また、京都方面の急行に至っては平日と土休日で発着番線が大きく変わる。
1・2・3番線には降車ホームがあるが、4番線のみ設けられていない。
自動改札機は東芝製のものが設置されている。全てPiTaPa・ICOCAに対応。このうち、色が赤いもの (EG-2000) は出場時2枚一括処理に対応している。
定期券・特急券ともに自動発売機、駅窓口で即時購入が可能。近鉄の主な駅で発売される硬券入場券の発売駅である。

バス:
奈良交通一般路線
市内完結系統では均一前払い制、郊外直通系統では整理券方式後払い制が採用されている。そのため同じ行先でも乗車方式が異なる場合がある。(平成27(2015)年7月16日現在の状況)

左から系統番号 (経由地) 行先・・備考
1番のりば(市内循環外回り・奈良公園・東大寺・春日大社・高畑町方面)
 2・深夜2 (東大寺大仏殿春日大社前→高畑町→紀寺町→JR奈良駅方面) 【N-3】市内循環・外回り
 6    (東大寺大仏殿春日大社前→高畑町→紀寺町→近鉄奈良駅方面)中循環・外回り・・午前中・外回りのみ運行
 15・72・87・129・160 (東大寺大仏殿春日大社前) 高畑町
 70・97・98 (東大寺大仏殿) 春日大社本殿
 ぐるっとバス (東大寺→若草山麓→春日大社→ならまち方面) 【R13】奈良公園ルート・・土曜休日および観光シーズン運行
2番のりば(般若寺・奈良阪・青山住宅方面)
 27・81・118・深夜118 (今小路・般若寺) 青山住宅
3番のりば(元興寺・下山・天理方面)
 51  下山
 53 (下山) 窪之庄
 73 (下山・櫟本) シャープ総合開発センター
 44 (下山・添上高校) 天理駅・・平日のみ運行
 50 (下山・櫟本) 天理駅
 82 (下山・櫟本・憩の家病院) 天理駅
 92 (下山・櫟本・憩の家外来棟) 天理駅・・休日運休
 192 (下山・奈良東病院・憩の家外来棟) 天理駅・・休日運休
 250 (下山・奈良東病院) 天理駅・・休日のみ運行
4番のりば(広岡・柳生・月ヶ瀬/山村町・藤原台/下水間方面)
 77  緑ヶ丘浄水場
 96 (緑ヶ丘浄水場・須川) 下狭川
 105 (緑ヶ丘浄水場・須川・下狭川) 広岡
 106 (緑ヶ丘浄水場・須川・奈良市東部出張所・下狭川) 広岡
 100 (緑ヶ丘浄水場・忍辱山) 柳生
 102 (緑ヶ丘浄水場・忍辱山・柳生) 邑地中村
 94 (緑ヶ丘浄水場・忍辱山・柳生・邑地中村・梅の郷月ヶ瀬温泉) 石打
 55 (萩ヶ丘町) 奈良佐保短期大学・・学校開校日のみ運行
 61 (萩ヶ丘町・奈良佐保短期大学) 鹿野園町
 57 (萩ヶ丘町) 藤原台
 59 (萩ヶ丘町・奈良佐保短期大学) 藤原台・・平日のみ運行
 56 (萩ヶ丘町) 山村町
 58 (萩ヶ丘町・奈良佐保短期大学) 山村町・・平日のみ運行
 62 (萩ヶ丘町・藤原台) 山村町
 123 (白毫寺) 奈良春日病院・・休日運休
 122 (白毫寺・奈良春日病院) 下水間
 124 (白毫寺・奈良春日病院・下水間) 北野・・一部は日笠で大平尾行きに連絡
8番のりば(西の京・郡山・法隆寺方面)
 23 (JR奈良駅・三条桧町) 済生会奈良病院
 22 (JR奈良駅・三条桧町・済生会奈良病院) 県立図書情報館
 63・70・72 (JR奈良駅・唐招提寺・薬師寺・西ノ京駅) 六条山
 88 (JR奈良駅) 近鉄郡山駅
 52 (JR奈良駅・近鉄郡山駅・小泉) 法隆寺前 【E-6】奈良西の京斑鳩回遊ライン
 97 (JR奈良駅・薬師寺駐車場・近鉄郡山駅・郡山総合庁舎・法起寺) 法隆寺前 【E-6】奈良西の京斑鳩回遊ライン・・平日運行
    (JR奈良駅・薬師寺駐車場・近鉄郡山駅・法起寺) 法隆寺前 【E-6】奈良西の京斑鳩回遊ライン・・土曜休日運行
 77・94・95・96・100・102・105・106・118・153 (油阪船橋商店街・大宮町一丁目) JR奈良駅西口
 81 (JR奈良駅西口) 大安寺
 ぐるっとバス (JR奈良駅西口→法華寺・海龍王寺→大極殿→朱雀門方面) 【B2】平城宮跡ルート・・土曜休日および観光シーズン運行
9番のりば(市内循環内回り・JR奈良駅方面)
 1 (JR奈良駅→大森町→紀寺町→高畑町方面) 【N-3】市内循環・内回り
 7・50・51・53・55・56・57・59・61・62・73・82・124・182・192 (油阪船橋商店街) JR奈良駅
10番のりば(大宮通り・奈良市庁方面)
 27 (JR奈良駅西口・奈良市庁前) 二条大路南一丁目
 28 (JR奈良駅西口・奈良市庁前・柏木町) 恋の窪町
11番のりば(大宮通り・奈良市庁・阪奈道路/三条通り・尼ヶ辻駅方面)
 43 (JR奈良駅・尼ヶ辻駅) 県総合医療センター・・休日運休
 48 (JR奈良駅・尼ヶ辻駅・東坂) 学園前駅
 75 (奈良市庁前・柏木町) 国道横田・・土曜日のみ運行
 160・161 (JR奈良駅西口・奈良市庁・阪奈菅原) 学園前駅
12番のりば(大安寺方面)
 85 (JR奈良駅・大安寺・西九条町) 杏南町
 86 (JR奈良駅・大安寺・西九条町・杏南町) イオンモール大和郡山
 79・87・90・深夜79 (JR奈良駅・大安寺・永井町) シャープ前
 135・136 (JR奈良駅・大安寺・永井町・シャープ前) 白土町
13番のりば(浄瑠璃寺・加茂駅/高の原駅/航空自衛隊・西大寺駅方面)
 12 (法華寺・平城宮跡) 西大寺駅
 14 (法華寺・航空自衛隊・平城宮跡) 西大寺駅 
 13・15・131 (法華寺) 航空自衛隊
 108 (鴻池・木津南ソレイユ・梅美台二丁目) 南加茂台五丁目
 208 (鴻池・木津南ソレイユ・梅美台五丁目) 南加茂台五丁目
 109 (鴻池・木津南ソレイユ・梅美台二丁目・南加茂台五丁目) 加茂駅
 209 (鴻池・木津南ソレイユ・梅美台五丁目・南加茂台五丁目) 加茂駅
 急行112 (木津南ソレイユ・西小) 浄瑠璃寺・・急行運転
 115 (鴻池・佐保台三丁目・朱雀六丁目) 高の原駅
 130 (鴻池・佐保台三丁目) 平城山駅東口
14番のりば(JR奈良駅方面)
 12・13・14・108・109・115・130・156・208・209 (油阪船橋商店街・大宮町一丁目) JR奈良駅西口
 急行112 (途中停留所には停車しない) JR奈良駅西口
 16・19 (JR奈良駅・大安寺・八条町一丁目) 杏中町
21番のりば(州見台方面)
 153・154 (般若寺・奈良阪・木津南ソレイユ) 州見台八丁目

高速バス・空港バス:
駅前中筋町交差点脇にある奈良ラインハウスビルが高速バス待合所および定期観光バス案内所となっており、高速バスは奈良ラインハウスビルの付近にある20番のりばから発車する。(【 】内は運行会社)
12番のりば
 リムジンバス 大阪国際空港【奈良交通・大阪空港交通】
20番のりば
 奈良新宿線 (新宿高速バスターミナル) 京王プラザホテル【奈良交通・関東バス】
 奈良千葉線 (本厚木駅・横浜駅(YCAT)・京成上野駅・TDR) 海浜幕張駅【奈良交通・京成バス】
 奈良名古屋線 名古屋駅【奈良交通・名鉄バス名古屋中央営業所】
 リムジンバス 関西国際空港【奈良交通・関西空港交通】

かつては、近鉄バスや京阪バス、奈良交通が京都駅、近鉄バスが大阪梅田まで運行していた事もあった。現在近鉄バスは奈良県から撤退している。高速ではやまと号の福岡、埼玉方面の運行から撤退した。また、神奈川も千葉系統と統合している(五位堂から神奈中の運行もあった)。

参考資料:Wikipedia(2016年11月4日)
記事:
 取材:27.3.-7/28.8.16
 投稿:29.4.30
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# by fbox12 | 2017-04-30 23:18 | 鉄道・バス

東海自動車回数乗車券(20円券)

a0057057_22461352.png東海バス(東海自動車株式会社:本社 静岡県伊東市)グループの各バス会社では、平成29年4月現在、ICカード等の導入がされていないため、回数乗車券(以下、回数券)が売られている。

回数券は金額式のもので、窓口で発売されるものは、
 11枚綴り(10枚分の金額)
 13枚綴り(10枚分の金額だが、使用可能な時間が限られる)
 35枚綴り(30枚分の金額)があり、これまで短冊状(11・13枚)・冊子状(35枚)のあらかじめ印刷されたもの(鉄道でいう「常備券」)であったが、この形のものの新規補充は既にされておらず、販売時、その場で金額(・枚数)を打ち込みプリントアウトしたものに移行しつつある。
旧来のものは、20円から300円までほぼ10円刻みで、最高は500円のものまであった(発売箇所単位で、需要のある金額のみ置いてあり、すべての種類を置いていたわけではない)。
またこのほかに、車内で運転手により発売されるものがあり、金額は、
 1,000円、2,000円の2種類がある(発売は、どちらか一方)。
(ちなみに、印刷発行機によるものは、金額にある程度自由度が広がったため、「10円」などの、これまでになかった金額のものも発売できるようになった)。

記事:
 投稿:22.7.20
 調整:29.4.28/29.4.29/29.5.-4

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# by fbox12 | 2017-04-28 22:38 | コレクション