fbox12 blog (博物館fbox12 館長の雑記帳)

228 三河塩津駅 (JR東海)

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a0057057_23084424.pnga0057057_23453036.pnga0057057_23510988.pngみかわしおつ







所在地:愛知県蒲郡市竹谷町油井40-5
所属・路線:東海旅客鉄道株式会社・東海道本線
電報略号:ミツ
キロ程:312.9km(東京起点)
乗換:蒲郡競艇場前駅(名鉄蒲郡線)
営業形態:業務委託駅(夜間無人駅)

概要:
当駅は蒲郡競艇場の利用客を見込んでJR化後に開業した駅である。名古屋鉄道(名鉄)蒲郡線の蒲郡競艇場前駅が隣接しており、乗り換えが可能である。これまで、当駅が開業する前まで、豊橋方面から蒲郡競艇場へ向かう場合は蒲郡駅で名鉄蒲郡線に乗り換えなければならなかったが、開業によって乗り換えなしで向かえるようになった。しかし、当駅の開業のあおりなどもあり、名鉄蒲郡線の蒲郡競艇場前駅の利用客は減少している。なお、同線には昭和43(1968)年9月30日まで「塩津駅」があった(後に蒲郡競艇場前駅として統合)。停車列車は、普通列車と区間快速である。日中は上下線とも毎時2本の停車本数となる。平成20(2008)年3月の横断歩道橋設置に伴い駅の東側にあった油井踏切は廃止され、三河三谷 - 当駅間の踏切はすべて廃止された。

歴史:
昭和63(1988)年11月16日 - 東海旅客鉄道(JR東海)により、東海道本線蒲郡 - 三ヶ根間に新設開業。
平成18(2006)年1月25日 - TOICA導入。

駅構造:
相対式ホーム2面2線を有する地上駅で、橋上駅舎を備える。蒲郡競艇場前駅への階段が橋上駅舎からつながっている。東海交通事業が業務を受託する業務委託駅で、蒲郡駅が当駅を管理している。早朝と深夜は無人となる。蒲郡競艇場の開催日は窓口業務が延長される。駅舎内にはみどりの窓口や自動券売機(TOICA等ICカード対応)1台、簡易型自動改札機(TOICA対応)が設置されている。

のりば:
1番線東海道本線 下り 岡崎・名古屋方面
2番線東海道本線 上り 豊橋・浜松方面
蒲郡駅方の高架化の際に線路が若干移動した関係で、1番線の階段付近はホームが少し狭くなっている。

出典:Wikioedia「三河塩津駅」(2017年7月14日 最終更新)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%B2%B3%E5%A1%A9%E6%B4%A5%E9%A7%85

現地取材:29.8.27
記事投稿:29.8.30

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# by fbox12 | 2017-08-30 23:29 | 鉄道・バス

227 波子駅(JR西日本)

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所在地:島根県江津市波子町850
所属・路線:西日本旅客鉄道株式会社・山陰本線
電報略号/事務管コード:ハシ/640761
キロ程:463.3km(京都起点)
営業形態:簡易委託駅

歴史:
大正10(1921)年9月1日 -鐵道省山陰本線の都野津驛 - 浜田驛間延伸時に開業。客貨取扱を開始。
昭和48(1973)年6月15日 - 貨物取扱廃止。
昭和60(1985)年3月14日 - 無人駅となる。
昭和62(1987)年4月1日 - 国鉄分割民営化により、西日本旅客鉄道(JR西日本)の駅となる。平成2(1990)年3月10日 - 無人駅になる。
平成12(2000)年 - しまね海洋館アクアス開業により、簡易委託駅員を配置および特急停車駅となる。

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駅構造:
島式1面2線のホームを持ち、行き違い設備を有する地上駅。海側の益田寄りに駅舎があり、ホームへは構内踏切で結ばれていて跨線橋はない。浜田鉄道部が管理する駅。かつては近隣の多くの駅と同様に完全な無人ローカル駅となっていたが、平成12(2000)年のしまね海洋館アクアスの開業に伴って改装し、週代わり交代制の簡易委託駅として有人駅化され、特急や快速も止まる需要のある駅となった。窓口は駅舎を抜けて構内踏切へ通じる通路に入る手前にあり、車掌が常備しているタイプの携帯型車内券発行機にて乗車券類(上のとおり、入場券も発行可)を発売、またアクアスの入場券を購入することもできる。

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のりば:
1番のりば 山陰本線 上り 出雲市・松江方面(写真左)
2番のりば 山陰本線 下り 浜田・益田方面(写真右)
※平成29(2017)年3月時点で駅掲示時刻表にのりば番号が表記されており、列車運転指令上の番線番号同様に駅舎側(上り)を1番のりばとしている。

その他:
昭和50年代後半に2、3回広島駅 - 波子駅間(車両回送を含めると浜田駅まで)に芸備線・三江線・山陰本線経由で「波子ビーチ」号という臨時快速列車が運転された。広島運転区のキハ58系2両を使用していた。

参考資料:Wikipedia「波子駅」(2017年3月10日最終更新)
  https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%A2%E5%AD%90%E9%A7%85
停車場一覧(日本国有鉄道編 昭和41年3月1日現在)(停車場一覧刊行会)

現地取材:28.9.-7
記事投稿:29.8.23

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# by fbox12 | 2017-08-23 23:05 | 鉄道・バス

B001 しずてつジャストライン ← 静岡鉄道(静鉄バス)

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a0057057_21002291.pnga0057057_22162590.png
a0057057_21445864.pngしずてつジャストライン株式会社(←静岡鉄道株式会社← )

本社所在地:静岡県静岡市葵区宮前町28番地
沿革:
平成14(2002)年10月1日 - 静岡鉄道のバス事業すべてを譲り受け発足(当時の本社事務所所在地:静岡市葵区鷹匠一丁目14番10号 静鉄5号館)。

歴史:
創業期
平成20(2008)年現在の静鉄バスの営業エリアにおけるバス事業は、明治39(1906)年に靜岡と江尻(清水)を結ぶ東海自動車(伊東市の東海自動車とは別会社)によるものが端緒である。しかし、この路線は明治41(1908)年に大日本軌道による鷹匠町と江尻新道を結ぶ軌道線が開通すると廃業となった(現在の静岡市に於ける市内交通は現在の静岡鉄道静岡清水線に引き継いでいる)。このほか、大正4(1915)年から同9((1920)年にかけて、靜岡・清水・藤枝・菊川などで小規模なバス事業が開始されている。靜岡市内で宮寺商会が開業した大正11(1922)年頃からは利用者も増加、大正15/昭和元(1926)年までに数社が靜岡市内で設立されたほか、藤枝・焼津・榛原地区でもバス事業が開始されている。しかし、これらの路線バスは鉄道との競合となった。大正8(1919)年に大日本軌道から軌道事業を引き継いだ駿遠電氣大正12(1923)年に社名を靜岡電氣鐵道と改め、靜岡市内・清水市内線や袋井と森を結ぶ秋葉線を開業するなど、鉄道事業を拡大していたが、それらの路線に並行する形で路線バスが運行されたため、鉄道からバスへの乗客の転移もみられた。自社鉄道防衛の見地からバス事業に進出しようとしたが、既に既存路線がある場合は運行の許可を得ることは出来なかった。このため、靜岡電氣鐵道では秋葉線の培養としてタクシーの営業を開始した後、昭和3(1928)年に袋井と可睡を結ぶ季節運行のバス路線を開設した。これが静鉄バスの直接のルーツとなる路線である。その後、昭和4(1929)年に宮寺自動車商会と森久自動車商会を買収し、靜岡・清水近辺のバス路線を自社路線としたことで、本格的にバス事業に参入した。一方、当時藤枝と相良を結んでいた藤相鐵道も、自社鉄道線擁護のためバス事業を開始することになり、大正13(1924)年に藤枝自動車商会を買収したほか、袋井と横須賀を結んだ中遠鐵道も同様の理由でバス事業に参入し、袋井と池新田を結ぶ路線バスの運行を開始した。

自主統合から戦時統合へ:
この時期、小規模なバス事業者同士の競合による疲弊が顕在化し、事業者の経営を圧迫したため、次第に有力事業者への統合が進むことになる。靜岡電氣鐵道は昭和7(1932)年に西駿自動車商会を買収したのを皮切りに、沿線の各事業者の買収を進めた。秋葉線と競合していた秋葉自動車商会も昭和10(1935)年に買収されている。藤相鐵道も昭和3(1928)年に川崎町の栄輪社を買収したのを初めとして、昭和10(1935)年までに沿線のバス事業者を買収し、自社のバス事業の拡張を行った。一方で、路線の新設も行われた。静岡電氣鐵道は昭和5(1930)年には靜清國道の開通を受けて路線を開設、その後山間部への路線も新設したほか、観光路線として日本平線の運行も開始した。藤相鐵道も同様に事業を拡大していったが、岡部と藤枝を結ぶ路線の新設時には両社競願となったため、最終的には銀行の仲介で、昭和10(1935)年に共同出資の駿遠自動車を設立して運行を行っている。静岡市内では昭和10(1935)年に靜岡自動車が営業を開始し、靜岡市内線を中心に運行を行ったが、昭和11(1936)年に靜岡市会でバス事業の市営化が提言されたのを受け、靜岡市は靜岡自動車の買収を図った。これに対して、靜岡自動車では将来性のある藁科線を靜岡交通自動車(設立当初は靜岡遊覧運輸)として分社化した。しかし、折りしも戦時体制に突入したことから市営バス化の論議は低調となり、昭和12(1937)年に駿遠自動車が靜岡自動車を買収することになり、同社は靜岡乗合自動車と改称した。戦時体制に入ると、各社とも不要不急路線の休止が行われるようになり、昭和16(1941)年には鉄道並行路線も休止されるようになった。同年、靜岡電氣鐵道の社長に五島慶太が着任したが、五島は陸上交通事業調整法の主旨に基づき静岡県中央部の交通を統制すべく、バス事業者の統合に向けて合併交渉に回るようになった。統合そのものは戦時下の国策でもあることから合併交渉は進み、昭和18(1943)年5月に靜岡電気氣鐵道を主体として、藤相鐵道・中遠鐵道・靜岡乗合自動車・靜岡交通自動車が合併、社名も靜岡鐵道に変更した。その後、バス専業事業者6社を昭和19(1944)年1月までに合併、静岡県中央部のバス事業は大井川鐵道の営業エリアが一部に残る以外は靜岡鐵道に統一されたのである。しかし、合併後の社内組織の整理の前に靜岡市内に空襲などが続き、靜岡鐵道は大きな被害を受けた。終戦の時点で稼動可能なのは電車7台とバス20台強という有様で終戦を迎えることになる。
戦後から高度成長期まで終戦後まもなく社長に就任した川井健太郎は、まず社内組織をまとめることから着手し、復興の基礎作りを優先した。郊外の営業所の車両を靜岡市内に集めて靜岡市内路線の運行を再開、昭和21(1946)年からは新車のみならず米軍払い下げの車両などを導入することで、輸送力の復旧に尽力した。昭和23(1948)年以降は増資のうえ新車の導入を拡大し、昭和24(1949)年までには路線・車両ともほぼ合併当時の状況へ復旧を果たした。昭和25(1950)年には静岡と相良を結ぶ直行便の運行を開始、既存路線の増強を行った。同年からは行楽客の増加傾向がみられたため、久能山と三保をめぐる定期観光バスの運行を開始した。この頃から、静岡市の都市圏の拡大とともに周辺部の人口が急増したため、静岡市の郊外へ向かう路線の増強に着手した。また、長距離路線の展開もこの頃から始まり、昭和29(1954)年には山梨交通との相互乗り入れにより静岡と甲府を結ぶ急行バスの運行を開始した。さらに昭和31(1956)年には富士山麓電気鉄道との相互乗り入れで静岡と沼津を結ぶ路線を開設、さらに昭和38(1963)年には遠州鉄道・大井川鉄道との相互乗り入れにより静岡浜松線の運行を開始した。この時期まで、静岡市内でのバス運行拠点は静岡駅であったが、昭和29(1954)年から駅前広場改修工事が開始されると手狭になった上、鷹匠町の鉄道駅を新静岡駅として大改良することになったため、新たに新静岡をバス運行拠点とすることになり、昭和31(1956)年に新静岡バスセンター(当時)の営業を開始し、静岡駅前は路上バス停となった。昭和32(1957)年には静岡国体が開催されたが、静鉄バスでは136台という当時としては大規模な車両増備を行い、国体輸送を完遂した。この頃、静岡市では再び市営バス事業を画策、昭和31(1956)年に4路線の免許申請を行った。これは静鉄バスの空白地帯への路線ではあったが、静鉄バスでも同様の申請を行っていたことから競願となった。戦前に引き続き市営バスの運行が計画されたのは、この時の市長が戦時中に合併した5社のうちの1社で経営者を務めており、バス事業への意欲が強かったためとされている。昭和34(1957)年までに公聴会も行われたが、静岡市の計画にやや無理があったこと、静岡国体の輸送を完遂した実績から、昭和33(1958)年に静岡市の申請は全て却下された。モータリゼーションと高速道路時代一方、鉄軌道部門では市内線やローカル路線はモータリゼーションの進展と共にその存在意義が薄れてゆくことになった。昭和37(1962)年9月には静岡市内線と秋葉線が、昭和39(1964)年から昭和45(1970)年にかけては駿遠線が段階的に廃止された。いずれの路線も廃止後は静鉄バスが代替輸送を行うことになった。静鉄バス自身もモータリゼーションの影響で利用者の増加が鈍化しつつあり、一方で経費の上昇が続いたことから、合理化が必要となった。このため、まずワンマン化を開始することになり、昭和37(1962)年11月から静岡市内の路線でワンマンバスの運行が開始された。昭和42(1967)年からは前年に開発された整理券方式の採用により、郊外線でもワンマン化が進められることになり、さらに昭和50(1975)年には後方監視用カメラの採用に伴い誘導員なしでもバスを後退させることが可能になったため、昭和61(1986)年までにワンマン化はほぼ終了となった。昭和41(1966)年には新静岡バスセンターがターミナルビルの建設と同時に全面改良されることになり、昭和45(1970)年に完成、路線バスは全て新静岡を起終点とすることになった。一方、昭和39(1964)年に東海道新幹線が開業すると、観光客の増加が見られるようになったため、日本平パークウェイを経由して静岡駅と日本平を直行する路線を開設、また御前崎への定期観光バスの運行もしょう昭和43(1968)年に開始した。さらに昭和44(1969)年に東名高速道路が開通すると、高速道路を経由する路線バスも運行されるようになった。静鉄バスでは沿線事業者として東名急行バスに出資したほか、昭和44(1969)年には静岡浜松線を東名高速道路経由に変更、昭和45(1970)年には静岡沼津線と静岡御前崎線も東名高速道路経由に変更した。また、観光客の増加と高速道路の開通によって貸切バス需要が大幅に増加した上、昭和45(1970)年には大阪で万国博覧会が開催されたため、貸切バス部門は大きく収益を伸ばした。営業力の強化のため、昭和44(1969)年には静岡観光バスを設立している。利用者減とバス事業再編、高速バスの再開と拡大昭和45(1970)年以降は、バス利用者は日本全国的に減少傾向となり、バス事業者の経営を圧迫していった。静鉄バスも例外ではなかったが、静岡・清水の都市機能が拡大していたことから、大幅な利用者減はみられず、むしろ路線の増強も行われていた。この頃から、サービス面についても充実を図る傾向となった。昭和50(1975)年には清水市内線(路面電車)が廃止になったが、代替路線ではバス優先レーンの整備が行われた。また、静岡市内のバス停で電照式のバス停ポールと上屋の設置を進めたほか、昭和52(1977)年からはバス車両の冷房化が開始された。冷房化については車両改造も含めて順次進められたが、静鉄バスの当時の車両使用年数が長い(約18年)ことから、完全冷房化は平成5(1993)年までずれ込むことになる。また、イメージチェンジを図り、昭和55(1980)年より路線バス車両をアイボリー地に赤帯の塗装デザインに変更した。昭和58(1983)年には静岡駅前広場が整備され、駅前バスターミナルも整備されたことから、再び静岡市内での経路変更が行われ、全路線が静岡駅と新静岡を経由するようになったほか、市内線は静岡駅・新静岡を途中停留所とする路線体系に変更された。昭和62(1987)年にはバスロケーションシステムを導入、さらに、一部路線で都市新バスシステムが導入された。平成2(1990)年にはバス停留所近くに駐輪場を設置する「サイクル&バスライド」を導入した他、平成6(1994)年には鉄道との共通プリペイド式磁気乗車カードとしてパサールカードを導入した。貸切バスについては、平成2(1990)年に営業形態の異なる中小型バスについては静鉄小型バスとして分離したほか、昭和56(1981)年より傘下に入っていた清水交通と静岡観光バスを平成12(2000)年に合併し、しずてつジョイステップバスを設立し、静鉄小型バスが、しずてつジョイステップバスを吸収合併し、静鉄ジョイステップバスになった。一方、長距離路線は順次縮小された。静岡甲府線は山梨交通が撤退したあとも運行が続けられ、昭和63(1988)年にはNHK大河ドラマ「武田信玄」放送にあわせて増発もされたが、平成2(1990)年に休止となった。高速道路経由の東名静岡浜松線も平成6(1994)年に廃止され、このあとしばらくは御前崎方面以外の高速バス展開は途絶えることになる。また、ローカル路線対策として、末端区間を貸切代替バスへ切り替える方策を採ったほか、昭和63(1988)年に掛川地区での大井川鉄道バスの撤退の受け皿として掛川バスサービスを設立した。平成8(1996)年には秋葉地区の静鉄バス路線を秋葉バスサービスとして分社化している。さらに、平成14(2002)年からはバス事業全てを分離し、しずてつジャストラインとして独立させ、観光バスについては、順次、静鉄ジョイステップバスにほぼ全て移行してゆくことになったが、定期観光線として、一部残っている。平成17(2005)年からは中部国際空港へのリムジンバス運行によって長距離高速バス運行を再開(同路線は平成24(2012)年3月末日で休止)、さらに平成19(2007)年からは東京へ直行する高速バス路線の運行を開始した。同年に新宿への路線も開設されているほか、平成20(2008)年からは成田国際空港へのリムジンバス運行も開始している。平成23(2011)年には、京都・大阪への夜行高速バス路線を開設した。また10月11日には、平成21(2009)年4月1日から行われていた新静岡再開発事業の竣工による「新静岡セノバ」のオープンに伴い、新静岡バスターミナルの供用を2年半ぶりに再開した。

営業所:
路線バスおよび受託自主運行バスは、静岡市(清水区のうち、旧由比町・旧蒲原町の町域を除く)、焼津市、藤枝市、島田市、牧之原市、御前崎市、菊川市、掛川市、榛原郡吉田町の8市1町で運行している。

現行営業所
中扉の横(トップドア車は前扉の後ろ)・車両後部に、その車両の所属営業所を示す動物などのステッカーがペットマークとして貼られている(主に遺失物対策。同様の取り組みは仙台市営バスなどに見られる)。浜岡営業所の所属車両は浜松ナンバー、それ以外の所属車両は静岡ナンバーとなっている。

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西久保営業所(静岡市清水区高橋町2187-6)パルちゃん
鳥坂営業所(静岡市清水区鳥坂1292)ウサギ(タイトル写真)
小鹿営業所(静岡市駿河区小鹿二丁目25-27)シカ(右写真)
唐瀬営業所(静岡市葵区岳美12-57)コアラ
丸子営業所(静岡市駿河区丸子四丁目2-60)キリン(タイトル下右写真)
岡部営業所(藤枝市岡部町内谷700-1)サル
相良営業所(牧之原市波津二丁目1)カモメ
浜岡営業所(御前崎市池新田3961-6)アカウミガメ


廃止された営業所:
折戸営業所 - 西久保営業所に整理統合。現在は折戸車庫となっており、しみずライナーの始発・終着地となっている。
国吉田営業所 - 静岡鉄道時代に廃止。現在は富士ロジテック(倉庫業)が土地・建物を管理し、日本年金機構静岡事務センターなどが入居している。
藤枝営業所 - 静岡鉄道駿遠線の大手駅を営業所に転用したもの。平成18(2006)年に岡部営業所として移転、後述の焼津営業所と統合された。跡地には静岡銀行藤枝支店・戸田書店藤枝東店が建つ。ペットマークは象だった。
焼津営業所 - 平成18(2006)年に岡部営業所に統合。現在は岡部営業所の車庫として使用中。ペットマークは地元名産の鰹だった。
榛原営業所 - 現在は相良営業所の車庫となっており、案内所としても使用されている(静波海岸入口・榛原バスターミナル)。
島田営業所 - 静岡鉄道時代に廃止。現在はしずてつストア島田店ほかが建つ。
菊川営業所 - 静岡鉄道時代に廃止。
掛川営業所 - 観光部門を残し(掛川観光営業所→静鉄ジョイステップバス掛川営業所)、路線バスは掛川バスサービスに移管。
袋井営業所 - 浜岡営業所に統合。現在は秋葉バスサービスの車庫になっている。

出典・参考:Wikipedia「しずてつジャストライン」(2017年7月2日最終更新)
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%97%E3%81%9A%E3%81%A6%E3%81%A4%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%B3

写真:いずれも 15.8.31(静岡鉄道の頃)撮影(順次追加予定)

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# by fbox12 | 2017-08-22 16:41 | 鉄道・バス

159 小和田駅 (JR東海)

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こわだ

所在地:静岡県浜松市天竜区水窪町奥領家44
所属・路線:東海旅客鉄道株式会社・飯田線
電報略号/事務管コード:コワ/521739
キロ程:83.8km(豊橋起点)

概要:
a0057057_22275295.png所在地は静岡県であるが、静岡、愛知、長野3県の県境に近いところにある。
駅前には何ら施設が無く、また道路が通じていないため自動車では訪問できないことから、鉄道ファンに秘境駅の一つとして認知されている。秘境駅ブームの火付け役であり、『秘境駅へ行こう』の著書で知られる牛山隆信が最初に訪れた駅であり、牛山が作成した「秘境駅ランキング」では全国3位にランキングされている。
以前は駅周辺に集落が存在し、天竜川対岸の富山村(現 豊根村)側にも集落や自動車が通れる道路が存在したが、昭和31(1956)年に完成した佐久間ダムによりそれらの集落が水没し、駅周辺の人家は約20分歩いたところにある一軒と、そこから険しい山道を4・50分ほど登った先にある塩沢地区の数軒のみとなってしまった。この塩沢地区への郵便配達は、険しい地形のためにバイクでの配達が困難であるため、郵便局員が列車に乗って郵便物を届けに来る。また、警察官による巡視にも飯田線が利用されている。
a0057057_22314093.pngこれらの経緯により、利用者はこの駅を目当てにやってくる鉄道ファンを除けば極端に少ない。テレビ番組『所さんの学校では教えてくれないそこんトコロ!』の「あなたはナゼ秘境駅へ来たんですか?」のコーナーで行った調査では(平成26(2014)年5月16日OA)、塩沢集落では道路が整備されたために当駅を利用する住人はおらず、純然たる生活目的の利用者は前述の一軒家に住む老婦人一人しか確認できなかった(ここ数年の1日平均利用者数は6人)。
普段は閑散としているが、平成5(1993)年の皇太子徳仁親王と小和田雅子とのご成婚の折には、駅名が旧姓である小和田(おわだ)と同表記であるとして、恋愛成就にあやかろうとする人々で賑わった。水窪町(当時)は同駅下にある広場で結婚式を開きたいカップルを募集し、うち1組が挙式を行っている。その結婚式を記念して設置された「愛」と書かれたベンチや結婚式の写真などは、今も駅に残されている。
小和田駅及び駅周辺地域を、個人の活動として、定期的に清掃を行いに訪れる人が存在するほど人気の高い駅である。

駅構造:
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単式ホーム1面1線を有する地上駅。豊橋側のトンネル手前に保線車両用の引き込み線が設置されている。中部天竜駅管理の無人駅であり、無人化後も駅舎が残されている。
a0057057_21275641.jpgかつては相対式ホーム2面2線であったが、平成20(2008)年1月に片側が使用中止され、単式ホームとなった。使用中止となった側の線路は現在撤去されているが、ホームはそのまま残されている(ただし立入はできない:上左写真)。
(右写真は、かつて2線であった頃の上り列車から撮影したもので、ホーム横がすぐに崖になっている。・・駅名標の標記が上の写真とは逆・・右側が「おおぞれ」の4文字)
なお、同駅に設置されていたトイレは平成25(2013)年に使用停止(撤去済)となっているため注意が必要。

歴史:
昭和11(1936)年12月30日 - 三信鐡道(北線)が満島驛(現 平岡駅)から延伸した際の終着駅(一般駅)として開業。当時の南線の終着駅であった大嵐驛との間は船舶で連絡した。
昭和12(1937)年8月20日 - 大嵐 - 小和田間が開通し三河川合驛への既存線(南線)と接続、途中駅となる。これを以って三信鐡道および豊川鐡道・鳳來寺鐡道・伊那電氣鐡道を介して𠮷田(現 豊橋) - 辰野間が全通。
昭和18(1943)年8月1日 - 三信鐡道線が飯田線の一部として国有化され、鐵道省の駅となる。
昭和46(1971)年12月1日 - 貨物・荷物の取扱を廃止(旅客駅となる)。
昭和59(1984)年2月 - 無人化。
昭和62(1987)年4月1日 - 国鉄分割民営化により、東海旅客鉄道の駅となる。
平成20(2008)年1月27日 - ホーム1面の使用を中止し、棒線駅となる。


参考資料:Wikipedia「小和田駅」(最終更新 2017年6月28日)
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%80%89%E8%B3%80%E9%87%8E%E9%A7%85
現地取材:19.9.10/29.4.-6
記事投稿:28.6.-9
  調整:29.8.20/29.8.21

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# by fbox12 | 2017-08-20 22:28 | 鉄道・バス

リポビタンD ドラゴンボール限定デザインボトル

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ミニチュアボトルコレクション

1921 悟空
1922 ベジータ
1923 トランクス
1924 18号
1925 フリーザ

主要コンビニエンスストアで販売

品名:指定医薬部外品
原材料:タウリン・イノシトール・ニコチン酸アミド・チアミン硝化物(ビタミンB1)・リボフラビリン酸エステルナトリウム(ビタミンB2)・ピリドキシン塩酸塩(ビタミンB6)・無水カフェイン他添加物容量:100ml
製造販売元:大正製薬株式会社(東京都豊島区高田3丁目24番1号)


参考資料:大正製薬ホームページ
http://www.taisho.co.jp/lipovitan/campaign/dragonball/

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# by fbox12 | 2017-08-19 22:09 | コレクション

第伍拾參 石室神社 静岡県賀茂郡南伊豆町鎮座(境内社:第佰七 熊野神社)

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a0057057_16434934.pnga0057057_16433189.pnga0057057_16495235.pnga0057057_17180799.png
いろうじんじゃ(いしむろじんじゃ)

鎮座地:静岡県賀茂郡南伊豆町石廊崎125
祭神:伊波例命(いわれのみこと)
社格等:(伝)式内社、無格社

概要:
伊豆半島の最南端に位置する石廊崎の突端付近にある神社。石廊権現(いろうごんげん)や石廊崎権現(いろうざきごんげん)とも呼ばれる。古くは伊波例命神社(いはれのみことじんじゃ)とも呼ばれていたとされ、また祭神は現在では伊波例命(いわれのみこと)と云われるが、以下に記すように必ずしも定かではない部分もある。伊豆國神階帳「従四位下いわらいの明神」に比定。社殿は海岸の岩窟上に立てられた帆柱の上に造営され伊豆の七不思議のひとつとされている。尚、50メートルほど離れた岬の最突端には熊野神社(くまのじんじゃ)があるが、事実上ひとつの神社として扱われることが多く、本項では一緒に記載する。
上写真鳥居をくぐり坂道を下ると石廊崎灯台があり、灯台横をさらに下ると、岩に組み込まれたような拝殿が見えてくる。

歴史:
由来や創建時期には以下のように諸説があり、必ずしも定かではない。社伝によれば文武天皇大宝元(701)年に初めて堂が建てられ、最初は観音像と第六天神を安置していたが、その後役小角が神託を受けて伊波例命を祀ったという。
一方「石廊山金剛院縁起」(拝殿内に展示されている)によると、役小角が伊豆大島へ流されたとき(文武天皇3(699)年 - 文武天皇5(701)年)、十一面施無畏の神力を得てこの地に至り、また文武天皇4(700)年に大地震があった際にも、龍と白鳥が現れてこの地を守った。村人の一人が夢の中で海中より宝殿が浮かび上がって岬の中腹の岩窟に座すのを見たため、行ってみると果たして宝殿が出現し中に十一面観音が安置されていた。その後更に天平年代(729-749年)、行基によって第六天神が祀られたという。
また「秦の始皇帝五世の孫と云われ日本に帰化した(異説もある)弓月君(ゆつきのきみ)が物忌奈之命(ものいみなのみこと)と称されるようになり、これを祀る神社として、その子孫を名乗る秦氏が建立したもの」とする説も有力である。但しこの物忌奈之命が、同じ旧伊豆國の神津島に祀られている物忌奈命と関連があるか否かは明らかにされていない。延喜式神名帳には、伊豆國賀茂郡に「伊波例命神社」があったことが記されており、一般には当社のことであるとされているが、後世の付会であるとの説もある。
以降、神仏習合の金剛山石室権現として人々の崇敬を集めた。江戸時代には韮山代官所を通じて徳川幕府から米二表の寄進を受けたという。伊豆七不思議のひとつで当社にまつわる「石廊崎権現の帆柱」の伝説が生まれたのはこの時代であるとされる。
明治初期の神仏分離により石室神社と称するようになった。現在の社殿は明治34(1901)年に再建されたものである。海上安全や商売繁盛、学業成就の神として、また伊豆半島の先端に位置する景勝地として名高い。

伝説:
「石廊崎権現の帆柱」a0057057_22061339.png石廊崎権現の帆柱(いろうざきごんげんのほばしら)とは、伊豆七不思議のひとつで伊豆半島先端の石室神社に、江戸時代から伝わる伝説である。海面から30メートル以上の断崖絶壁の上に、石室神社の社殿が千石船の帆柱を枕に建てられており、これにまつわる不思議な伝説が江戸時代からある。
昔、播州濱田港から塩を運んでいた千石船が石廊崎の沖で嵐に遭い、その帆柱を石廊権現に奉納すると誓って祈ったところ、無事に江戸に到着することができた。その帰途、帆柱奉納のことをすっかり忘れていると、何故か石廊崎の沖で船が進まなくなり、天候が急変して暴風雨となった。往路に誓いを立てたことを思い出した船主が千石船の帆柱を斧で切り倒すと、帆柱はひとりでに波に乗り、断崖絶壁(およそ30メートル)を石廊権現の社殿あたりまで、まるで供えたかのように打ち上げられた。同時に暴風雨も鎮まり、船は無事に播州へ戻ることができたという。
a0057057_22054305.png帆柱は明治34(1901)年に再建した社殿の基礎として使用され今も残っている。材質は檜で長さは約12メートル、現在では社殿の床の一部がガラス張りにされ、直接覗くことができるようになっている。(右写真)










熊野神社:

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由来と伝説:
石廊崎近くの長津呂の郷に住むお静という名主の娘が、漁師の幸吉と恋に落ちたが、身分の違いで許さぬ恋であったため、幸吉は神子元島に流された。幸吉を忘れられないお静は、毎夜石廊崎の先端で火を焚き、神子元島の幸吉と愛を確かめ合っていた。
ある晩、神子元島の火が見えないことを心配したお静は、たまらず小船を出して神子元島に向かったが、折りからの大風で波は高く船は進まず、お静は一心不乱に神に祈った。その甲斐あって神子元島に漂着し、無事二人はめぐりあい結ばれた。その後二人を親たちも許すこととなり、末長く幸せに暮らしたという。お静が火を焚いたところに熊野権現の祠が祀られ、以来縁結びの神として知られることとなった。明治初期の神仏分離により熊野神社と称するようになった。

参考:
Wikipedia「石室神社」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E5%AE%A4%E7%A5%9E%E7%A4%BE

Wikipedia「石廊崎権現の帆柱」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E5%BB%8A%E5%B4%8E%E6%A8%A9%E7%8F%BE%E3%81%AE%E5%B8%86%E6%9F%B1

この神社最寄の駅・バス停
南伊豆東海バス 石廊崎港から徒歩
路線バスは1日数本のため(若干距離はあるが)一つ手前の石廊崎港口が便利。

現地参拝:25.11.4
記事投稿:29.8.-3
  調整:29.8.-4

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# by fbox12 | 2017-08-04 22:24 | 神社

第佰六 北海道神宮 北海道札幌市中央区鎮座

a0057057_22593110.pngほっかいどうじんぐう

鎮座地:北海道札幌市中央区宮ヶ丘474
祭神:大国魂神(おおくにたまのかみ)
   大那牟遅神(おおなむちのかみ)
   少彦名神(すくなひこなのかみ)
   明治天皇(めいじてんのう)
社格等:札幌神社、旧国幣小社、旧官幣小社、旧官幣中社、旧官幣大社、神社本庁別表神社、蝦夷国新一宮
本殿様式:神明造
由緒:(神社由緒書き)
 明治2年、当時「蝦夷地」等と呼ばれていた北海道は、日本の国土としてより明確にする為に、「北海道」と名づけられました。そして同じ年の9月1日に、明治天皇の詔(みことのり)(天皇のおことば)により、東京で「北海道鎮座神祭(ほっかいどうちんざしんさい)」を斎行(お祭を行う事)して、北海道の開拓・発展の守護神として、大国魂神・大那牟遅神・少彦名神の三柱の神々(開拓三神(かいたくさんじん)といいます)が鎮斎(ちんさい)されました。
 その御霊代(みたましろ)(神様が宿った依代。鏡や剣等々…)は東京から函館へ、そして札幌へと移されました。明治3年5月には仮社殿が建てられましたが、それは現在の鎮座地(神様の住まれる神社の建っている所)ではありませんでした。現在の位置に社殿が建てられたのは、明治4年のことで、この年に「札幌神社」と社名が決まりました。
 そして開国を決断され、西洋の文明を取り入れて現在に至る日本の礎を築かれた明治天皇を昭和39年増祀(ぞうし)(その神社にお祀りする神様が増えること)し、社名も「北海道神宮」と改称しました。
 約18万平方メートルの境内地は、桜の名所としても知られ、市民に親しまれていますが、現在の北海道神宮の社殿は、昭和49年放火に遭い、昭和53年に復興されたものです。

境内社:(由緒は、いずれも「神社案内」から)
開拓神社 かいたくじんじゃ
由緒:昭和十三年は北海道開拓七十年にあたり、北海道庁長官・石黒英彦は、記念事業として物故開拓功労者を祭祀するため開拓奉斎殿を建立し、同年八月十五日、開拓功労慰霊祭を執行しました。 続いて全道から奉斎神の申請を求め三十六柱が選考され、同年十二月三日に開拓奉斎殿の社殿を以って開拓神社として鎮座祭がおこなわれました。その後、昭和十五年九月六日に末社に指定され、昭和二十九年九月二十二日には帯広市長・佐藤亀太郎外の請願により、帯広の農聖といわれた依田勉三を合祀して三十七柱の祭神となりました。

札幌鉱霊神社 さっぽろこうれいじんじゃ
由緒:鉱山殉職者を慰霊する神社です。
 昭和十八年、札幌鉱山監督局五十周年記念事業として当時の局長・久保喜八の提唱によって同局の前庭に建立されたのが始まりです。戦後昭和二十四年、北海道神宮の境内に遷座しました。

穂多木神社 ほたきじんじゃ
昭和十三年、北海道拓殖銀行本店の屋上に同行の守護神として札幌神社の祭神を奉斎する神社です。併せて、北海道拓殖銀行の物故功労者の御霊を奉斎しました。昭和二十五年北海道神宮境内に遷座しました。
(「穂多木」とは「ほっかいどう・たくしょく・ぎんこう」の頭文字を清音化して字を当てたもの)。

境外末社:
北海道神宮頓宮 ほっかいどうじんぐうとんぐう
開拓三神を祀る。

この神社最寄りの駅・バス停:
札幌市営地下鉄東西線 円山公園(徒歩15分)
札幌ばんけい(ばんけい観光バス)もしくはジェイ・アール北海道バス 神宮前(停)

参考資料:
北海道神宮ホームページ
 http://www.hokkaidojingu.or.jp/
Wikipedia「北海道神宮」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%B5%B7%E9%81%93%E7%A5%9E%E5%AE%AE

現地参拝:11.3.13
記事投稿:29.7.23

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# by fbox12 | 2017-07-23 23:01 | 神社