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C55形蒸気機関車

a0057057_17595367.jpgC55形蒸気機関車は、日本国有鉄道(国鉄)の前身である鐵道省が設計した亜幹線旅客列車用中型テンダー式蒸気機関車の一つである。愛称はシゴゴ。

1930年代に入ると、亜幹線の旅客輸送力強化を目的として、*丙線規格の路線に入線可能なC51形の後継機種の製造が計画された。しかし、最初に設計されたC54形(昭和25(1931)年)は、ボイラー圧力の高圧化と過度の軽量化に起因し空転(車輪のスリップ)を頻発するなど、乗務員からの不評が殺到し、わずか17両で生産が打ち切られていた。
そこで、丙線規格の各線で不足する旅客列車用機関車を補うべく設計されたのが本形式である。本形式は、C54形の失敗を教訓としつつ、より新しい技術を取り入れたものであった。
本形式は内地向けには昭和10(1935)年に製造が開始され、川崎車輛、汽車製造会社、三菱重工業、日立製作所の4社により、昭和12(1937)年までの間に3次に分けて合計62両が製造された。
63号機以降も一部設計変更のうえで本形式が増備される計画であったが、当該設計変更が多岐に渡ったことから、63号機に相当するもの以降には、C57形という新形式が付与された。結果、本形式は62両で製造が打ち切られた。
また、内地向けのほか、当時日本統治下にあった台湾の臺灣總督府鐵道向けに、昭和10(1935)年および昭和13(1938)年に同形車9両が納入されている。最初の5両は基隆機関区に配置され、増備車が揃った昭和14(1939)年には臺北機関区5両、苗栗機関区4両となっていた。昭和20(1945)年に日本が太平洋戦争に敗れた後は、臺灣鐵路管理局に引き継がれてCT250形となった。

本形式は各部においてC51形やC54形をそのまま踏襲しているが、それらの不都合な点について改良が加えられた。
まず、強力な(自動空気)ブレーキの採用の結果、下り勾配走行中に急ブレーキをかけた際に水面傾斜が原因で蒸気ドーム内に湯が入り込むというトラブルが発生したことから、蒸気ドームの位置が設計変更された。また、これにあわせて砂箱(摩擦力を増して空転を防ぐ目的で線路に撒かれる砂を入れたもの)も移設された。
また、電気溶接技術の進歩を受けて溶接工法の採用部位を大幅に拡大し、外観上リベットを減少させるとともに多くの部分に直線基調のディテールを採ったことと併せて、それまでの古典的機関車に比して格段にモダナイズされた。
その他、空転防止のため各動軸の軸重を増し、そのことにより動輪の構造を強化した。
大型蒸気機関車としては最後のスポーク動輪採用形式である。

流線形:
本形式が登場した時代は世界各国で鉄道車両や自動車の流線形ブームが起こっていた。これは美観とともに高速化に伴う空気抵抗を減らすことを目指したものであった。その流れに沿い、[C53 43]で試験された流線形構造が本形式にも本格導入され、昭和11(1936)年製の2次車([C55 20] - [C55 40])の21両は新造時から流線形デザインにて登場した。

この構造は、形状面では[C53 43]と同様に、ボイラー前端の煙室部分を斜めに欠き取り煙室扉周辺を傾斜させた上で、ボイラー全体にケーシングを被せ、前部デッキからランボード(狭い通路の様なもの)、運転台までの足回りをスカートとケーシングで覆った構造であった。これにより、炭水車でも全溶接構造の車体上部までケーシングが伸びており、台車周辺をスカートで覆うことにより一体感が演出された。
なお、[C53 43]では独立した大型除煙板(デフレクタ)を取り付けず、ボイラーケーシングの煙突周辺に小型の除煙板を形成するに留めていたが、本形式では小型除煙板に加え、ランボード上のサイドスカートから連続する形で半円形の背の低い大型除煙板も立てられた。
これらのケーシングやスカートの意図は、デモンストレーション効果だけでなく、空気の流れを良くすることで煙突から排出される煤煙が列車に絡みつくのを防ぐことであったといわれる。また、流線形の初期製造車では側面にステンレス製の飾り帯が付けられていたが、後期製造車では省略された。これらの流線形機は、四国以外の全国各地に数両ずつ分散して配置され、主に急行列車を牽引した。名古屋機関区配属の[C55 24] - [C55 26]は臨時特急「燕」の牽引にも起用された。
しかし、同時期のEF55形電気機関車でも採用された流線形は、実用上の効果がほとんどないと判断され、さらに現場からも嫌われ、早い時期に先台車周辺のスカートや炭水車上部のケーシングの撤去が始まった。流線型の実用上の効果のなさは、昭和11(1936)年5月に鹿児島本線で鐵道省運転課や門司鐵道局などの関係者が立会いの下10日間にわたって行われた牽引力や走行状態に関する試運転の結果、当時の鐵道省における旅客列車の最高速度である100km/h前後までの運転速度において、流線形化による製造費や機関車重量の増加に見合うほどの空力面での利点がないと判断された。また現場からは、様々な部分がケーシングに覆われているため、整備点検の際にはそれらを取り外すか点検蓋を開ける必要があることから一般車より手間が余計にかかり、給水・給炭や火床整理にも不便なこと、空気シリンダーで開閉する構造だった煙室戸は故障で作業中の燃料掛が一時閉じ込められたこと、密閉式運転台はその内部に熱がこもりやすく、単線区間では通票の取り扱いにも難儀すること、炭水車は内部に設置されていた石炭押寄せ装置(炭庫後方部の押寄せ板を蒸気ピストンによって前後動させるもの)が、石炭の固着により動作不能となって故障することもあって運転中の石炭かき寄せ作業ができない、といった問題が指摘された。後に太平洋戦争か激化すると、足回りを中心にスカートやケーシングの大半を撤去し、当初の外見とは大きく異なる無惨な姿で用いられた。

戦後になると、昭和25(1950)年から翌26(1951)年にかけて、これら本形式の流線形機は、残っていた流線形ケーシングが完全に撤去され、1次車とほぼ同等の外観となるように再整備が行われてその面目を一新した。ただし、特に改修を必要としなかった丸みを帯びた深い運転台の屋根や、側面の乗務員出入り口はそのまま残されが、一部の形状や機構は流線形機のままで、その面影を残していた。これらの流線形機から再整備されたものは流線形改造機、または流改機とも呼ばれた。これらについては流線形の新車当時よりも、再整備後の方が美しい、という評もある。これら再整備後の21両は一般車と完全に同等の扱いを受け、本形式の最終期まで徐々に数を減じつつ運用された。なお、これらは1両も現存しない。最後まで運用され保存予定だった30号機が手違いで解体されてしまったためである。

本形式は新造後、本州・九州・北海道の幹線・亜幹線を担当する各機関区へ配置され、運用が開始された。特に流線形となった2次車は、宣伝効果も考慮して全国の広範囲に少数ずつ分散して配置された。
本形式は、より近代化され、より強化されたC57形がすぐに登場し大量生産されたため、その影に隠れ、ともすれば目立ちにくいきらいはあった。しかし両者は、互いにほぼ同等に取り扱うことが可能な上、いずれも性能や使い勝手も良好であったことから、四国を除く各地の幹線・亜幹線で長期間にわたり重用された。
丙線規格路線に入線可能なこのクラスは需要が高かったことから、事故や戦災に遭わず昭和39(1964)年までは62両全てが在籍していた。本州では昭和41(1966)年頃までに転属や廃車で姿を消したが、北海道では昭和49(1974)年10月まで、九州では昭和50(1975)年3月まで現役にあった。北海道で最後の使用線区になった宗谷本線では、昭和45(1970)年12月まで夜行急行列車「利尻」を牽引したことや、道北の自然風景を背景にした姿がファンに強い印象を残している。

62両と少数製造であったこと、本州では比較的早期に廃車されたため、全体の形状を留める個体はわずかに4両のみである。 1号機が梅小路蒸気機関車館(写真:平成18(2006)年、「梅小路の蒸気機関車群と関連施設」として、準鉄道記念物に指定)に、50号機が小樽市総合博物館(鉄道・科学・歴史館、旧・北海道鉄道記念館)に、52号機が吉松駅前に、46号機(車番は53)が大分市若草公園にそれぞれ静態保存されている(注、1号機は、当初動態保存だった)。

*丙線規格:
もともとは鐵道省(戦後は運輸省)の国有鉄道建設規程で甲線、乙線、丙線に分類して線路種別と称していたもの。この建設規程は昭和4(1929)年に定められたものであり、後の情勢に合わなくなったため、昭和40(1965)年(国鉄の頃)になって、部内規程の線路管理規程において、各線区を1級線、2級線、3級線、4級線と分類した(線路等級と呼んでいた)。
線路等級は、年間の通過t数と列車速度を基準にして線路を破壊する力を算出して決められ、道床(レール下の土台)の厚さや枕木の構造・本数などにより等級が分けられる。1級線、2級線、3級線、4級線は、それぞれ軸重(レールにかかる車軸の重量)が18t、17t、15t、14tに、最高速度が110km/h、100km/h、95km/h、85km/h(一般列車の基本値)に制限されるなどの相違がある。

(以上、C55記事内容 Wikipedia:25.9.15更新から)

(29車14)
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by fbox12 | 2014-06-28 18:36 | 鉄道・バス

クレーン船(起重機船)

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クレーン船(浮きクレーン、フローティング・クレーン、起重機船)は、重い物をつり上げて移動させるために特化した船。港湾工事、海洋開発、サルベージ、港湾荷役等の目的のため、各種重量物のつり揚げを行う作業船である。最大級のクレーン船はパイプライン建設など沖合での工事、海上橋梁の建設などに使われている。
移動式クレーンおよび海上起重機の一種で、船にクレーンを搭載したもの(台船上に据え付けられたもの。台船上にクローラークレーン等の移動式クレーンを積んだものはクレーン付台船と呼ぶ)が一般的。大きいものは半潜水型で造られているが、単胴船型のものも用いられている。
自航、非自航のものがある。また、起重機の型式により、ジブ固定・ジブ俯仰・旋回式等がある。

a0057057_21384060.pngクレーン操作を資格面からみると、
操作に必要なのは、陸上と同じ「移動式クレーン運転士」(免許の種類では[移クレーン])。
台船上に固定式のクレーンが据え付けられていても、ベースが移動可能なため「移動式・・」が必要である。
a0057057_9114223.jpg船舶に取り付けられたデリックやクレーン様の設備で、陸から船へあるいは船から陸へ(または、船同士で)積載貨物を積み替える港湾での荷役作業に用いられる機械は、「揚貨装置」(右写真:地上の訓練用)といい、「揚貨装置運転士」の別免許が必要となる。
また、上記の荷役に使用するデリック、クレーンであっても、港湾側に設置・配置されたものは「揚貨装置」には含まれず、「クレーン・デリック運転士」(免許の種類では[クレ・デリ])の免許が必要である(注、「クレーン・デリック運転士」のクレーンまたは、デリック限定免許では、限定された装置の操作のみが出来る)。

(以上、記事内容 Wikipedia 他から)

(27車13)
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by fbox12 | 2014-06-26 17:35 | 鉄道・バス

にっぽん丸(3代目/改装前)

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にっぽん丸は、日本の大手海運会社商船三井の外航客船部門担当会社商船三井客船(通称:MOPAS)が運航する、外航クルーズ客船である。現在の船は、2代目にっぽん丸に代わる客船として、平成2(1990)年に三菱重工業神戸造船所で建造された3代目である。
平成2(1990)年3月に三菱重工業神戸造船所で進水式が執り行われ、当時の紀宮清子内親王による「にっぽん丸」命名と支綱切断が行われた。
平成22(2010)年に大改装され、船体の塗色が濃紺と白のツートンカラーに変更された。
写真は、改装前、平成20(2008)年12月14日に熱海港に寄港したときのものである。
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主要目:
総トン数 - 21,903トン(2010大改装後 22,472トン) 
乗客定員 - 184室・532名(最大)(2010大改装後 202室・524名(最大))
主機関 - ディーゼル 10,450ps×2基
巡航速力 - 18ノット
最高速力 - 21ノット
全長 - 166.65m
全幅 - 24.00m
喫水 - 6.6m
船内電圧 - 100ボルト/60Hz
a0057057_1949383.jpg航行海域 - A1 A2 A3 国際遠洋
船籍 - 日本・東京
船舶番号 - 131992
コールサイン - JNNU
海上移動業務識別番号 - 431302000
船舶識別番号 - IMO-8817631
船級 - 日本海事協会
船級番号 - 902258
インマルサットC テレックスID - 443130210
船主 - 商船三井客船株式会社
運航 - 商船三井客船株式会社
造船所 - 三菱重工業神戸造船所
建造番号 - 1188
起工 - 1989年10月2日
就航 - 1990年9月20日

(記事内容 Wikipedia-26.6.2更新から)

(3車両12)
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by fbox12 | 2014-06-25 18:25 | 鉄道・バス

C53形蒸気機関車

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C53形蒸気機関車は、日本国有鉄道(国鉄)の前身である鐵道省がアメリカから輸入したC52形を解析のうえ、国産化した3シリンダー型のテンダー式蒸気機関車である。愛称はシゴサン。
汽車製造、川崎車輛の2社により、昭和3(1928)年から翌年までの間に97両が量産された。

大正時代は客車が大型化し、ボギー車(1車両に2つの台車が付いた車)が主流となったが、重量やコストの事情で車体の材料としては相変わらず木材が用いられていた。その折大正15(1926)年9月23日に山陽本線において特急第1列車(後の特急「富士」)が豪雨による築堤崩壊により脱線転覆、車両は大破し、多数の犠牲者を出した(山陽本線特急列車脱線事故)。この列車は当時の国際連絡ルートの一翼を担う最高級列車であり、もし客車が鋼製車体であったならば死傷者数は激減していたのではないかと推定され、世論は紛糾した。
そこで翌年度以降鐵道省は従来のナハ22000・スハ28400系大形木造客車の新造を中止し、新設計のオハ31系鋼製客車への切り替えを開始したが、この際一つの問題が発生した。従来量産されていた木造車であれば軽いもので「ナ」級(車体重量、27.5t以上32.5t未満)、重い20m級3軸ボギー車でも大半が「ス」級(同じく37.5t以上42.5t未満)以下であった各車の自重が、鋼製化に伴い増大して少なくとも1ランク (5t) 重量区分が上がり、さらに昭和4(1929)年より製造が開始されたオハ31系の後継となるスハ32系では従来17m級であった一般型客車が優等車と同様の20m級に変更されたこともあって、各列車の牽引定数が50t以上、場合によっては100t近くも増大したのである。
それは列車重量の約20%増大を意味しており、従前の主力大型機関車であるC51形でも力不足となることが見込まれた。当時の技術では2シリンダー機関車としてはC51形を上回る性能を持つ機関車を製造することは困難と判断され、鋼製客車牽引用としては当時諸外国で実用化されていた3シリンダー機関車を採用するのが適当と結論された。

3シリンダー機とは、台枠の左右両側だけではなく車両中央線上にもほぼ同型のシリンダーを持つ蒸気機関車である。シリンダーの数を増やすことにより、通常の蒸気機関車に比べ牽引力が増す(ガソリンエンジンなどの気筒数を増やすのと同じ)。もっとも当時は鐵道省自身には3シリンダー機の開発経験はなく、初の3シリンダー機の開発を前にして大正15(1926)年に8200形が米国のアメリカン・ロコモティブ社 (アルコ社:American Locomotive Company) より輸入され、その後の新型蒸気機関車まで設計の参考にされた。

日本初、鐵道省唯一の3シリンダー機は、参考機があったとはいえ、その開発はゼロからのスタートで、設計そのものも3シリンダー機構の理解が不十分であり、枝葉末節にとらわれ、全体を見ずその本質を見失っていた形跡が散見され、これらは運用開始後、重大なトラブルの原因ともなった。
さらに、軌間の狭さに由来する機器周りの余裕のなさという致命的なマイナス要因があったため、想像を絶する困難が伴うなど、およそ成功作とは言い難かった。
このため、お召列車や運転開始当初の超特急“燕”では、信頼性の面からC51形が使用されている。なお、燕の名古屋以西の牽引機は程なくC53形が担当することとなった(沼津電化後は沼津以西をC53形が担当)。
それでも戦前の時点では、鐵道省は本機を主として名古屋・下関両機関区を中心とする各機関区整備陣の自己犠牲を多分に含んだ努力、浜松工場で行われた「10000粁限定」や「標修車」などの大規模な整備、修繕によって辛うじて使いこなしていたが、以後、鐵道省、国鉄を通じ、3シリンダー機関車の製造はおろか設計すらなくなり、日本の蒸気機関車は単純堅実だが性能向上の限界が高くない2シリンダー機関車のみに限定されることになった。

そのようななか、昭和9(1934)年11月には当時の世界的な流線型ブームに乗り、梅小路機関区所属の43号機が鷹取工場における20日の突貫工事で試験的に流線型に改造された。
これは一応の成功をおさめたものの、運転室内は幌で覆われているため室内の騒音は軽減されたが、熱がこもり室内温度が高温になりやすかったり、整備点検には他のC53形よりも約180%多くの時間を要するという副産物が生じ、特急運用から外れた直後には炭水車上部のカバーを撤去、戦時中には車体下部のカバーも撤去され、開閉に手間を要した煙室扉にはジャッキを取り付けることとなった。

1940年代に入り、2シリンダーで同クラスの性能を持つC59形の完成に伴って幹線の主力機関車の座を譲ったが、あまりに大型であるため、当時は東海道・山陽本線と軍事輸送上から山陽本線並の軌道状態で整備された呉線以外には転用不可能であった。折から戦時体制に突入したために機関車需要がさらに逼迫、にもかかわらず旅客用機関車の製造は中断されたために本形式もフルに運用され、図らずもその寿命を延ばすことになる。だが元々複雑極まる構造であったうえ、戦時の酷使や整備不良、さらには相次いだ戦災や事故による損傷が祟り、戦後すぐに運用を離れる車両が続出した。結局、国産の本線用大型蒸気機関車の中ではもっとも早く、昭和23(1948)年から25(1950)年にかけてすべて廃車となった。

a0057057_16541458.jpg[C53 45]
昭和25(1950)年に廃車された45号機は国鉄吹田教習所の教習用車両を経て鷹取工場内に放置されていたが、昭和37(1962)年に鉄道90周年事業の一環として大阪市港区に開館した交通科学館(現在の交通科学博物館)に保存されることとなり、前年の昭和36(1961)年に運行可能な状態に復元整備され、吹田操車場 - 鷹取駅間で2日間記念走行が行われている。後に京都市の梅小路蒸気機関車館に移され、現存唯一のC53形として静態保存されている。平成18(2006)年、「梅小路の蒸気機関車群と関連施設」として、準鉄道記念物に指定された。

(以上、記事内容 Wikipedia:26.5.5更新に注釈など追加)
(タイトル写真:筆者所蔵)
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by fbox12 | 2014-06-22 17:10 | 鉄道・バス

小田急ロマンスカーRSE(小田急電鉄株式会社20000形電車)

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a0057057_22184915.jpg概要:
小田急20000形電車は、平成3(1991)年から平成24(2012)年まで小田急電鉄株式会社が運用していた特急用車両(ロマンスカー)である。
小田急小田原線と東海旅客鉄道(JR東海)御殿場線との相互直通運転に使用される車両として平成3(1991)年に登場した。
JR東海との協定により、JR371系電車と基本仕様を統一したため、それまでの特急ロマンスカーとは異なり連接構造(車両の連結部に台車がある構造)や前面展望席が採用されず、2階建て車両(ダブルデッカー・・下写真)や特別席(スーパーシート・グリーン席)を設置していることが特徴である。 "Resort Super Express" (略して「RSE」)という愛称が設定された。

a0057057_2322715.jpg平成24(2012)年3月のダイヤ改正をもって営業運転を終了した。2編成の内、1編成の3両が富士急行に譲渡され、「フジサン特急」に改造された。

a0057057_17572893.png登場の経緯:
小田急では、昭和30(1955)年から御殿場線へ直通する列車をキハ5000形気動車により運行を開始し、御殿場線が電化された昭和43(1968)年7月以降は8両連接から5両連接に短縮したSE車(SSE車:3000形ロマンスカー・・左写真)を使用して連絡急行「あさぎり」として運行していた。SE車は耐用年数を10年として製造された車両であり、昭和43(1968)年の時点で既に10年を超えていたことから小田急社内では反対の声もあったが、国鉄の組合闘争の激しかった時期で「NSE車(3100形ロマンスカー)が乗り入れてくれば反対する」という噂もあり、在来車の改造で対応したものである。その後、1980年代にはLSE車(7000形ロマンスカー)で車齢25年を超えたSE車を置き換える案もあったが、これも当時の国鉄側の現場の反応などを考慮して、仕方なくSE車を更新することで対応していた。
一方、御殿場線沿線では昭和39(1964)年ごろから小田急の直通列車を沼津まで乗り入れるように要望が出ていたが、当時の御殿場線は御殿場から裾野までの約15kmにわたって列車交換設備がなく、国鉄財政の問題もあって実現しなかった。
国鉄分割民営化後、平成元(1989)年には御殿場線の利用者が増加したことに対応して富士岡と岩波に列車交換設備が新設された。これより前の昭和63(1988)年7月に、車齢30年を超えたSE車の更新について小田急からJRに対して申し入れがあったこともきっかけとなり、小田急とJRの間で相互直通運転に関する協議が進められることになった。この協議の中で、特急に格上げした上で運行区間も新宿 - 沼津間に延長し、あわせて2社がそれぞれ新形車両を導入した上で相互直通運転に変更することとなり、登場したのがRSE車(20000形)である。
a0057057_812544.jpg2社の協議によって「相互直通運転車両の規格仕様に関する協定書」に基づいた設計となり、編成の内容や定員・性能・保安機器などは極力合わせ、それ以外の部分については各社ごとの特色を活かす方針となった。このため、特急ロマンスカーとしては2300形以来の通常のボギー車(1両に2つの台車の付いた構造)となったほか、前面展望席も設置されないことになった。また、「あさぎり」だけではなく箱根特急(「はこね」号など)にも使用することから、編成長は全長140m程度の7両固定編成とすることになった。
2編成が落成したが、「あさぎり」号の運用は、1編成で済んだため、上記の通り、箱根特急などにも使用され、JRの371系(1編成のみ)が定期検査時はこの代走で2編成とも「あさぎり」号に充当されて、御殿場線谷峨駅ではRSE車同士の交換が見られた。
また、団体列車でJR身延線富士宮まで入線したこともある。
(以上20000形写真、JR御殿場線谷峨駅)

(以上、記事内容 Wikipediaー25.12.29更新からに加筆)


a0057057_822279.png沼津延長当時、小田急の系列会社東海バス(東海自動車)の西伊豆線では、このRSEに合わせた塗装の「スーパーロマンス」号(日野セレガ3台)を登場させた。
RSEの塗装の反対側(運転席側と後部)は、JR371系の塗装だった。

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by fbox12 | 2014-06-19 22:28 | 鉄道・バス

C51形蒸気機関車

a0057057_11465150.jpgC51形蒸気機関車は、日本国有鉄道(国鉄)の前身である内閣鐵道院(大正9(1920)年、鐵道省に改組)が大正8(1919)年に開発した、幹線旅客列車用の大型(のちには中型)テンダー式蒸気機関車である。
当初18900形と称したが、昭和3(1928)年5月にC51形と改名された。愛称は「シゴイチ」。

諸外国で高速機関車に好んで用いられる「パシフィック形軸配置」(2C1=先輪2軸、動輪3軸、従輪1軸)を国産設計の蒸気機関車としては初めて採用し、設計にあたってはアメリカ合衆国から輸入したアルコ社製8900形が参考にされたことから8900形に続くものとして18900形という形式名が与えられた。
本形式においては常用最高速度を100km/hとして計画され、設計当時のドイツの機械学会の推奨する動輪の常用最大回転数から逆算で1,750mmという設計当時の狭軌用蒸気機関車では世界最大の動輪直径が導出された。この動輪サイズは以後国鉄の旅客用大型蒸気機関車の標準サイズとなり、太平洋戦争後のC62形に至るまで踏襲された。
このような大直径動輪を採用するとボイラーの中心高(据え付け位置)が引き上げられるが、8900形と同時期にドイツから輸入されたボルジッヒ社製8850形でボルジッヒ社の推奨に従いボイラー中心高を2,438mmとして問題なかったことと、これを参考として8850形を上回るボイラー中心高として設計された9600形が好成績を挙げていたことなどから、8850形をやや下回る2,400mmに抑えつつも高いボイラー中心高を許容している。
従来と比較して飛躍的な性能向上を実現した機関車で、牽引力・高速性能・信頼性において高い水準を達成した。1920年代から1930年代には主要幹線の主力機関車として用いられた。
昭和5(1930)年から同9(1934)年まで超特急「燕」の東京-名古屋間牽引機を務めたことは有名である。
また、写真の239号機は僚機236号機とともにお召し列車の専用機関車に指定されており、昭和3(1928)年11月の昭和天皇のご大礼から同28(1953)年5月の千葉県下植樹祭までに牽引回数104回という大記録を打ち立てた、昭和時代後半の[EF58 61]号機(電気機関車)に匹敵する存在であった。
しかし、輸送量の増加、重量の大きな鋼製客車の主流化等による牽引定数の増大に伴い、後続のC53形・C59形等に任を譲り、1930年代以降東海道・山陽本線の優等列車牽引からは退いて地方幹線に転ずる。
昭和14(1939)年には、陸軍の要請により16両が標準軌(レール幅:1,435mm)仕様に改造のうえ供出され、中国の華中鉄道に送られた。主に江南を中心に南京-上海間で運転されたが、そのまま帰還していない。
戦後も適度な大きさから地方幹線の旅客列車牽引に重用されたが、製造年が古いため、動力近代化が開始されると早々に廃車が進められ、昭和40(1965)年に全車が運用を退いた。最終廃車は同41(1966)年2月廃車の251号機である。

[C51 239]号機:
旧[38938]号機で、昭和2(1927)年汽車会社で製造された。昭和37(1962)年10月に廃車となったが、その歴史的経緯から解体されることなく新潟鉄道学園に保存され、教習用にボイラを切開して展示されていた。2年後に起きた新潟地震では被災したものの、見事に復旧され、昭和47(1972)年梅小路入りに際し、長野工場で整備された。ボイラ周囲を新製のうえ搭載されたが、静態保存が前提であったため内部までは完全に修復されておらず(外部形態のみの修復)、車籍も復帰していない。

(以上、記事内容 Wikipedia から)

(20車両9)
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by fbox12 | 2014-06-18 11:01 | 鉄道・バス

C11形蒸気機関車

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a0057057_20582270.pngC11形蒸気機関車は、日本国有鉄道(国鉄)の前身である鐵道省が老朽化した種々雑多な支線・区間運転用機関車群の代替用として、昭和5(1930)年に設計されたC10形の改良増備車として昭和7(1932)年に設計したタンク式蒸気機関車である。
(写真:C11 30、御殿場線松田駅、昭和41(1966).11.6)

1920年代、第一次世界大戦終結後の日本経済の低迷と、とくに都市部での並行私鉄線や自動車の台頭などの事情から、旅客・貨物輸送ともに輸送単位の縮小や列車運行回数の高頻度化が求められるようになっていた。
そこで、その要請に応えるべく、大型制式蒸気機関車の新製投入で余剰となったタンク式蒸気機関車などを支線区運用や都市部の区間運転などに改造して充てることとした。だが、それらの車両は製造から既に20年前後が経過しており、改造後10年を経ずして老朽化のために休車扱いとなる車両が発生するなど、その状態は思わしくなかった。また種車の形式が種々雑多で構造や交換部品の仕様などが完全には統一されておらず、保守作業の規格化という観点からも望ましくなかった。

a0057057_20475648.jpg都市部での旅客列車の高頻度・高速運転については、当時地方私鉄を中心に実用化が進みつつあったガソリンカーなどの内燃機関を動力とする気動車も選択肢の一つであり、昭和4(1929)年には鐵道省初の制式ガソリン動車であるキハニ5000形が製造されている。だが、これは搭載機関出力の非力さや設計面での未熟などが重なって、これらの老朽タンク機関車による旅客列車を代替するには全く不十分なものであった。
そこで制式テンダー機関車ではもっとも小型であったC50形を基本としつつ、支線区の輸送需要を考慮して一回り小型化し、炭水を無補給で50kmから60km程度の距離を走行可能とする石炭庫と水タンクの搭載、それにそれらの重量の変化による動軸重の変化を抑制するために2軸従台車(動力が直接伝わらない車輪の台車:主に車輪軸にかかる重量を分散させるために用いられる台車)を付加する形で、新設計の制式タンク機関車が作られることとなった。
(写真:C11 64、静態保存機、梅小路蒸気機関車館、平成10(1998).3.12)

その先駈けとなったのは昭和5(1930)年に製造されたC10形(大井川鐵道の動態保存機:C10 8)である。これは主として都市部に配置され、短区間の折り返し運転による快速列車運用などで好評を博した。だが、このC10形は性能面ではおおむね満足な成績が得られたものの、従台車を2軸台車としたにもかかわらず動軸重が13tを超過し、軸重制限の厳しい丙線以下の支線区への投入には適さないという問題があった。そこでこの新型タンク機関車の本格量産にあたって、C10形に続き昭和6(1931)年に設計されたC54形で得られたノウハウを盛り込んで設計をさらに見直し、とくに薄鋼板部品の接合に折から実用化が急速に進みつつあった電気溶接を採用するなど、新技術を積極的に導入して軽量化を図ることで、動軸重を13t以下に抑えることになった。

この新型機関車はC10形の続番としてC11形という形式が与えられ、不況期の輸送需要減少を背景として開発された機種であるがコンパクトで使い勝手がよく、戦時中に貨物輸送能力の増強用として支線区を中心に投入されたこともあり、その昭和22(1947)年までの16年間の製造総数が381両に達するという、国鉄近代型制式蒸気機関車の中でも有数の成功作となり、後の各形式にも反映されることになった。

最初期の運用は主に西日本の都市近郊や主要支線で使用された。近畿地方の快速列車を牽引した際には特急と張り合う俊足ぶりを発揮した。やがて活躍の場を広げてほぼ全国各地に配属され、主にローカル線の列車牽引に使用された。気動車が普及するにつれて余剰となり始め、昭和35(1960)年ごろから少しずつ廃車が出たが、貨物列車用や入換用として蒸気機関車の末期まで数多く残った。

本形式による優等列車運用への充当例としては、現役時代も終わりに近づいた昭和40(1965)年10月から43(1968)年9月にかけて、肥前山口駅で長崎発着編成と佐世保発着編成を分割併合して運行されていた寝台特急「さくら」(2001・2002レ)の佐世保発着編成のうち、佐世保線早岐駅 - 佐世保駅間8.9kmの牽引に抜擢されたのが最も良く知られている。
これは早岐駅の立地と構内配線の制約から、肥前山口から早岐を経て佐世保に至るルートで直通列車を運転する場合には列車を早岐でスイッチバックさせる必要があったが、早岐以東の本務機であるDD51形を同駅で機回し(機関車を前後反対に付け替える)する所要時間に比して早岐と佐世保の間の運転所要時間が短く、かといって「さくら」の20系客車は機関車を最後尾とした推進運転に対応していなかったことから、機関車の付け替え時間の節減を図って当時早岐機関区に配置され佐世保・大村の両線で運用されていた本形式を早岐駅 - 佐世保駅間の牽引機に起用したものである。
なお、ヘッドマークは本務機(DD51)に装着されたままとなっていたため、本形式には基本的にヘッドマークは装着されないことになっていたが、実際には、鉄道雑誌の取材などに応じた際に予備のマークを背面に装着したり、機関車を方向転換して正面向けにして、マークを装着して運転するなどのサービスをすることが時折あった。

使い勝手の良い機関車であったことから、全国で5両(JR北海道2両、真岡鐡道1両、大井川鐡道2両)が動態保存され、40両以上が静態保存されている。

大井川鐵道 C11 190
a0057057_20185066.jpg昭和15(1940)9月11日竣工として川崎車輌兵庫工場で製造された(製番2361)3次形の1両。現役時代は仙台機関区への新製配置後、盛岡機関区を経て昭和18(1943))年に早岐機関区へ転属、昭和25(1950)年に熊本機関区へ転属、ここで除籍まで使用された。本機は熊本機関区時代にお召し列車を牽引した経歴がある。昭和49(1974)年6月12日付で廃車され、そのまま解体される予定であったが、熊本県八代市在住の個人に買い取られ、静態保存された。平成13(2001)年6月24日に大井川鐵道に譲渡され、大規模な修復を受け、平成15(2003)年7月19日に復活運転を開始した。
単機での牽引は客車5両までが可能である。
(写真:大井川鐵道駿河徳山駅、平成16(2004).10.31)

大井川鐵道 C11 227
a0057057_22131573.jpg昭和17(1942)年9月18日竣工として名古屋の日本車輌製造本店で製造された(製番1108)。C11 190と同じ3次形の1両。戦後は苗穂機関区に長く配置され、昭和39(1964)年に苫小牧機関区へ転属、さらに昭和49(1974)年には釧路機関区へ転属した。国鉄時代最終期には標津線で使用されていた。昭和50(1975)年6月25日に除籍された後、大井川鉄道(現在の大井川鐵道)に入線し、昭和51(1976)年7月9日のSL急行運転開始で動態保存としての営業運転を開始した。
現在、ボイラー保護のためC10 8と同じく単機での牽引は客車4両までが可能である(以前は客車5両までの牽引が可能であった)。
(写真:大井川鐵道駿河徳山駅、平成16(2004).10.31)


(以上、記事内容 Wikipedia から)(13車両5)
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by fbox12 | 2014-06-09 21:35 | 鉄道・バス

熊野神社(くまのじんじゃ)

a0057057_16211573.jpga0057057_16455304.jpg
鎮座地:静岡県駿東郡清水町戸田
御祭神:不詳

a0057057_17051160.jpgこの神社最寄りの駅・バス停:
JR東海道線・伊豆箱根鉄道駿豆線三島駅から沼津登山東海バス新城橋・大平車庫車庫行き「宗徳院戸田入口」下車
(12施8)
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by fbox12 | 2014-06-08 17:49 | 神社

B20形蒸気機関車

a0057057_10465747.jpgB20形蒸気機関車は、日本国有鉄道(国鉄)の前身である運輸通信省(のちの運輸省)が第二次世界大戦末期から終戦直後にかけて少数を製造した、主として入換え作業用の小型タンク式蒸気機関車である。
これほど小さな国鉄機関車は明治時代以来で、極めて異例といえる。戦時中に規格生産された産業用機関車の一種であり、本線用の国鉄制式機関車の系譜とは、本来全く無関係の存在である。
通常なら車両扱いされない「構内作業用機械」が、都合で鉄道車両扱いされて車籍を持った、という捉え方が本形式の実状に近い(類似例としては、私鉄路線に接続する専用線での入換作業や、自社内での保線・除雪作業用のモーターカーの一部に、車両扱いされて車籍を持ったものがある)。
なお、形式の「B20」とは、動軸2軸を有する(B型)の運転整備重量20トンの機関車という意味で、まさに産業用機関車の形式付与方法そのものである。国鉄制式蒸気機関車の形式付与体系と照らした場合、動軸数を表すアルファベット+タンク機を表す10 - 49という付与法則には一応合致しているが、B10形との間に存在すべきB11 - B19を飛ばしている形になる。
戦時中の設計・製造ゆえに実用上問題が多く、余りに小さ過ぎたこともあって用途が極端に限定されたこともあり、車齢の若いうちに多くが廃車されたが、15両製造されたうちの2両が保存され1両(10号機:写真)は現在自走可能状態にある。

太平洋戦争開戦直後の昭和16(1941)年12月、大手・中小の鉄道車両メーカー多数が国策によって「車両統制会」を設立、その管轄下で産業用の小型蒸気機関車・ガソリン機関車の統制規格生産を行うことになった。
技術的にさして見るべき所はなく、単純化された戦時設計で、あくまでも生産性重視の省力構造である。徹底した資材節約と工数削減化により一切の装飾が排除され、ドームやタンクは直線形態、仕上加工も省略するか最低限に抑えるなど、美観に対する配慮はほとんど見られない。最大の特徴は、ブレーキは自機用のみを装備する(通常は列車全体にブレーキを掛けて列車を止めるため、機関車のコンプレッサーの圧搾空気を供給してタンクに溜めて必要な時に制動力とする)ことで、強大なブレーキ力が必要な高速運転や長大編成牽引とは無縁であり、小運転なら機関車単機のブレーキでも制動可能と割り切ったものであった(本線用の機関車には、ブレーキ弁コックが列車全体用と機関車単体用の2つある)。

戦後、本来の使用目的の入換として使われたのは、横須賀の米海軍基地の貨車入換仕業に配置された 2、5、6、8号機など数両のみで、あとは各地の機関区に分散配置され、機関区での無火状態(自走不可)の機関車の入換えや、機関区構内での石炭輸送などで細々と使用されているに過ぎなかった。
造形のため材質・工作は良くなく、国鉄機関車としては特殊過ぎることもあって、早期に整理されることになった。国鉄蒸気機関車全廃まで使用されたものは、小樽築港機関区所属の1号機と鹿児島機関区所属の10号機があるに過ぎない(末期は実用機というよりマスコット的な位置づけだった)。

a0057057_10510972.jpg保存機:
1号機 - 北海道岩見沢市国鉄万字線朝日駅跡「万字線鉄道公園」に静態保存
10号機 - 京都市梅小路蒸気機関車館に動態保存(写真)

 昭和21(1946)年に立山重工業(富山市)製造後、新製配置は姫路第一機関区で、その在籍中の昭和23(1948)年1月から7月までは大和鉄道(近鉄田原本線の前身)に貸し出されていた。昭和24(1949)年6月に鹿児島機関区に移動した。鹿児島機関区在籍末期にイベント走行でB20+C55+C12+8620形という編成で本線の営業列車を牽引したことがあるが、通常、本線走行は法規的に不可能であった。幸運にも1970年代初頭まで同区に残り、昭和47(1972)年に梅小路機関車館に納められた。

当初は動態保存対象機であったが、入館当初、数回火が入ったものの、以後は殆ど動くことがないまま昭和54年(1979)年3月31日付で車籍を失い完全に静態保存となった。

平成13(2002)年には、梅小路機関車館開館30周年記念事業の一環とJR西日本発足15周年を迎えるにあたってのビッグイベントとして、数十人のボランティアの手を借りて動態復元されることとなり、5月から修繕工事を施されて再び自走可能となり、同年10月12日に動態復元完成式が行なわれた。大型機関車揃いの梅小路におけるマスコットとなっている。車籍は無く展示走行用備品扱いであるが、梅小路運転区に在籍するDE11形ディーゼル機関車と共に、火の入っていない蒸気機関車の移動などに用いられており、復活後も本来の役目を担っている。
「きかんしゃトーマス」にも似た小柄さから子供たちにも人気があり、「豆タンク」の愛称で親しまれている。

平成17(2006)年、「梅小路の蒸気機関車群と関連施設」として、準鉄道記念物に指定された。

(以上、記事内容 Wikipedia から)(11車両4)


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by fbox12 | 2014-06-07 10:56 | 鉄道・バス

9600形蒸気機関車

a0057057_18264987.jpg9600形蒸気機関車は、日本国有鉄道(国鉄)の前身である内閣鐵道院が大正2(1913)年から製造した、明治末期の大型輸入機の設計を参考にし、独創的な発想で日本の国情によく合致する性能を求めた、日本で初めての本格的な国産貨物列車牽引用のテンダー式(炭水車を常時連結した)蒸気機関車である。「キューロク」、「クンロク」あるいは「山親爺」と愛称され、四国を除く日本全国で長く使用された。昭和16(1941)年まで製造され、国鉄において最後まで稼動した蒸気機関車ともなった、長命な形式である。全製造数は国鉄の770両のほかに三菱大夕張鉄道、夕張鉄道、美唄鉄道の自社発注や、樺太廳鐵道、台湾総督府鐵道向けなどに断続的に同形機が製造されて828両であった。

9600形という形式は、大正元年度に12両が試作された写真とは別のテンダー式機関車が最初に使用 (車号[9600]-[9611]) したが、本形式に形式を明け渡すため、落成後わずか3か月で9580形 (車号[9580]-[9591]) に改められた。従って、写真や上記の内容は9600形の2代目である。
すなわち、大正2(1913)年3月に先行製作された初代(後の9580形)の欠点を改良すべく設計されたものである。

狭軌鉄道(日本の在来線)向け機関車としては従来不可能と信じられてきた巨大なボイラーを、台枠の上に火室を載せてしまうことにより可能にした。そのため出力は上がったが、ボイラー中心高さは当時の狭軌用蒸気機関車最高の2,591mmとなり、重心位置が非常に高く、小輪径の動輪もあって常用最高速度は65km/hと高速走行は苦手であった。

製造当初は東海道本線などの幹線でも用いられたが、より牽引力の強いD50形が大正12(1923)年に、またD51形が昭和11(1936)年に出現すると主要幹線を追われ全国各地の亜幹線や支線に分散した。出力の割には軸重(車輪の軸にかかる重さ=レールにかかる重さ)が軽く運用線区を選ばないのが特長で、戦中は、中国大陸に本形式の総両数の3分の1弱にあたる251両が供出されている。戦後は北海道・九州の石炭輸送路線や、米坂線・宮津線など、貨物輸送量が多かったり急勾配を抱えていたりするにもかかわらず、路盤の弱い路線を中心に使用された。使い勝手の良さ、レールへの粘着力、列車の牽引力において決定的な代替能力を有する機関車がなかなか開発されなかったため、古い形式でありながら蒸気機関車の運用末期まで残った。

最後に残ったのは室蘭本線追分駅近くにあった追分機関区の入換用に使用されていた[39679]、[49648]、[79602]号機の3両で、昭和51(1976)年3月2日が最終仕業となった。これを最後に国鉄の蒸気機関車は保存用を除いてそのすべてが姿を消した。実働63年、最初期の標準型国産蒸気機関車として登場し、日本の蒸気機関車の終焉を見届けた最も長命な蒸気機関車であった。

写真の[9633]号機は、北海道小樽築港にあって、NHKの朝の連続テレビ小説「旅路」のタイトルバックやその他多くのシーンに登場し、現在は、JR西日本梅小路蒸気機関車館に保存されている。
また、この機関車をはじめとして数多くが全国各地に保存されている。

(以上、記事内容 Wikipedia から)(10車両3)
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by fbox12 | 2014-06-02 18:31 | 鉄道・バス