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カテゴリ:神社( 113 )

第伍拾八 宝珠稲荷神社 東京都中央区鎮座

a0057057_08322048.pngほうじゅいなりじんじゃ

鎮座地:東京都中央区銀座三丁目14-15
御祭神:倉稲魂命

由緒:
宝珠稲荷神社は一六一五年の頃三河の国の深溝の領主板倉内膳匠重昌の江戸屋敷内に家内安全火除の神として祭神せられたるものなり
内膳匠重昌は京都所司代及江戸町奉行として今名高かりし板倉勝重の次男として一五八八年後陽成天皇の御代天正十三年の頃の生れである 重昌は武勇に富み敬神の念厚く大阪冬の陣島原の乱等に追討軍今として鎮台に務めたるも不幸にして島原に於て年令五〇才にして戦死したるものなり 
時の将軍は家光であり第一一〇代後光明天皇の御代である内膳匠の兄周防の守重宗は下總の国の関宿の城主なり 年経て一七六〇年宝暦年間岩見國津和野の城主亀井家に譲渡せられたるものなり
明治の維新に於ける亀井滋玄の功積は太鼓稲荷と共に有名なり 更に大七7年岡山の岡崎家に売却されたるも爾来本神社は敷地と共に地元木挽町三丁目氏子に寄進せられ一九五〇年地元氏子有志相計り隣接地を買収し社殿及社務所を建設して今日に至るものなり(境内掲示より)

東京銀座三丁目、歌舞伎座裏にある神社。歌舞伎座関係者の参拝も多い。

この神社最寄の駅・バス停:
 都営地下鉄 浅草線 / 東京メトロ 日比谷線 東銀座

現地参拝:
記事投稿:27.4.-7
  調整:29.6.19/29.6.20

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by fbox12 | 2017-06-20 08:33 | 神社

第七拾四 阿須賀神社 和歌山県新宮市鎮座

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a0057057_21380510.pnga0057057_21460421.png
a0057057_22285510.pnga0057057_22285715.png
a0057057_22240319.pngあすかじんじゃ

所在地:和歌山県新宮市阿須賀1-25-25
主祭神:事解男命(ことさかおのみこと)
    熊野速玉大神(くまのはやたまのおおかみ)、熊野夫須美大神(くまのふすみのおおかみ)
    家津美御子大神(けつみみこのおおかみ)
配神:事角見命(事角見神、たけつねのかみ)、黄泉津道守命(黄泉津道守神、よもつみちぬのかみ)
社格等:飛鳥社、旧 村社、熊野曼荼羅三十三ヶ所霊場 第23番
建築様式:本殿-木造銅板葺流造
     拝殿-木造銅板葺入母屋造

由緒:
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阿須賀神社は、熊野川河口近くにある蓬莱山(本殿背後の山)と呼ばれる小丘陵の南麓に鎮座する。古くは飛鳥社とも称された。蓬莱山は南北100メートル、東西50メートル、標高48メートルの椀を伏せたような山容で、神奈備の典型とも言うべき姿をしている。熊野速玉大社伝の「新宮本社末社總目録」に上御備・下御備の祭祀遺跡が描かれているように、古くから信仰の対象となっていたと見られる。また、もともとは陸から離れた島であったともされる。
熊野の地において熊野権現はまず神倉神社に降臨し、それから61年後に阿須賀神社北側にある石淵(いわぶち)谷に勧請されて、その時に初めて結早玉家津美御子と称したと伝えられており、熊野権現の具体的な神名がはじめて現れた場所と見なされていたことが分かる(「熊野権現垂迹縁起」)。その他、境内からは弥生時代の遺跡が発掘されており(後述)、熊野における歴史と信仰の最も古い層に関わる地として重要である。a0057057_21531462.png社伝によれば孝昭天皇の代の創建と伝えられる。平安時代に熊野権現の本地が確立してからは、大威徳明王を本地仏として祀った。1109)年10月27日条に「参阿須賀王子奉幣」と記され、熊野九十九王子の王子社としての扱いを受けていたことが分かる。また、『平家物語』巻拾には平維盛が新宮で「明日社ふし拝み」と記され、阿須賀神社への参拝が一般的なことがらであったことが認められる。『紀伊続風土記』によれば、近世の阿須賀神社には、並宮・拝殿・御供所・鐘楼堂・四脚門・鳥居・社僧行所などがあったという。明治40(1907)年、熊野速玉大社の末社であった八咫烏社(建角美命)・宮戸社(黄泉津道守命)などを合祀した。

摂末社:
阿須賀稲荷神社
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 建築様式:木造銅板瓦葺造


徐福之宮
a0057057_22285598.png 建築様式:石造


子安之社
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(タイトル写真の母子像は、左側燈籠の後ろに設置)


この神社最寄りの駅・バス停:
 JR紀勢本線 新宮駅から徒歩約10分


参考資料:Wikipedia「阿須賀神社」(最終更新2017年3月11日)
現地参拝:28.8.17
記事投稿:29.6.18

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by fbox12 | 2017-06-18 16:27 | 神社

第佰貮 廣瀨神社 岐阜県高山市鎮座

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a0057057_21402280.pnga0057057_21422556.png
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ひろせじんじゃ

鎮座地:岐阜県高山市国府町広瀬町2604番地
祭神:天照皇大御神(あまてらすすめおおみかみ)
a0057057_22061201.pnga0057057_22073223.png由緒:
鴻の宮と呼ばれる当社は、往古の社殿はその興廃は詳らかでないが、往古「廣瀨神」又は、「廣瀨神社」と称したが、文禄(西暦1592-1595)慶長のころから「廣瀨神明」と改り、元禄五年七月、金森移封後は一円幕府の所領となった。同七年十月検地には二反一畝歩の除地を附せれた。以後は、単に「神明宮」と言った。「廣瀨神社」の旧称のあったことは、明治三年庚午九月「斐太後風土記」稿本に「廣瀨町村神明宮、元稱廣瀨神」と記せることでも明瞭であるが、明治三十一年十月二十九日願済復古して「廣瀨神社」と改めた。また、応永十八年九月、飛驒國司姉小路宰相人道尹綱、足利将軍に攻め滅ぼされたとき、社殿、僧院共兵火にかかって焼亡したことは「菩提院縁起」によって明らかである。後領主廣瀨氏により再興されたが、その年月は不詳である。永正十七年八月、廣瀨城主左近大夫將監利治が再建した棟札がある。以後興廃やや明瞭である。神社は乗鞍より峰続きにある。付近の山を「歩み山」と言い、山が段々延びて来るので、大塚(亀塚)を築くとピタリと止まったと言う。それで「止め塚」とも言った。止め塚は明治四年國府小学校の敷地の一部となり、昭和初期まで有ったが、校庭を拡張したので、現在は跡形もない。現在の祭神は天照大神になっているが、社記によれば天火明命が正当であるとされる。

この神社最寄の駅・バス停:
 JR高山本線 飛彈国府駅

現地参拝:28.8.31
記事投稿:29.5.31

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by fbox12 | 2017-05-31 22:36 | 神社

第佰壱 (牧之郷)天神社 静岡県伊豆市鎮座

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a0057057_16442849.pnga0057057_17175838.png

a0057057_11435589.pngてんじんじゃ

鎮座地:静岡県伊豆市牧之郷746-1
祭神:菅原道真公


a0057057_21275141.pnga0057057_22102089.png由緒:
毎年11月3日の例大祭の日に奉奏される三番叟は、式三番叟あるいは種蒔き三番叟ともいわれ、四海静波と五穀豊穣を祈り、奉納されるもの。
出演者は、翁・千歳・黒尉・地謡・鼓・笛の他、塩まきや御神酒といった役柄がある。
伊豆半島では、三番叟が多く残されていることで研究者の注目を集めている。天城山以南が特に多いが、天城山以北においては、修善寺地区に最も多くの三番叟が残されている。その中でも、この天神社の三番叟は、伊豆地方でも最も伝統の古いものとされている。
(ふじのくに文化資源データベースから)


境内社:
(北小宮)
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 若宮八幡、宇佐八幡、輿田八幡、八坂神社、金山神社、三島神社、諏訪神社

(南小宮)
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 伊地明神、豊受大神、天照大神、吾妻大神、冨士石神



この神社最寄の駅・バス停
a0057057_11255784.png 伊豆箱根鉄道 牧之郷(まきのこう)駅(徒歩約10分)
新東海バス 修善寺駅から上大沢行き(平日3本運行)天神社

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by fbox12 | 2017-05-27 22:32 | 神社

第佰 大山神社 広島県尾道市鎮座

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おおやまじんじゃ

鎮座地:広島県尾道市因島土生町1424-2
主祭神:大山積大神(おおやまづみのおおかみ)
相殿神:須佐之男命(すさのおのみこと)
 天児屋根命(あめのこやねのみこと)
 大国主大神(おおくにぬしのみこと)
    事代主神(ことしろぬしのかみ)

由緒:
しまなみ海道沿線 因島の土生(はぶ)町、瀬戸内の島々を見渡す小高い丘に鎮座しており、宝亀四(773)年伊予國大三嶋の大山祇神社より分霊を勧請し、隠嶋大神と称したといわれている因島最古の神社である。
『三代実録』の「元慶二(878)年備後の國無位十二月十五日隠嶋神に従五位下を授ける」とあるのは当神社の事といわれている。

境内社:
a0057057_21393995.png耳明神社(みみごじんじゃ)

由緒:
創立年代不詳なるも、鎌倉時代初期(約八百年前)巻幡氏先祖の藤原泰高が因島に来島し、祖神天児屋根命を祀ったのが始まりと伝えられる。
祭神の天児屋根命は、中臣氏の祖神で、天照大神が天の岩窟に隠れた際、天の岩戸の前で祝詞を奏し祭りを執り行った神。中臣氏は、「ナカトミ」として神と人との間を執り持つ役割を担い、その子孫は藤原・中臣・藤波氏などとして栄えた。

耳明神社は、耳の形に似たサザエの殻の中に酒と米を入れ供え祈願すると、叶えてくれると伝わる特殊神事があり。
別名「有徳神社」とも言い、耳を明るくして人のことを聞くと徳が有り、運を開く神としても信仰されている。

a0057057_21563467.pnga0057057_2292940.png

自転車神社(じてんしゃじんじゃ)

由緒:
交通の守り神様・橋渡しの神様といわれる、和多志大神(わたしのおおかみ)を祀っている。
サイクリストに境内の休憩所を開放したところ、交通安全や旅の安全の祈祷を自転車ごと受けられることから自転車神社と言われるようになった。

参考資料:大山神社ホームページ
現地参拝:29.3.15
記事投稿:29.5.22(記事追加中)

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by fbox12 | 2017-05-22 16:08 | 神社

第九拾九 西古渡神社 愛知県名古屋市中川区鎮座

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にしふるわたりじんじゃ

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鎮座地:愛知県名古屋市中川区尾頭橋4丁目2−3
祭神:須佐之男大神他

由緒:
「古渡」の名は、かつてここに鎌倉街道の渡し船があったことに由来する。
JR東海道本線 尾頭橋駅(東海道本線 金山・名古屋駅間の駅:旧ナゴヤ球場正門前駅)前にあり、神社の横には西古渡公園がある。
名古屋市中区の闇之森八幡社(くらがりのもりはちまんしゃ)の兼務社。

境内社:
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福徳稲荷社

ふくとくいなりしゃ

祭神:福徳稲荷大神


この神社最寄の駅・バス停
 JR東海 東海道本線・尾頭橋


現地参拝:26.8.30
記事投稿:29.5.13
 調整:29.5.14

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by fbox12 | 2017-05-13 10:39 | 神社

第九拾八 氣比神宮 福井県敦賀市鎮座

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a0057057_22164649.pnga0057057_22172333.png

a0057057_22211719.pnga0057057_22224216.pngけひじんぐう

鎮座地:福井県敦賀市曙町11-68
主祭神:伊奢沙別命
社格等:式内社(名神大七座)、越前國一宮、旧官幣大社、神社本庁別表神社、笥飯宮・笥飯大神宮

由緒、概要:
福井県中央部、敦賀市市街地の北東部に鎮座する。敦賀は天然の良港を有するとともに、北陸道諸國(現在の北陸地方)から畿内への入り口であり、対外的にも朝鮮半島や中国東北部への玄関口にあたる要衝である。神宮はそのような立地であることから、「北陸道総鎮守」と称されて朝廷から特に重視された神社であった。
『古事記』『日本書紀』では早い時期に神宮についての記事が見えるが、特に仲哀天皇(第14代)・神功皇后・応神天皇(第15代)との関連が深く、古代史において重要な役割を担う。また、中世には越前國の一宮に位置づけられており、福井県から遠くは新潟県まで及ぶ諸所に多くの社領を有していた。
社殿のほとんどは第二次世界大戦中の空襲で焼失したため、現在の主要社殿は戦後の再建になる。空襲を免れた大鳥居は「日本三大鳥居」にも数えられる壮麗な朱塗鳥居であり、国の重要文化財に指定されている。また境内社の角鹿(つぬが)神社は「敦賀」の地名発祥地であると伝える。そのほか祭事では多数の特殊神事が現在まで続き、古図、古面等の有形文化財を伝えている。

a0057057_2219279.png神宮の社名について、史料には主なものとして次の呼称が見える。
 氣比大神/氣比神 (『古事記』、『続日本紀』等)
 笥飯大神/笥飯神 (『日本書紀』)
 氣比神社 (『日本後紀』、『延喜式』神名帳)
 氣比大神宮 (『続日本後紀』等)
 氣比神宮 (『日本文徳天皇実録』等)
以上のほか、史料には「氣比宮」「氣比大明神」「氣比社」「氣比明神」などの呼称も見える。明治維新後、明治28(1895)年には神宮号が宣下され、それ以後は社名を「氣比神宮」としている。なお、氣比の松原の冠称「氣比」も神宮の社名に由来するもので、同地が古くは神宮の領地であったことに因むとされる。
「ケヒ(氣比/笥飯)」の由来としては、『古事記』では「御食津(みけつ)」から「氣比」に転訛したという。『古事記』の伝承に加え、古い表記の「笥飯」は当て字ながら「箱中の飯」を意味することから、「ケヒ」とは「食(け)」の「霊(ひ)」、すなわち食物神としての性格を表す名称とする説がある。これとは別に、応神天皇と氣比神との名の交換を意味する「かへ(kafë)」から「けひ(këfi)」に変化したとする説もある。

祭神について:
上記の通り主祭神はイザサワケ(伊奢沙別/去来紗別)で、氣比神宮特有の神である。神名「イザサワケ」のうち「イザ」は誘い・促し、「サ」は神稲、「ワケ」は男子の敬称の意といわれる。そのほかの名称として、史書では「笥飯」「氣比」「御食津」と記されるほか、『氣比宮社記』では「保食神」とも記される。これらは、いずれも祭神が食物神としての性格を持つことを指す名称であり、敦賀が海産物朝貢地であったことを反映するといわれる。このことから、神宮の祭神は上古より当地で祀られた在地神、特に海人族によって祀られた海神であると解されている。一方、『日本書紀』に新羅王子の天日槍の神宝として見える「胆狭淺大刀(いささのたち)」との関連性の指摘があり、イザサワケを天日槍にあてて新羅由来と見る説もある。

このイザサワケは、仲哀天皇・神功皇后・応神天皇と深いつながりにあることが『古事記』『日本書紀』によって知られる。両書では、仲哀天皇が角鹿に行宮として「笥飯宮」を営んだとあるほか、天皇の紀伊國滞在中に熊襲の謀叛があり角鹿にいた神功皇后を出発させたと見え、角鹿の地が登場する。神功皇后は、仲哀天皇の突然死を経て新羅に遠征(三韓征伐)、帰途に太子(誉田別尊;応神天皇)を産んだ。そして、皇后と太子がヤマトへ戻る際に謀叛があったが無事平定し、太子は武内宿禰に連れられて禊のため氣比神に参詣したという。以上のように、歴史の早い段階から氣比神が朝廷の崇敬を受ける神として登場しており、一連の出征の始まり・終わりを成したことから古くは軍神として崇敬されたとも見られる。
『古事記』ではその後の経緯として、武内宿禰に連れられた太子(応神天皇)はイザサワケと名の交換を行ったとする(易名説話)。説話によれば、太子が角鹿(敦賀)の仮宮を営んでいると、夜の夢にイザサワケが現れて名を交換するよう告げられた。太子が承諾するとイザサワケは翌朝に浦に出るように言い、太子が言われたとおりにすると浦には一面にイザサワケの献じた入鹿魚(イルカ)があった。これにより太子はイザサワケを「御食津大神(みけつのおおかみ)」と称え、のちにその名が「氣比大神」となったという。同様の説話は『日本書紀』でも別伝として記されているが、『古事記』『日本書紀』とも内容には疑問点が指摘される。この説話の解釈には諸説あるが、特にその真相を「名(な)と魚(な)の交換」すなわち「名の下賜」と「魚の献上」であるとして、氣比神とその奉斎氏族)の王権への服属儀礼を二重に表すと見る説が有力視される。また、以上のように当地が応神天皇系の勢力基盤であったことは、越前から出た応神天皇五世孫の継体天皇(第26代)とも関係するといわれる。
イザサワケとともに祀られる仲哀天皇以下6柱に関しては、7世紀後半に天皇霊が国家守護神として各地に設置された動きと関連づける説がある。その中で、守護神として合祀された仲哀天皇は敗者の霊として「祟り性」を備えていたために、全国でも早期の神宮寺成立・神階昇叙につながったと指摘される。

歴史:
創建・伝承
社伝では、上古に主祭神の伊奢沙別命は東北方の天筒山に霊跡を垂れ、境内北東方にある土公の地に降臨したという。そして『氣比宮社記』によれば、仲哀天皇の時に神功皇后が三韓征伐出兵にあたって氣比神に祈願をすると、海神を祀るように神託があり、皇后は穴門に向かう途中で海神から干・満の珠を得た。そして仲哀天皇八年三月に神功皇后と武内宿禰が安曇連に命じて氣比神を祀らせたといい、これが神宮の創建になるとしている。またこの時、氣比大神は玉姫命に神憑りして三韓征伐の成功を再び神託したとも伝える。その後大宝二(702)年に文武天皇の勅によって社殿を造営し、本宮に仲哀天皇・神功皇后を合祀、東殿宮・総社宮・平殿宮・西殿宮の4殿に各1柱を祀ったという。
また前述のように、『古事記』『日本書紀』では仲哀天皇・神功皇后・応神天皇の時期に記事が記されている。しかしながら、その後は持統天皇六(692)年まで神宮に関する記事は見えないことから、7世紀中頃までは朝廷とのつながりは薄かったとして、7世紀後半頃に氣比神の祭祀権が在地豪族から朝廷の手に移ったと推測される。

概史:
古代
国史において氣比神が再び現れるのは持統天皇6(692)年で、その記事では越前の國司が角鹿郡の浜で獲った白蛾を献上したため、20戸の神封(神社に寄進された封戸)が増封されたと記されている。霊亀元(715)年には境内に神宮寺(氣比神宮寺)が設けられたというが、これは文献上で全国最古の神宮寺成立になる。また『新抄格勅符抄』によれば、天平3(731)年に従三位料として200戸の神封があり、天平神護元(765)年には神封は244戸に及んだ。同記事では神階として「従三位」と記されているが、これも全国諸神の神階記事の内で最古になる。その後、神階は寛平5(893)年までに正一位勲一等の極位に達した。このような神階昇叙には9世紀の東アジア情勢が背景にあり、この時期に海神としての本来の性格が朝廷から重要視されたと推測される。
また、神宮は朝廷鎮護の重要な一角として古くから朝廷との結びつきが強く、朝廷からの奉幣が宝亀元(770)年(使者:中臣葛野連飯麻呂)、承和6(839)年(使者:大中臣朝臣礒守・大中臣朝臣薭守)、仁寿2(852)年、貞観元(859)年(使者:大中臣朝臣豊雄)にあった。また、承和6(839)には神宮の雑務は国司預かりから神祇官直轄に移行され、朝廷との関わりを一層強めている。
延長5(927)年成立の『延喜式』神名帳では越前國敦賀郡に「氣比神社七座 並名神大」と記載され、七座が名神大社に列している。また、同帳に見える「角鹿神社」「大神下前神社」「天利剣神社」「天比女若御子神社」「伊佐奈彦神社」の式内社5社は神宮の境内社に比定される。そのうちでも特に、天利剣・天比女若御子・天伊佐奈彦の3社は『続日本後紀』において「気比大神之御子」と見える。このことから、神宮周辺の諸社が御子神として編成されたとして、敦賀の在地社会において神宮中心の国家祭祀体系が構築されたと考えられている。

中世から近世
中世以降は越前國の一宮に位置づけられ、「北陸道總鎭守」とも称されたという。古代に続いて中世も広大な社領を有しており、その土地は越前を中心として遠く越中・越後・佐渡にまで及んでいた。南北朝時代の戦乱では、宮司の氣比氏治は南朝方につき金ヶ崎城を築いて奮戦したが、北朝方に敗れ一門は討ち死した。この敗死により神宮の社領も減じられたが、それでもなお24万石を所領したと伝える。神宮は中世を通じて社殿焼失が多く、史料には再建を示す記事が多く見られる。
戦国時代には、社家は戦国大名朝倉氏の下に組み込まれた。そのため、織田信長の侵攻によって社殿のほとんどを焼失、朝倉氏滅亡とともに社領も没収されて社勢は著しく衰退した。
江戸時代に入ると慶長8(1603)年に結城秀康から百石が寄進され、慶長9(1604)年には社殿造営がなされて再興が果たされた。その後は、徳川家光から秀忠の病気平癒祈願料として五十石が寄進されたほか、大野城主の松平但馬守などからの奉幣も受けている。しかしながら、かつての繁栄は見られなくなったという。

近代以降
明治維新後、明治4(1871)年に近代社格制度において国幣大社に列した。明治28(1895)年には官幣大社に昇格するとともに、神宮号宣下により社名を現在の「氣比神宮」に改称した。
昭和20(1945)年には敦賀空襲により旧国宝の本殿ほか社殿の多くを焼失した。本殿は昭和25(1950)年に再建され、その他の社殿も再建・修復を経て現在に至っている。また、戦後は神社本庁の別表神社に列している。

神階:
六國史時代における神階奉叙の記録
天平3(731)年12月10日、従三位 (『新抄格勅符抄』) - 表記は「氣比神」
承和2(835)年2月23日、正三位勲一等 (『続日本後紀』) - 表記は「氣比大神」
承和6(839)年12月9日、正三位勲一等から従二位勲一等 (『続日本後紀』) - 表記は「氣比大神」
承和7(840)年9月13日、従二位勲一等 (『続日本後紀』) - 表記は「氣比大神」
嘉祥3(850)年10月7日、正二位 (『日本文徳天皇実録』) - 表記は「氣比神」
天安3(859)年1月27日、正二位勲一等から従一位勲一等 (『日本三代実録』) - 表記は「氣比神」
六國史以後
寛平元(889)年7月17日、越前國神を一階昇叙 (『日本紀略』)
寛平5(893)年12月29日、正一位勲一等 (『類聚參代格』) - 表記は「氣比大神」
正一位勲一等 (『越前國内神名帳』) - 表記は「氣比大明神」

神職:
氣比神の祭祀は、古代には角鹿氏(つぬがうじ、角鹿直・角鹿海直)が担ったといわれる。この角鹿氏は敦賀における海上交通・漁業の統率者(海人族)であり、一説には角鹿國造の氏族ともいわれる。敦賀市には首長墓として5世紀末の向出山1号墳(直径約60メートルの円墳)が残るが、その副葬品には被葬者と朝鮮半島の深いつながりが指摘される。この角鹿氏は、7世紀後半頃には朝廷の支配下に入ったと見られている。
記録上では、宝亀7(776)年に朝廷から初めて宮司職が置かれ、宮司は従八位に準じたとある。以後、文献では宮司として大中臣氏・中臣氏の各人物が見える。延暦23(804)年からは、宮司の就任には神祇官の認可が必要となり、朝廷とのつながりを強めている。また承和2(835)年の記事では禰宜・祝の各職が見える。『延喜式』によれば、松原客館(渤海使の客館)の検校も宮司が担っていた。なお『朝野群載』には、承暦4(1080)年に神事を穢した祟りがあったため、神官に中祓を科した記録が見える。
古くは神職として大宮司・大祝・権祝・副祝・正禰宜・副禰宜職があり、48の社家は大中臣姓・角鹿姓を称したという(室町時代からは菅原姓も加わった)。人物としては特に、南北朝の争乱で恒良親王・尊良親王を奉じた大宮司の氣比氏治・斎晴親子が知られる。また検校・行司・別当・執当等36坊を数える社僧職もあったという。信長の越前侵攻後は、大中臣姓の東河端・西河端・北河端・石倉・石塚・平松の6家と、角鹿姓の嶋家、菅原姓の宮内家の計8家を残すのみとなった。この社家制度は、明治4(1871)年の太政官布告を以て廃止されている。

社領:
六國史時代における社領の記録は次の通り。
持統天皇6(692)年9月26日、20戸増封 (『日本書紀』) - 表記は「笥飯神」
天平3(731)年12月10日、従三位料として200戸 (『新抄格勅符抄』) - 表記は「氣比神」
天平神護元(765)年9月7日、44戸(計244戸) (『新抄格勅符抄』) - 表記は「氣比神」
上記のうち持統天皇6年の記事は「増封」であるため、これに先立ってすでに封戸があったとされる。また244戸という神封は、全国でも屈指の数になる。その後、『日本參代実録』によれば元慶8(884)年に神宮の封租穀は神庫に納めて祭祀費にあてられるともに、神戸の百姓の國役への充当が停止されている。
平安時代末期以降には社領が荘園化し、鳥羽院を本家として皇室領に入り、美福門院・八條院・春華門院・順徳院・後髙倉院・安嘉門院・室町院・亀山院・後宇多院・後醍醐天皇へと大覚寺統に伝えられた。また、律令制の崩壊とともに先の封戸も荘園化したとされる。それらの荘園領は建暦2(1212)年注進の目録によって知られ、同文によると社領は敦賀郡を中心とする越前國に加え、敦賀港・三國港の要港、越中・越後までの一部にまで及んでいた。作田は257町余で所当米は1,700石余、さらに請加米を加えると2,111石であった。そのうち本家分は702石余、領家分は292石余、大宮司(預所)分は177石余である。前述のようにこれら荘園の本家は皇室であったが、領家は九条良輔(九条兼実の子)の知行に始まって延暦寺属の青蓮院に伝えられた。
応仁の乱の後は、武家による侵略を受けながら朝倉氏滅亡までは所々の社領を有したが、朝倉氏の滅亡後に衰退した。江戸時代の社領は100石であった。

社殿:
主要社殿は昭和20(1945)年の空襲で焼失したため、いずれも戦後の再建である。本殿(本宮)は昭和25(1950)年の再建で、南面して鎮座する。本殿の周囲には東殿宮(本殿の東)・総社宮(東北)・平殿宮(西北)・西殿宮(西)の4社殿が建てられ、これらは「四社の宮(ししゃのみや、四社之宮)」と総称される。四社の宮はいずれも平成に入っての再建社殿である。また、本殿に接続して内拝殿・外拝殿が建てられているが、これらは昭和の大造営時の再建になる。
戦災で焼失した旧本殿は、江戸時代初期の慶長19(1614)年に結城秀康によって再建されたもので、旧国宝に指定されていた。桁行三間・梁間四間、「両流造」という独特の形式の大規模な社殿で、屋根は檜皮葺、正面には一間の向拝が付設されていた。また内部は正面一間通りを外陣とし、奥は一間ごとに3分割して中央間に中陣・内陣・内々陣を設け、左右脇間は空殿とされていた。『氣比宮旧記』によれば、そのうち内々陣の中央に仲哀天皇、右(西)に神功皇后、左(東)に保良太神(伊奢沙別命)が祀られていたという。
社務所は平成23(2011)年の再建。以前の社務所では裁判所庁舎が移転・使用されていた。

大鳥居
境内入り口に建てられている大鳥居(上写真左)は、江戸時代前期の正保2(1645)年の造営。木造朱塗の両部鳥居で、高さ36尺(10.93メートル)・柱間24尺である。扁額「氣比神宮」は有栖川宮威仁親王の染筆になる。
神宮の境内入り口は古くは東側にあったため、初代鳥居は弘仁元(810)年に境内東側に建てられていたが、その鳥居は康永2(1343)年に大風で倒壊したという。そして、寛永年間(1624年-1644年)に佐渡の旧神領地の鳥居ケ原から奉納された榁(むろ)の大木を使用して、現在の大鳥居が境内西側に建てられたと伝える。この鳥居は空襲の被害を免れており、国の重要文化財に指定されている。また、奈良の春日大社・広島の厳島神社の大鳥居とともに「日本三大鳥居」にも数えられている。

摂末社:
現在の摂末社は、摂社5社・末社9社の計14社(いずれも境内社)。摂社は伊佐々別神社以外は式内社で、末社のうちでも大神下前神社は式内社である。
これら摂末社のうち、本殿向かって左手に鎮座する伊佐々別・天利劔・天伊弉奈姫・天伊弉奈彦・擬領・劔・金・林・鏡の9社には本宮と関係が深い神々が祀られており、「九社の宮(くしゃのみや、九社之宮)」と総称される。『続日本後紀』によると、天利劔・天伊弉奈姫・天伊弉奈彦の3社は「氣比大神之御子」であるという。

摂社
98-1 角鹿神社 つぬがじんじゃ
祭神:都怒我阿羅斯等命(つぬがあらしとのみこと)、合祀に松尾大神
社格:式内社「角鹿神社」、越前國内神名帳「正四位 敦賀神」
地名「敦賀」の発祥地と伝える。境内東側の裏参道に鎮座する。『氣比宮社記』や「氣比宮古図」では「政所神(まんどころのかみ)」と見える。また、正安2(1300)年まで東口が境内表口であったことにより、別に「門神(かどのかみ)」とも称されていた。
祭神の都怒我阿羅斯等は、『日本書紀』において垂仁天皇の時に渡来したと記されている意富加羅国(任那国)王子で、同書では笥飯浦に至ったと見える。神宮の伝承では、その後天皇は阿羅斯等に当地の統治を任じたといい、この角鹿神社はその政所跡に阿羅斯等を祀ったことに始まるとして、「敦賀(つるが)」の地名は当地を「角鹿(つぬが)」と称したことに始まるとしている。
角鹿神社の祭神を都怒我阿羅斯等とする説は諸文献に記されているが、一方で祭神を角鹿国造祖の建功狭日命(たけいさひのみこと)とする説もある。建功狭日命は『先代旧事本紀』に角鹿国造として見える人物で、江戸時代末期まで角鹿神社の社家であった島家が角鹿氏後裔を称したことからも、角鹿氏祖と推測される建功狭日命説が有力視されている。またこれとは別に、この角鹿神社は古くからの敦賀の地主神であったとして、イザサワケ並びに応神天皇が主神として本宮に祀られるとともに、その客神の地位に位置づけられたと見る説もある。なお、松尾大神は天保10(1839)年の合祀とされる。
明治10(1877)年に神宮摂社の第一に定められた。社殿は流造銅板葺。嘉永4(1851)年の改築によるもので、神宮の境内社では唯一戦災を免れている。

九社の宮
 写真左・・北面:手前 伊佐々別神社、奥 擬領神社
 写真右・・東面:手前から 天井弉奈彦神社、天井弉奈姫神社、天利劔神社、鏡神社、林神社、金神社、劔神社
a0057057_1811178.pnga0057057_2135122.png

98-2 伊佐々別神社
いささわけじんじゃ
祭神:御食津大神荒魂(みけつおおかみあらみたまのかみ)
九社の宮の一社として本殿西側に鎮座する。祭神は本宮主祭神の荒魂である。社伝では、氣比神から御食の魚を賜った誉田別命(応神天皇)が、武内宿禰に命じて新たに氣比神の荒魂を勧請したことに始まるという。漁撈の神であるとされ、海を向くために社殿は北面するという。

98-3 天利劔神社
あめのとつるぎじんじゃ
祭神:天利劔大神(あめのとつるぎのおおかみ)
社格:式内社「天利剣神社」、越前国内神名帳「正四位 天利剣神」
九社の宮の一社で、第五之王子宮。社伝では仲哀天皇による宝剣の奉納に始まるという。『続日本後紀』によると承和7(840)年に無位から従五位下に昇叙された。
明治10(1877)年に境内摂社に定められた。社殿は戦災で焼失、昭和55(1980)年に流造銅板葺で再建。

98-4 天伊弉奈姫神社
祭神:天比女若御子大神(あめひめわかみこのおおかみ)
社格:式内社「天比女若御子神社」、越前國内神名帳「正四位 天若神子神」
「あめのいざなひめじんじゃ」。九社の宮の一社で、第六之王子宮。社伝では天伊弉奈姫神社・天伊弉奈彦神社の2社は造化陰陽2柱を祀るという。『続日本後紀』によると「天比女若御子神」として承和7(840)年に無位から従五位下に昇叙された。
明治10(1877)年に境内摂社に定められた。社殿は戦災で焼失、昭和55(1980)年に流造銅板葺で再建。

98-5 天伊弉奈彦神社
祭神:天伊弉奈彦大神(あめのいざなひこのおおかみ)
社格:式内社「伊佐奈彦神社」、越前國内神名帳「正四位 天伊佐奈彦神」
「あめのいざなひこじんじゃ」。九社の宮の一社で、第七之王子宮。社伝では天伊弉奈姫神社・天伊弉奈彦神社の2社は造化陰陽2柱を祀るという。『続日本後紀』によると「天伊佐奈彦神」として承和7(840)年に無位から従五位下に昇叙された。
明治10(1877)年に境内摂社に定められた。社殿は戦災で焼失、昭和55(1980)年に流造銅板葺で再建。

末社
98-11 擬領神社
祭神:建功狭日命(たけいさひのみこと)
「おおみやつこじんじゃ」。九社の宮の一社。祭神は一説に大美屋都古神(おおみやつこのかみ)とも、玉佐々良彦命(たまささらひこのみこと)とも。建功狭日命は『先代旧事本紀』に角鹿國造祖と記されている人物である。

98-12 劔神社
祭神:姫大神尊(ひめのおおかみのみこと)
「つるぎじんじゃ」。九社の宮の一社で、第一之王子宮。社伝では、敦賀市莇生野の劔神社からの勧請という。

98-13 金神社
祭神:素盞嗚尊(すさのおのみこと)
「かねのじんじゃ」。九社の宮の一社で、第二之王子宮。社伝では弘仁7(816)年に参詣した空海が金神社の霊鏡を高野山に遷したとして、高野山鎮守社の丹生都比売神社で祀られる氣比神は当社にあたるという(ただし、現在の丹生都比売神社では祭神を大食都比売神とする)。

98-14 林神社
祭神:林山姫神(はやまひめのかみ)
「はやしのじんじゃ」。九社の宮の一社で、第三之王子宮。社伝では延暦7(788)年に参詣した最澄が林神社の霊鏡を比叡山に遷したとして、比叡山鎮守社の日吉大社で祀られる氣比神は当社にあたるという(ただし、現在の日吉大社では祭神を仲哀天皇とする)。

98-15 鏡神社
祭神:神功皇后奉献の宝鏡の神霊
「かがみのじんじゃ」。九社の宮の一社で、第四之王子宮。社伝では、神功皇后が奉献した神宝のうち宝鏡が霊異をなしたので、別殿に國常立尊とともに「天鏡宮(あめのかがみのみや)」として祀ったことに始まるという。

98-16 大神下前神社
祭神:大己貴命、合祀に稲荷神・金刀比羅神
社格:式内社「大神下前神社」、越前国内神名帳「従五位 大神下前神」または「従五位 道後神」、旧村社
例祭:10月10日
「おおみわしもさきじんじゃ」。角鹿神社とともに裏参道に鎮座する。古くは「道後神社」と称し、神宮の北方鎮守社として天筒山山麓の宮内村(現 敦賀市金ケ崎町)に鎮座したとされる(旧社地は不詳)。明治9(1876)年に村社に列したが、明治44(1911)年に鉄道敷設に伴って境内に遷座した。本殿は流造檜皮葺。

98-17 兒宮(児宮)
祭神:伊弉冊尊
例祭:11月15日
「このみや」。角鹿神社とともに裏参道に鎮座する。寛和2(986)年に遷宮があったといい、それ以前からの鎮座と伝える。江戸時代以降は子育て・小児の守護神として信仰されている。

a0057057_17414152.png98-18 猿田彦神社
祭神:猿田彦大神
表参道の大鳥居近くに鎮座する。祭神は氣比神を案内する神であるという。

98-19 神明両宮
祭神:天照皇大神(内宮)、豊受大神(外宮)
九社の宮と並んで鎮座する。外宮は慶長17(1612)年、内宮は元和元(1615)年の勧請。

現地参拝:28.10.12

参考資料:Wikipedia(2017年1月16日)
記事:
 投稿:29.5.-7

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by fbox12 | 2017-05-07 22:47 | 神社

第拾九 三嶋大社 静岡県三島市鎮座

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a0057057_2028040.jpga0057057_20344412.jpg

a0057057_2192495.jpg鎮座地:静岡県三島市大宮町二丁目1-5
御祭神:三嶋大明神(大山祇命、積羽八重事代主神)
社格等:式内社(名神大)、伊豆國一宮、伊豆國総社、旧官幣大社、神社本庁別表神社
社殿:本殿を流造とする総欅素木造複合社殿

a0057057_22122841.png静岡県東部の伊豆半島基部、三島市の中心部に鎮座する。境内は交通上の要衝に位置し、大鳥居前を東西に旧東海道、南に旧下田街道(現在、車両は南側から大社側へ一方通行)が走る。当地は伊豆國の中心部として国府のあった地で、古代には「國府(こう)」と称された。そして三嶋神が国府に祀られたのち、13世紀末頃から大社にちなんで地名も「三嶋」と呼ぶようになったとされる。
平安時代の『和名類聚抄』では伊豆國賀茂郡に「三嶋郷(みしまごう)」の記載が見える。

三嶋大社自身は創建時期、由緒ともに不明としているが、社名の「三嶋」とは伊豆大島や三宅島を含む伊豆諸島に対する尊称「御島(みしま)」に由来するとされる。主祭神は伊豆諸島の開拓神である。当社は、古代には伊豆諸島の噴火を畏れた人々から篤く崇敬された。中世に入ると、伊豆國の一宮とし*多くの武家からの崇敬を集めた。近世以降は三島が東海道の宿場町として発達したことに伴い、東海道を往来する庶民からも篤く信仰された神社である。
社は戦前「三島神社」と称したが、戦後は「三嶋大社」を称している。史料には次の呼称が見える。

 三島大社/三嶋大社 (『続日本後紀』)
 伊豆三島神社/伊豆三嶋神社 (『延喜式』神名帳)
 三島社/三嶋社 (『吾妻鏡』、北畠顕家文書、北条氏綱文書)
 三島宮/三嶋宮 (矢田部家文書等)

*「頼朝が三嶋大社を崇敬した。」「旗挙げを祈願した。」という由緒には、後世において書き加えられた感があり、筆者は否定的な意見を持つ(その理由については別の機会で記す)。
また余談ではあるが、頼朝のそばに居た藤九郎を「安達盛長・・」という標記をする文書があるが、藤九郎が安達姓を名乗ったのは、鎌倉の御家人を辞してからで、御家人となっても藤九郎盛長と呼ばれていた。

祭神について:
三嶋大社の祭神に関しては、古くは大山祇命祭神説・事代主神祭神説が存在した。
大山祇命説は、鎌倉時代の『東関紀行』に始まって『源平盛衰記』『釈日本紀』『二十一社記』『日本書紀纂疏』等の諸史料に見える説である。三嶋神が伊豫國一宮の大山祇神社(大三島神)に由来するという伝説に基づき、事代主神説が唱えられるまでは広く定着していた。
一方事代主神説は、江戸時代後期の平田篤胤の『古史伝』での主張に始まる説である。室町時代の『二十二社本縁』に「都波八重事代主神(中略)伊豆賀茂郡坐三島神、伊予国坐三島神同体坐云」とある記載に基づく。
江戸時代までの祭神は大山祇命とされていたが、幕末に篤胤の事代主神説が国学者の支持を得たため、明治6(1873)年に事代主神に改められた。その後大正期に入って大山祇命説が再浮上したため、どちらも本地に関わりが深いということから二柱説が昭和27(1952)年に制定されて現在に至っている。
近年の研究では、三嶋神は「御島神」すなわち伊豆諸島の神を意味するとして、上記2説とも後世の付会とする見方が有力視される。この中で、噴火の盛んな伊豆諸島で原始的な造島神・航海神として祀られたのが「ミシマ神」の始まりであるという。そして「ミシマ」の音から、後世に他の神に結び付けられたともいう。

社史:
創建
上記のとおり、創建は不詳とされる。後述のように『延喜式』神名帳には伊豆国賀茂郡(伊豆半島南部・伊豆諸島)の所在と記載され、現在地(当時は田方郡・・引用 Wikipedia 記載:筆者?)と相違することから、遷座説・郡名誤記説等の諸説が提唱されている。文献上で現在地の鎮座が確実なのは、『吾妻鏡』治承4(1180)年の記事からである。
現在通説として知られるのは、初め賀茂郡三島郷(郡名誤記説では伊豆諸島という説)、のち賀茂郡大社郷白浜(伊古奈比咩命神社付近か)、さらに田方郡小河郷の伊豆国府(現社地・・大仁田京国府説あり)へと遷座(一説に勧請)したとする説である。一方の郡名誤記説では、『延喜式』の記載を疑い、太古より当地に鎮座とする。以上のほか、「三嶋」の神名から伊豫國一宮の大山祇神社(大三島神)との関係を想定する説もある。

平安時代
史料の初見は天平宝字2(758)年で、その後国史では天長9(832)年の記事で、神異により三嶋神・伊古奈比咩命神(伊古奈比咩命神社)を名神となし、地2,000町に「神宮二院・池三処」を作ったという。同記事の3日前の記事では、日照りの原因が「*伊豆国神」の祟りであると記されているが、この「伊豆国神」は三嶋神・伊古奈比咩命神と同一神であるとも考えられる。
『続日本後紀』の記事よると、承和5(838)年7月5日夜に上津島(神津島)で激しい噴火が発生した。占いの結果、それは三嶋神の後后が位階(神階)を賜ったにも関わらず、本后たる阿波神(阿波咩命;阿波命神社)には沙汰がないことに対する怒りによるものだと見なされた。同記事では「後后」に関する具体的な言及はないが、これは伊古奈比咩命を指すとされる。この記事を受けて約一ヶ月後には、阿波咩命と物忌奈命(阿波神の御子神;物忌奈命神社)の神階が無位から従五位下に昇った。
その後、当社には嘉祥3(850)年に従五位上の神階が授けられたのち、仁寿2(852)年に従四位下、貞観元(859)年に従四位上、貞観6(864)年に正四位下、貞観10(868)年に従三位が授けられた。
延長5(927)年成立の『延喜式』神名帳では、伊豆國賀茂郡に「伊豆三島神社 名神大 月次新嘗」として、名神大社に列するとともに月次祭・新嘗祭で幣帛に預かった旨が記載されている。また、『延喜式』主税寮によれば、当社には「三島神料」として2,000束が下されていた。
承平年間(931年-938年)頃の『和名類聚抄』では伊豆国賀茂郡に「大社郷(おおやしろごう)」の地名が見えるが、これは伊豆三島神社・伊古奈比咩命神社に基づく郷名とされる。

*「伊豆国神」・・引用先の Wikipedia の記載であるが、筆者は、これを三嶋大社北遷前の地主神と考える。
下記若宮八幡の昔話のように、三嶋大社の北遷説が実際にあったとすれば、それに絡む形で排除されたものがあり、現在地に三嶋大社が存在する理由を定義するものであるが、決してそれが温和な方法でなかったことの表れではないだろうか。


現社殿は、嘉永7(1854)年11月4日の東海地震で罹災し、時の神主*矢田部盛治の指揮のもと、全国にて再建のための勧進を行い、慶応2(1866)年9月9日に本殿、幣殿、拝殿の完成を見た。その他境内主要建造物は、明治元(1868)年にかけて随時落成した。
社殿彫刻は、当代の名工小沢半兵衛・小沢希道親子とその門弟のほか、後藤芳冶良らによるもの。社殿彫刻としては高い完成度と美術的価値をもつ。平成12(2000)年に重要文化財指定を受けた。

*矢田部盛治(やたべもりはる):江戸時代末から明治時代はじめの三嶋大社神主(宮司)。社殿再興の他、大場川の治水工事、祇園原水路の開削など三島地域の開発に尽力した人物。境内には熱海市生まれの彫刻家澤田晴廣(:三嶋大社ホームページ、「政廣」の誤り)制作による盛治の銅像がある。

a0057057_208521.jpga0057057_20283274.jpg左:現総門
右:旧総門
(現芸能殿)

a0057057_11505955.jpga0057057_21315226.jpg左:神門
右:舞殿

a0057057_15205710.jpga0057057_15262975.jpg左:手水舎
右:神馬舎


a0057057_14374398.jpg昭和9(1934)年5月1日、文部省告示第181号により、文部大臣から国の天然記念物の指定を受けた。
学名は薄黄木犀(うすきもくせい)。薄い黄色の花をつけ、甘い芳香が特徴。


a0057057_19344499.jpg三島の昔話:
現在の三嶋大社は、平安中期以降に田方郡の国府近くに新宮として分祀されたとされる。現在地には元々若宮八幡があったが、三島明神が若宮八幡に「藁一把分の土地を譲ってくれ」と言い、若宮八幡がそれくらいならと了承すると、三島明神は藁の束を解いて輪にし、若宮八幡の広大な敷地を囲んで占有してしまったという伝承がある。現在、若宮八幡は三島市西若町にあるが、そのために三嶋大社に背を向けて建ったという(現在は三嶋大社の末社であり、向きは大社と同じ南向き、また、大社境内にも同名の摂社がある)。

摂社、末社
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by fbox12 | 2017-04-25 23:01 | 神社

第九拾七 佐野神社 静岡県伊豆市鎮座

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a0057057_21233866.pnga0057057_2135561.png

a0057057_21353658.png社名かな:さのじんじゃ
鎮座地:静岡県伊豆市雲金佐野105
祭神:事代主神

由緒:
応永9(1402)年造営。
江戸時代は「鮫大明神」とも「鰒明神」とも称していた。この鰒(あわび)から延喜式神名帳の「鮑玉白珠比咩命神社(伊豆國田方郡鎮座)の論社とされたと思われる。
伴信友『神名帳考証』は当社を鮑玉白珠比咩命神社に比定している。

この神社最寄りの駅・バス停:
伊豆箱根鉄道駿豆線修善寺駅から東海バス「佐野川端」下車

記事:
 取材:29.3.10
 投稿:29.4.-5
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by fbox12 | 2017-04-05 17:27 | 神社

第九拾六 白山比咩神社 石川県白山市鎮座

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a0057057_2041856.pnga0057057_20431380.png

a0057057_22184112.pnga0057057_22514672.png
a0057057_2257051.png鎮座地:石川県白山市三宮町ニ105−1
祭神:白山比咩大神(菊理媛尊)、伊邪那岐尊、伊弉冉尊
社名かな:しらやまひめじんじゃ
社格等:式内社(小)、加賀國一宮、国幣中社、神社本庁別表神社
本殿様式:三間社流造銅板葺

a0057057_2133259.png由緒・概要:
石川県・福井県・岐阜県の県境に立つ白山(標高2,702m)の山麓に鎮座し、白山を神体山として祀る神社である。
元は現在の古宮公園の場所に鎮座していたが、室町時代に火災で焼失し現社地に遷座した。また白山山頂の御前峰には奥宮も鎮座し、山麓の社殿はこれに対して「下白山」または「白山本宮」と呼ばれていた。
全国に2,000社以上ある白山神社の総本社である。通称として「白山(しらやま)さん」「白山権現」「加賀一の宮」「白山本宮」とも。神紋は「三子持亀甲瓜花」。

a0057057_21541791.png社伝由緒によれば、古代、崇神天皇の時代に白山を遥拝する「まつりのにわ」が創建され、元正天皇の霊亀2(716)年に安久濤の森に遷座して社殿堂塔が造立された、と伝わる。
養老2(718)年に越前の修験僧・泰澄大師によって白山開山、主峰・御前峰に奥宮が創建され、白山妙理大権現が奉祀された、と伝わる。
史料文献初出は、白山比咩神(しらやまひめのかみ)は仁寿3(853)年10月に従三位に初叙された。
以後、一宮制度で加賀國一ノ宮と定められ、白山本宮・加賀一ノ宮の白山比咩神社は、平安時代中期から鎌倉時代を経て、室町時代前期に至る約500年間栄えた。
しかし室町時代中期の康正元(1455)年以降加賀國に入った本願寺の加賀一向一揆のため年貢米が得られなくなり困窮した状況で、文明12(1480)年に大火全焼し三宮の地に遷座。続く加賀一向一揆の戦乱で白山衆徒は廃絶し、社殿は再興できずその後100年間あまり荒廃した。
白山本宮の社殿堂塔復興は、安土桃山時代に綸旨を受けた前田利家により行われ、社名を白山本宮である白山比咩神社、神宮寺の白山寺も復興・併設、江戸時代は加賀藩主が社の経営をみるところとなった。
江戸時代全期にわたり、白山嶺上の祭祀権(社家権利、札発行、梵字押捺の勧進)と室管理(賽銭収入)を巡って「白山争議」が何度も繰り返し起きた。尾添村と高野山真言宗、牛首村・風嵐村と越前馬場の平泉寺・比叡山天台宗、美濃馬場の越前国大野郡石徹白、それに巻き込まれた白山本地中宮長滝寺(現 長滝白山神社)、の間で訴訟が起き、幕府寺社奉行所の裁決が繰返され、平泉寺の権利に移っていった。
明治時代の神仏分離令により、白山寺は廃され、白山本宮・加賀一ノ宮の「白山比咩神社」と号した。そして歴史史料が調査され、加賀の白山比咩神社・越前の平泉寺白山神社・美濃の長滝白山神社の3社から「延喜式神名帳」に記載された加賀の白山比咩神社が最も古く、全国の白山神社の総本社とされ、白山天嶺の地は本社境内となり奥宮が置かれた。越前・美濃は分霊された白山神社とされた。越前・美濃の白山神社より勧請を受けた他の白山神社も、加賀の白山比咩神社の分霊社に由諸を書き換えた、とされる。
第二次大戦後は、白山比咩神社は白山神社の総本社として神社本庁の別表神社となり、白山頂上の奥宮を中心とする約3000ヘクタールの広大な地域を本社境内として無償譲与を受け、現在に至る。平泉寺白山神社・長滝白山神社もそれぞれ「白山神社の総本社」を名乗る。
明治42(1909)年7月23日に御鎮座二千年式年大祭が執行された。昭和33(1958)年10月3日に御鎮座二千五十年式年大祭が執行された。昭和55(1980)年10月3日に古宮から三宮の地への御本宮遷座五百年式年大祭が執行された。平成20(2008)年10月7日に御鎮座二千百年式年大祭が執行された。

摂社:
a0057057_21224719.png荒御前神社
社名かな:あらみさきじんじゃ
祭神:荒御前大神、日吉大神、高日大神、五味島大神

由緒:
荒御前大神は、『日本書記』の中に、神功皇后(じんぐうこうごう)が朝鮮半島に出兵した際、守護した神として登場する。

末社:

住吉社・・南参道、禊場の横に鎮座
社名かな:すみよししゃ
祭神:住吉三神(底筒男尊、中筒男尊、表筒男尊)

参考資料:Wikipedia(2016年11月15日)
記事:
 取材:28.10.12
 投稿:29.3.23
 調整:29.3.24
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by fbox12 | 2017-03-23 23:04 | 神社