fbox12 blog (博物館fbox12 館長の雑記帳)

カテゴリ:神社( 118 )

第六拾九 出雲大社恋弁天 東京都新宿区鎮座

a0057057_1914132.pngいずもたいしゃこいべんてん

鎮座地:東京都新宿区西新宿二丁目6-1 新宿住友三角ビル敷地内
御祭神:

由緒:
七福神の一人である辨財天は、古来より水の神といわれ、新宿住友ビルの建つ新宿新都心界隈も江戸時代には、湖沼地帯であった。明治から昭和にかけては、この地が(淀橋)浄水場だった。
このような歴史を記憶に残すため、昭和48(1973)年新宿住友ビル竣工に伴い、モニュメントとして、この辨財天が建立された。その後、この辨財天に祈ると、恋が叶うといわれるようになったことから、平成8(1996)年5月18日、縁結びの神として知られる出雲大社(東京分祓)の神職により、神恩報謝修祓式を斎行した。

この神社最寄の駅・バス停:
 東京都交通局・都営大江戸線 都庁前

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by fbox12 | 2017-11-05 21:21 | 神社

第參 頼朝宮(源頼朝の祠) 静岡県三島市鎮座

a0057057_10364974.jpg

a0057057_9214596.jpgよりともぐう

鎮座地:静岡県三島市松本
祭神:

由緒書き:
(祠の左側の碑原文のまま、ただし西暦年号などは算用数字で表記)。

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宗徳院参道脇にある祠は頼朝が足痛除の符を出し参詣者は草鞋を供えて祈願する
宗徳院(延喜年間901年創建)天正三(1575)年再興の本堂には正二位源頼朝公木像が安置されている

a0057057_9223987.jpg頼朝駒爪の橋

参道入口の小川にかけられたる石橋の中央に馬蹄形の径十五センチほどのくぼみあり
これ頼朝当山本尊に日参の折り乗馬ひざまずきて倒れたる跡なりと伝えしも昭和初年頃
石橋の修理の為下石となり更に平成八年境川改修事業によって今は見るを得ず

平成十二年秋季彼岸
宗徳院廿七世心戒季晟 代

a0057057_10215781.png由緒書きにあるように境川(古くは伊豆と駿河の國境の川、現在でも三島市と駿東郡清水町の境)の河川改修に際し、頼朝が祈願をした小さな祠を曹洞宗龍泰山宗徳院によって頼朝宮として整備されたもの。
(注、上写真宗徳院本堂は川の西側にあるが、上記河川改修前は本堂の裏手を川が流れていた)。

その境川には、鱒の様な魚が・・(上流に養鱒場がある)。

a0057057_927982.jpg寺入口の境内社

a0057057_20333338.png龍泰山宗徳院沿革概要:

所在地:静岡県三島市松本414
宗派:曹洞宗(古くは眞言宗)
本尊:延命地蔵菩薩

創立
延暦年間(801〜802年)僧空海(弘法大師)に依り創建
其後正二位源頼朝公永暦元(1160)年三月伊豆国に流島され治承四(1180)年八月伊豆に挙兵同年十月鎌倉に入るまで百日間三島大社と共に此の寺の本尊延命地蔵菩薩を旗揚げの祈願佛として日夜詣でたり
其後天正初期(1573〜1592)甲斐武田の家臣道景道吉二人当地○れ土地の開拓事業に専念しも○○の急を知り当寺境内に於て相自刃せるを同年三月韮山村南條昌渓院第六世麒庵東鱗大和尚禅師を請し両人の菩提を弔うため荒廃せる堂宇を再興し開山禅師となり寺を曹洞宗と改む
文化十一(1814)年八月十五日火災により寺宝古文書過去帳等全焼せるも不思議にも本尊の延命地蔵菩薩は難を逃れ今も現存す
文政六(1823)年四月本堂再建(以下略:一部、環境依存文字のため表示不可)

御詠歌:
 のちの世の深き恵みをいまここに
 まつもと寺ときくぞうれしき

a0057057_15513297.pngこの神社最寄の駅・バス停留所:
東海バスオレンジシャトル 三島駅-新城橋-大平車庫
 宗徳院戸田入口

現地参拝:60.8.15他
記事投稿:17.11.11
  調整:29.9.21

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by fbox12 | 2017-10-22 01:22 | 神社

第壱 伊豆山神社 静岡県熱海市鎮座

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a0057057_1782159.pnga0057057_1872218.png
a0057057_16322868.pngいずさんじんじゃ

鎮座地:静岡県熱海市伊豆山上野地708番地1
祭神:
 正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊
 拷幡千千姫尊
 瓊瓊杵尊
社格等:旧国幣小社、神社本庁別表神社
社殿:


a0057057_16141420.png概要:
全国各地に点在する伊豆山神社や伊豆神社(いずじんじゃ)、走湯神社(そうとうじんじゃ、はしりゆじんじゃ)などの起源となった事実上の総本社格の社である。

当社は明治以前においては久しく神仏習合の社であって、富士開山の僧である末代上人や、修験道の始祖とされる役小角、空海(弘法大師)など多くの山嶽仏教徒や修験者が修行を積んだ霊場であった。後白河法皇勅撰の「梁塵秘抄」には「四方の霊験者は伊豆の走湯、信濃の戸穏、駿河の富士山、伯耆の大山」と記されている。
a0057057_1805755.pnga0057057_22005597.png明治維新の神仏分離令により寺を分離して伊豆山神社と称するまでは、天台宗や真言宗と関わりの深い神仏習合の神社であり、現在地へ遷座して以降は主に、高野山真言宗である般若院(はんにゃいん)の別当寺が伊豆大権現と等しく祀られていた。
しかし、
 勢力間の主導権争いなどによって度々祭神や由緒が改竄されたこと
 神仏分離の混乱や数度にわたる火災などで史料が逸失したこと
などから山の歴史には不明点が多く、調査・研究が待たれる。
なお、頼朝と政子の恋の舞台であったため、現在も縁結びや恋愛成就の神社として人気がある。
(下線部分の記述については、参考資料原文のまま)

歴史:
創建の年代は不詳だが、社伝によれば孝昭天皇の時代(紀元前5世紀~紀元前4世紀)とされる。古くは以下の名で呼ばれた。
 伊豆大権現(いずだいごんげん)
 伊豆御宮(いずおんみや)
 伊豆山(いずさん)
 走湯大権現(そうとうだいごんげん、麓の海岸に点在した温泉・間歇泉に由来し、推古天皇3(594)年に朝廷から贈られた名とされる)
 走湯山(そうとうさん)

a0057057_20264256.pnga0057057_2031392.png当初は日金山(ひがねさん:久地良山、万葉集にいう伊豆高嶺)の山上にあった。その後については諸説があるが、本宮山(ほんぐうさん)を経て、承和3(836)年に甲斐国の僧・賢安により現在地へ遷座したとの説が有力である。
十六代仁徳天皇が勅願所としたとされるため歴代皇族の崇敬が篤く、二十二代清寧、三十代敏達、三十三代推古、三十六代孝徳、百五代後奈良の六天皇の勅願所となったと社伝に謳われており、特に後奈良天皇は自筆の般若心経一巻(昭和2(1927)年国宝指定、現重要文化財)を奉納している。
源頼朝は平治の乱の後伊豆國に配流されたとき、当社に源氏再興を祈願した。この間有力豪族の伊東祐親に追われて当社に身を寄せたり、小豪族の娘であった北條政子との逢瀬の場にするなど関わりが深く、後に鎌倉幕府を開くと箱根とともに当社を「二所」として、幕府の最高の崇敬を示す「関八州鎮護」として多くの社領を寄進した。南北朝時代の「寺領知行地注文」によれば、遠くは越州に至るまで数多くの知行地を所有したとされるなど、この時期、当社が最盛期を迎えていたことがうかがわれる。
戦国時代、小田原北条氏(早雲、氏綱、氏康)の篤い崇敬を受けたが、豊臣秀吉の小田原征伐で焼失した(一説では、その張本人は徳川家康とされる)。
a0057057_21102697.png江戸時代に入ると山麓の阿多湊(または阿多美の郷)が湯治場として名高くなり、徳川家康はじめ多くの大名や文化人たちが訪れた。焼失していた当社は再建され、江戸幕府からは文禄3年伊豆國加増も葛見郡のうち二百石を、慶長14年には関ヶ原の戦いでの勝利の礼として百石を、それぞれ朱印領として寄進され、以後、代々の将軍からも同様に寄進を受けた。
神仏分離後の大正3(1914)年1月13日、当時皇太子であった昭和天皇が当社に参拝、本殿脇に黒松一株を手植した。
大正7(1918)年、宮内省から金参萬円を支給される。
昭和3(1928)年の昭和天皇御大典の際に国幣小社に列し、秩父、高松、久邇、伏見、山階、賀陽、東伏見の各宮家から金壱封を、梨本宮家からは日本刀一口及び槍一筋、祭祀料の寄進を受けた。
第二次世界大戦後に社格制度が廃止されて以降は別表神社とされ、宗教法人化された。
昭和55(1980)年9月12日、現東宮浩宮徳仁親王が参拝する。また、同年、童画家黒崎義介が拝殿の天井画390枚を奉納した。

赤白二龍
『走湯山縁起』に、「伊豆山の地下に赤白二龍交和して臥す。その尾を箱根の芦ノ湖に付け、その頭は伊豆山の地底にあり、温泉の湧く所はこの龍の両眼二耳鼻穴口中なり」と記載があり、伊豆山神社の「伊豆山大神」が、赤龍と白龍の二龍の姿となって、温泉を生み出す様が描かれているとされる。赤龍は火の力、白龍は水の力を操るとされ、二龍は温泉の守護神ともされる。
この「赤白二龍」(せきびゃくにりゅう)は、伊豆山神社のシンボルとされ、社殿の手前にある手水舎にも、二龍をかたどった装飾がみられる。伊豆山神社が縁結びの神社ともされることから、赤龍を母親、白龍を父親とみなし、あわせて夫婦和合や縁結びの象徴ともしている。

境内社:
本宮社

a0057057_20475194.pnga0057057_20551619.png

ほんぐうしゃ
鎮座地:静岡県熱海市伊豆山七尾
祭神:正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊、拷幡千千姫尊、瓊瓊杵尊

仁徳天皇の御代に松葉仙人が神鏡を崇め、社を造り日金山に祀り、後に社はこの地に移され祀られてきた。さらに承和3(836)年に今の伊豆山神社の社を建造し遷座したため、残った二番目の社が現在の本宮社となった。
江戸時代初期には広さ東西五間、南北三間半の拝殿、鳥居三ヶ所、付近に求聞持堂、東西三間南北二間の建物等を有したが、江戸時代後期の野火により全焼し、現在は石鳥居一基、拝殿が一棟建っているのみ。


結明神本社(むすびみょうじんほんしゃ)
御祭神:結明神(日精・月精)

走湯山縁起によれば景行天皇の三十一年、日金山の大杉の中より一男一女が出生した。初島の初木神社の祭神である初木姫が二子を引き取り育てたが、時を経ずしてたちまち成長し、一女を日精、一男を月精と号した。後に二人は夫婦となり、日金山に仕えて「伊豆権現氏人之祖」となったと云う。
日精・月精その終没を不知(富士山)から神上がったと記され、後の人たちより結明神として仰がれ祀られたと伝られる。
祭神は男女の縁結びを叶えてくれる神で古くは一名恋祭りという神事があり、各地から集まった若い男女の参列を得て行われていたことが伝えられている。


白山神社(はくさんじんじゃ)
御祭神:菊理媛命

伊豆山記、走湯山記によれば、天平元年夏、東国に疫病が流行した際、北条の祭主が伊豆権現に祈願したところ「悪行のなす所、救いの術なし、これ白山の神威を頼むべし」との神託があり、猛暑の頃であったにもかかわらず、一夜のうちに石蔵谷(白山神社鎮座地)に雪が降り積もり、幾日経っても消えず、病人がこの雪をなめたところ、病苦がたちどころに平癒したことから、この御社が創立された。
古来より、病気平癒、厄難消除の神として厚い信仰を集めている。


摂社 雷電社(らいでんしゃ)(若宮)
a0057057_16463770.png御祭神:伊豆大神荒魂、雷電童子(瓊瓊杵尊)

創立年代は不詳。吾妻鏡に「光の宮」と別名があり、鎌倉幕府三代将軍源實朝が再興し、その後暦応四年に足利氏が、慶長十七年に徳川二代将軍秀忠が改築、現社殿は昭和十(1935)年に内務省によって改築された。
政治を司り導く神として、源頼朝を始め歴代の将軍家の崇敬が厚く、室町時代には多数の社領を有していた。
事業、経営、商売繁盛、心願成就、良縁成就、家内安全、夫婦円満、子孫繁栄など、強い神威を持つ神である。

結明神社(むすびみょうじんしゃ)
a0057057_178739.png御祭神:結明神(日精・月精)

子恋の森公園上(伊豆山七尾)にむすぶ平らに鎮座する本社の里宮。

役小角社(えんのおづぬしゃ:足立権現社(あしだてごんげんしゃ))
御祭神:役小角(神変大菩薩、役優婆塞(えんのうばそく))

舒明天皇六(634)年、大和の葛城上郡茅原に生まれ神仏両道に渉り行を積み深く学を究め孔省咒法修習、奇異の験術を証、また日本国中の名山高山を開き登り、修験道の祖、開山の祖とも仰がれる。
文武天皇三年、伊豆大島に流刑にされた折、昼は皇命を慎み、夜は飛行の術を駆使し伊豆大権現に飛び来て修行重ねたと伝えられる、大島に在ること三年、大宝元年勅名を以って許され大和に還ったが遂に仙人と化って唐に渡ったといわれる、役小角隠れ給ひてより千百余年後、光格天皇の寛政十一(1799)年その神徳を讃えられて神変大菩薩の神号を賜う。
当社は運命開拓の神なり、また古くから足の病に悩める者、足腰弱き者、祈願致さば神護を享けて強足となるという信仰がある。


祖霊社(それいしゃ)
a0057057_15534035.png御祭神:伊豆大権現氏人祖霊

先祖の御霊を祀る社で、伊豆山の人々の守護神として景仰されている。

境外社 走湯神社


参考資料:伊豆山神社ホームページ/神社由緒書き他

記事投稿:
  調整:29.7.14/29.10.-4

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by fbox12 | 2017-10-22 01:09 | 神社

第佰九 橿森神社 岐阜県岐阜市鎮座

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a0057057_10164128.pngかしもりじんじゃ

鎮座地:岐阜県岐阜市若宮町1丁目8番地
主祭神:市隼雄命(いちはやおのみこと)

a0057057_10200616.pnga0057057_10173184.pnga0057057_11300030.pnga0057057_10211205.png

概要:
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昔より、夫婦和合、子供の守り神として厚く信仰されている。上加納山(水道山)の山麓にある。境内にある磐石“駒の爪岩”は、神人が駒に乗り、この地に降り立ったという伝説がある。

主祭神の市隼雄命は、垂仁天皇の第一皇子である五十瓊敷入彦命(いにしきいりひこのみこと)と景行天皇の第六皇女淳熨斗媛命(ぬのしひめのみこと)の間の子。同じ岐阜市の伊奈波神社に父・五十瓊敷入彦命、金神社に母・淳熨斗媛命を祭ることから、この三つの神社は関係が深い(毎年4月の岐阜まつりは、伊奈波神社、金神社、橿森神社の例祭である)。

織田信長は楽市楽座を開いた際、市神をこの橿森神社の神木、榎の元に祭ったという(現在「御園の榎」といわれている榎はその孫になる)。
a0057057_10282371.png江戸時代、金寶山瑞龍寺の神宮寺となっていたが、神仏分離でこの地の氏神となる。

a0057057_11441841.pnga0057057_11512965.pnga0057057_11522055.png


摂社:
a0057057_11455632.pnga0057057_11411580.png佰九之壹
建勲神社(岐阜信長神社)

たけいさおじんじゃ

祭神:贈太政大臣正一位織田信長公

末社:
a0057057_14340600.pnga0057057_14373923.png佰九之貮
末廣稲荷社


a0057057_14575778.png佰九之參
秋葉神社
a0057057_15011121.png琴佰九之四

琴比羅神社(琴平神社)

この神社最寄の駅・バス停留所:
JR岐阜駅(11・12・13番乗り場)または名鉄岐阜駅(4番乗り場)からN系統(長良橋方面)及び市内ループ左回りバス乗車、柳ケ瀬

a0057057_15294658.pnga0057057_15304179.png
周りは粕森公園として整備されている。


出典・参考:Wikipedia「橿森神社」(最終更新 2016年10月2日)
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A9%BF%E6%A3%AE%E7%A5%9E%E7%A4%BE

現地参拝:29.9.17/29.9.30
記事投稿:29.10.-4
  調整:29.10.-5

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by fbox12 | 2017-10-05 15:43 | 神社

第伍拾參 石室神社 静岡県賀茂郡南伊豆町鎮座(境内社:第佰七 熊野神社)

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a0057057_16434934.pnga0057057_16433189.pnga0057057_16495235.pnga0057057_17180799.png
いろうじんじゃ(いしむろじんじゃ)

鎮座地:静岡県賀茂郡南伊豆町石廊崎125
祭神:伊波例命(いわれのみこと)
社格等:(伝)式内社、無格社

概要:
伊豆半島の最南端に位置する石廊崎の突端付近にある神社。石廊権現(いろうごんげん)や石廊崎権現(いろうざきごんげん)とも呼ばれる。古くは伊波例命神社(いはれのみことじんじゃ)とも呼ばれていたとされ、また祭神は現在では伊波例命(いわれのみこと)と云われるが、以下に記すように必ずしも定かではない部分もある。伊豆國神階帳「従四位下いわらいの明神」に比定。社殿は海岸の岩窟上に立てられた帆柱の上に造営され伊豆の七不思議のひとつとされている。尚、50メートルほど離れた岬の最突端には熊野神社(くまのじんじゃ)があるが、事実上ひとつの神社として扱われることが多く、本項では一緒に記載する。
上写真鳥居をくぐり坂道を下ると石廊崎灯台があり、灯台横をさらに下ると、岩に組み込まれたような拝殿が見えてくる。

歴史:
由来や創建時期には以下のように諸説があり、必ずしも定かではない。社伝によれば文武天皇大宝元(701)年に初めて堂が建てられ、最初は観音像と第六天神を安置していたが、その後役小角が神託を受けて伊波例命を祀ったという。
一方「石廊山金剛院縁起」(拝殿内に展示されている)によると、役小角が伊豆大島へ流されたとき(文武天皇3(699)年 - 文武天皇5(701)年)、十一面施無畏の神力を得てこの地に至り、また文武天皇4(700)年に大地震があった際にも、龍と白鳥が現れてこの地を守った。村人の一人が夢の中で海中より宝殿が浮かび上がって岬の中腹の岩窟に座すのを見たため、行ってみると果たして宝殿が出現し中に十一面観音が安置されていた。その後更に天平年代(729-749年)、行基によって第六天神が祀られたという。
また「秦の始皇帝五世の孫と云われ日本に帰化した(異説もある)弓月君(ゆつきのきみ)が物忌奈之命(ものいみなのみこと)と称されるようになり、これを祀る神社として、その子孫を名乗る秦氏が建立したもの」とする説も有力である。但しこの物忌奈之命が、同じ旧伊豆國の神津島に祀られている物忌奈命と関連があるか否かは明らかにされていない。延喜式神名帳には、伊豆國賀茂郡に「伊波例命神社」があったことが記されており、一般には当社のことであるとされているが、後世の付会であるとの説もある。
以降、神仏習合の金剛山石室権現として人々の崇敬を集めた。江戸時代には韮山代官所を通じて徳川幕府から米二表の寄進を受けたという。伊豆七不思議のひとつで当社にまつわる「石廊崎権現の帆柱」の伝説が生まれたのはこの時代であるとされる。
明治初期の神仏分離により石室神社と称するようになった。現在の社殿は明治34(1901)年に再建されたものである。海上安全や商売繁盛、学業成就の神として、また伊豆半島の先端に位置する景勝地として名高い。

伝説:
「石廊崎権現の帆柱」a0057057_22061339.png石廊崎権現の帆柱(いろうざきごんげんのほばしら)とは、伊豆七不思議のひとつで伊豆半島先端の石室神社に、江戸時代から伝わる伝説である。海面から30メートル以上の断崖絶壁の上に、石室神社の社殿が千石船の帆柱を枕に建てられており、これにまつわる不思議な伝説が江戸時代からある。
昔、播州濱田港から塩を運んでいた千石船が石廊崎の沖で嵐に遭い、その帆柱を石廊権現に奉納すると誓って祈ったところ、無事に江戸に到着することができた。その帰途、帆柱奉納のことをすっかり忘れていると、何故か石廊崎の沖で船が進まなくなり、天候が急変して暴風雨となった。往路に誓いを立てたことを思い出した船主が千石船の帆柱を斧で切り倒すと、帆柱はひとりでに波に乗り、断崖絶壁(およそ30メートル)を石廊権現の社殿あたりまで、まるで供えたかのように打ち上げられた。同時に暴風雨も鎮まり、船は無事に播州へ戻ることができたという。
a0057057_22054305.png帆柱は明治34(1901)年に再建した社殿の基礎として使用され今も残っている。材質は檜で長さは約12メートル、現在では社殿の床の一部がガラス張りにされ、直接覗くことができるようになっている。(右写真)










熊野神社:

a0057057_22245164.pnga0057057_22254916.png
由来と伝説:
石廊崎近くの長津呂の郷に住むお静という名主の娘が、漁師の幸吉と恋に落ちたが、身分の違いで許さぬ恋であったため、幸吉は神子元島に流された。幸吉を忘れられないお静は、毎夜石廊崎の先端で火を焚き、神子元島の幸吉と愛を確かめ合っていた。
ある晩、神子元島の火が見えないことを心配したお静は、たまらず小船を出して神子元島に向かったが、折りからの大風で波は高く船は進まず、お静は一心不乱に神に祈った。その甲斐あって神子元島に漂着し、無事二人はめぐりあい結ばれた。その後二人を親たちも許すこととなり、末長く幸せに暮らしたという。お静が火を焚いたところに熊野権現の祠が祀られ、以来縁結びの神として知られることとなった。明治初期の神仏分離により熊野神社と称するようになった。

参考:
Wikipedia「石室神社」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E5%AE%A4%E7%A5%9E%E7%A4%BE

Wikipedia「石廊崎権現の帆柱」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E5%BB%8A%E5%B4%8E%E6%A8%A9%E7%8F%BE%E3%81%AE%E5%B8%86%E6%9F%B1

この神社最寄の駅・バス停
南伊豆東海バス 石廊崎港から徒歩
路線バスは1日数本のため(若干距離はあるが)一つ手前の石廊崎港口が便利。

現地参拝:25.11.4
記事投稿:29.8.-3
  調整:29.8.-4

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by fbox12 | 2017-08-04 22:24 | 神社

第佰六 北海道神宮 北海道札幌市中央区鎮座

a0057057_22593110.pngほっかいどうじんぐう

鎮座地:北海道札幌市中央区宮ヶ丘474
祭神:大国魂神(おおくにたまのかみ)
   大那牟遅神(おおなむちのかみ)
   少彦名神(すくなひこなのかみ)
   明治天皇(めいじてんのう)
社格等:札幌神社、旧国幣小社、旧官幣小社、旧官幣中社、旧官幣大社、神社本庁別表神社、蝦夷国新一宮
本殿様式:神明造
由緒:(神社由緒書き)
 明治2年、当時「蝦夷地」等と呼ばれていた北海道は、日本の国土としてより明確にする為に、「北海道」と名づけられました。そして同じ年の9月1日に、明治天皇の詔(みことのり)(天皇のおことば)により、東京で「北海道鎮座神祭(ほっかいどうちんざしんさい)」を斎行(お祭を行う事)して、北海道の開拓・発展の守護神として、大国魂神・大那牟遅神・少彦名神の三柱の神々(開拓三神(かいたくさんじん)といいます)が鎮斎(ちんさい)されました。
 その御霊代(みたましろ)(神様が宿った依代。鏡や剣等々…)は東京から函館へ、そして札幌へと移されました。明治3年5月には仮社殿が建てられましたが、それは現在の鎮座地(神様の住まれる神社の建っている所)ではありませんでした。現在の位置に社殿が建てられたのは、明治4年のことで、この年に「札幌神社」と社名が決まりました。
 そして開国を決断され、西洋の文明を取り入れて現在に至る日本の礎を築かれた明治天皇を昭和39年増祀(ぞうし)(その神社にお祀りする神様が増えること)し、社名も「北海道神宮」と改称しました。
 約18万平方メートルの境内地は、桜の名所としても知られ、市民に親しまれていますが、現在の北海道神宮の社殿は、昭和49年放火に遭い、昭和53年に復興されたものです。

境内社:(由緒は、いずれも「神社案内」から)
開拓神社 かいたくじんじゃ
由緒:昭和十三年は北海道開拓七十年にあたり、北海道庁長官・石黒英彦は、記念事業として物故開拓功労者を祭祀するため開拓奉斎殿を建立し、同年八月十五日、開拓功労慰霊祭を執行しました。 続いて全道から奉斎神の申請を求め三十六柱が選考され、同年十二月三日に開拓奉斎殿の社殿を以って開拓神社として鎮座祭がおこなわれました。その後、昭和十五年九月六日に末社に指定され、昭和二十九年九月二十二日には帯広市長・佐藤亀太郎外の請願により、帯広の農聖といわれた依田勉三を合祀して三十七柱の祭神となりました。

札幌鉱霊神社 さっぽろこうれいじんじゃ
由緒:鉱山殉職者を慰霊する神社です。
 昭和十八年、札幌鉱山監督局五十周年記念事業として当時の局長・久保喜八の提唱によって同局の前庭に建立されたのが始まりです。戦後昭和二十四年、北海道神宮の境内に遷座しました。

穂多木神社 ほたきじんじゃ
昭和十三年、北海道拓殖銀行本店の屋上に同行の守護神として札幌神社の祭神を奉斎する神社です。併せて、北海道拓殖銀行の物故功労者の御霊を奉斎しました。昭和二十五年北海道神宮境内に遷座しました。
(「穂多木」とは「ほっかいどう・たくしょく・ぎんこう」の頭文字を清音化して字を当てたもの)。

境外末社:
北海道神宮頓宮 ほっかいどうじんぐうとんぐう
開拓三神を祀る。

この神社最寄りの駅・バス停:
札幌市営地下鉄東西線 円山公園(徒歩15分)
札幌ばんけい(ばんけい観光バス)もしくはジェイ・アール北海道バス 神宮前(停)

参考資料:
北海道神宮ホームページ
 http://www.hokkaidojingu.or.jp/
Wikipedia「北海道神宮」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%B5%B7%E9%81%93%E7%A5%9E%E5%AE%AE

現地参拝:11.3.13
記事投稿:29.7.23

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by fbox12 | 2017-07-23 23:01 | 神社

第佰伍 櫻山八幡宮 岐阜県高山市鎮座 

a0057057_23353859.pngさくらやまはちまんぐう

鎮座地:岐阜県高山市桜町178
祭神:八幡大神(応神天皇)
相殿:熱田大神(日本武尊命)
   香椎大神(仲哀天皇・神功皇后)
社格等:八幡神社、旧県社、神社本庁別表神社

概要:
秋の例祭は、春の日枝神社の例祭とともに高山祭として知られ、国の重要無形民俗文化財に指定されている。

歴史:
仁徳天皇65年、飛驒國に二つの顔を持つ宿儺(すくな)という賊が現れ、それを討伐するために派遣された難波根子武振熊命が戦勝祈願のために先代の応神天皇を祀ったのに始まると伝える。また、聖武天皇が諸国に設けた護国八幡だという説もある。江戸時代に金森氏が当地の領主となったとき氏神として当社を保護し、宮川以北の住民を氏子とした。明治時代に八幡神社に改称し、昭和7(1932)年に県社になる。櫻山八幡宮の名は戦後からという。境内に高山屋台会館があり、秋の高山祭に実際に曳き出される屋台が通年展示されている。近年、高山祭屋台会館と館名変更がなされている。
a0057057_23512439.png

参考資料:Wikipedia「桜山八幡宮」
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%9C%E5%B1%B1%E5%85%AB%E5%B9%A1%E5%AE%AE

現地参拝:-8.6.-8
記事投稿:29.7.18


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by fbox12 | 2017-07-18 23:54 | 神社

第拾九 三嶋大社 静岡県三島市鎮座

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a0057057_2028040.jpga0057057_20344412.jpg

a0057057_2192495.jpgみしまたいしゃ

鎮座地:静岡県三島市大宮町二丁目1-5
祭神:三嶋大明神(大山祇命、積羽八重事代主神)
社格等:式内社(名神大)、伊豆國一宮、伊豆國総社、旧官幣大社、神社本庁別表神社
社殿:本殿を流造とする総欅素木造複合社殿

a0057057_22122841.png静岡県東部の伊豆半島基部、三島市の中心部に鎮座する。境内は交通上の要衝に位置し、大鳥居前を東西に旧東海道、南に旧下田街道(現在、車両は南側から大社側へ一方通行)が走る。当地は伊豆國の中心部として国府のあった地で、古代には「國府(こう)」と称された。そして三嶋神が國府に祀られたのち、13世紀末頃から大社にちなんで地名も「三嶋」と呼ぶようになったとされる。
平安時代の『和名類聚抄』では伊豆國賀茂郡に「三嶋郷(みしまごう)」の記載が見える。

三嶋大社自身は創建時期、由緒ともに不明としているが、社名の「三嶋」とは伊豆大島や三宅島を含む伊豆諸島に対する尊称「御島(みしま)」に由来するとされる。主祭神は伊豆諸島の開拓神である。当社は、古代には伊豆諸島の噴火を畏れた人々から篤く崇敬された。中世に入ると、伊豆國の一宮とし*多くの武家からの崇敬を集めた。近世以降は三島が東海道の宿場町として発達したことに伴い、東海道を往来する庶民からも篤く信仰された神社である。
社は戦前「三島神社」と称したが、戦後は「三嶋大社」を称している。史料には次の呼称が見える。

 三島大社/三嶋大社 (『続日本後紀』)
 伊豆三島神社/伊豆三嶋神社 (『延喜式』神名帳)
 三島社/三嶋社 (『吾妻鏡』、北畠顕家文書、北条氏綱文書)
 三島宮/三嶋宮 (矢田部家文書等)

*「頼朝が三嶋大社を崇敬した。」「旗挙げを祈願した。」という由緒には、後世において書き加えられた感があり、筆者は否定的な意見を持つ(その理由については別の機会で記す)。
また余談ではあるが、頼朝のそばに居た藤九郎を「安達盛長・・」という標記をする文書があるが、藤九郎が安達姓を名乗ったのは、鎌倉の御家人を辞してからで、御家人となっても藤九郎盛長と呼ばれていた。

祭神について:
三嶋大社の祭神に関しては、古くは大山祇命祭神説・事代主神祭神説が存在した。
大山祇命説は、鎌倉時代の『東関紀行』に始まって『源平盛衰記』『釈日本紀』『二十一社記』『日本書紀纂疏』等の諸史料に見える説である。三嶋神が伊豫國一宮の大山祇神社(大三島神)に由来するという伝説に基づき、事代主神説が唱えられるまでは広く定着していた。
一方事代主神説は、江戸時代後期の平田篤胤の『古史伝』での主張に始まる説である。室町時代の『二十二社本縁』に「都波八重事代主神(中略)伊豆賀茂郡坐三島神、伊予国坐三島神同体坐云」とある記載に基づく。
江戸時代までの祭神は大山祇命とされていたが、幕末に篤胤の事代主神説が国学者の支持を得たため、明治6(1873)年に事代主神に改められた。その後大正期に入って大山祇命説が再浮上したため、どちらも本地に関わりが深いということから二柱説が昭和27(1952)年に制定されて現在に至っている。
近年の研究では、三嶋神は「御島神」すなわち伊豆諸島の神を意味するとして、上記2説とも後世の付会とする見方が有力視される。この中で、噴火の盛んな伊豆諸島で原始的な造島神・航海神として祀られたのが「ミシマ神」の始まりであるという。そして「ミシマ」の音から、後世に他の神に結び付けられたともいう。

社史:
創建
上記のとおり、創建は不詳とされる。後述のように『延喜式』神名帳には伊豆国賀茂郡(伊豆半島南部・伊豆諸島)の所在と記載され、現在地(当時は田方郡・・引用 Wikipedia 記載:筆者?)と相違することから、遷座説・郡名誤記説等の諸説が提唱されている。文献上で現在地の鎮座が確実なのは、『吾妻鏡』治承4(1180)年の記事からである。
現在通説として知られるのは、初め賀茂郡三島郷(郡名誤記説では伊豆諸島という説)、のち賀茂郡大社郷白浜(伊古奈比咩命神社付近か)、さらに田方郡小河郷の伊豆国府(現社地・・大仁田京国府説あり)へと遷座(一説に勧請)したとする説である。一方の郡名誤記説では、『延喜式』の記載を疑い、太古より当地に鎮座とする。以上のほか、「三嶋」の神名から伊豫國一宮の大山祇神社(大三島神)との関係を想定する説もある。

平安時代
史料の初見は天平宝字2(758)年で、その後国史では天長9(832)年の記事で、神異により三嶋神・伊古奈比咩命神(伊古奈比咩命神社)を名神となし、地2,000町に「神宮二院・池三処」を作ったという。同記事の3日前の記事では、日照りの原因が「*伊豆国神」の祟りであると記されているが、この「伊豆国神」は三嶋神・伊古奈比咩命神と同一神であるとも考えられる。
『続日本後紀』の記事よると、承和5(838)年7月5日夜に上津島(神津島)で激しい噴火が発生した。占いの結果、それは三嶋神の後后が位階(神階)を賜ったにも関わらず、本后たる阿波神(阿波咩命;阿波命神社)には沙汰がないことに対する怒りによるものだと見なされた。同記事では「後后」に関する具体的な言及はないが、これは伊古奈比咩命を指すとされる。この記事を受けて約一ヶ月後には、阿波咩命と物忌奈命(阿波神の御子神;物忌奈命神社)の神階が無位から従五位下に昇った。
その後、当社には嘉祥3(850)年に従五位上の神階が授けられたのち、仁寿2(852)年に従四位下、貞観元(859)年に従四位上、貞観6(864)年に正四位下、貞観10(868)年に従三位が授けられた。
延長5(927)年成立の『延喜式』神名帳では、伊豆國賀茂郡に「伊豆三島神社 名神大 月次新嘗」として、名神大社に列するとともに月次祭・新嘗祭で幣帛に預かった旨が記載されている。また、『延喜式』主税寮によれば、当社には「三島神料」として2,000束が下されていた。
承平年間(931年-938年)頃の『和名類聚抄』では伊豆国賀茂郡に「大社郷(おおやしろごう)」の地名が見えるが、これは伊豆三島神社・伊古奈比咩命神社に基づく郷名とされる。

*「伊豆国神」・・引用先の Wikipedia の記載であるが、筆者は、これを三嶋大社北遷前の地主神と考える。
下記若宮八幡の昔話のように、三嶋大社の北遷説が実際にあったとすれば、それに絡む形で排除されたものがあり、現在地に三嶋大社が存在する理由を定義するものであるが、決してそれが温和な方法でなかったことの表れではないだろうか。


現社殿は、嘉永7(1854)年11月4日の東海地震で罹災し、時の神主*矢田部盛治の指揮のもと、全国にて再建のための勧進を行い、慶応2(1866)年9月9日に本殿、幣殿、拝殿の完成を見た。その他境内主要建造物は、明治元(1868)年にかけて随時落成した。
社殿彫刻は、当代の名工小沢半兵衛・小沢希道親子とその門弟のほか、後藤芳冶良らによるもの。社殿彫刻としては高い完成度と美術的価値をもつ。平成12(2000)年に重要文化財指定を受けた。

*矢田部盛治(やたべもりはる):江戸時代末から明治時代はじめの三嶋大社神主(宮司)。社殿再興の他、大場川の治水工事、祇園原水路の開削など三島地域の開発に尽力した人物。境内には熱海市生まれの彫刻家澤田晴廣(:三嶋大社ホームページ、「政廣」の誤り)制作による盛治の銅像がある。

a0057057_208521.jpga0057057_20283274.jpg左:現総門
右:旧総門
(現芸能殿)

a0057057_11505955.jpga0057057_21315226.jpg左:神門
右:舞殿

a0057057_15205710.jpga0057057_15262975.jpg左:手水舎
右:神馬舎


a0057057_14374398.jpg昭和9(1934)年5月1日、文部省告示第181号により、文部大臣から国の天然記念物の指定を受けた。
学名は薄黄木犀(うすきもくせい)。薄い黄色の花をつけ、甘い芳香が特徴。


a0057057_19344499.jpg三島の昔話:
現在の三嶋大社は、平安中期以降に田方郡の国府近くに新宮として分祀されたとされる。現在地には元々若宮八幡があったが、三島明神が若宮八幡に「藁一把分の土地を譲ってくれ」と言い、若宮八幡がそれくらいならと了承すると、三島明神は藁の束を解いて輪にし、若宮八幡の広大な敷地を囲んで占有してしまったという伝承がある。現在、若宮八幡は三島市西若町にあるが、そのために三嶋大社に背を向けて建ったという(現在は三嶋大社の末社であり、向きは大社と同じ南向き、また、大社境内にも同名の摂社がある)。


摂社、末社
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by fbox12 | 2017-07-14 16:07 | 神社

第佰四 大神宮社 北海道沙流郡日高町鎮座

a0057057_21320730.pngだいじんぐうしゃ
別社名:富川神社(とみかわじんじゃ)

鎮座地:北海道沙流郡日高町富川東二丁目6-12
祭神:
 天照皇大神(あまてらすすめおおかみ)
 八幡大神(はちまんおおかみ)
 塩竃大神(しおがまのおおかみ)
社格等:旧村社
社殿様式:神明造

由緒:
文政2年4月、仙台藩士が協議の上、宮城県鹽竈神社より御分霊を戴き、胆振の白老に祀ったことに始まる。明治8年5月、石河仁兵衛・荒井直三郎らが中心となり沙流郡佐瑠太村に遷座、翌9年6月15日には村社に列せられている。丘の上の中規模の神社。社務所は道路の向かい側にある。白い石鳥居の右側にある社号には、富川神社となっている。

この神社最寄りの駅・バス停:
 JR日高本線富川駅から約3km
 道南バス富川元町下車

参考資料:北海道神社庁神社データベース
 http://www.hokkaidojinjacho.jp/datamain.html
現地参拝:60.7.-8
記事投稿:29.7.-9

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by fbox12 | 2017-07-09 21:41 | 神社

第佰参 浦河神社 北海道浦河郡浦河町鎮座

a0057057_15563560.pngうらかわじんじゃ

鎮座地:北海道浦河郡浦河町大通二丁目29番地
祭神:
 保食神(うけもちのかみ)
 大物主命(おおものぬしのみこと)
 市杵嶋姫命(いちきしまひめのみこと)
社格等:旧郷社
社殿様式:神明造

由緒:
寛文9(1669)年東蝦夷地の争乱が鎮圧され、この年に松前藩の将佐藤権左衛門が配下を遣わし讃岐の金刀比羅宮の御分霊を戴き、東蝦夷地鎮護の神として現浦河神社社務所付近に小祠を建立して奉斎したことに始まる。享和元年8月15日、更にこの場所に場所請負人佐野嘉右衛門が海上安全や豊漁などを祈念して、山城國紀伊郡伏見に鎮座する稲荷大明神の御分霊を戴き小祠を建立、また露冦により蝦夷地が騒然としていた文化4年、東蝦夷地に駐屯の南部藩が家臣一戸政尹を遣わし安芸國佐伯郡厳島町に鎮座する厳島神社より御分霊を戴き小祠を建立した。天保13年、この3祠を浦河の漁場支配人近江屋周助が現社務所山側に石屋根の社殿を造営し1社に合祀し稲荷神社と称した。明治8年、郷社に列せられる。明治25年に屋根の葺替えを行ったが、社殿の老朽化が進み同45年6月7日に許可を受け改修に着工、同年9月13日に竣功した。明治44年5月21日には神饌幣帛料供進神社に指定され、昭和6年5月12日には社名改称が認可され郷社浦河神社と称するに至った。
浦河市街地にあるため、参拝客も多く、町民多くの信仰を集めている。
平成22(2010)年に浦河神社の過去の神事であった「海上渡御」が約半世紀ぶりに復活した。


この神社最寄の駅・バス停:
 JR日高本線浦河駅より徒歩10分


参考資料:
 北海道神社庁HP
  http://www.hokkaidojinjacho.jp/data/13/13013.html
 Wikipedia「浦河神社」
  https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%A6%E6%B2%B3%E7%A5%9E%E7%A4%BE
現地参拝:60.7.-8
記事投稿:29.7.-6



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by fbox12 | 2017-07-06 21:04 | 神社