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第八拾九 真清田神社 愛知県一宮市鎮座

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a0057057_23571594.pnga0057057_23574850.png
a0057057_17345573.png鎮座地:愛知県一宮市真清田1-2-1
主祭神:天火明命(あめのほあかりのみこと)
社格等:式内社(名神大)、尾張國一宮、旧国幣中社、神社本庁別表神社
社名かな:ますみだじんじゃ
神階:
 六国史時代における神階奉叙の記録
  承和14(847)年11月11日、無位から従五位下 (『続日本後紀』) - 表記は「真清田天神」。
  仁寿元(851)年11月13日、官社に列す (『日本文徳天皇実録』) - 表記は「真清田神」。
  仁寿3(853)年5月22日、従五位上から従四位下 (『日本文徳天皇実録』) - 表記は「真清田神」。
  貞観7(865)年7月26日、従四位上から正四位上 (『日本三代実録』) - 表記は「真清田神」。
 六国史以後
  正一位 (『尾張国内神名帳』) - 表記は「真清田明神」。
a0057057_17302868.png本殿様式:三間社流造

概要:
愛知県北西部、一宮市の中心部に鎮座する。創建は詳らかでないが、古代に尾張地方を治めた尾張氏の奉斎に始まるとされ、尾張氏祖神の天火明命を祭神とする。中世には尾張国の一宮に位置づけられ、一帯の地名「一宮」はこの真清田神社の社格に由来する。現在でも一宮市の市章は真清田神社の神宝がモチーフとされるように、古くから一宮地域の発展に関わってきた古社である。
社殿は第二次世界大戦中の空襲で焼失したため、現在見られるものは戦後の再建になる。そのうち、本殿・祭文殿(さいもんでん)などは神社建築としての造形を評価され、国の登録有形文化財に登録されている。また国の重要文化財の木造舞楽面12面、朱漆器25点をはじめとして、多くの文化財も伝世する。そのほか、創建日とされる3月3日に行われる例祭は「桃花祭(とうかさい)」として知られる。

祭神について:
現在、真清田神社の祭神は上記の通り天火明命とされるが、かつては国常立尊祭神説や大己貴命祭神説など複数説が存在した。これらのうち国常立尊祭神説は、『真清田神社縁起(古縁起)』(室町時代末期頃成立)に記される説で、最も古い時代に遡る。国常立尊は神話では天地開闢の時に最初に現れた神とされ、『古縁起』では崇神天皇の時に国常立尊を勧請して祀ったとする。しかし近年では、同書が続けて真清田神社を日本中の一宮と主張していることから、伊勢神宮と比肩するために天照大神より古い国常立尊が持ちだされたものと考えられている。一方、大己貴命祭神説は『大日本国一宮記』に見える説で、出現は室町時代末期から江戸時代初期頃に遡り、諸文献に散見される。
これらに対して天火明命祭神説は、江戸時代に吉見幸和や栗田寛により唱えられたものである。天火明命は、『日本書紀』『古事記』の神話では天照大神の孫神(天忍穂耳命の子神)とされ、『先代旧事本紀』では饒速日命と同一視される神である。そしてこの天火明命に比定する説において、社名の「マスミ」が真清鏡(ますみのかがみ)のように鏡に関係する語であるとして、鏡作氏や尾張氏の祖神の天火明命が祭神だと想定された。しかしながら、尾張氏は尾張地方に広く勢力を持った氏族ではあるが、真清田神社との関係を示す文献・伝承は知られていない。
歴史的には、中世末期から江戸時代までは国常立尊祭神説が主流で、明治の時点での祭神は国常立尊のほか天照大御神・月夜見神・大己貴神・大竜王神の5柱となっていた。しかし『特選神名牒』において「天照大御神」が「天火明命(天照国照彦天火明尊)」の誤記と見なされ、かつ他の4柱が省略され天火明命1柱とされた関係で、以後は現在まで天火明命1柱説が採用されている。なお、『真清田神社史』では国常立尊祭神説を荒唐無稽としながらも、天火明命と大己貴命については、それぞれ尾張氏の祖先神と奉斎神(土地神)であった可能性を指摘する。
なお祭神の性格に関しては、過去の祭神に龍神が見えることから水神の性格が指摘されるほか、『赤染衛門集』の記述から農業神の性格も指摘される。

歴史:
創建
創建について現在の真清田神社社伝では、祭神の天火明命は大和国葛城地方(現・奈良県葛城地方)の高尾張邑を出て、神武天皇33年3月3日に当地で鎮祭されたのが始まりとする。
一方古文献では、真清田神社の創建に関して初代神武天皇の時とする説、第10代崇神天皇の時とする説の2説が知られる。
 神武天皇年間説
 『一宮神宮記』や『尾張国一宮伝記』など近世の文献に見られる伝承。両書では神武天皇年間、『尾張国名所図会』では神武天皇33年3月3日に祭神が「松降荘青桃丘」(現社地)に鎮座したとする。
 崇神天皇年間説
 神社に関する基本文献、すなわち『真清田神社縁起(古縁起)』(室町時代末期頃成立)と『真清探桃集』(江戸時代中期成立)に見られる伝承。現社地の「青桃之丘」は国常立尊の国土造成のゆかりの地とし、崇神天皇の夢想によりその縁で国常立尊を当地に奉斎したとする。

上記の文献はいずれも中世以降の成立になるため、これらの伝承の真偽や、神武天皇や崇神天皇の時期に淵源を求めた理由は明らかとなっていない。このうち神武天皇33年3月3日という年月日については、すでに存在した桃花祭(3月3日)から逆に創造されたとする説がある。これら文献を受け『真清田神社史』では、尾張氏が大和葛城地方から尾張に進出し、崇神天皇頃にあたる尾張氏一族の倭得玉彦命(『先代旧事本紀』「天孫本紀」に見える人物)の時期に神社が創祀されたと想定している。
社名「ますみだ」の語源は明らかでないが、後述のように文献では「真清田」「真墨田」の2種類の用字が存在する。この相違に関して、『延喜式』のみ「墨」の用字であることから、『延喜式』の表記が実は『弘仁式』(820年)の古い表記の踏襲と推測する説がある。歴史的には、その後は好字「清」の表記が定着した。なお『延喜式』神名帳では美濃国各務郡に村国真墨田神社(岐阜県各務原市)とも見え、真清田神社との関連が指摘される。

概史:
延長5(927)年成立の『延喜式』神名帳では尾張国中島郡に「真墨田神社 名神大」と記載され、名神大社に列している。また『尾張国内神名帳』(尾張国内神名牒)では、「正一位 真清田明神」と記載されている。
永万元(1165)年の「神祇官諸社年貢注文」に「尾張国一宮 八丈五疋」とあるのを初見として、平安時代末期以降に真清田神社は尾張国で一宮の地位にあったとされ、これは現在の一宮市の市名の由来にもなっている。一宮に次ぐ尾張国二宮は大縣神社(犬山市宮山)、三宮は熱田神宮(名古屋市熱田区)とされるが、神階・格式の点では熱田神宮の方が尾張国で最高位にあり矛盾する。この点については古来諸説が挙げられているが、今日では尾張国府との距離関係の反映とする説や、東海道における京からの位置関係の反映とする説が一般視されている。
真清田神社は古来多くの社領を有したが、それらは「真清田荘」として荘園化し、平安時代末には八条院領のうち安楽寿院領に含まれた。嘉禎元(1235)年の文献によると、社領は水田129町9反300歩、うち定田は96町120歩で、旧中島郡のほか葉栗郡・愛智郡・海東郡・海西郡一帯に分布したとされる。中世期の他の文書からも、社領が広範囲に渡った様子が指摘される。また天文年間(1532年-1555年)からは佐分氏が神職を務めるようになった(幕末まで世襲)。その後天正12(1584)年には大地震で社殿が崩壊し、豊臣秀吉に社領も没収されて社勢は衰えたという。
江戸時代に入ると徳川氏から庇護を受けて復興し、尾張藩主松平忠吉から社領200石の寄進、さらに寛永4(1627)年には藩主徳川義直から105石余の寄進を受け、336石6斗余の社領を有するようになったという。寛永16(1639)年には義直から細別を記した黒印状が下されたほか、寛文5(1665)年には四代将軍徳川家綱から朱印状が下されている。
明治維新後、明治18(1885)年に近代社格制度において国幣小社に列した。かつて「真清田大名神」「真清田大明神」「一宮真清田大神」「一宮大明神」と称された社名も、明治に現在の「真清田神社」に統一された。その後、大正3(1914)年に国幣中社に昇格した。戦後は神社本庁の別表神社に列している。

摂末社:
平成6(1994)年時点の摂末社は、摂社2社(境内2社)・末社36社(境内11社・境外25社)の計38社。
かつて室町時代には別宮4社(四所別宮)・末社88社があったというが、江戸時代の延宝年間(1673年-1681年)頃には末社45社(別宮不明)、『真清探桃集』(江戸時代中期)の頃には別宮は荒廃し末社10余社の状態であった。明治から大正にかけての摂末社整理ののち、昭和40(1965)年)に服織神社の新設、平成5(1993)年に三明神社の復興がなされたほか、境内外末社も変遷を経て現在に至っている。

摂社
三明神社
祭神:本宮荒魂
社名かな:さんみょうじんしゃ
別名「印珠宮」「三明印珠宮」。旧四所別宮のうち筆頭(第一別宮)。本殿裏手に鎮座。
「三明印珠宮」の別名は3種の印珠を蔵したことに由来するという。本宮の荒魂を祀るとして重要視され、桃花祭では本宮の山車(東車)とともに三明神の山車(西車)が出される。中世の古絵図のうちでは、本宮西側にある宝形造の寺院風建物に比定される。江戸時代頃には拝殿西側に独立して祀られていたが、大正元(1912)年に末社犬飼社に合祀され、平成5(1993)年に再び独立社として復興された。この三明神社に関しては、かつて7月7日に行われた吉祥祭が知られるほか、祭祀背景に仏教的要素が指摘される。

服織神社
祭神:萬幡豊秋津師比売命(よろずはたとよあきつしひめのみこと)
社名かな:はとりじんじゃ
本殿東方に鎮座。祭神は別名を「栲幡千千姫命(たくはたちぢひめのみこと)」ともいい、天火明命(本宮主祭神)の母神にあたる。一宮市が織物産業で栄えたことから、昭和40(1965)年に織物の神社として創建された。7月第4日曜前後の5日間の織物感謝祭は、昭和31(1956)年に始まるもので、現在は「一宮七夕まつり」として知られる。

末社:
現在の境内末社は次の11社。社殿はいずれも昭和20(1945)年焼失以後の再建。

神明社
玉垣内、本殿東側に鎮座し南面する。祭神は天照大神、品陀和気命。玉垣内に鎮座する唯一の末社であるが、古絵図では本殿横に末社の記載はなく、後世に文献の解釈を誤ったための鎮座とする説がある。大正元(1912)年に元々の神明社(天照大神)に旧摂社新八幡宮を合祀。

三末社 - 服織神社東側に3社を併祀。
天神社
 3社のうち西社。祭神は天神七代神、伊弉冉命、速玉男神、事解男神、訶遇突智神、市杵島姫神。明治44(1911)年から大正元(1912)年の間に旧第二別宮の七代宮(天神七代神)に愛宕社・熊野社・厳島社・新愛宕社を合祀。
犬飼社
 3社のうち中央社。祭神は犬飼神、底筒男神、中筒男神、表筒男神、神功皇后、猿田彦命、真神田曽根連、本宮荒魂、菊理姫命。大正元(1912)年に元々の犬飼社(犬飼神)に住吉社・三明神社(平成5(1993)年に境内摂社として分祀)・白山社・古守社を合祀。
愛鷹社
 3社のうち東社。祭神は愛鷹神、瀬織津姫神、速秋津姫神、速佐須良姫神、気吹戸主命、木花咲屋姫神。大正元(1912)年に元々の愛鷹社(愛鷹神)に祓戸社・浅間社を合祀。
愛宕社
 三末社東側、小山の上の3社のうち中央社。防火の神。
須佐之男社
 三末社東側、小山の上の3社のうち西社。祭神は須佐之男神。元は境外の神社であったが、明治23(1890)年に真清田神社境内末社に編入。
秋葉社
 三末社東側、小山の上の3社のうち東社。祭神は訶遇突智神。元は境外の神社であったが、戦後に真清田神社境内に遷座。
稲荷社
 楼門内東方に鎮座。祭神は倉稲魂命。元は境外の神社であったが、戦後に真清田神社境内に遷座。
厳島社
 境内南東の神池に鎮座。祭神は市杵島姫神。
八龍神社
 境内末社のうちでは最も新しい平成元(1989)年の創建。元は厳島社に祀られた龍神石が、神仏分離で日泰寺に移り、再び真清田神社に還ったときに創建された。
三八稲荷社
 祭神は倉稲魂命。元は「新稲荷社」として境内西北に鎮座したが、戦後に「三八稲荷社」に改称して現在地に遷座。社名「三八(さんぱち)」は、戦前まで真清田神社社前で開かれた織物中心の市「三八市」に由来する。
このほか、境外末社として25社が分布する。主なものとしては、旧第三別宮の神明社(一宮市真清田)・浜神明社(一宮市桜)、旧第四別宮の大神社(一宮市天王)・大石社(一宮市桜)、真清田神社社家の祖神を祀る古守社(一宮市松降)がある。『真清探桃集』では末社88社はいずれも境内社とし、これら現在の境外末社は「属社」の分類で24社を掲載する。これら境外末社は江戸時代には神職・社僧の控とされたが、その鎮座地はかつて中世期の真清田神社神領地であった可能性が指摘される。

この神社最寄りの駅・バス停
JR東海道本線 尾張一宮駅または名鉄名古屋本線 名鉄一宮駅
a0057057_2126939.png名鉄バスまたは一宮市コミュニティ(千秋ふれあい)バス 本町(停)
参考資料:Wikipedia(2016年12月15日)
記事:
 取材:28.12.28
 投稿:29.1.-9
 調整:29.1.17

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by fbox12 | 2017-01-09 23:58 | 神社