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D51形蒸気機関車

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D51形蒸気機関車は、日本国有鉄道(国鉄)の前身である鐵道省が設計、製造した、単式2気筒で過熱式のテンダー式蒸気機関車である。

主に貨物輸送のために用いられ、太平洋戦争中に大量生産されたこともあって、その所属両数は総数1,115両に達しており、ディーゼル機関車や電気機関車などを含めた日本の機関車1形式の両数では最大を記録した。この記録は現在も更新されていない。なお、一時的に籍を置いた1162 - 1166号機(→臺灣鐵路管理局DT678 - 682)を含めると1,120両になるが、この5両については通常はカウントの対象外とされる。
「デイチ」の愛称は、日本の蒸気機関車の代名詞にもなった。また、現場サイドなどでは、「デイチ」という愛称もある。

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昭和4(1929)年に始まった世界恐慌、その影響で日本国内で発生した昭和恐慌により、1930年代前半の日本における鉄道輸送量は低下していた。そのため、恐慌発生以前に計画されていた貨物用の新形機関車の製造は中断されていた。
その後、景気が好転して輸送量の回復傾向が顕著になってきたため、改めて新形の貨物用機関車が求められた。そこで昭和11(1936)年から製造されたのが本形式である。C11形のボイラーで実用化された電気溶接技術を応用して製造され、当時の設計主任である島秀雄は「多くの形式の設計を手掛けた中でも、一番の会心作」として同形式を挙げている。

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設計の基本となったのは、同じく軸配置2-8-2(1D1=ミカド)のテンダー式機関車であるD50形で、三缶胴構成の燃焼室を持たない広火室構造のストレートボイラーを搭載し、棒台枠を採用するなどの基本設計は共通である。ボイラー使用圧力は当初D50形の13kg/cm²に対して14kg/cm²と1 kg/cm²昇圧、シリンダー径を縮小しつつ牽引力の若干の増大を図っている。
また、リベット接合部を電気溶接で置き換えるなど、構造と工法の見直しを行って軸重の軽減と全長の短縮を実現し、全国配備が可能となった。最大動軸重を14.3tに引き下げ、これによりD50形では入線が困難だった丙線への入線が可能とされた。ただし、標準形以降は最大・平均共に動軸重が増大し、特に最大動軸重は最終的に15.11t(第4動軸)とD50形(14.99t(第1動軸))以上の値となっている。全長は初期形でD50形より571mm短縮された。フロントオーバーハングの大きいD50形は、退行運転や推進運転時に、軽量な二軸車を中心として連結相手を脱線させてしまう事故をしばしば起した。この問題は本形式で前部デッキと先台車の設計変更により改善が図られたが、その反面、先台車周辺の保守が困難になり、検修陣にはD50形と比して本形式を嫌う者も少なくなかった。また、先台車からテンダーの第4軸までの長さが17mを、前部端梁からテンダー後部端梁までが19mを、それぞれ超過するD50形は60フィート (18.3 m) 転車台での転向が難しく、通常は20m転車台での転向を必要としていた。この短縮により亜幹線クラス以下の路線に多数存在した60フィート転車台での転向が可能となったことは、本形式の運用範囲拡大に大きく貢献している。
戦時形ではボイラー使用圧力15 kg/cm²への引き上げがなされ、動軸重の増加も行って牽引力を増大した。初期形、標準形についても戦後に缶圧の引き上げと輪重増大改造が行われた。但し、燃焼室を装備していない為、他国の蒸気機関車と比較すると熱効率が良いとは言えない。
電気溶接の全面的な採用と共に動輪輪芯は箱形化され、形態的には同時期設計のC57形との共通点が多い。

本形式は製造時期と形態から三種に大分される。
a0057057_21224175.png初期形:D51 1 - 85・91 - 100
初期に製造された95両は、ボイラー上の砂箱と煙突の間に給水暖め器(エコノマイザー)をレール方向に置き、それらを覆う長いキセ(着せ=覆い)持つことが外観上の特徴である。その後の通常形ドームとの区別のため「半流線形形」、略して「半流形」と呼ばれるようになり、その形状から「ナメクジ」の通称もある。また、汽車製造会社製の22・23号機はドームがさらに運転台まで延びているため「全流線形形」、略して「全流形」、「おおナメクジ」、「スーパーナメクジ」と呼ばれている。なお、23号機はキャブ側面にタブレットキャッチャーを、ランボード上にナンバープレートを装着していた。この両機は後に保守上の都合等から通常の「ナメクジ」型に改装されている。また、このグループは運転台の奥行きが標準形に比して短い。文献によっては、設計主任の島秀雄の配慮により機関車を大きく見せるために通常よりも小さく作ったものであると記述されたものがあるが、D50形よりも前頭部を短くしたために後部が重くなってしまい、そのバランスをとるために小型化したものである。ゆったりした運転台を持つD50形に比べ乗務員の労働環境として劣悪で、「D50形では広い運転台の片隅に置いておいた弁当が傷むことはなかったが、狭いD51形の運転台では置いておいた弁当が(ボイラーの熱で)腐ることがあった」といった証言が残されている。また、第1動軸から順に軸重が14.99t・14.80t・14.79t・14.21tと第1動軸を重く第4動軸を軽く配分してあり、牽き出し時に重心が後へ移動することで各動軸の軸重が平均化されるため空転が発生しにくい設計だったD50形と比較して動軸の重量配分に明らかな不備があり、動軸重が第1動軸から順に13.17t・14.30t・14.23t・14.30tで列車牽き出し時などの過荷重状態で第1動軸の軸重が低下し額面上の性能向上にもかかわらず空転が頻発する傾向が強かったため、乗務員の評価は良くなかったとされる。
ナメクジ形は、構造上汎用形の集煙装置が取り付けられないため、配置が区別されており、標準形と同仕様へ改造された例も見られる。なお、この呼び名は当初は鉄道ファンの間での通称だったが、後には初期形D51を区別する呼称として国鉄内部でも用いられた。なお、山口線で蒸気機関車運転の復活が決定された際、D51 1が復活予定候補に挙がったが、集煙装置が取付不可だったために予定機から外された経緯がある。代わりに抜擢されたC57 1とC58 1には、巨大なD51形(標準形)用長野工場(現:長野総合車両センター)式集煙装置が搭載された。

a0057057_21351210.png標準形:D51 86 - 90・101 - 954
上記のとおりナメクジ形は重量配分が悪く、重量列車牽き出し時に空転が多発する傾向があり、本来一番重く設定されてしかるべき第1動軸の軸重が13.17tと第2 - 第4動軸に比して1t以上軽く、適正な重量配分ではなかった。そのため、昭和12・13(1937・1938)年に浜松工場で製造された86 - 90号機において改良試作が行われ、給水暖め器を煙突前に枕木方向に載せ、担いばねの釣合梁(イコライザー)の支点位置を変更して動輪重量の配分を可能な限り修正する、動力式逆転機を手動式に変更する等の設計変更が行われた。これによりナメクジ形で問題とされた点は概ね改善された。ただし、ナメクジ形と比較すれば改善されてはいたものの、先行形式であるD50形と比較すると動輪、とくに牽き出し時などに重心移動でどうしても実効軸重が低下する第1動輪の粘着性能が劣り(標準形の昇圧後で動軸重は第1動軸から順に14.73t・14.77t・14.95t・15.11t。つまり、1次形と比較して多少の改善はあったものの第1動軸から順に第4動軸まで軸重が順に増えていくという、重量列車や勾配線での列車の牽き出し時に問題となる軸重の配分状況に変化はない)、ボイラー圧力の引き上げなどによりシリンダー出力が増大していたこともあって、空転多発の一因となっていた。そのため、粘着性能の良否が直接列車の定時運行に影響する北陸本線や信越線などの勾配線では、敦賀機関区を筆頭に改良版であるこの標準形さえ忌避し、額面上の性能では劣るが空転しにくいD50形の配置を強く要望する機関区が少なからず存在した。これらの機関区に本形式が配置されるようになるのは、当時在籍していたD50形が戦時中の酷使で疲弊、老朽化し、他区からの転入による代替車両の確保が事実上不可能となってから、つまり本形式以外の選択肢が消滅して以後のことである。なお、本形式については戦時中以降、輸送力増強を図って動軸重の引き上げが許容され、フロントデッキなどにコンクリート塊の死重を搭載することで空転癖の改善が実現を見ている。また、標準形の導入を本格的に受け入れるようになった後、敦賀機関区では集煙装置を考案し、それを煙突上に搭載することで、煙害対策と併せてこの重心問題の改善を図っている。
その後昭和13(1938)年6月竣工の101号機以降はこの仕様で新製され、この姿が広くD51のイメージとして流布することとなった。
なお、このグループの一部、昭和18(1943)年度製造分以降では、除煙板(デフレクター)やナンバープレート、テンダーの石炭庫側板を木材で代用し、また煙室前部上方と煙室扉上部の丸みを省略するなど、金属資源節約と各部工程の簡略化が順次推し進められ、準戦時形と呼ぶべき仕様に移行した。戦後はこれらも徐々に標準形と同等の仕様となるように改修が行われている。

戦時形:D51 1001 - 1161
昭和19年度発注グループ(1944年から1945年にかけて竣工)は、上述の標準形後期やD52形と同様にランボードやデフレクターなどに木材などの代用材を多用、煙室前部上方と煙室扉上部の丸みの省略、ドームのカマボコ形化、といった簡素化など、より一層の資材節約と工期短縮を図った戦時設計とし、また上記の通り缶圧と動輪上重量の増大が行われて牽引重量増が図られた。このため新形式としてもよいところ、途中欠番を置いて1001から付番した。しかし、粗悪な代用材料の使用や、本来はリベット2列が基本だったボイラーなどの重要接合部をリベット1列にしたり、溶接不良などが原因でボイラー爆発などの重大事故が多発し、乗務員には「爆弾を抱えて運転する気分」などと酷評された。戦後、これらの車両は、代用材使用部品の正規部品への交換、状態不良ボイラーの新製交換などにより性能の標準化が行われたが、性能面に影響のなかった部位はそのまま存置され、カマボコ形ドームや炭水車の形状などに特徴が残った(なお、きわめて少数ではあるが、戦後の改装時に、炭水車を標準型と同じものに振り替えた例もある)。ごく一部の号機は、煙室前面と煙室扉上部の欠き取りもそのまま残されていた。

量産を進める段階で国内情勢が戦時体制へと突入し、貨物機である本形式に対する需要が非常に大きくなったため、国内の大型機関車メーカー5社と国有鉄道の工場(工機部)のうち8工場が製造に参加し、昭和15(1936)年から20(1945)年までの間に1,115両もの多数の車両が製造されることとなった。そのうちの8両については、鐵道省の発注ではなく、私鉄の戦時買収や南樺太の内地化にともなって省へ編入されたもの、外地向けのものが戦況の悪化にともなう制海権喪失により発送できなくなり、鐵道省籍を得たものである。また、955 - 1000は欠番となっているが、戦時型を1001から付番し番号で区別したためである。そのため、鐵道省所有機のラストナンバーは1161である。

これらの他、戦前から臺灣總督府鐵道向けに製造されたものが32両(昭和19(1944)年製の5両は、一時的にD51 1162 - 1166として借入使用された)、戦後にソビエト連邦サハリン州鉄道向けに輸出されたものが30両、国連軍に納入されたものが2両、さらに昭和26(1951)年に臺灣鐵路管理局向けに輸出された5両が存在する。これらを合わせると、D51形は1,184両製造されたことになる。

戦後、軍需貨物輸送の事実上の消滅と食糧難に起因する買い出し等による旅客の激増により、戦時中とは貨客の輸送需要が完全に逆転した。これに伴い、戦時中に最優先で量産されていた車齢の若い貨物用機関車が大量に余剰を来す一方で、旅客用機関車は昭和17(1942)年以降製造されておらず、21(1946)年から翌22(1947)年にかけて急遽C57形32両とC59形73両が製造されて不足が補われ、以後も順次旅客用機関車を増備して旺盛な旅客需要に対応することが計画されていた。実際にもC57・59両形式の追加生産が継続的に実施されており、23(1948)年の段階で機関車メーカー各社は大量の仕掛品在庫を抱えていた。
だが、その後は預金封鎖が断行されるほど逼迫していた政府財政に起因する予算凍結が実施され、国鉄は機関車の自由な新規製造が不可能な状況に陥った。そのため、なおも不足する旅客用機関車を確保すべく、昭和23(1948)年にGHQ側担当将校デ・グロートの助言に従い、本形式のボイラーを活用し、C57形相当に従輪1軸を追加した軸配置、すなわちC57形のパシフィックからC60形やC62形と同様のハドソンとすることで重量増に対応する走り装置と組み合わせた、C61形旅客用機関車が33両製造されている。
また、昭和35(1960)年には地方線区への転用のため6両に軸重軽減の改造が施され、新形式のD61形となっている。

D51形は、全国の幹線・亜幹線に普及し、至る所でその姿は見られた。ただし、四国では土讃本線限定で使用された。貨物用のため地味な存在だったが、中央本線(中央東線・中央西線とも)や函館本線の”山線”区間(長万部 - 小樽間)などのように急勾配区間の多い路線では、急行をはじめとする優等列車を含む旅客列車の牽引に使われることも多く、羽越本線などのような平坦路線でも旅客列車牽引に使われた例があった。D51形は軸重が重いため、多くは東海道本線や山陽本線、東北本線などの幹線の貨物列車を中心に牽引した。中にはお召し列車を牽引した車両や、新鶴見操車場や吹田操車場などの基幹ヤードでハンプ押上げ用(貨車の入換えのため、一旦高いところへ押し上げること)として使用された車両もある。

運転・保守両面では一部勾配線を除き概ね好評を博し、全国的に鉄道車両の保守状態が劣悪だった第二次世界大戦終結直後でも、D51形は9割を超える車両が稼働状態にあったといわれる。

しかし、本来の使用目的である重量貨物列車牽引においては、出力の増大と入線範囲拡大を目的とした動軸重の減少、それに車体長短縮などの設計上の無理に起因する不適切な動軸重配分によって、上り勾配での牽き出し時に空転しやすい傾向があり、勾配線では基本となったD50形の方が有利な局面が多々存在した。また、車体長短縮のために生じた前後方向の重心位置のアンバランスを運転台の小型化で是正しようとするなど、乗務員の作業環境を無視した設計となっていたため、運転台が広くしかも乗り心地に優れるD50形を運用していた各区からは酷評を受けた。中でも初期型(ナメクジ型)の評価が特に低く、事例として1・2号機をはじめとする初期型の新製配置先だった敦賀機関区や松本機関区、それに木曾福島機関区などの各機関区は一旦は初期型を受け入れたものの、ほぼ例外なく2年前後、最短では約10か月で他区へ転出させ、その後は戦時中など他に選択肢が存在しない状況になるまで、初期型を受け入れない対応を行っていた。標準形が浜松工場で急遽試作され、重心位置を修正し、空転問題を多少なりとも改善した背景には、これら勾配線担当各区の受け取り拒否に等しい厳しい対応が影響している。

さらに前記の各区は標準形についても否定的で、一例として上諏訪機関区では昭和16(1941)年にD51形が3両新製配置されたが、その年のうちに全数を他区へ転属させてD50形に戻している。これに対して平坦線を担当する各区は稲沢機関区を筆頭に否定的な反応を示しておらず、高速走行時の脱線対策が採られていたこともあって比較的スムーズに導入が進んだ。

戦時中にはボイラー増圧に伴う空転対策が必要となったことから、平坦線各区に配置された車両を含め、本形式は初期形を中心にコンクリート製の死重をフロントデッキに搭載するなどの対策が講じられている。

国鉄形蒸気機関車の中でも特にその末期まで残存した両数の多さと、知名度の高さにより、「名機」、「代表機」、「代名詞」などと表現されることもある本形式であるが、実際には前述のように基本設計レベルで深刻な問題を抱えており、その広範な運用と知名度は、戦時体制に伴う貨物機大量需要から来た膨大な量産の結果に過ぎなかった。

電化やディーゼル化の影響による余剰廃車が本格的に出始めたのは昭和42(1967)年頃からのことで、最後に残ったのは北海道の追分機関区に所属していた5両。C57 135牽引(現:鉄道博物館所蔵)の国鉄最終蒸機牽引旅客列車運転から10日後の昭和50(1975)年12月24日まで使用され、この日は241号機が担当した。これが国鉄における蒸気機関車牽引の最終貨物列車(夕張線6788列車)並びに国鉄最後の蒸機本線走行となった。
蒸気機関車の代名詞でもあったD51形は、廃車、除籍後実に178両が全国各地の鉄道保存展示施設、博物館、公共施設、学校、公園などで静態保存されることとなった。そのうち187・488・745号の3両は準鉄道記念物に指定されている。
また、現在動態保存機として、JR東日本の498号機(2段目写真:昭和63(1988)年復元)。JR西日本 200号機(4段目写真:梅小路蒸気機関車館に保存されており、車籍も有するが、全般検査を受けていないため本線走行はできず、館の展示線での展示運転(SLスチーム号)のみ。車籍は昭和54(1979)年にいったん抹消(有火保存)されたが、昭和62(1987)年に復活している)がある。

(以上、記事内容Wikipedia-26.7.30更新から)
(53車22)
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by fbox12 | 2014-07-31 20:48 | 鉄道・バス