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fbox12 blog (博物館fbox12 館長の資料収蔵庫)

33 左内神社(さないじんじゃ) 静岡県三島市鎮座

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        (写真:境内に安置されている明治37(1904)年、沈没船から引き上げられた大砲)

33 左内神社(さないじんじゃ) 静岡県三島市鎮座_a0057057_222551.jpg33 左内神社(さないじんじゃ) 静岡県三島市鎮座_a0057057_22974.jpg33 左内神社(さないじんじゃ) 静岡県三島市鎮座_a0057057_2231246.jpg
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鎮座地:静岡県三島市中島字西310-2
御祭神:阿米都瀬氣多知命(豐磐窓命)
社殿:本殿流造、拝殿入母屋造
33 左内神社(さないじんじゃ) 静岡県三島市鎮座_a0057057_8543623.jpg境内社:山神社

由緒:
社伝には、本社は古く天地明神又、阿米都知神社と称し、梅名川(殿川)を挟み、東岸に当社、西岸に右内神社が鎮座する。
当社と右内神社は「三嶋大社御門左右ノ守護神」であり、下田街道の左右に鎮座する。
旧社地は、君澤郡中島村字園田(現社地から北東300mの「手無(テナシ)」というところ)であったが、明治19(1886)年の火災に罹り建物を焼失。翌20(1887)年、現在地に遷座した。
一説に、「左内、右内の両神は稲生沢柿崎(現下田市)武山権現より移り、三嶋大社御門の守護として相対して鎮座す。」と。また、社伝には、本社こそ延喜式田方郡阿米都瀬氣多知命神社であると云う。
正徳五乙未五月廿八日上梁文に「左内之神社、文化十四丁丑年三月上梁文に天地宮又阿米都瀬神社と見ゆ」と云う。
明治6(1883)年9月村社に列す。明治40(1907)年6月21日神饌幣帛供進社に指定された。

昔の左内神社:
33 左内神社(さないじんじゃ) 静岡県三島市鎮座_a0057057_2038407.jpg33 左内神社(さないじんじゃ) 静岡県三島市鎮座_a0057057_20542862.jpg
上記神社の由緒に、明治期に通称「手無」に鎮座していたものが火災により焼失し、現在のところへ遷座したと書かれている。
上写真は、その跡とされる碑で、静岡県企業局東部事務所柿田川支所(駿豆水道中島浄水場)の前にある(建立年月:昭和49年11月)。

33 左内神社(さないじんじゃ) 静岡県三島市鎮座_a0057057_2039337.jpgまた、左写真は、それより北にある手無地蔵(観音堂)で、平成8(1996)年3月にかかれた市教育委員会の説明書きには、

「昔、この地に建っていたといわれる[神社]は、森に囲まれていたが、年代が不詳だが焼けてしまった。この荒廃した跡にお堂が建った。これが手無地蔵である。この地蔵堂には次の様な伝説がある。昔このお堂のそばに石地蔵があったが、よく化けては人をおどろかせていた。ある日いつものように化けて、若侍の髪を引いたら、逆にその若侍に左手を切り落とされてしまった。このため手無地蔵といわれるようになったといわれる。」
(追記、「なおこの若侍は源頼朝であると言い伝えもある。」)

この跡地とする碑と地蔵堂は、直線距離で500mほど離れている。
いずれも、下田街道の東側なので、街道をはさんで某大社の右と左の門の守護神である。という説は、それなりに筋は通っているのだが、その位置関係から判断すれば、あまりにも至近な距離(歩いてはいくらか距離があるが)にあり、いかにも後世になって取って付けた説であるように思えるのである(神社名の右・左はあくまで某大社から見ての方向で付けられている)。

(以上、記事内容「田方神社誌」他から)

この神社最寄の駅または停留所:
伊豆箱根鉄道駿豆線・大場
 同大場駅から三島市100円バス「なかざと号」・大場中島または中郷交番前停留所
by fbox12 | 2016-05-18 21:15 | 神社