fbox12 blog (博物館fbox12 館長の雑記帳)

C62形蒸気機関車

a0057057_21434824.jpg国鉄C62形蒸気機関車は、日本国有鉄道(国鉄)の旅客用テンダー式蒸気機関車である。

a0057057_2153369.jpg昭和23(1948)年から翌年にかけてD52形蒸気機関車(右写真)の改造名義で49両(日立製作所21両・川崎車輛(現在の川崎重工業車両カンパニー)15両・汽車製造13両)が製造され、東海道本線、山陽本線など主要幹線の優等列車牽引に使用された。通称シロクニ。

終戦当時、国鉄(当時は運輸省)には戦時物資輸送用の貨物用機関車が大量に在籍していたが、これらは終戦とともに大半が余剰となった。一方で、旅客用機関車はかなり不足していた。これに加え、増える一方の買出しも、旅客用機関車の不足にさらなる拍車をかけた。しかし占領軍の方針や資材の不足もあり機関車の新製は困難だった。
そこで、GHQ側担当将校デ・グロートの助言に従い、余剰となっていた貨物用機関車のうち一部の車両のボイラーを旅客用機関車に転用することとし、ボイラー以外の部分は既存の旅客用蒸気機関車の設計を流用して組み合わせた機関車を『改造』名義で製造することになった。財政難で発注がキャンセルされたC57・C59形(戦後型)のメーカー仕掛部材救済が目的の一つであり、鋳造台枠を削って無理やり収めた2軸従台車の設計や、本形式の49両という中途半端な製造両数もこれに起因している。なお、D52より転用のボイラーは、戦時製造のため信頼性が低く、少数の早期廃車機を除いては後に新製ボイラーに換装されている。
全長は、炭水車を含めて21.48m。重量は145.2t。走り装置はC59形を基本とし、動輪直径もC59形と同じで国内最大となる1,750mm。軸配置は、従来の2-C-1(先輪2輪+動輪3輪+従輪1輪の意味)のパシフィック形では軸重が特甲線の上限を超過してしまうため、従輪を2軸とした2-C-2(先輪2軸+動輪3軸+従輪2軸の意味)のハドソン形として動軸の軸重を許容上限である16.08t以下に収めた。また、この従台車の支点の位置を変え、先台車の板バネ枚数を16枚から17枚に増やしバネ定数を変更することで動軸の軸重を甲線対応の14.9tへ引き下げることが可能で、この軽軸重化は新製時から軽軸重形として製造されたものと、完成後の配置機関区の変更の際に軽軸重化されたものとを合わせて26両に施工された。これら軽軸重形は白河駅以南の東北本線や、仙台駅以南の常磐線で使用されたほか、末期には、電化の進展で余剰を来たした通常形を軽軸重形に改造の上で、軽軸重形の需要があった函館本線に転用している。
本形式の製造は、治具や生産ライン、それに在庫の仕掛り部材の関係で、C59形の製造に携わった日立製作所笠戸工場(1 - 21号機)、川崎車輌兵庫工場(22 - 36号機)の2社が当初指定され、これに続いて車両需給の関係でC61形の発注をキャンセルされた汽車製造大阪製作所(37 - 49号機)がそれに対する救済措置の意味合いを含め、追加で指定された。この経緯から、本形式の設計は試作機としての役割を持つ1 - 4号機を担当した日立製作所の意見が強く反映されており、日立製量産機と川崎車輌製はこれに準じて製造された。これに対し、汽車製造が担当した37号機以降は、基本的には36号機以前と共通設計ながら、同社技術陣の美意識によって、日立・川崎製とは異なる個性の強い外観とされた。
ボイラーはD52形からの転用であるため缶胴寸法は同一で、煙管長は5,000mm、燃焼室付きである。
炭水車は当初C59形の戦後形に用いられたものと同一の石炭10tおよび水22tを搭載可能とする10-22形が連結されていた。2 - 4号機で旧満鉄向け機材の転用による自動給炭機(メカニカルストーカー、動力部は炭水車に装備)装備試験を行った結果、好成績が得られたため、国鉄・汽車製造・ダイハツ工業の共同による動力部を機関車取付けとしたものが開発された事から5号機以降でこれが制式化され、炭水車も10-22S形(Sはストーカーを意味する)に変更された。ただし、初期製造分は自動給炭機の完成が遅れ、非搭載のまま就役している。
本形式は大直径動輪の上、破格の大型ボイラーを搭載したため、車両限界への抵触が心配された。そこで、煙突は太く短めのものとし、ボイラー上の機器類等は扁平なものとなった。また、汽笛も限界内に収まるよう、後方に傾斜して取り付けられている。
ストーカー使用前提で定められた燃焼率600kg/m²時の最大出力は1,620PSで、これは母体となったD52形の1,660PSに次いで日本国内では歴代第2位である。また、動輪周馬力で比較すると、本形式はC59形に比して1.2倍以上という圧倒的な高出力を実現している。実際に新造開始直後山陽本線糸崎駅 - 八本松駅間で実施された、ボイラに燃焼室を持たない長煙管の戦前型C59形との性能比較試験では、同一条件下で石炭消費量が20パーセント以上節約されるという好成績を収めている。これはC59形よりもC62形のほうが定格に対して低負荷となり缶効率が良いためである。

昭和23(1948)年から翌24(1949)年の間に完成したC62形49両は、広島、広島第二、糸崎、下関、岡山、姫路、宮原、梅小路(以上は東海道本線・山陽本線沿線の各機関区)、宇都宮、尾久(以上は東北本線沿線の機関区)に分散配置され、既存のC59形と共通運用で運転が開始された。そのほとんどが当初各メーカーに近い機関区に配置された。これは納品後の不具合洗い出しと、運用に当たる乗務員・各機関区の保守陣の習熟が目的と見られる。

運用:
東海道本線・山陽本線(呉線を含む)
昭和25(1950)年10月改正では、東京駅 - 大阪駅間の特急「つばめ」・「はと」を従来より1時間短縮した8時間で運転することとなり、運転曲線と牽引する客車の換算両数が再検討され、C59形では性能的に限界に近いと判断された。このため当時東海道・山陽本線で運用されていたC62形各車のうち、特に調子の良いものが宮原・浜松両機関区に集められ、これらを整備の上、当時非電化の浜松駅 -京都駅間から戦前に電化されていた大阪駅までの牽引に充てることとなった。宮原機関区の中でも29号機をはじめとする好調機、普通機、2号機などの不調機と、識別のためにそれぞれナンバープレートの色を変更した上で3グループに分けられ、トップグループから優先的に急行客車牽引に充当された。
東海道本線の電化区間が西に伸びるに従って、本形式をはじめとする本線用蒸気機関車の運用区間は、その分短縮されていったが、昭和31(1956)年11月19日の東海道本線全線電化完成により、その座をEF58形電気機関車に譲るまで、「つばめ」・「はと」の牽引機を務めた。
以降も、本形式は山陽本線において京都駅 - 博多駅間の特急「かもめ」や寝台特急「あさかぜ」などの、当時を代表する優等列車の牽引に充当された。昭和33(1958)年8月14日に岩国市付近の踏切にて、上り特急「かもめ」を牽引していた4号機と進駐軍のトレーラートラックが衝突する事故があり、同機はC62形最初の廃車機となっている。
しかし、幹線電化の進展によって動軸重の大きな本形式の運用範囲は次第に狭められていき、昭和39(1964)年10月には山陽本線の全線電化完成に伴い定期特急運用が一旦消滅、その後は山陽本線と同様に特別甲線規格の呉線経由で運転されていた急行「安芸」などの呉線内(糸崎駅 - 広島駅間)での列車牽引にC59形と共に充当され続けた。もっとも、この運用も呉線の全線電化が完成した昭和45(1970)年9月末日には電車・電気機関車で置き換えられて終了となり、最後まで残った糸崎機関区への配置がなくなった。この日をもって、本形式1号機(上写真)の新製配置以来22年に渡った、東海道・山陽本線系統での運用に終止符が打たれた。

東北本線・常磐線
新製から数年間は東北本線の白河駅以南と常磐線において運用されていたが、東海道本線の電化が進んだことから昭和30(1955)年以降C59形が仙台駅以南の東北本線用として転属してきた。このため、本形式は昭和29(1954)年9 - 11月にかけて尾久・平の両機関区に転配され常磐線を中心に運用されることとなった。なお、1960年代の初めごろまでは、朝・夕の通勤・通学時間帯に運転される東京駅乗り入れの常磐線の普通列車(正確には、東京側の始発・終着駅は新橋駅)を牽引していたこともある。
昭和33(1958)年には新設された特急「はつかり」の上野駅 - 仙台駅間(常磐線経由)の牽引機に抜擢されたが、特急「はつかり」は、運転開始後わずか2年の昭和35(1960)年に、新開発のキハ80系気動車へ置き換えられて、一時は本形式による特急仕業が消滅したが、その後も常磐線内では尾久・平の両機関区に引き続き本形式が配置され、「みちのく」・「十和田」といった客車急行牽引の主力機として重用された。
もっとも、昭和38(1963)年に常磐線の平駅(現在のいわき駅)以南の交流電化工事が完成し、尾久機関区配置の本形式による運用はEF80形電気機関車によって置き換えられた。このため、常磐線系統における本形式の運用は、以後、平駅 - 仙台駅間のみとなった。電化の進展により余剰となった尾久機関区配置の一部は水戸機関区を経て仙台機関区に転属し、一時は東北本線の仙台駅 - 青森駅間の旅客列車を牽引することも検討され、同じ目的で42号機も小樽築港機関区から転属した。だが、保線側から本形式の入線による軌道への悪影響が懸念されたことや、既にDD51形ディーゼル機関車の量産が始まっていたこともあり、実現には至らなかった。そのため、仙台機関区に配置された本形式は仙台近郊や常磐線で一部の列車を牽引する以外に目立った運用もないまま、昭和40(1965)年度中に全車廃車となっている。なお、軽軸重仕様のC62形の動軸重は同区間で運用されていたC60形・D62形とほぼ同一だった。
その後、昭和40(1965)年の東北本線盛岡駅電化の際に急行「北斗」の格上げで新設された20系客車による寝台特急「ゆうづる」(5・6列車)は所要時分短縮のために平坦な常磐線経由で運転されることとなり、非電化のままの平駅 - 仙台駅間については平機関区配置の本形式がその牽引機に抜擢されることとなった。以後、本形式の全廃までの間に本形式が配置された各線区で寝台特急が新規設定される事例はなかったため、この「ゆうづる」は本形式が牽引する最後の定期特急列車となった。
なお、この「ゆうづる」には「夕日をバックに飛翔する鶴」を描いたヘッドマークが掲げられていた。
新設時の「ゆうづる」は当時最新かつ軽量構造の20系客車を用い、総重量410tと比較的軽量の編成となっており、新製時の性能査定に基づいたダイヤ編成では特に問題なく運用可能のはずだった。だが、運転開始時点でC62形は既に車齢16年以上が経過し、しかも平機関区へ配置されていた12両はいずれもコンディションが決して良好とは言い難かった。そのため、比較的平坦な常磐線とは言え、平から仙台までの150kmを無停車のまま2時間15分(上り:表定速度約67km/h)で走破する、新製直後のグッドコンディションを前提とした性能査定に基づく厳しいダイヤ設定から、この「ゆうづる」は定時運行維持が困難と予想され、運転開始前の昭和40(1965)年9月に20系客車予備車を用い、田端操車場と青森駅の間で本運用に準じたダイヤでの試運転が実施された。この試運転の結果、通常使用されている石炭では火力不足から所定のダイヤでの運転が困難で、しかも仙台到達時点で石炭も水もほとんど使い果たすという非常に厳しい状況であることが判明した。このため営業運転の際には特にこの「ゆうづる」の運用に限り、北海道夕張産の、高カロリーかつ排煙の少ない良質粉炭とピッチを混合・成形したもので、乗務員からは特級(急)豆炭と呼ばれた甲種練炭限定搭載として機関車性能の底上げが行われ、また、ダイヤ上もあらかじめ設定されていた3パーセントの余裕時分を最大限に活用することで、かろうじて定時運行の維持が図られた。
こうして老朽化した本形式を用いて限界ぎりぎりの運用を実施した「ゆうづる」も、運転開始から2年後の昭和42(1967)年10月1日には同区間の電化完成でED75形の牽引に切り替えられた。電化工事そのものの完成は同年7月30日であり、客車急行や一部普通列車は、順次、ED75形の牽引となり、特急「ゆうづる」も徐々にED75形の牽引に切り替えられたが、9中旬に線内で起こった土砂崩れの影響で、電化に伴う新線切り替え区間が不通となったため、やむなく非電化の在来線に戻して列車運行を実施、この関係で「ゆうづる」は復旧作業中の約1週間にわたって全列車が本形式での牽引となった。その後、下り5列車はED75形牽引に戻ったが、ダイヤ改正前の9月30日まで上り6列車は本形式による牽引が維持された。
その後、平機関区に最後まで在籍した本形式12両は、状態が比較的良好な5両が呉線を担当する糸崎機関区へ転属、不調気味の6両が昭和42(1967)年11月24日に除籍、解体となった。保存が検討された本形式ラストナンバーの49号機は、一時保留とされ平機関区に保管されたが、結局、引き取り手が見つからず、昭和43(1968)年6月13日に除籍、解体処分に付されている。

a0057057_8491962.jpg函館本線
東海道・山陽本線の電化が進展しつつあった1950年代後半、北海道の函館本線で運行されていた対本州連絡急行は、特に急勾配と急曲線が連続する長万部駅 - 小樽駅間の通称・山線区間でのD51形重連運用と、函館駅 - 長万部駅間の通称・海線区間での高速運転により乗務・検修の双方に多大な負担を強いていた。前者の形式はストーカー非装備だったことから機関助士2人による人力投炭を強いられた。後者は振動と各回転部の異常磨耗で検修陣に負担がかかっていた。
そこでそれらの諸問題の解決策として、所要両数に余裕が生じ、不調機から保留車が出始めたC62形を、軽軸重形に改造の上で転用投入する案が持ち上がり、まず昭和31(1956)年9月に3号機が梅小路から発送され、苗穂工場に入場、軸重軽減改造の上で試験運行が実施された。その結果は良好で、破格の大形機故に危惧されていた軌道負担増大の問題についても、保線側で充分対応可能な範囲に収まったことから、翌32(1957)年の初頭に好調機は山陽本線を担当する各区へ配置し、その選に漏れた不調気味の余剰車から函館本線へ転用する方針の下、宮原機関区所属で保留車となっていた、東海道時代に除煙板につばめマークを取り付け人気を集めた2号機(写真)を含めた6両が選出され、D52形から流用されていた戦時設計による粗製濫造ボイラーの新製交換と、軸重軽減改造とを施工した後、小樽築港機関区へ転属の手続きがとられた。
小樽築港機関区への配属後の本形式は、函館本線で「大雪」、「まりも」、「ていね」→「ニセコ」などの急行列車牽引に使用され、最も過酷な使用条件の山線区間の急行運用はD51形による重連からC62形重連、または前部補機D51形と本務機C62形による重連に変更された。この運用では、つばめマーク付の[C62 2]が重連の先頭に立つことが多かった。これはファンサービスが目的ではなく、前補機は長万部駅でその日のうちに折り返して検修陣の待つ小樽築港機関区に帰着できるためである。つまり、翌日まで基本的に検修がノータッチとなり、しかも海線での高速走行を行う本務機と比較して、運用による負担が軽いため、後述のとおり東海道時代から不調気味で乗務員から信頼の薄い2号機を前補機として限定運用することは、検修側、運用側の両者にとって望ましかったとされる。一方で32号機と44号機は好調機と評価され、優先的に本務機の運用に充当されたことが知られている。急行「大雪」のC62形牽引時代末期には、通常期に客車が減車されたため、多客期以外の同列車では基本的に単機牽引となっている。
昭和45(1970)年には好調故に本務機に多用され、走行キロ数が伸びていた32号機と44号機がディーゼル機関車への置き換え計画実施まで1年を残して全般検査周期に到達、検査を実施するよりも期限未到達の余剰車を改造するほうが大幅に安価ということで、2両とも廃車とし、代機として呉線電化で余剰となり、検査期限まで1年以上期間が残っていた、当時、糸崎機関区に所属の15・16号機を、交換が必要な従台車は32・44号機からの廃車発生品を流用し軸重軽減改造の上で転属させ、残りの1年間使用し、昭和46(1971)年末に廃車となっている。
一時期は間合い運用で、函館駅 - 札幌駅間の夜行準急・急行「たるまえ」→夜行急行「すずらん」(いずれも室蘭本線・千歳線経由)の函館駅 - 長万部駅間や、函館駅 - 網走駅間(函館本線・石北本線経由)の夜行準急・急行「石北」の小樽駅 - 旭川駅間の牽引も担当するとともに、優等列車ばかりでなく、函館本線の普通列車の一部も牽引した。なお、急行「石北」の前身は同じ区間で運転されていた夜行準急「はまなす」。昭和43(1968)年10月のダイヤ改正以降の札幌駅 - 網走駅間の夜行急行「大雪6・6号」→昭和53(1978)年10月のダイヤ改正以降の夜行急行「大雪5・6号」→ 昭和55(1980)年代中期以降に夜行1往復のみとなった急行「大雪」→平成8(2006)年3月のダイヤ改正で臨時列車となった夜行特急「オホーツク9・10号」の母体となった列車である。
最後まで重連運転の残った「ニセコ」も、昭和46(1971)年の7月18日・8月22日・9月15日の3回に分けて実施された三重連運転を最後にDD51形ディーゼル機関車に置き換えられ、大幅にスピードアップされ、高速運転する海線で、わずか140kmあまりの区間ながらも、約30分ほど所要時分の短縮が実現した。これは、動輪周出力で同等ながらも機関車自体の重量が約50t軽くなったこと、粘着引張力が1.3倍になり低速での加速力を増したことなどによる。
その後は小樽駅 - 長万部駅間の普通列車運用に充てられていたが、翌47(1972)年秋に2号機は動態保存先の梅小路蒸気機関車館へ転属となった。本来は現存最若番車を保存する方針だったが、ツバメマークによる人気から、C62形では1号機が現存していたにもかかわらず、2号機が選定された。ほかに3号機が臨時列車用として残ったが他の同形機は廃車解体となった。その後、一時休車状態にあった3号機が昭和48(1973)年の一時期に函館本線の小樽- 長万部間の普通列車を牽引したことがあった。しかし、この3号機も函館本線の小樽駅 - 長万部駅間の完全無煙化により昭和48(1973)年10月末で休車となった上で間もなく廃車となった。正式な除籍は昭和51(1976)年3月末に実施された。昭和51(1976)年から昭和58(1986)年秋まで、小樽市の北海道鉄道記念館(その後、小樽交通記念館を経て現在は小樽市総合博物館)で静態保存となった。

その他
以上のように本形式は優等列車を中心に第一線で華々しく運用されたが、お召列車を牽引したことは一度もないまま終わっている。特に東海道本線・山陽本線系統では、現場の信頼も極めて高かったC59形がその任務にあたった。そのため、お召し列車牽引機としての特別整備を実施された実績は存在しない。ただし、特急「つばめ」がお召し列車の先導列車となった際に、その牽引機がお召し列車牽引機に準じた特別整備を施されたケース(25・30号機)は存在している。
乗務員の間では、太いボイラーが運転台一杯に迫っていることに伴う狭さや、夏季の温度上昇など、運転台内部に余裕のあったC53形やC59形と比較すると、作業環境としては必ずしも良いとはいえない評価がなされている一方、本形式で採用された2軸従台車による高速安定性と振動の少なさ、自動給炭機による焚火労力の低減、D52形譲りの大形ボイラーと燃焼室がもたらした圧倒的な高出力による運転上の余裕など労働環境は好評価されている。

その他保存機
C62 17(JR東海リニア・鉄道館)
日本の蒸気機関車最高速度記録保持機で、名古屋市千種区・東山動植物園に長年に渡って保存されていたが、平成23(2011)年3月、名古屋市港区に開館したJR東海リニア・鉄道館に移設された。

(以上、記事内容Wikipedia-26.7.6更新から)
(47車19)
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by fbox12 | 2014-07-22 21:55 | 鉄道・バス