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C59形蒸気機関車

a0057057_15353665.jpg国鉄C59形蒸気機関車は、日本国有鉄道(国鉄)の前身である鐵道省が設計した、幹線旅客列車用テンダー式蒸気機関車である。愛称はシゴクまたはシゴキュウ。

本形式の設計が開始された1930年代末には、東海道・山陽の二大幹線の旅客列車、特に特急や急行などの優等列車は、主にC53形が牽引していた。だが、このC53形は3気筒の搭載により低重心化とスムーズな走行性能が得られた反面、複雑なグレズリー式弁装置を備えており、その実設計において設計陣がこの機構を十分理解していなかったこともあって、整備検修においては致命的と言える欠陥があった。このため同形式は故障等による年間の平均休車日数が他形式と比較しても格段に大きく、保守が容易で同等以上の性能を備える新型機関車を求める声は日増しに高まっていた。
C53形が97両をもって製造終了となった1930年以降、その後継となる新型旅客用機関車の設計を巡っては、同時期に南アフリカ国鉄が看板列車であったユニオンリミテッド用として設計した16E形が1,830mm径の大径動輪を備えていたことも影響して、これを上回る1,850mm径の動輪を備えた計画機など、様々な検討が行われていた。
だが、そういった強力機を運行するには、当時の日本国内では最良の条件を備えていた東海道・山陽本線であってさえ設備が貧弱に過ぎた。そのため、最終的にC59形として完成することになるC53形の後継となるべき新型旅客用機関車は、C51形以来の1,750mm径動輪を備え、施設側が許容する上限である、16.8tの動軸重の範囲で設計されることとなった。

機関車本体の下回りはC51・C54・C55形・C57形と続いた鐵道省制式2気筒パシフィック(4-6-2/2C1)機のそれを基本とし、ボイラーは設計時期が先行したD51形のものを基本としつつボイラー圧力を引き上げ、しかも長煙管構造とした。
このため台枠は棒台枠、動輪はC57形と類似の1,750mm径ボックス輪芯、弁装置はワルシャート式、先台車はエコノミー式復元装置を備える。そして、従台車はばね式が採用され、ボイラーも鐵道省制式機では一般的な3缶胴構成のストレートボイラーとされた。
また、シリンダーはボイラー使用圧力の高圧化に合わせてC51形と同じ行程のままで直径を縮小してあり、シリンダブロックには通風を穏やかにする目的で排気膨張室が組み込まれている。ピストンはC57形より採用されたH型断面のものが採用された。
運転台は各部寸法についてC57形のそれを基本としつつ、C58形と同様の密閉構造としたもので、これは戦後製造されたC61・C62形にも踏襲された。
テンダー(炭水車)は航続力の確保を目的として、石炭10tと25m³の水を積載可能である。
全長は21,575mm(戦後型)で、C62形の21,475mmを上回り国産最長の蒸気機関車である。
川崎車輛、汽車製造、日立製作所の3社により、昭和16(1941)年から同18(1943)年までに100両、戦後の昭和21(1946)年から翌22(1947)年までに73両の合計173両が生産された。ただし、番号は1 - 132・156 - 196で、戦後製造分に割り当てられていた133 - 155は緊縮財政下でキャンセルされ、欠番となっている。
この中の67号機はブラウン試験塗装、79号機はグリーン試験塗装・消煙装置試用、108号機は、お召指定機、127号機は*重油専燃試作機である。

*重油専燃試作機:
重油を燃料とするための試作改造を昭和29(1954)年に鷹取工場で施された。テンダーは石炭庫が重油タンクとなり、燃焼室も火格子を撤去するなど大規模な改造となった。改造後、直ちに準急「ゆのくに」専用機として、京都 - 米原間で使用された。専任の機関助士を置いて運用にあたり、他の石炭焚きの機関車に比べ圧倒的に楽な乗務で、なおかつ出力も増大し、EF58形電気機関車と平行ダイヤが組めるとまで評された。東海道本線電化の後、盛岡機関区に転出し、東北本線の盛岡 - 一戸間で補機として試用されたが、ほどなくして鷹取工場へ戻され、昭和35(1960)年に廃車・解体された。

デビュー当初から特急の先頭に立ち、C62形の登場まで特急の花形で、C62形の登場後もお召列車には本形式が充当されたことからもわかるように、現場の信頼も極めて高かった。
しかし、本形式、特に戦前形においては設計・製造上の問題点が幾つか存在した。一つは、従台車(運転台下の台車)の荷重負担が過大となったこと、一つはボイラーの天井板が膨らむこと、もう一つは長煙管が祟って熱効率が低いことである。
従台車については、車輪径が小さかったことから摩耗率が異様に高くなり、しかも摩耗が進んだ状態のものを中心にタイヤ部に亀裂が入る、発熱でタイヤ部が頻繁にゆるむ、などのトラブルが頻発した。これは長く重いボイラーであり、また、火室など重量のかさむ部位が集中し重量配分の点で厳しくなりがちな後部について、燃焼室を設けて軽くするという配慮を欠いた結果、重心位置が車両後方に偏って重量配分の制約が生じ、そのしわ寄せが従台車にいってしまったことが原因で、本形式の従軸軸重は約14.7tと幹線用機関車の動軸並みの値となっていた。この問題については最後まで解決せず、保守担当者レベルでタイヤ摩耗に伴う交換時期を他の形式よりも厳しく管理することで、かろうじて致命的問題の発生回避が図られる状況であった。
ボイラー天井板の膨らみは、準戦時体制下で製造された本形式の場合設計レベルでは回避不能の問題であった。なぜなら、材料となる鋼板の圧延品質の著しい低下によるものであったためである。これは状態が悪かった一部については、ボイラー内火室部分の新製交換で対処されたが、後に交換工事未施工の戦前形が優先的に淘汰される一因となった。
長煙管と煙管断面積の不足により通風が悪くなり、そのために石炭の燃焼が悪く未燃ガス損失が増大して熱効率が低くなる問題は、本形式の設計を担当した鐵道省工作局車両課や各メーカーが本来燃焼室の付加による効率引き上げを意図して設計していたにもかかわらず、車両研究会での検討の結果、ボイラー内の煙管折損などが発生しやすく保守に難があるとして見送りとされたことに原因があった。この問題は、煙管を短縮して一般的な5,500mm長として燃焼室を付加した、つまり設計陣が当初想定したとおりの仕様で製造された戦後形で解決を見ており、長煙管仕様には熱効率の点で大きな問題があったことが判る。
戦前形については戦後になって内火室交換に伴って燃焼室を設けた機が1号機をはじめ何両か存在するが、残る大半の機体はそのままの仕様で運用され続けることとなった。
戦後形C59は全伝熱面積に占める過熱面積の割合が国鉄蒸機中では最も高く、これにより理論上は過熱温度が国鉄制式機関車中で最高となる。実運用上でも、白河越えを担当した機関区で「他に比べて蒸気の上がりが良い」と言われていた。
こうした好評と不具合を抱えつつ運用された本形式であるが、戦前には軍部の反対で電化が実施できなかった東海道・山陽本線が、戦後になって石炭不足対策も兼ねて急ピッチで電化を進められたため、本来の用途を失い早々と余剰が生じることとなった。
本形式は動軸重が平均16.2tと特甲線である東海道・山陽本線以外では転用可能線区が少なく、一部は亜幹線にも使えるように従台車を2軸化して動軸重を15tへ減らす改造を受け、C60形となった。
改造を受けなかった車両の一部は東海道・山陽本線並みの線路規格を持つ呉線、鹿児島本線(門司港 - 熊本間)、東北本線(上野 - 一ノ関間、最終期は臨時運用で盛岡までの運用実績あり)へ転じ、C60形となった車両は乙線規格に従う東北本線、常磐線、奥羽本線(秋田 - 青森間)、鹿児島本線(鳥栖以南)、長崎本線の各線に入線し、引き続き特急・急行列車牽引にも使われた。
やがてこれらの路線も電化されたため、多くの車両がまだ十分に使える状態でありながら、C59形・C60形とも昭和45(1970)年までに運用からはずされ、全車廃車となった。
糸崎機関区に配置されていた本形式の中には瀬野八越えを行う急行などの旅客列車のスピードアップのため補機運用に充当されることがあった。現存する164号機にはこの運用の際に使用した走行開放用の開錠装置(連結器を走行中に開放する装置)が前部連結器横に取り付けられたままになっている。
本形式最後の定期運用となったのは糸崎機関区での呉線運用であり、ここではC62形と共に急行「安芸」などを牽引した。特に編成が長く換算重量も大きい「安芸」などの重量級寝台急行列車の牽引では、C62形と比較してわずかに動軸重が大きく勾配区間で空転しにくい本形式が好まれ、重点的に充当された。最後まで糸崎区に在籍していたのは戦後形の161・162・164の3両であったが、これらも昭和45(1970)年の呉線電化で余剰となり、161・162号機は廃車、動態保存機に指定された164号機(写真)は一時的な保管先の奈良機関区を経て保存先の梅小路機関区に転属となっている。
C59形は、一部がC60形に改造されたことや、大半が1970年代までに廃車されたため、全容をとどめ保存されているのは、C59 1(福岡県北九州市門司区 九州鉄道記念館)、C59 161(広島県広島市中区 広島市こども文化科学館横)、C59 164(京都府京都市下京区 梅小路蒸気機関車館)の僅か3両である。

(37車17)
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by fbox12 | 2014-07-15 15:35 | 鉄道・バス