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9 吉水神社(よしみずじんじゃ) 奈良県吉野郡吉野町鎮座

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鎮座地:奈良県吉野郡吉野町吉野山579
御祭神:後醍醐天皇、楠正成公、吉水院宗信法印
社格等:金峯山寺僧坊吉水院、後醍醐天皇社、旧村社

由緒:
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a0057057_949225.png吉水神社は、もとは金峯山寺(きんぷせんじ:タイトル中央に見える寺)の僧坊吉水院(きっすいいん)と称し、今から凡そ千三百年前、白鳳年間(650〜654年)に 役行者 の創立と伝えるきわめて古い吉野修験宗の僧坊であった。
南北朝時代、後醍醐天皇が基地野に潜幸したとき、宗信法印の援護を受けて吉水院に行宮を設け、一時居所とした。後醍醐天皇の崩御の後、後村上天皇が後醍醐天皇の像を作って吉水院に奉安した。
そして、明治の初めまで永年の間幾多の歴史を秘めて修験道の勢力と共に発展して来たが、明治時代に入ると神仏分離の観点から天皇を仏式で供養することが問題視され、明治四(1871)年5月に五條縣が吉水院を神社に改めて吉野神社とする案を太政官政府に提出したが、政府は後醍醐天皇をまつる神社を別に作ることを望み、許さなかった。しかしいよいよ金峯山寺の廃止が迫る情勢となったことから、奈良縣が神社への改組を働きかけ、明治六(1874)年12月17日に後醍醐天皇社の名で神社になることが太政官に承認された。明治八(1875)年2月25日に吉水神社に改称し、やがて村社に列した。本殿は旧吉水院護摩堂である。

a0057057_22145930.jpga0057057_6515688.jpg後醍醐天皇、源義経、静御前、豊臣秀吉公ゆかりの地で百二十数点にのぼる重要文化財や秘宝を展覧しており、中でも南朝の資料に関しては全国一多く、一般に重要文化財の宝庫といわれている。また、隣接する書院には、後醍醐天皇の玉間と源義経が潜居したと伝えられる間があり、重要文化財に指定されている。
この書院は、我が国書院建築史の第一頁に位する最古のもので、本格式住宅建築で現在日本住宅の源流をなす最古の実例として数々の珍しい手法が見られる初期書院造の代表的傑作である。義経潜居の間は室町初期の改築で床棚書院の初期の様式を伝えるきわめて古風な遺構であり、後醍醐天皇玉座 は後年秀吉が花見に際し修理したもので、豪華な桃山時代の風格を残した書院。これら両期時代の特長を一棟内で比較が出来る。
(写真左:書院の外側「秀吉花見の本陣」この部分は三階に相当する。裏側は写真右のとおり櫓組)
世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の一つである。

境内社:
a0057057_7354783.jpg蛭子神社(えびすじんじゃ)別名、恵比須神社
御祭神:蛭子大神、事代主命

この神社への交通:
a0057057_16444756.png近鉄吉野線吉野駅乗り換え
吉野大峯ケーブル自動車 ケーブル(ロープウエイ)
 千本口駅 → 吉野山駅(山上駅:右写真)
同社バス吉野山駅 → 勝手神社前(桜の時期は運休)






総本山 金峯山寺(きんぷせんじ)
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所在地:奈良県吉野郡吉野町吉野山
山号: 国軸山
宗派:金峯山修験本宗
寺格:総本山
本尊:蔵王権現三躯
札所等:役行者霊蹟札所、神仏霊場巡拝の道 第39番

金峯山寺は、金峰山修験本宗(修験道)の本山である。七世紀後半の創建で、開基(創立者)は役小角と伝える。
金峯山寺の所在する吉野山は、古来桜の名所として知られ、南北朝時代には南朝の中心地でもあった。「金峯山」とは、単独の峰の呼称ではなく、吉野山(奈良県吉野郡吉野町)と、その南方二十数キロの大峯山系に位置する山上ヶ岳(奈良県吉野郡天川村)を含む山岳霊場を包括した名称であった。
吉野・大峯は古代から山岳信仰の聖地であり、平安時代以降は霊場として多くの参詣人を集めてきた。吉野・大峯の霊場は、和歌山県の高野山と熊野三山、及びこれら霊場同士を結ぶ巡礼路とともに世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の構成要素となっている。

吉野山には吉水神社、如意輪寺、竹林院、桜本坊、喜蔵院、吉野水分神社、金峯神社など、他にも多くの社寺が存在する。
また、吉野山の二十数キロ南方、吉野郡天川村の山上ヶ岳(1,719メートル)の山頂近くには大峯山寺がある。吉野山の金峯山寺と山上ヶ岳の大峯山寺とは、近代以降は分離して別個の寺院になっているが、近世までは前者を「山下(さんげ)の蔵王堂」、後者を「山上の蔵王堂」と呼び、両者は不可分のものであった。「金峯山寺」とは本来、山上山下の二つの蔵王堂と関連の子院などを含めた総称であった。

国土の七割を山地が占める日本においては、山は古くから聖なる場所とされていた。中でも奈良県南部の吉野・大峯や和歌山県の熊野三山は、古くから山岳信仰の霊地とされ、山伏、修験者などと呼ばれる山林修行者が活動していた。こうした日本古来の山岳信仰が神道、仏教、道教などと習合し、日本独自の宗教として発達をとげたのが修験道であり、その開祖とされているのが役小角である。

金峯山寺および大峯山寺の本尊であり、中心的な信仰対象となっているのは、蔵王権現という仏教の仏とも神道の神ともつかない独特の尊格である。金峯山寺の本尊は三体の蔵王権現で、その像容は、火焔を背負い、頭髪は逆立ち、目を吊り上げ、口を大きく開いて忿怒の相を表し、片足を高く上げて虚空を踏むものである。インドや中国起源ではない日本独自の尊像であり、密教彫像などの影響を受けて、日本で独自に創造されたものと考えられる。修験道の伝承では、蔵王権現は役行者が金峯山での修行の際に感得した(祈りによって出現させた)ものとされている。
神仏混淆ののち、神社として残った「御嶽神社(みたけじんじゃ)」には祭神をこの蔵王権現としているところもある。

金峯山寺の中興の祖とされるのは、平安時代前期の真言宗の僧で、京都の醍醐寺を開いたことでも知られる聖宝である。『聖宝僧正伝』によれば、聖宝は寛平六(894)年、荒廃していた金峯山を再興し、参詣路を整備し、堂を建立して如意輪観音、多聞天、金剛蔵王菩薩を安置したという。「金剛蔵王菩薩」は両部曼荼羅のうちの胎蔵生曼荼羅に見える密教尊である。この頃から金峯山は山岳信仰に密教、末法思想、浄土信仰などが融合して信仰を集め、皇族、貴族などの参詣が相次いだ。金峯山に参詣した著名人には、宇多法皇(昌泰三(900年))、藤原道長(寛弘四(1007)年)、藤原師通(寛治二(1088)年、白河上皇(寛治六(1092)年)などがいる。
このうち、藤原道長は山上の金峯山寺蔵王堂付近に金峯山経塚を造営しており、日本最古の経塚として知られている。埋納された経筒は江戸時代に発掘され現存している(奈良県吉野町金峯神社蔵、国宝)。金峯山は未来仏である弥勒仏の浄土と見なされ、金峯山(山上ヶ岳)の頂上付近には多くの経塚が造営された。

修験道は中世末期以降、「本山派」と「当山派」の二つに大きく分かれた。本山派は天台宗系で、園城寺(三井寺)の円珍を開祖とする。この派は主に熊野で活動し、総本山は天台宗寺門派(園城寺傘下)の聖護院(京都市左京区)である。一方の当山派は真言宗系で、聖宝を開祖とする。吉野を主な活動地とし、総本山は醍醐寺三宝院(京都市伏見区)であった。金峯山寺は中興の祖である聖宝との関係で、当山派との繋がりが強かった。中世の金峯山寺は山上・山下に多くの子院をもち、多くの僧兵(吉野大衆と呼ばれた)を抱え、その勢力は南都北嶺(興福寺と延暦寺の僧兵を指す)にも劣らないといわれた。南北朝時代、後醍醐天皇が吉野に移り、南朝を興したのにも、こうした軍事的背景があった。
近世に入って慶長十九(1614)年、徳川家康の命により、天台宗の僧である天海(江戸・寛永寺などの開山)が金峯山寺の学頭になり、金峯山は天台宗(日光輪王寺)の傘下に置かれることとなった。

銅鳥居(上写真左側:重文):
「銅鳥居」と書いて「かねのとりい」と読む。聖地への入口、俗界と聖地の境界を象徴する建造物である。吉野から大峯山(山上ヶ岳)までの修行道には発心門、修行門、等覚門、妙覚門という、悟りへの四つの段階を象徴した門が設定されているが、そのうちの「発心門」にあたるのがこの鳥居である。鳥居の柱が蓮台の上に立っているのは、神仏習合の名残りである。東大寺大仏を鋳造した際の余りの銅で造ったという伝承があるが、現存するものは室町時代の再興である。


(参考資料:Wikipédia 平成26(2014)年5月4日更新(吉水神社)/ 同4月30日更新(金峯山寺)、吉水神社ホームページ)
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by fbox12 | 2015-12-08 15:19 | 神社