9600形という形式は、大正元年度に12両が試作された写真とは別のテンダー式機関車が最初に使用 (車号[9600]-[9611]) したが、本形式に形式を明け渡すため、落成後わずか3か月で9580形 (車号[9580]-[9591]) に改められた。従って、写真や上記の内容は9600形の2代目である。
すなわち、大正2年(1913年)3月に先行製作された初代(後の9580形)の欠点を改良すべく設計されたものである。
狭軌鉄道(日本の在来線)向け機関車としては従来不可能と信じられてきた巨大なボイラーを、台枠の上に火室を載せてしまうことにより可能にした。そのため出力は上がったが、ボイラー中心高さは当時の狭軌用蒸気機関車最高の2,591mmとなり、重心位置が非常に高く、小輪径の動輪もあって常用最高速度は65km/hと高速走行は苦手であった。
製造当初は東海道本線などの幹線でも用いられたが、より牽引力の強いD50形が大正12年(1923年)に、またD51形が昭和11年(1936年)に出現すると主要幹線を追われ全国各地の亜幹線や支線に分散した。
最後に残ったのは室蘭本線追分駅近くにあった追分機関区の入換用に使用されていた[39679]、[49648]、[79602]号機の3両で、昭和51年(1976年)3月2日が最終仕業となった。
(上)写真の[9633]号機は、北海道小樽築港にあって、NHKの朝の連続テレビ小説「旅路」のタイトルバックやその他多くのシーンに登場し、現在は、JR西日本京都鉄道博物館に保存されている。
また、この機関車をはじめとして数多くが全国各地に保存されている。
旧 豊肥本線・豊後森機関庫保存[29612] [29600]の動輪、新大阪駅
参考:Wikipedia「国鉄9600形蒸気機関車」https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E9%89%849600%E5%BD%A2%E8%92%B8%E6%B0%97%E6%A9%9F%E9%96%A2%E8%BB%8A
大正時代の標準型として大正3年(1914年)から昭和4年(1929年)の間に672両(車号:[8620] -[88651])が製造された。
当初は東海道本線、山陽本線などの幹線を中心に配置されたが、より高性能な形式が投入されるにつれて幹線からローカル線へと活躍の場を移していった。
昭和30年(1955年)3月末には637両が残っていたが、中型ディーゼル機関車の実用化により、昭和35年(1960年)3月末には491両、翌36年(1961年)3月末には380両、更に37年(1962年)3月末には333両とほぼ半減したが、主要幹線や亜幹線の電化もしくは無煙化が優先されたことや、地方ローカル線及び入換用ディーゼル機関車の量産導入が進まなかったこともあり、かなりの数が蒸気機関車の最末期まで残った。
さらに、昭和39年(1964年)3月末の在籍数は276両であったが、昭和43年(1968年)3月末では138両、昭和45年(1972年)3月末では41両と漸減し、昭和50年(1975年)3月末には人吉に[48679]号機が1両、湯前線用に残るのみとなっていた。
現在、2両が動態保存されている。
写真の[8630]号機は、大正3(1914)年度に製造されて平機関区や弘前運転区に所属した。
この機は、車籍がないため、営業線上を運行することは不可能であるが、館内の線路上を走行することがある。平成18年(2006年)、梅小路の蒸気機関車群と関連施設として、準鉄道記念物に指定された。
あと1両は、九州旅客鉄道(JR九州)の[58654]号機で、「SLあそBOY」として運用されていて、一旦、静態保存となったが、昭和63年(1988年)に車籍復活してJR九州肥薩線を運行する「SL人吉」に運用されていたが、2024年(令和6年)春に引退することが発表された。
参考:Wikipedia「国鉄8620形蒸気機関車」(最終更新 2022年10月24日)
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