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fbox12 blog (博物館fbox12 館長の資料収蔵庫)

9600形蒸気機関車

9600形蒸気機関車_a0057057_18264987.jpg9600形蒸気機関車は、日本国有鉄道(国鉄)の前身である内閣鐵道院が大正2年(1913年)から製造した、明治末期の大型輸入機の設計を参考にし、独創的な発想で日本の国情によく合致する性能を求めた、日本で初めての本格的な国産貨物列車牽引用のテンダー式(炭水車を常時連結した)蒸気機関車である。
「キューロク」、「クンロク」あるいは「山親爺」と愛称され、四国を除く日本全国で長く使用された。昭和16年(1941年)まで製造され、国鉄において最後まで稼動した蒸気機関車ともなった、長命な形式である。
全製造数は国鉄の770両のほかに三菱大夕張鉄道、夕張鉄道、美唄鉄道の自社発注や、樺太廳鐵道、台湾総督府鐵道向けなどに断続的に同形機が製造されて828両であった。

9600形という形式は、大正元年度に12両が試作された写真とは別のテンダー式機関車が最初に使用 (車号[9600]-[9611]) したが、本形式に形式を明け渡すため、落成後わずか3か月で9580形 (車号[9580]-[9591]) に改められた。従って、写真や上記の内容は9600形の2代目である。
すなわち、大正2年(1913年)3月に先行製作された初代(後の9580形)の欠点を改良すべく設計されたものである。

狭軌鉄道(日本の在来線)向け機関車としては従来不可能と信じられてきた巨大なボイラーを、台枠の上に火室を載せてしまうことにより可能にした。そのため出力は上がったが、ボイラー中心高さは当時の狭軌用蒸気機関車最高の2,591mmとなり、重心位置が非常に高く、小輪径の動輪もあって常用最高速度は65km/hと高速走行は苦手であった。

製造当初は東海道本線などの幹線でも用いられたが、より牽引力の強いD50形が大正12年(1923年)に、またD51形が昭和11年(1936年)に出現すると主要幹線を追われ全国各地の亜幹線や支線に分散した。
出力の割には軸重(車輪の軸にかかる重さ=レールにかかる重さ)が軽く運用線区を選ばないのが特長で、戦中は、中国大陸に本形式の総両数の3分の1弱にあたる251両が供出されている。
戦後は北海道・九州の石炭輸送路線や、米坂線・宮津線など、貨物輸送量が多かったり急勾配を抱えていたりするにもかかわらず、路盤の弱い路線を中心に使用された。使い勝手の良さ、レールへの粘着力、列車の牽引力において決定的な代替能力を有する機関車がなかなか開発されなかったため、古い形式でありながら蒸気機関車の運用末期まで残った。

最後に残ったのは室蘭本線追分駅近くにあった追分機関区の入換用に使用されていた[39679]、[49648]、[79602]号機の3両で、昭和51年(1976年)3月2日が最終仕業となった。
これを最後に国鉄の蒸気機関車は保存用を除いてそのすべてが姿を消した。実働63年、最初期の標準型国産蒸気機関車として登場し、日本の蒸気機関車の終焉を見届けた最も長命な蒸気機関車であった。

(上)写真の[9633]号機は、北海道小樽築港にあって、NHKの朝の連続テレビ小説「旅路」のタイトルバックやその他多くのシーンに登場し、現在は、JR西日本京都鉄道博物館に保存されている。
また、この機関車をはじめとして数多くが全国各地に保存されている。

9600形蒸気機関車_a0057057_10400519.png9600形蒸気機関車_a0057057_10500373.png
旧 豊肥本線・豊後森機関庫保存[29612]           [29600]の動輪、新大阪駅

参考:Wikipedia「国鉄9600形蒸気機関車」https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E9%89%849600%E5%BD%A2%E8%92%B8%E6%B0%97%E6%A9%9F%E9%96%A2%E8%BB%8A
記事:2014.6.-2
調整:2022.11.-6

# by fbox12 | 2022-11-06 16:28 | 鉄道・バス

8620形蒸気機関車

8620形蒸気機関車_a0057057_15513817.png8620形蒸気機関車、通称「ハチロク」は、明治末期に急行列車用として各国から輸入された8700形・8800形・8850形などを参考に、日本の蒸気機関車国産化技術の確立を目的として設計、製造された。
当時としても、あえて最高の性能を狙わずに、汎用性を追求し、将来輸送量が増加した際には地方線区に転用することを考慮して設計された。
大正時代の標準型として大正3年(1914年)から昭和4年(1929年)の間に672両(車号:[8620] -[88651])が製造された。
この他に樺太廳鐵道向けに15両、台湾総督府鐵道向けに43両、地方鉄道(北海道拓殖鐵道)向けに2両の同形機が製造されている。
樺太廳鐵道の15両は、昭和18年(1943年)南樺太の内地編入にともない鐡道省籍となり、[88652] -[88666]号機となっている。
樺太向けの15両を鐵道省としての製造両数に含め、製造両数を687両と記載している文献もある。

当初は東海道本線、山陽本線などの幹線を中心に配置されたが、より高性能な形式が投入されるにつれて幹線からローカル線へと活躍の場を移していった。
平坦で距離の長い路線に向き、客貨両用に効率よく使えるという特徴をもって長く愛用され、「鉄路あるところ、ハチロクの機影見ざるはなし」とも形容された。特に、品川機関区の[28661]号機は、お召列車専用機に指定されたこともある。

昭和30年(1955年)3月末には637両が残っていたが、中型ディーゼル機関車の実用化により、昭和35年(1960年)3月末には491両、翌36年(1961年)3月末には380両、更に37年(1962年)3月末には333両とほぼ半減したが、主要幹線や亜幹線の電化もしくは無煙化が優先されたことや、地方ローカル線及び入換用ディーゼル機関車の量産導入が進まなかったこともあり、かなりの数が蒸気機関車の最末期まで残った。
特に7kmにわたって33.3‰(1000m行って、33.3m上る坂)の上り勾配が続く花輪線では三重連運用があり、多くのファンの注目を集めたが、これも昭和45年(1972年)に消滅した。
さらに、昭和39年(1964年)3月末の在籍数は276両であったが、昭和43年(1968年)3月末では138両、昭和45年(1972年)3月末では41両と漸減し、昭和50年(1975年)3月末には人吉に[48679]号機が1両、湯前線用に残るのみとなっていた。

現在、2両が動態保存されている。
写真の[8630]号機は、大正3(1914)年度に製造されて平機関区や弘前運転区に所属した。
現在、西日本旅客鉄道(JR西日本)梅小路蒸気機関車館(京都市:現 京都鉄道博物館)に保存されている。
この機は、車籍がないため、営業線上を運行することは不可能であるが、館内の線路上を走行することがある。平成18年(2006年)、梅小路の蒸気機関車群と関連施設として、準鉄道記念物に指定された。
あと1両は、九州旅客鉄道(JR九州)の[58654]号機で、「SLあそBOY」として運用されていて、一旦、静態保存となったが、昭和63年(1988年)に車籍復活してJR九州肥薩線を運行する「SL人吉」に運用されていたが、2024年(令和6年)春に引退することが発表された

参考:Wikipedia「国鉄8620形蒸気機関車」(最終更新 2022年10月24日)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E9%89%848620%E5%BD%A2%E8%92%B8%E6%B0%97%E6%A9%9F%E9%96%A2%E8%BB%8A

記事:2014.6.-2
調整:2022.11.-5

# by fbox12 | 2022-11-05 18:00 | 鉄道・バス

第七番(朱7-神2)浦河神社 北海道浦河郡浦河町鎮座

第七番(朱7-神2)浦河神社 北海道浦河郡浦河町鎮座_a0057057_15563560.png
うらかわじんじゃ

鎮座地:北海道浦河郡浦河町大通二丁目29番地
祭神:
 保食神(うけもちのかみ)
 大物主命(おおものぬしのみこと)
 市杵嶋姫命(いちきしまひめのみこと)
社格等:旧郷社
社殿様式:神明造

由緒:
寛文9(1669)年東蝦夷地の争乱が鎮圧され、この年に松前藩の将佐藤権左衛門が配下を遣わし讃岐の金刀比羅宮の御分霊を戴き、東蝦夷地鎮護の神として現浦河神社社務所付近に小祠を建立して奉斎したことに始まる。享和元年8月15日、更にこの場所に場所請負人佐野嘉右衛門が海上安全や豊漁などを祈念して、山城國紀伊郡伏見に鎮座する稲荷大明神の御分霊を戴き小祠を建立、また露冦により蝦夷地が騒然としていた文化4年、東蝦夷地に駐屯の南部藩が家臣一戸政尹を遣わし安芸國佐伯郡巖嶋町に鎮座する巖嶋神社より御分霊を戴き小祠を建立した。天保13年、この3祠を浦河の漁場支配人近江屋周助が現社務所山側に石屋根の社殿を造営し1社に合祀し稻荷神社と称した。明治8年、郷社に列せられる。明治25年に屋根の葺替えを行ったが、社殿の老朽化が進み同45年6月7日に許可を受け改修に着工、同年9月13日に竣功した。明治44年5月21日には神饌幣帛料供進神社に指定され、昭和6年5月12日には社名改称が認可され郷社浦河神社と称するに至った。
浦河市街地にあるため、参拝客も多く、町民多くの信仰を集めている。
平成22(2010)年に浦河神社の過去の神事であった「海上渡御」が約半世紀ぶりに復活した。


この神社最寄の駅・バス停:
 道南バス大通1丁目・大通3丁目バス停下車ともに約300m

出典・参考:
北海道神社庁HP
 http://www.hokkaidojinjacho.jp/data/13/13013.html
Wikipedia「浦河神社」(閲覧:2017.7.-6)
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%A6%E6%B2%B3%E7%A5%9E%E7%A4%BE

現地参拝/朱印拝受:昭和60年(1985年)7月7日

収録帳・葉:帳3-2

登録:2017.7.-6(Ⓕ / 旧連番:103)
最終調整:2022.9.-8

# by fbox12 | 2022-09-08 11:48 | 神社・寺院

第八番(朱8-神3)大神宮社 北海道沙流郡日高町鎮座

第八番(朱8-神3)大神宮社 北海道沙流郡日高町鎮座_a0057057_21320730.pngだいじんぐうしゃ

鎮座地:北海道沙流郡日高町富川東二丁目6-12
祭神:
 天照皇大神(あまてらすすめおおかみ)
 八幡大神(はちまんおおかみ)
 塩竃大神(しおがまのおおかみ)
社格等:旧村社
社殿様式:神明造
別社名:富川神社(とみかわじんじゃ)

由緒:
文政2年4月、仙台藩士が協議の上、宮城県鹽竈神社より御分霊を戴き、胆振の白老に祀ったことに始まる。明治8年5月、石河仁兵衛・荒井直三郎らが中心となり沙流郡佐瑠太村に遷座、翌9年6月15日には村社に列せられている。丘の上の中規模の神社。社務所は道路の向かい側にある。白い石鳥居の右側にある社号標は、別社名の「富川神社」となっている。

この神社最寄りの駅・バス停:
 道南バス富川元町下車約400m

参考資料:北海道神社庁神社データベース
 http://www.hokkaidojinjacho.jp/datamain.html

現地参拝/朱印拝受:昭和60年(1985年)7月8日

登録:2017.7.-9(Ⓕ / 旧連番104)
最終調整:2022.9.-8

# by fbox12 | 2022-09-08 11:28 | 神社・寺院

第伍番(朱5-寺4)禅定山金剛寺(北海道中川郡幕別町)

第伍番(朱5-寺4)禅定山金剛寺(北海道中川郡幕別町)_a0057057_16591214.png

ぜんじょうざん こんごうじ

宗旨・宗派:曹洞宗
本尊:釈迦牟尼仏
開祖:

所在地:北海道中川郡幕別町
通称:

朱印拝受:昭和60年(1985年)7月7日

収録帳・葉:帳1-2

登録:2019.10.20(2019.10.18Ⓕ)
最終調整:2022.9.-6

# by fbox12 | 2022-09-06 17:36 | 神社・寺院